泡になれない想い
人魚姫、若い頃は私はそう呼ばれていた。実際、本当に私の父は海の王だし、私は姫なんだけど、そうじゃなくて、人間界でってこと。
...人間界では哀しい童話として伝えられているけれど、実際はそんなに綺麗な話しじゃない。
私は、王子様を殺したのだ。自分の命欲しさに。
その後はあっと言う間に人魚に戻って、海の中の生活。昔と違うのは私はもう人魚姫なんて言う可愛い存在ではないということ。
一度人間になり再び人魚へと戻った私は見た目こそ変わることは無かったが、以前持っていた美しい声は消え失せ、嗄れた声になり、他の人魚達から気味悪がられ、恐れられ、時が経つと共にいつしか私が魔女と呼ばれるようになっていた。
「アイリーン」
青々しい若葉が風になびいて弾むような音色が海上から降ってきて、私は回想するのを止め海上へと上がる準備をする。
ここ一年半くらい、ほぼ毎日かけられるこの声に応えるのがいつの間にか日課になってしまったのだ。
ゆっくりと尾ひれをしならせて上へ上へと登って行く。
太陽の光が少しずつ眩しく感じられるようになってきてだんだんと視界が白くなる。
途端、一気に世界が白に包まれて弾けて、肌を風が切り、光が目を焼く。
「アイリーン!」
先ほどよりもハッキリと聞こえる声に私は悪態をついた。
「うるさいよ、メビウス。気安く私の名前を呼ばないでと何度言えば分かるの?」
まだ眩しい外の世界に目を細めながら私は声の主であるメビウスを見た。
ふわりと優しく肌を撫でる風が彼の柔らかそうな金の髪を弄んでは去っていき、メビウスはそんなの気にする素振りすら見せず海の色と同じ色の瞳をこちらに向けると目尻を下げて柔らかく微笑んでくる。
「でも、僕に名前を教えてくれたって事は呼んでもいいってことでしょう?」
メビウスはそう言って私の瞳を覗き込んでくる。
「確かに呼んでもいいが、無闇やたらと呼ぶなと言っている。毎日、毎日、海にやって来ては必要以上に私を呼び出して。おまえにとって人魚などなんでもないかもしれないが、陸の人間からすれば人魚は未知の生き物なんだ。見つかれば私は捕まる。」
昔、この浜辺で偶然メビウスに姿を見られて以来妙に懐かれ、呼び出されては私は毎度同じことを彼に繰り返し言う。
本来、人間と人魚はこんな風に関わり合うべきじゃないのだ。過去の体験から分かっているものの、過去で関わっているからこそこの好奇心を捨てられない自分がいるのだ。
「分かっている。でも、もう少しで君の絵が完成するんだ。だからこんな人気のない岩場なら呼び出してもOKだろ?」
そう言ってメビウスは手早く絵の具の準備をする。そんな彼に「はい、はい」と気の無い返事を返して、準備が整うのを待つのももう日課になりつつある。
メビウス曰く、「未知なる美の世界に出逢ったら描かずにはいられないのが画家の性分」らしい。
私にはよく分からない。
でも、
「おまえが思うほど私は美しくもなんとも無いよ」
思っていた事がつい口からこぼれて慌ててメビウスを見れば彼はキャンバスに筆を走らせながら言葉をこぼす。
「アイリーン、君が自分が美しくないと思っていても、それは君の価値観だよ。僕は君が美しく感じるから描くんだ。人にはそれぞれ美醜の好みがあるからね、中には君を醜いと思う人間がいるかもしれない。だけどもそれはそれ。」
そう言うとメビウスはその青い瞳で真っ直ぐに私を見つめてくる。
「それは見た目の話しでしょう」
つい、拗ねた様な口調になってしまう。メビウスは私が王子殺しの人魚だって知らないからそんなこと言えるのだ。好きだった、愛していた者を自らの命欲しさに屠った己の心の醜さ。私はそれが怖い。それがメビウスに知られて、彼が離れていくのが怖いのだ。
「...見た目だけじゃ無いさ。アイリーンが何を思ってそんな事言っているか分からないけど、僕は君のその情緒不安定な所も含めて美しいと思うよ。これは僕の考えだけどね、人の美しさってその人の持つ雰囲気も大きく関係してると思うんだ。例えば君が太陽のように一点の曇りの無い笑顔を浮かべて笑う人なら僕は君を描きたいとまでは思わなかったよ。」
メビウスはそういうと筆とキャンバスを岩場に置いてそのまま海へ向かって歩いてくる。
「メビウス、」
私が止めるのも聞かず、服が海水に浸かるのも気にせず、私のすぐそばまでメビウスはやってくると私の瞳を覗き込んでくる。
「アイリーン、君の笑顔に影があることくらい、僕は始めから知ってる。画家だからね、そのくらいの観察力はあるつもりだよ。僕からすれば影がある君も含めて、今の君なんだ。過去に何があったかは知らないけれど、過去の出来事が今の君を造ってる。だから、ほら、」
メビウスはそう言うと私の頬に触れてくる。
君は綺麗だよ、そんな言葉が聞こえたかと思ったと同時に唇に熱が灯る。
この男は私のことなんて殆ど何も知らない。
私も彼のことなど殆ど何も知らない。
だけど、私の罪すらも何にも知らないと、飲み込むこの男の嘘だか本当だか分からない言葉に救われて私は今日も目を閉じる。
彼のヒトと同じ瞳の貴方に、私はまた恋をする。
泡になれない想いを抱いて。