第2話
イザベラの社交界デビューは15の年だった。
婚約者は、未だ決まっていない。初めて見る煌びやかな世界に目が眩みそうになる。世間知らずな少女の手を引いたのは、9歳年上の兄であった。この日の為に誂えた純白のドレスを纏い、少し大人びた化粧をして、彼女は少しはしゃいでいたのだ。出会う誰もが彼女を褒めそやす。
(殿下も、綺麗と思ってくれるかしら。)
浮き立つような気持ちのまま、ほとんど無意識にエドワードの姿を探していた。此方に気付いたエドワードは、優雅な仕草でダンスに誘う。嗚呼、夢みたいだ!
嬉しくて、楽しくて、幸せだった!
あっという間に一曲が終わり、優しい仕草で兄の元まで送り届けられた。夢見心地のまま、人混みを避けて兄に手を引かれる。ふわふわした心のままエドワードの姿を目で追って。誰よりも幸せだった筈なのに、イザベラの中の何かが急速に萎んでいく。
「可憐な方だな。確か、マクマトリー伯爵家のご令嬢だったか」
不躾な兄は小声で話しかけて来たが、イザベラは応える事を拒絶した。
王妃様のお茶会の席で時々会うご令嬢の1人が、エドワードにエスコートされてダンスホールの中央へと進む。とても綺麗だと思った。
作り物めいた笑みを浮かべていても、交わす言葉が二言三言でも。それでもエドワードが好きだった。だけど本当の一番にならなければ、エドワードの隣には居られない。
「疲れたか?少し休もう」
兄の言葉に首を振る。嫌だ、負けたくない。
「大丈夫よ、お兄様。私、まだご挨拶出来てない方がいらっしゃるもの」
向こうに父とハートリー公爵が話しているのが見えた。陛下の妹姫様が降嫁された事で当代はやや政治からは遠ざかっているものの、今も絶大な影響力を持つ。どうしても、ご挨拶したい。
其方を見れば、父と目が合う。
「行きましょう、お兄様」
当時のガーランド家は、革新派と呼ばれる派閥の筆頭と見做されていた。本当のところ、イザベラの父が何を考えていたのか明確には分からない。ただ上位貴族だけでなく、下位貴族の若者とも楽しげに経済を語っていた事は社交界でも広く知れ渡っていた。
財務長官のゴリ押しと批判も強い国営の運輸事業公社の創立も、こういった若手の発案から生まれたものだという。
授業の中でその新事業を知ったとき、イザベラはとても素晴らしい案だと思った。中産階級どころか下流の人々の生活に新しい職場を提供し、その結果産み出されるのは今よりも早い流通なのだ。既存の価値観がひっくり返るかも知れない。
ゴリ押しと批判されても国の為に力を尽くす父の姿を、イザベラは尊いと思った。舞踏会で、晩餐会で、サロンでその話題を振られる度に、流通の革命とも言える新事業について、可能性を匂わせた。
その影響だろうか。イザベラの立場は非常に複雑なものになっていった。
努力の末に念願叶って、周囲から王太子妃の最有力候補と見做されるようになっても、イザベラとエドワードの婚約話はなかなか実現しなかった。先行きの定まらないイザベラは、良く言えば高嶺の花で、もしかすれば唯の行き遅れになってしまう。
父の経済政策は上流階級以外の人々にも旨味があるものだったし、革新派の実力を重視した若手登用の兆しは、一部の独占的な上位貴族から非常に不評で、保守派と言われるその上位貴族の筆頭こそ王妃様だった。
国営の公社が順調に機能を始め、それなりの効果と利益を齎し始めると、その対立は少しづつ音を立てて軋むように、目に見えない溝がやがて渡れない川になるように、少しずつ悪化していくようだった。
ただエドワードが好きだったのに、父の事をただ尊敬していただけなのに、そう口にする事をどちらの派閥も許してはくれない。イザベラはガーランド侯爵家のイザベラなのに、周囲からは違って見えるらしい。
「まるで革新派のイザベラのよう。」
クスリと笑うその声に、慌てて顔をあげる。
扇の中の、ほんの些細な独り言を聞かれてしまったのだ。羞恥に、頬に熱を感じるものの、扇を閉じねばならない。いつもならなんて事のないお辞儀が、ギクシャクとしてしまう。
「イザベラ嬢、今宵も一曲踊ってくれるか」
「光栄ですわ、殿下」
17歳の春。デビューの頃に比べれば、エドワードは柔らかく微笑んでくれる様になった。二言三言で途切れがちだった会話も、難解な話ばかりだったが少しづつ考えている事を話してくれる様になっていた。
その夜は違った。
イザベラは羞恥の為に、一方でエドワードは何か考え込む様に、2人は無言で踊った。しっかり顔を上げてエドワードの事を見ていれば、彼のこの日の決意に気がつけたかもしれない。
「もう一曲、踊ってくれるか」
咄嗟に、その言葉の意味が理解出来なかった。
返事を上手く返せぬまま、次の曲が始まってしまう。繋がれたままの手にギュッと力を込められて、そのまま腰をホールドされた。
頰が熱い。顔を上げられない。
それどころか、頭の中が真っ白になっていた。
気がつけば二曲目も終わってしまっていた。周りが不自然な程、静まり返っている。エドワードに手を引かれて、踊りの輪から抜ける。
「どうして?」
やっと絞り出したイザベラの問いに、エドワードは答えてくれなかった。ただイザベラの手をそっと引き、父の元へと送り届けられただけ。
「後日、また改めて」
何事も無かったかのように、父との挨拶を済ませて。やっと一番になれるのか、イザベラと婚約してくれるのか。ドキドキして、ザワザワして落ち着かないイザベラにたった1つの言葉を残して、あっさりと立ち去ってしまったのだ。
その後日が、いつの事だったのか。
結局、イザベラは知らない。
6日後の夜。珍しく早く帰って来た父が、イザベラを書斎に呼んだ。顔を見ただけで、あぁ、悪い報せなのだと知る。
「蘇芳国の姫君がお越しになる。殿下との見合いの為だ、恐らく断る事は難しいだろう」
この夜の記憶は、ぼんやりとしている。
幼子のようにワンワン泣くイザベラを抱きしめる母と、それをオロオロ見守る兄の姿。母の隣で難しい顔をしながら、イザベラの髪をずっと、ずっと、眠りに落ちる迄撫で続けてくれた優しい父の手を、どこか遠くに感じていた。