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総帥

作者: 尚文産商堂

手野グループ全体を通じて、総帥と呼ばれる役職についたのは、ごく限られた人らのみである。

そもそも、手野グループにおいて総帥と呼ばれるためには、手野家あるいは砂賀家であることが必須条件となっている。

さらに、手野財閥が成立してからも、特に必要であると社長会及び春雷会と呼ばれる手野家と砂賀家の私的な、かつ財閥全体の諮問機関で承認を受けなければならない。

このため、戦前を含めて今に至るまで、総帥職に就いたのは、たった4人しかいない。

戦前では、財閥が成立した時点で手野繊維社長を務めていた手野長摘(てのながつみ)である。

彼によって、本社兼綿花畑がある岡山に、手野鉄道の貨物路線が初めて敷設された。

ちなみに、これが手野鉄道の始まりでもある。

その後、手野万(てのよろず)が総帥となるが、1年足らずで、総帥職を辞す。

理由としては、日露戦争勃発に伴い、より世界的視点からの俯瞰が必要だからだとされているが、そうであれば総帥職にとどまっていた方が良かったのではないかという見方は、未だに多い。

あるいは重責に耐え切れなかったという説もある。

彼はその後、全ての職を辞し、40という若さで早々に隠居してしまうからだ。

そして3人目の手野財閥総帥となったのが、1943年も半ばとなった6月1日就任の、砂賀広光(さがひろみつ)である。

彼は手野武装社社長であり、なおかつ砂賀家当主である。大東亜戦争を勝ち抜くために、権限を集約させるという目的だったそうだが、当時の武装警備業務において、作戦立案能力は、戦略はおろか戦術単位でも、法により認められていなかった。

せいぜいのところ、戦闘中に独自行動する権限ぐらいである。

それによって、敗戦を迎えると、秘密裏に信号を発し、手野武装の軍事力の一部を隠匿した。

とうとうGHQでも見つけられなかったそれらは、インドネシアに隠されていたが、それが見つかったのは占領が解除されてからであり、全てが後の祭りだった。

3代目総帥は、終戦後に手野財閥が解体されるまで引き続きその職に就き続け、後々に統合可能な布石を数多く打った。


そして最新の総帥と呼ばれるのが、4代目総帥こと手野川原(てのかわら)である。

1970年に、手野グループ統合の象徴という形で、28という若さで総帥職に就いた。

手野産業社長となり、それぞれの手野グループの再編事業に着手。

分割されていた会社は統合され、新たな会社を作った。

今の超巨大グループである手野グループの基礎を築いた人物として知られている。

その集大成が、1983年に始まった手野グループ再編である。

中間持株会社が認められなかったため、事業持株会社を複数作り、あるいは休眠会社を利用し、まとめていった。

今では第一次再編とも呼ばれているこれが完了したのが2年後の1985年である。

43歳となった第4代総帥は、この再編を見届けるようにして総帥職を辞した。

直後、膵臓癌が発覚し、その治療に専念することになる。

そして中間持株会社が認められた2001年、全てのグループを7つあるいは8つの系列に分け、それぞれが、中間持株会社にぶら下がる形となった。

その頂点にいるのが、手野産業である。

この第二次再編が完了した2004年、惜しまれながらも亡くなった。


なお、この総帥職は現在は空席となっている。

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