転機Ⅱ前
冬から春にかけての淑女教育は、まっすぐ立つこと、座ること、歩くことから始まった。
ベックの邸ではじめて顔を合わせた時、カイルの隣に座っていた落ち着いた女性は、てっきりカイル子爵夫人だと思い込んでいたが、ミリアリアの教育係だと紹介された。
ミリアリアはベックの手伝いでお茶出しやお客様の相手をすることもあったため、それほど悪くない身のこなしだと自負していたが、家庭教師として紹介されたキャロル・ディセット女史いわく「粗野さが目立ちます。とくに初動ですね」とすべての動きに置いてダメ出しをされた。
動作、言葉づかい、視線の動かし方、文字、ダンス、貴族としての教養。そのすべてがミリアリアの常識をことごとく覆し、キャロル女史の容赦のない叱咤がミリアリアのプライドを挫いていく。
けれどもともと商家の後継ぎとして勉強は得意だったし、人当たりも悪くない。
たった数ヶ月で、一般貴族女性なら生まれた時から始まっていた教育のごく一部だが、付け焼刃ながらも見られるようになったとキャロル女史の笑みを見た時には得難い達成感があった。
ガタゴトと王都にある学園に向かう馬車に揺られながらミリアリアはキャロル女史に教わったことを頭の中で反芻する。
貴族社会での身分差は絶対。
子爵家の庶子であるから人によっては侮ってくるが気にしない方がいい。庶子であっても国に正式に認められた子爵家の後継者なのだから貴族として振る舞うこと。
同位、下位の身分なら話しかけてもいいが、上位の貴族には話しかけられるまで顔を伏せること。
学園内では、社交場よりもこういった決まりごとに対しておおらかだけれど、決して外では気を緩めないこと。
ミリアリアは特に、学園に呼ばれた特待生枠ではなく一般貴族枠での入学、産まれながらの貴族ではないのだから周りとの諍いにだけは気を付けるように。
(はい、先生)
ギュッと両手を握りしめたところで、馬車がゆっくりと止まり、御者がミリアリアを呼ぶ。
(お母さんが通った学園。お母さんがあの人と出会った学園…。ちゃんと卒業して、マロフト家を継いで、お母さんとお爺ちゃんお祖母ちゃんの土地を守るからね)
※ ※
無事に入学式を終えて振り分けられたクラスへ入り、黒板に掲示されている席へ座るとすでにクラスメイトの大半がグループごとにおしゃべりに興じていた。ミリアリアのように座っているのは、きっと知り合いがいないか、庶民からの特待生なのだろう。
そういえば、とミリアリアは制服の襟についている校章へ目を落とす。
入学式が執り行われた講堂へ入る際に氏名を名乗るのだが、そこで襟につけるようにと渡されたものだ。
ミリアリアが身に着けているのは数字の1が深緑色で書かれている。
そっと視線が合わないように教室内を見渡すと、同じ数字の1が書かれている校章にもいくつか種類があるようだった。
これが何か気になるが、入学の手引にも書かれていなかったし迂闊に誰かに話しかけることもできない。どうしようかな、と考えていると、ガタリと隣の席に人が座った。
目を見ないように顔を上げて隣を確認すると同じ襟章をつけた女の子。ミリアリアは思い切って声をかけた。
「あの、初めまして。私、ミリアリア・マロフトと申します。」
「初めまして。私はイデア・リンデンよ。…マロフトということは、子爵家に新しく迎え入れられた方ね」
「えぇ、右も左もわからないので不躾なこともあると思いますのでご指摘くださると嬉しいです。それで…あの、もしもご存知でしたら、コレについて教えていただけますか?」
イデアと名乗った少女はあぁと頷くと小さく笑った。
「特待生枠ではないから説明を聞いていらっしゃらないのね。」
「はい。説明会に参加したかったのですが…貴族は出席できないらしくて」
「災難だったわね。でも、良かったわ、ミリアリア様が無配慮に誰かにこのことを聞いていなくて」
これは、と言いながらイデアは深緑色の数字が書かれた襟章をつまむ。
「ここに書かれている数字は学年、色は貴族位のことよ。私たちの深緑は、子爵。銅色は特待生の庶民。男爵は臙脂、伯爵は藍色、侯爵は銀色、公爵は金色で、王族の方は金色に宝石がついていらっしゃるの」
「そうなの…そうしたら私は、銅色、臙脂色、深緑色の校章を付けている方には話しかけても良いのね」
「えぇ、その通りよ。」
「ありがとうございます、イデア様」
「お隣のよしみですもの。これからよろしくお願いしますね」
「こちらこそ!」
ミリアリアの学生生活は、主にイデアのおかげで順調に滑り出した。
平日は勉強をして、寮へ戻って予習と復習。
休日は王都の邸宅へ泊って、キャロル女史に礼儀作法を習う。
そんな生活が3か月ほど続いたある日、ミリアリアはクラス担任に教務室へ呼び出された。
イデアが心配そうに声をかけてくれたが、呼び出されたことに思い当たる節があるのでミリアリアは苦笑しながら教務室へ向かった。
先日、移動教室へ1人で向かっている途中。教室の場所を間違えてしまったことに気付いたミリアリアは、周りに誰もいないことを確認して、走って教室へ向かった。さらには途中で中庭を突っ切ろうとしたところ、植え込みの陰で寝転んでいた男子生徒に足を引っ掛けて盛大に転んでしまったのだ。
咄嗟に受け身を取ったものの、全力で走っていた勢いは殺し切れず、何度か回転してしまった。
「だ、大丈夫か?」
「いえ、あの、大丈夫です。不注意ですみません、お怪我はないですかすみません。」
「俺に怪我はないが…そっちは大丈夫なのか?」
「慣れてますので。」
相手に怪我がないことに安心して、ミリアリアは顔を見られないように頭を下げ、そのまま目的の方向へもう一度走り出す。
「すみませんー!見なかったことにしてくださーい!お願いしますー!」
あれから数日、これだから庶子は、なんて噂が出るのではないかと戦々恐々としていたが、そんなこともなく以前と同じような穏やかな毎日を過ごしていたから安心していたが。
とうとう呼び出されたか、と観念して教務室のドアをノックした。
教務室へ入ると担任と一緒に同じクラスの女生徒が応接用ソファに座っており、ミリアリアはどうするべきなのか一瞬悩んで、女生徒が座っているのとは反対側に立っていることにした。
「さっそくだけど。ミリアリア・マロフトさん、こちらはアン・リンデルさん。彼女のご厚意で淑女としての振る舞いを教えてもらえることになりました」
「え」
「アン・リンデルよ。…早速ですけれど、今の咄嗟の一言は迂闊でしてよ。」
「申し訳ありません。アン様…あの、これはどういった経緯でしょうか?」
「…ある方達から頼まれましたの。お名前の刺繍が入ったハンカチを先週の移動教室の時に中庭で落とされたようですわね」
「移動教室、中庭…!」
思い当たる節がありすぎて、ひぃ、と内心で悲鳴を上げる。
確かにあの後、ハンカチを1枚紛失していた。まさかそこから足がつくなんて。
「それを拾った方からも、淑女としてどうなのかというお言葉ありました。…以前から先生方にも請われていたこともありますし、わたくしでよろしければ、ミリアリア様のために多少なりとも時間を分けて差し上げますわ」
「あ、あの…」
居丈高な物言いにどうしていいのかわからず、担任へ視線を投げる。
「アンさんは、リンデル侯爵家のご息女でもあるから、礼儀作法を習うなんてこと普通はできないよ。ミリアリアさん、せっかくの機会なんだから!」
逃げ道はふさがれた。
「では、あの…よろしくお願いします」
「よろしくてよ!」
あと1話でおさまるといいなぁ…