転機Ⅰ
その日ミリアリアは二度目の人生の転機に立たされていた。
一度目の転機は良く晴れた、冬の日の事だった。
ミリアリアが応接室へ紅茶を運ぶと、綺麗な身形をした男と簡素な服の女が祖父にもてなされていた。
ミリアリアが部屋に入り静かにお茶を用意を終えると、祖父に隣にくるように促され、にこやかに祖父が座しているソファの隣に立つ。
「ご挨拶を」
「わたくし、ベック・バーンズの孫娘のミリアリアと申します。お見知りおきいただけますと幸いです」
ミリアリアの挨拶に女性が小さく頷いた。それをみた男性がおもむろに口を開く。
「ミリアリア、きみを引き取ろう」
彼女の人生は大きな転機を迎えた。
ミリアリアの母、ジーナは未婚でミリアリアを出産した。
そのことについて口さがないことをいうものもいたが、ジーナの父、ミリアリアの祖父であるベックが大きな商会の代表をしていたことによって、界隈では誰も表立ってミリアリアのことを非難するものはいなかったがそれでも噂というのは格好の娯楽だ。大人たちの陰口をきいた子供にも負の感情は伝わり、やがて幼いミリアリアの耳にも入る。
出産後体調を崩しやすく、臥せっていることの多かった母に、ミリアリアは昼間近所の子供に言われた意地悪を泣きながら訴えた。
「お母さんが、おめかけしてたってほんと?おめかけってなに?ダメなことなの?」
「誰に言われたの?」
「噴水で遊んでた、知らない子」
ぐずぐずと涙を流す幼い娘を抱きしめながら、ジーナは朗らかに笑う。
「ミリアリアのお父さんは、もういないのよ。だから、もう、関係ないの」
「おめかけってなに?」
「ミリアリアが十歳になったら教えてあげられることかな」
「じゅっさいって、どのくらいむこう?」
「あと五年先。春があと五回きたら、教えてあげる」
ぜったいね、と指切りをせがむミリアリアに苦笑し、ジーナはその小さな体を抱きしめた。
「可愛いミリアリア。…ずっとこのままならいいのにね」
そういって泣き笑いの表情で頬を寄せたジーナは、翌年の春を待たずに儚くなったためミリアリアとの約束は果たせなかった。
ミリアリアはいっそう寂しくなったが、六歳になった彼女は祖父から付けられた家庭教師からの課題をこなすのに日々の神経をすり減らし、夜中に泣きぐずることはあったが、昼間は勉強に忙殺されて、季節を超える頃には母を喪った悲しみも和らいでいた。
祖父のベックは厳しい人だったが、決して人でなしではなかった。厳しい教育も、両親を失ったミリアリアが他人から軽んじられることがないようにと考えた結果で、ミリアリアが課題に頭を悩ませていると参考書を広げて教えてくれることもあったり、祖母と三人でゆっくりとお茶をすることもあった。
祖父母に愛されていることを疑ったことはなかった。
ミリアリアが十五歳を迎えた冬の日。
ベックは彼女を応接室へ呼び出しておもむろに口を開く。
「ミリアリア、お前の実の父親はカイル・マロフト子爵といって、この辺りを収めている領主様なんだ」
「唐突になにをいっているの、おじい様」
父親は、ミリアリアが生まれる前に死んでいるはずだ。
ずっとそう聞かされてきた。
「ジーナは、王都にある学園に通っている頃…マロフト子爵と出会い、卒業してこちらに戻ってきた頃にはお前がジーナの腹の中にいた」
ベックは皺の多い手で顔を覆い、大きなため息をつく。
当時を思い出しているのか、声はいらだたしげになった。
「無事に学園を卒業したと思ったら、突然妊娠しているというジーナに、わたしはすぐに父親が誰か聞いた。だが、何度、父親を問いただしても何も言わない、ただ意固地にお腹の子は必ず出産するといって聞かない。ジーナには期待をしていたのにとんだ裏切りだと身重のジーナを恨んでもいた…」
「おじい様…」
「それでも可愛いわが子だ。しかも妊娠もしている。家から追い出すこともできず、…やがてお前が生まれた」
本当はすぐに孤児院へ送るつもりだった、とベックはミリアリアが生まれた日の朝の決意を思い出す。
前日から産気づき、朝方に産声を聞いた。
産湯につかり、すっかり綺麗になった孫を抱いた娘の姿を見た時、ベックは後悔した。
やはり会うべきではなかった。必死に泣き声を上げる赤子を抱きあげたときのことは、今でも鮮明に思い出せる。
「可愛いジーナの、可愛いミリアリア」
ベックがミリアリアの頬に、皺だらけの手を寄せる。
見るべきではなかった。こんなに愛らしい存在を、一度でも見てしまったら、手放せなくなってしまう。
「お前が生まれて、ジーナの体調が悪くなり、医師からももって数年だと聞かされた」
頼るものがいなくなってしまう孫娘。本当はすぐに手放すべきだと理性が訴えるが、自分と同じ色の瞳をみると、庇護欲を掻き立てられた。
「改めて、ジーナに聞いたよ。ミリアリアの父親は誰だと。けれどジーナは答えなかった。…おそらく相手の迷惑になると考えたんだろう。」
「だけど、そうしたら、私のお父さんが誰かなんてわからないんじゃないの?」
「そうだな。わたしはそれでよかった。わたしの孫であることには変わりない。だけどジーナがいよいよ危うくなった冬…お前が5歳の時に彼が来た」
夕方、先触れもなく貴族の馬車が家の前にとまった。
バーンズ商会は多方面の商品を取り扱っているため、急を要した客人が唐突に訪れることもある。
馴れた様子でベックが邸の扉を開けると、ちょうど馬車からジーナと同じ年頃の男が降りてきたところだった。
「一目でわかったよ。お前とよく似た男だった。…いや、ミリアリアの方が数百倍は愛らしいな」
孫娘と同じ髪の色をした、目元がよく似た男だ。
馬車に飾られている貴族章をみると、自分たちが住んでいる地方の領主、マロフト子爵だった。
「はじめまして、バーンズさん」
「…長い間、お待ちしておりました、カイル・マロフト子爵」
なぜいまさら、と怒りがわいたが、彼の左薬指に光るものを見て、ジーナが身を引いた理由を察する。
思い起こせば、ミリアリアが生まれたころ、領主の一人息子が結婚したと毎日がお祭り騒ぎだった。
カイル・マロフト子爵は無言で頷き、ベックに促されるまま屋敷の中へ足を踏み入れた。
ジーナの部屋にカイルを案内し、扉を閉める。
かすかに漏れ聞こえる男の謝罪と女の啜り泣きを背に、ベックはミリアリアの部屋へ向かう。すでに眠っているだろう孫娘に会わせるべきか。健やか寝息を聞きながら、どうするのがミリアリアにとっての最善なのか、ひたすらに頭を悩ませた。
どのくらい時間が過ぎたのか、ぎぃ、と静かに扉が開く音でベックが振り返るとそこには泣きはらした目のジーナが夜着のまま、痩せ細った体で杖を頼りにしながらも1人でしっかりと立っていた。
「彼は?」
「帰っていただきました」
「…いいのか」
「この子は、ミリアリア・バーンズ。ジーナ・バーンズの一人娘だもの」
その冬、カイルと最後にまみえたことに満足したかのように、ジーナは家族に見守られながらゆっくりと息を引き取った。
それから時が経ち、母と約束した十歳になったミリアリアは「おめかけ」の意味を誰に教えられるでもなく知り、祖父に父親について問いただしたこともあった。だが、答えはいつも決まっていた。
「ジーナからは父親は死んだと聞かされている。ジーナももういない、誰も答えられないんだよ」
だというのに、十五歳の冬。
ミリアリアは死んだと、誰とも知らないと言い聞かせられ続けていた実父の存在を、祖父から告白されて、混乱していた。
暖炉の薪が爆ぜる音にハッとすると、祖母が暖かいココアを持ってきてくれたところだった。
「だいじょうぶ?」
「おばあちゃん…」
祖母に促されてソファに腰を下ろす。そっと背中を撫でられ、甘くて暖かいココアを口に含むと思わずほうっとため息が漏れた。
「本当は言うつもりはなかった…」
「ならどうして?」
「…子爵がお前を迎えにきたいと仰せだ」
「なっ!」
「もちろん、断ることもできる。…できれば知られずに断るつもりだったが」
ベックがマロフト地域で週に1度発行されている新聞をミリアリアへ渡す。
【マロフト子爵の子息 急逝】
大々的な見出しにミリアリアは短く息をのむ。
マロフト子爵に子供は10歳ほどの男の子1人きりだったはず。
記事には短く、病気で長く患っていたと書かれており、後は子爵夫人の消沈ぶりと今後を憂う文言で埋め尽くされていた。
「…いまさら」
ぐしゃりとミリアリアの手の中で新聞がゆがむ。
「ご子息の葬儀は郊外の療養地で静かに行い、その後、奥方は1人でそこに暮らすそうだ」
「もう一度ご結婚されればいいのよ。離縁が難しくても、子供ができればいいのでしょう!」
「そういう考えもあるだろうし、周りもそれを期待しているだろう。だけど、思うんだよ、ミリアリア。お前と暮らしてきた15年は子爵からお前を奪ってきた年数でもあるんだ」
「そんなことない!私もお母さんも、あの人に捨てられたのよ!だって今まで何も言ってこなかったじゃない。お母さんが死んだ後も、なにも!」
「ジーナは捨てられたのではなく、ジーナが子爵を見限ったんだ。」
「何が違うっていうのよ!」
「子爵は、ジーナを探していたんだ。ずっと、ずっと。だけどジーナと子爵夫人、ジーナの学生時代の友人が…彼をずっとだましていたんだよ」
ベックは頭を振るミリアリアの両手を包み、彼女の肩を必死に抱きしめる己の妻を見る。
「あの頃は、天気が良くてね。天気が良すぎて、なにも育たなかったの」
「おばあちゃん?」
「みんな食べるものが少なくて、余所から買うお金もなくて、お金を借りるあてもなかったの。そのころの領主様も一生懸命してくださったけど、端っこの小さな村なんかは…なかなか行き届かないものなのよ」
「そんな頃にカイル様のご結婚が決まって、持参金と一緒にたくさんの食べ物を持ってきてくださった」
裕福な男爵家の娘が困窮した子爵家に嫁入りをした。それだけのことであそこまでお祭り騒ぎになることはない。ベックは当時を思い出す。
助かったと喝采を上げた酪農家がいた。ベックの取引相手の一人だった彼は、家畜にやる餌がなく、己の食事もままならずに明日は家畜の一頭を食べることにしようかと考えていると思い詰めた表情で相談しに来た男だった。
「だけどそれは、貴族…領主様として…」
「そう、当然のことだ。領民を思い、最良へ導く。それが領主さまのお仕事だ。だけどね、はたしてそんな理想的な領主様が、この国に何人いる?」
ミリアリアは、ぐ、と下唇を噛む。
ベックの言いたいことは解る。貴族であるカイルが己の意思のままに結婚を選択できないことも。
そして嫁いできた男爵家の娘が、ジーンを排除したがった理由も。
あからさまに持参金目当ての結婚のうえ、相手には庶民の思い人がいるなんて、耐えられるはずもない。せめて先に男子が生まれるまでジーンには疎遠にしてもらいたかったのだろう。
「五日後に子爵様へお返事の手紙を送るから、それまでゆっくりと考えなさい」
穏やかなベックの声にミリアリアは頷いた。