【2】公然とした秘密 1
裕は『ひとりっ子』として育った。
子供の頃は書道家として活躍している両親は若く、仕事を選べる立場ではなかったので忙しくしていた。
幼い頃の彼女は自宅裏に居を構えるご近所さんの元で過ごしていた。誰が見ても老女としか言えない老女は、自宅で産気づいた母から裕を取り上げたのだという。
母は事ある度に裕に言い聞かせていた。
「私とあなたの恩人なのだから、絶対に忘れてはいけないのよ」
言われるまでもない。
母方の祖母より、あるいは両親よりも長い時を柏原の元で過ごした彼女は、老女のおばあちゃんっ子と言ってもよかった。
だから、母方の祖母が死んだと聞かされた時、「もっと水流添のおばあちゃんとも一緒に過ごせばよかった」と心の底から後悔した。
しかも祖母の葬儀と白鳳大学の受験日が重なった。
本命で、第一志望で、唯一の受験校。一発勝負で引き返せないその日に、大切な人の死と、こともあろうに10年、いや20年、もしかしたら30年に一度かもしれない大雪が東京を見舞った。
亡き人を悼むかのようにどかどかと降りまくる雪は東京を雪国に変えた。
音もなく、視界を遮って降りしきる雪と、試験と、おばあちゃん。
忘れられない日にもなる。
よくもまあ、受かったもんだよ、今だから言えることだけどさあ……
しみじみ、裕は学校の正門を見上げる度思う。
もちろん、棄権することなく試験を受けたからここに立てたわけだが、彼女ひとりの力でできたわけではない。
細かい雪舞う中、先を行く案内人の姿を追いかけたから試験場に辿り着け、ここの生徒になれた。
ご近所の老女が裕の産みの恩人なら、彼女を試験場に送り届けた案内人は受験の功労者だ。
こいつじゃなかったら、もっと有り難みがあったのに。
ちらりと目を上げた先には、ソファーにふんぞり返って腕組みをするありがたーいお方、岡部仁の姿があった。
自称・裕の兄貴。
彼女はそんなことミジンコほどにも思っていないが、実際、雪の日に駅前で迷える受験生達をピックアップした、仁をはじめとする監督生がいなかったら今頃どうなっていたことやら。大袈裟でも何でもなく、彼女の人生はかなりの部分が変わっていたことだろう。
恩にきらなきゃいけないのよ、わかってる。
でも――こいつの前では素直になれないんだもん。
仕方ないじゃん!!
裕は極力目を合わさないようにして、テキストをめくった。
「おやーっ? 早速やってるんだね」
入ってきたのは、くるっとゆるく巻いた髪が、少女マンガのキャラクターのような巻髪で、ホットカーラーではなく天然パーマだと聞かされて仰天した、南井功だ。
裕は顔を声がする方へ向ける。
「南井さん」
「おはようございます」
「おはよう。ああ、続けて続けて。中断しちゃだめだよ」
合いの手を入れるように流れて来たのは、番組終了を告げるBGMだ。
「まあ、今日の所はいいだろう」
仁は眉間に皺を刻んだまま、鷹揚に頷いた。
「できて当然だけどな。まだ初めて一週間ぼちぼちだしよ」
裕は不満を飲み込み、ぞんざいに礼をする。
「あざーす」
もう、わかってるよ!!
そこへ。
ぴるぴるぴる
電子音が飛び込んできた。
「ん? 誰?」
「すまん、俺だ」仁はポケットを探り、ポケベルを出した。
「やだー、またあんたのポケベル?」功は言う。
「何度も言うけど、マジで、そろそろ携帯電話に変えたら?」
「いい、めんどくさい」仁はメッセージを目で追いながら言う。
「でも、結局電話し直すんだろ?」
「ああ」
「じゃ、ケータイの方が早くないかい?」
「どうせ数ヶ月しか使えない。今はな。あっちから帰ってきてから考える」
「そうだねえ、あんた、秋から留学しちゃうもんね」功はフフンと鼻を鳴らす。
「そういうことだ」
「あんた、妙なところでケチで締まり屋だよね、いいとこのボンなのに」
「ボンかどうかは関係ないだろ。――尾上」
「は、はあい?」
「明日もやるからな。忘れるなよ」
そう言いながら、仁は手荷物を手に、研究室を後にした。