九.ひとりの月の民
踏み込んだだけで一歩も歩くことはない。なのに、目を開ければそこには理想郷があった。一年中花が咲き誇り、自然が人に害なすことはありえない。光りに満ち、苦しみも悲しみもない。そう云い伝えられてきた楽園。それが天の宮古だ。
ひらりとした薄くきらめく服を着た人々は、みな麗しい金の髪だが、月花が見慣れた色ではない。ひっそりと闇に光るような金色ではなく、自ら輝き光を誇示する強い金髪だ。
遠くまで続く穏やかで豪華絢爛な街並みの向こうに輝く城が見えた。姿形は虹の宮に似ていた。城は果てしなく、それすら一つの街に見えた。
あそこにいるのだろうか。九年前の幼いあの日、天の王が連れ去った月花の半身が。
街には明らかに天の民ではない人々もいた。彼らは皆一様に頭を抱えている。基本的に天の民でなくとも排除はされない。この場に来る事の出来た者は資格があると判断されているのだ。だが、彼らの悲壮感は何なのだろうか。
首を傾げながら歩いているとシエルがぴたりと足を止めた。視線を追って見ると、前方の噴水がきらめく広場を見ている。とても美しいが水の都のほうが見事だった。
シエルの視線は、噴水の淵に座りこんでいるたくさんの人々の中に固定されている。例に漏れず頭を抱えている一人が、ふと呼ばれるように顔を上げた。目を見開き、手に持っていた軽食を取り落とす。若い少年の、歓声のような奇声のような声で同じように顔を上げた男達は、あちこちからばらばらと立ち上がり、転がるように駆け寄ってくる。
一番近い場所にいた体格の良い男は躓き、信じられないものを見るように瞠目した。
「シ、シエル様!? ああ、これは夢ではなかろうか!」
次々と追いついてきた男達は総勢で五名だ。若い者はまだ二十にも満たないだろう。
「何故、わしらがあまりに遅かったからでござりますか!」
「姫様と共にいてくださいと申し上げたではないですか!」
「こんな場所でお会いできるなんて、夢だったらいいと思います」
「え、ええ!? 本物のシエル様!? 何やってんすか」
最初に気がついた少年が一番若いようだ。シエルは片手をヒラヒラ降りながら男達を宥める。
「おいおい説明するけどさ、おいグラウ。お前それは会えなきゃよかったって思ってるだろ。こんにゃろう」
「もちろんです。よく分かりましたね」
「……お前、オレのこと嫌いだろ」
「………………」
「そこは否定しような!? さみしいから!」
とても目立っていたので場所は移動した。
人通りの多い街道から外れ、寂れた庭園の片隅に腰を下ろす。歩きながら紹介された五人の名と顔を一致させようと、月花は心の中で繰り返した。
一番年嵩の老年期に差し掛かったオーランジェは白髪交じりの橙色の髪。三十代前後のロートは赤、青年真っ盛りのヴィオレットは紫、グラウは灰色、一番若いローゼは桃色だ。虹の都の民だけあり、髪色が多様で目に楽しい。
「だってさ、お前らをここに送り出して早三年。姉貴達はしびれ切らしちまって一ヶ月前に謀反起こしたぜ。んでオレも一ヶ月前に都出てきたんだよ。あれがなきゃ、オレらを証明するもんがねぇからな」
「シエル様……お願いでございますからその言葉遣いをっ! お労しい! 憎きあの男に城を追われなければ、今頃は素晴らしき殿下になっておいででしたのに!」
「爺さん、それどころじゃないだろ! シエル様、冗談はお止めください。虹の都から雲の都まで早くて二年はかかります」
シエルはふふんと鼻を鳴らした。芝居がかった仕草で横にいた月花を突き出す。
「月の都、月花姫であらせられる。乱用は出来ねぇが、白道っつー術が距離を縮めてくれるんだぜ。一の姫で、オレさっきふられた」
「惜しすぎる! シエル様、月の姫と婚姻されれば民の人気はうなぎ登り! 逃してはなりませぬ! ほれ、いきなされ!」
「そうですよ! うわー、ぼく初めて見ましたよ、月の民!」
「……お前ら、それは本人の前で言っていいことなのか?」
一時、微妙な空気が流れた。ふとヴィオレットが月花を見た。
「月の民? まさか、天の王が溺愛してるっていう月の民関連?」
衝撃が走った。身体を雷が貫いたのかと思った。がくがくと足が震える。月花は倒れこむようにヴィオレットの胸元を掴んだ。
「華月! 華月を知っているの!? どこ、どこにいるの、どうしたら会えるの!」
「ちょっ、何!? ちょ、シエル様!? これなんですか!?」
「落ち着け、月花! 月花……?」
抱きかかえられて引き離される。身体中の力が抜けてしまって立ち上がれない。おかしなものを見るような視線が落ちるが、構っていられなかった。他人の口から出る華月の名は、それほどに衝撃的だったのだ。
気まずい雰囲気を取り持つようにシエルが説明する間、月花は口を開けなかった。言葉も出ない。今までの疲れが圧し掛かってきたように動けない。震える身体を抱きしめて遠い宮を見つめ続けた。
あそこにいる? 華月が、生きて、本当に? 息をして、ここに存在している?
もちろんそう信じていた。そうでなければ冷静になどいられない。けれど実感となって感じられれば、動揺がないはずがない。
「じゃあ、君は男の為にそんな無茶を? きれいなくせに無茶苦茶だよ」
はっとなって意識を戻す。五人が五人とも呆れたように月花を見ていた。ロートが短い髭を擦る。
「銀色の髪、月のような瞳。年の頃は姫さんくらい。名前は華月。間違いねぇですね?」
頷く事を返事とする。彼らは驚いたように見入っていた。驚きたいのは月花のほうだ。彼らが話した華月の特徴が、記憶の中の彼とは似ても似つかない。外見的特長はそのままなのに印象が全く異なる。彼らは言った。華月は理想郷を求めてやってきた人間に課題を与える。それをこなせば残ってもよいが、一年間で見つけられなければ宮古を追い出される。そして何より驚く事に、天の王がそれを許しているのだ。彼女は華月を溺愛し、まるで別人のように彼に甘えるのだという。その分悋気も強く、宮にいた女官は全て追い出された。桃色の瞳をした者は男女問わず、中心街に留まる事すら許されなかった。彼自身も王に愛された権力を使い、傍若無人に地上の民を追い出しているという。
「華月……華月はとても優しくて、泣き虫で、花が、好きなのよ。私がとても下手だった花冠も、きれいに編んでしまうの」
ヴィオレットは整った髪を直しながら、肩をすくめた。
「花なんかその場で踏み潰してたね。人なんか虫けらみたいに見ていた。全てが嫌いみたいだったけど、違うのかな?」
「泣き虫、で、すぐに私の後ろに隠れてしまうの。私もいつも泣かせてしまって……けれどとても優しいから、私が泣くといつもおろおろしながら、一生懸命笑わせようとしてくれて……」
華月、華月。変わってしまったの? もう、私の知っている華月ではなくなってしまった? それでもまだ月花を覚えている? 私は会いにいってもいい? 私のことなんて忘れてしまった?
ああ、それでもいいよ、無事でいてくれたのなら。それだけで充分よ。本当に、泣きたくなるほどに安堵したから。
「お願い、条件を教えて。華月が出した条件ならば、私に解けるかもしれない」
少しだけ、怖かった。まるで分からないかもしれない。九年も離れていては当たり前だろう。しかも月花は天の宮古について何も知らないのだ。
「出された課題は二つ。どちらを持ってきても合格です。『春の雪』と『三日月の丘』。この宮古に冬は来ないため雪は降らず、三日月の丘なる場所も存在しません。宮古中を探し疲れた地上の民は、ああして噴水の前で途方に暮れています」
「なんで噴水の前なんだよ。お前らも」
首を傾げたシエルの言葉に、グラウは当然だと答えた。
「本来のルートで雲の都から参りますとあの噴水に出るんですよ。狼に案内された古木ルートなんて誰も知りません、普通。そして虹の都の王がそんな言葉遣いしないでください。わたし泣きますよ」
「うわぁ、そんな冷たい目で泣くって宣言されたの、オレ初めて」
じゃれあうようにぽんぽん飛び交う会話の応酬を聞きながら、月花は確かに微笑んだ。
シエルは一人で長い廊下を歩いていた。一人といっても宮の者はそこら中にいる。じろじろと不躾な視線を受けながら、胸元に入れている物を確かめて息を吐く。そして、部屋の前で足を止める。
宮の中に比べれば、布団部屋としか思えないほど狭い部屋の中で長い銀髪が流れている。土足が原則のはずのここで、唯一この棟だけ素足で歩く事を強要された。
美しい少年だった。まるで少女のような、けれど中性的な妖しさがある。着崩された胸元からは病的なほど白い肌が除いている。どこか成長を拒む退廃的な幼さの中で、瞳だけがどろりとこの世の闇を纏っていた。
「……課題、早く出して」
課題は二つ。『春の雪』と『三日月の丘』。何のことかさっぱりだ。
だが月花は笑った。
華月だと。自分の知っている華月だと。優しい子なのだと言った。
見る者全てが愛らしいと微笑み、内気で泣き虫。部下達に聞いた話ではまるでそうは思えない。わがままで、権力を傘に好き放題している子ども。自分の目で見ても、悪いが月花が正しいとは思えない。人は変わる生き物だ。そうして生きる生き物だ。昔そうであっても、過酷な状況に放り込まれた子どもが変わらずにいられるとは思えない。
だが、月花は笑ったのだ。初めて見るほど幼く、花が綻ぶように。
その月花は倒れた。やはり連日の術乱用が祟ったようだ。むしろここまで何もなかったのが不思議なくらいだ。ぱたりと倒れ、まだ意識が戻らない。医術の心得のあるグラウが診断したところ、ぐっすり眠っているそうだ。
「オレのじゃねぇけどな」
興味のなさそうな月色の瞳がシエルを向く。冷たい怜悧な光だった。何の感情も映さない、触れるものを闇に引き摺る込みそうなほど虚ろで冷たい色が、振られた薄い物に見開かれた。
シエルは課題を満たしたのだと知った。
月花は世間知らずだ。それを本人も知っていた。そして閉ざされた都では手に入れられる情報も限られている。だから月花は他国で学ぶつもりだった。書物を浴びるほど読む為に栞を持っていた。小さな可愛らしい押し花で作った栞。『桜』と『金木犀』の、少女らしい栞だ。
白く細い指が伸びて、震える手が栞に届く。素直に渡してやる。小さな花で作られた栞は、神聖なものに触れるように掲げられた。
「……なんで、君が知って…………誰も知るはずが」
「だからオレのじゃねぇ。あんたらしか知らねぇんだろ。腹立たしいけどな」
信じられないものを見ていた瞳が揺れる。縋りつくように栞を見ていた視線が、初めてまともにシエルを捉えた。
「生き、て……?」
「次は月の花持ってこいとか言うなよな。ここ、女人禁制なんだろ」
肩をすくめて茶化せば、ぎっと強い視線で睨まれた。だが瞳に闇はない。
シエルは口笛を吹いた。華月の瞳が変わっている。凍りついた瞳が光を差していた。闇に降る、一筋の月明かりのような温かい色をしている。印象もがらりと変わり、触れれば切り裂きそうな退廃的な美しさは薄れ、転んで泣き出す前の幼子がそこにいた。
震える手で壊れ物のように栞を持っていた華月は、ぐっと歯を食いしばった。
「……帰って」
「なに?」
「連れて帰れ! 二度とここには来るな! 君の望みは何でも叶えてあげるよ! それで満足だろ! 彼女を連れてここから出て行け!」
怒りが身体を駆け上る。
初めて会った時の無機質な瞳。眠る度に泣いていた。ずっと我慢して、今にも折れそうな強さで悲しみを背負いながら、たった一人で無謀をすると決めていた少女。焦がれ、想い、涙を流した相手は、会いもせずに追い返そうとしている。彼の為だけに微笑んだ少女を切り捨てて。
「あいつ、あんたのことだけ想って、あんな思いしながらここまで来たんだぜ!? あんたがもう、思い出も何も捨てたって言うなら、オレがもらう!」
「……お前に、お前に何が分かる!」
はっとした。吹けば飛びそうな儚さでそこにいた少年が、心を切り裂くような声で叫んだ。泣きそうだと思った。何故かそう思ったのだ。
恋敵だ。このまま会わせず、月花を連れて帰ればいい。そうすれば棚ぼただ。だけど、気がついたら勝手に言葉が滑り出ていた。
「あんた、ご褒美なんだってさ」
「……なんだって?」
「月花が言ってた。頑張って、頑張って、それでようやく貰える特上の褒美だって」
シエルは知っていた。月花がどれほど彼を想っているのか。自分の人生を見失うほど、彼だけを見ていたことも。そして目の前の少年の噂は本当に『真実』なのだろうか。
肩を竦めたままちらりと少年を見る。彼は呆然とした後、嘲笑った。自嘲気味に、己を穢すように。
「……教えてあげてよ。ご褒美は、もっと綺麗なものじゃなければ駄目だって」
軽快な足音が聞こえてくる。華月はすぐに表情を隠してしまった。全てを諦めたような、見ているシエルのほうが乾燥してしまいそうな表情だった。
開き戸がすらりと動き、現れた天の王に息を飲んだ。長い金髪に豊満な胸。見た目は一の姉のようだなと頭の片隅で思った。彼女はちらりとも視線を向けず、華月だけを見て頬を両手で包んだ。
「ああ、会いたかった。そなたと会えぬ時間はなんと苦しいものか。さあ、キスをしておくれ。愛しい華月……愛しい、愛おしい華月。どうした、キスをおくれ。何も見なくてよい。わらわだけを見ておればよい、何も考えず、わらわを愛しておくれ……ああ、華月。名を呼んでおくれ、わらわの名を」
「……ソレーユ」
「そうじゃ、ああ、華月。抱いておくれ。愛しておくれ。わらわの愛しい華月……」
夢のように美しい少年は、人形よりも無機質な瞳で天の王に口付けた。
唖然としたシエルの腕を誰かが掴んだ。無理矢理引っぱられて部屋を出る。乱暴だったが、正直助かったと思った。だって気持ちが悪かったのだ。天の王が紡ぐ言葉はまるで毒のように確実に何かを蝕んだ。ねっとりとした口調、狂気が見え隠れした言の葉。まるで自分が穢れているという少年の様子。シエルは何かが分かった気がした。先ほどまで感じていた怒りが急速に静まっていく。泣き出しそうだった。彼もまた想っていたのかもしれない。焦がれて焦がれて、夢に見て泣くほどに。なのに名さえも呼べなかった。
「大丈夫ですか?」
躊躇いがちな声にはっとする。そこで初めて、自分が宮の門の前にいることに気がついた。黙々と歩いていたらしい。シエルを連れてきた青年は、長い金髪を後ろで一つに結び、とてもよい身形をしていた。
青年は骨の浮き出た細い腕を胸に当て、簡易の礼を示す。
「ソレイユと申します。貴方は新しくいらっしゃった地上の民ですね。あの……彼の、華月の課題を?」
「あ、ああ。正解したぜ。好きなもんやるって言われた。っていうか、あんた、王族が一人でオレなんかと話してていいのかよ」
自分も人のことは言えないはずだが、そこは棚上げだ。
彼はソレーユの双子の兄だ。身体が弱く、妹とは気質も正反対だと聞いている。ソレイユは部下に聞いた通りの控えめな声音で、躊躇いがちに口を開いた。
「あの……宜しければ明日も彼に会いに来て頂けないでしょうか」
「あ?」
「も、勿論御礼は致します! ……妹のしていることは決して許されない。けれど誰も止められない。華月の人生を奪ってしまった。彼が何を望んでいたのか知っています。今でも望んでいる事を。なのに叶えてやることが出来ない。全て奪ってしまった。彼に絶望だけを与えてしまった。お願いです、どうか、少しでも彼の慰めになればと。貴方だけなのです、彼の課題を理解したのは……やはり同じ地上の民のほうが彼を理解できる。私達は雪すら知らない。けれど彼は地上の民全てを返してしまうので……」
口籠ったソレイユに、シエルはぽんっと手を叩いた。
「そう、それ! なんでそんなことしてんの、あいつ」
不思議でならないと問えば、ソレイユは更に口籠る。けれど、じっと見ていると、やがては小さく息を吐いた。
「……彼は、望んでここに来たのではありません。妹は彼を一目で気に入り、彼の愛した少女を殺してまで強引に奪い去ってきたのです。当初の彼は、食事をとろうともしなかった……そのままでは死んでしまうほど弱り、辟易した妹は、ここに永住したいと言っていた地上の民を一人、殺しました」
「な!?」
「分かっています! とんでもないことです! それでも妹は、彼が食事を取らない度に一人ずつ殺すと言って、彼を無理矢理生かしたのです。……それからです。彼が地上の民につらく当たり始めたのは。帰したかったのでしょうね、妹の手が届かない場所に。そして、きっと……帰りたくて堪らない彼から見たら、望んでここにやってくる彼らは、やはり許せない存在なのでしょう。視界に入れるのも耐えられないほどに……」
ソレイユは嘆き、顔を覆った。先ほど見た自分への自信に溢れた天の王と双子なんて信じられない。ソレイユに頼み込まれ、シエルは次の日も来る事を約束してしまった。帰るなり部下に押し潰されて、根掘り葉掘り聞かれたが、シエルには答えられなかった。何も言えなかった。だって何も分からなかったのだ。
死んだように眠っている月花が流した雫を拭ってやりながら、想ったのは泣きそうに歪んだ月色の瞳だった。