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月の花  作者: 守野伊音
8/12

八.ひとりの王族


 宮で使っていた物より質は落ちるとはいえ、久しぶりにちゃんとした寝台で眠れてうれしかった。ベッド、では眠り慣れてはいないものの、それでもやはり落ち着く。

 ぐっすり眠っていた月花は、真夜中にぱちりと目を覚ました。こんな時間に目を覚ましたことを不思議に思いながら、するりと上着を羽織る。戸をノックする音がした。

「オレ。起きてる?」

 返事をすると、上着を脱いだだけで眠っていたのか、くしゃくしゃの服を着たシエルが頭を掻きながら入ってきた。少し眠そうだ。

「外、うっせぇ」

「え?」

 言われて初めて外に意識を向ける。二階の宿からはそんなに遠くまで見通しはよくないが街灯が街を照らしている。何かが聞こえた。聞き慣れた音だ。だが、それは月の都でであって、こんな場所ではない。

「狼!」

 窓を開け放つ。どこから現れたのか、ぞろぞろと狼が街を徘徊している。みな一様に城に向かっている。城に向かって吠え立て、牙を向く。怒り狂い、吼え続けている。

「おい! バカ、何やってんだ!」

 焦るシエルの声を置き去りに、月花は二階の窓から飛び降りた。窓際にあった木に手をかけ、地面に飛び降りる。靴を履いて部屋に入る習慣に慣れていてよかった。すぐに狼を追う。途中、何匹もの狼とすれ違ったが、狼は決して月花を襲わなかった。街中で起こっている遠吠えに耳を澄ませる。金の髪が不自然にうねった。

「月花!」

 後ろから腕を掴まれる。

「バカ、死にてぇのか!」

「違う……シエル、彼らは怒ってる。でも、何に? どうしてこれほどの狼が」

「あーもう! 説明は全部後でいいから、逃げるぞ!」

 焦って痛いほど引っぱられる腕をふり払う。本当に痛かった。

「平気よ。この子達は街を襲いにきたんじゃない。飢えてもいない。ただ怒っているわ。城ね、城に何があるの?」

「おいってば!」

「シエル。月の民である私が狼を放っておくなんて出来ないわ。そこの子、私を案内してくれる? 貴方達の長がいるでしょう?」

 暗がりにいた狼に気づいていなかったのか、シエルが身構えた。だが月花はあっさりとその横を通り、撫でてやる。気持ち良さそうに尻尾を一振りして狼は背を向けた。なんの躊躇いもなく追う月花の後を、シエルも慌てて追う。

 住人達はみな固く門も窓も閉ざしたままだ。そのほうが都合がいい。城が近づいたとき、狼の息遣い以外の声を聞いた。

「散れ! 去らぬか! これ以上都に足を踏み入れるな!」

「ストーリ様! 囲まれておりますゆえー!」

「ええい、泣くなトレ! 大体誰がついて参れと申した!」

 多数の狼が円を描く中心に、昼間見た二人組みを発見した。シエルは咄嗟に剣を抜いたが、月花は苦笑してそこに向かっていった。そしてぶんぶんと明らかに素人振りをしているトレのナイフを止めた。

「この子達に貴方を襲う気はありません。どうぞそんなものお収めになって」

 青年が眼鏡をずり下げながら振り回していたナイフがなくなれば、狼達は興味を無くしたように視線を逸らした。すぐに群が二つに割れる。その向こうから、巨大な闇がやってきた。巨大な巨大な黒い狼だ。普通の狼の何十倍もある。口を開くだけで月花など飲み込めてしまえるだろう。月花は両手を広げてその狼の鼻先を抱きとめた。悲鳴を飲み込んだ音が後ろから聞こえる。それを無視して、鼻先に額を下ろす。

「貴方が長ね。はじめまして。どうして街におりてくるの? 何に怒っているの? こんなことをしてはダメよ。貴方達が狩られてしまう。ほら、見てご覧なさい。城に火が灯っている、たくさんの気配がするわ。貴方達を迎え撃とうと人間が準備をしているの。貴方には聞こえているでしょう? 貴方達が人を襲う気などないと彼らには分からない。今日は山にお帰りなさい」

 大きな鼻先を撫でてやると、黒い狼は知性ある静かな目を少し細めた。擦り付けるように月花に寄り添う。

「心配してくれているのね……ありがとう、平気よ」

それでも心残りがあるように見つめていた狼は、再三の言葉にくるりと向きを変えた。一つ大きな声で鳴き、ふさりと尻尾で月花を撫で、滑るように闇の中に消えていった。一息ついた時、もう狼達はいなくなっていた。

「お主、その髪色はやつの仲間か!」

 後ろから怒声が上がった。少年が怒りに満ちた目で飛び掛ってくる。術で防いでいいものかダメなのか、躊躇ったせいで判断が遅れた。思わず両手で顔を庇ったが、衝撃はこなかった。少年は、またもやひょいっと軽い身体を持ち上げられていた。

「女の子に乱暴はいっけねぇなー」

「おのれ! またしても貴様か!」

「ストーリ様を離せぇ! がほぁあ!」

「あ、トレ。すまぬ」




 騒ぎが起こるのは嫌だからと少年に急かされ、青年をシエルが背負いながら彼お勧めの隠れスポットへ案内される。今はもう使われていない船着場だった。廃棄された渡し舟が重なり、水の上にちょっとした城砦を作り上げている。その中の一つにトレを寝かし、シエルはようやく一息ついた。青年が軽くて助かった。街灯はないので、月花が『明月』を使って白い球体の光を上に照らす。少年は腰を抜かしかけた。シエルはしきりに感心して、皆こんなに色々と使えるのかと尋ねてくる。これほどに使えるのは月花だけだ。白道を使える者は数えるほどになっている。

「おぬし達、旅人か。何もこんな時期にやってこぬともよかろうに」

「……だから、お前一々古くせぇよ」

「だまらぬか! おぬしはさきほどから無礼がすぎる!」

 月花はトレの頭に濡れた手拭を置いた。

「貴方、王族でしょう。王族が何をしてらっしゃるの。見たところ供も彼一人なのは無用心ではないかしら」

「狼は人は襲わぬ!」

「じゃあ、何してんだよ」

「……城を、襲うのだ。全てあの月の民が現れてからだ! 父上も、母上も、みんなおかしくなってしまわれた!」

 シエルと顔を見合わせる。スターリは小さな手のひらを握りしめ、子どもとは思えぬほど眉間に皺を寄せた。

「奴は神聖なるものなどではない! 宝玉を好み、宴を好み、若い男を好む。なのにみんな金の髪に目を奪われて、奴の言い成りだ! 我は知っているんだ! 狼は怒ってるんだ。狼を退治する為に色々としているが、全て奴が来てからなのだ! 橋を下ろせず、土の都に良質の水を届けられなくなった。土をこね、工芸で生計を立てていた土の都が荒れてしまったのも、全て奴のせいだ!」

 怒鳴り声を聞きながら、脳裏に浮かんだ光景に歯を食いしばった。倒れていく、虚ろな瞳。悪意も何もなく、ただ生きる為に月花に刃物を向けた幼い子ども。それをあっさりと殴り倒した大人。活気はなく、人々の目に生気はない。

「……もうこの都は、奴に乗っ取られてしまうのかもしれない」

「いけない」

 俯いたスターリの頬を挟んで、上を向かせる。戸惑った瞳に微笑みかける。

「王族は最後まで希望でなければならない。最後まで人々を率いるのだと胸を張りなさい。王が諦めた時点で都は終わる。命尽きるその瞬間まで諦めてはならない。それが王子である貴方の務め。何があっても、貴方だけは諦めてはならない」

「お主、やつらの仲間ではないのか……?」

「ええ、決して。金の髪は別に同じ集団でなくとも現れるものよ」

 月花はシエルを見た。彼もまた月花を見ていた。

「……放っては、いけないわ。名を騙られたのではあらぬ罪を被ることになる。土の都の原因がこの件ならば、恨みが月の民に向かうかもしれない。それを見過ごすわけにはいけない。シエル、貴方は先を急いでいいのよ。これは私の都合だもの。貴方まで足止めさせるわけにはいかないわ」

 彼には彼の用事がある。ここまで充分助けてもらった。これ以上自分の都合につき合わすわけにはいかない。彼には彼の、成すべき事があるからここにいるのだ。

「別にいーさ。無駄足踏む余裕はねぇけど、そこまでマッハで急ぐ旅でもねぇよ。ここまで来たんだ、最後まで付き合ってやるさ。それにオレだって白道で随分助けられたしな」

 シエルはひょいっと肩をすくめた。

「それにあんた、一人じゃどうも危なっかしい。未だに男は狼の意味が分かってねぇし」

「なに! 我は狼ではないぞ! きさまこそ何を言っている!」

「お前もか」

 そのまま二人の言い争いになる。正確にはスターリがいいようにあしらわれている。ぎゃあぎゃあと騒ぐ様子を見ながら、月花は肩の力が抜けた。シエルと目が合い、微笑まれる。首を傾げて水に映った自分を見れば、月花も微笑んでいた。そうだ、笑うとはこういうことだ。

「……ありがとう。本当は、少し、心細かったの」

「少しかよ。どうせなら『貴方がいないと生きていけないの!』くらい言ってほしいぜ」

 声を高くし、前で両手を組んで身体をしならせたシエルに、思わず吹き出した。

「あはは! シエル、気持ちが悪いわ!」

「うむ。おぬし、頭大丈夫か」

「うわ、てめぇに言われたかねぇぞ、がきんちょ」

 ぐりぐりとこめかみを攻撃され、スターリは悲鳴を上げた。どうやらこの攻撃は初めてらしい。月花は知っている。華月にやったことがある。泣かれた。

「スターリ様ぁ! ああ、スターリ様! 貴様、スターリ様に何をする!」

 悲鳴を聞いて突如トレが起き上がった。が、そのままバランスを崩して水の中に落ちていった。事情を説明しようとしていたスターリは、その体勢のまま呆然と見送り、そして深いため息を吐いた。子どもらしからぬ深さだった。





 水の都ではどうやら月の民に対して特別な思い入れがあるらしい。何故かは知らないが、特別視し、憧れが強く、神聖視までしているようだ。切々と語るトレを、月花は複雑な思いで聞いていた。スターリは肩を落とす。

「我もそう思っていた。月の民はすばらしい民だと。だが、実際はああだ。憧れていた自分に腹が立つ。会いたいと、会って話しがしてみたいと。無邪気に思っていた自分が恥ずかしい!」

 落胆した小さな瞳には失望が見える。神聖視されるのは困るが軽蔑されたくはない。ぱんっと軽快な音がして幼い背中が叩かれる。無礼なと憤るトレにウインクして、シエルはからりと笑った。

「この件が解決したら、お前を裏切らない月の民を見れるかもしれねぇぜ」

「ちょっと、シエル」

 さっきまで切々と神聖視された月の民の話を聞いていたのだ。そんなことを言われたら困ってしまう。彼らの語った清廉すぎるほどの存在などいないのに、シエルはきょとんとしているストーリにきっぱりと言い切る。

「オレ、会ったことあるぜ? お前達の言うまんまの月の民に」

 月花は赤面するしかなかった。




 セレナは宝玉に目がないという。それを献上するという形で城に入ることにしたが、手持ちの宝玉はない。だから月花が作ることになった。昔はどうしても桃色にしかならなかった月花の結晶。今では様々な色が出来る。月のように美しい結晶も。ただ、作るには二日は要する。

 夜になれば、狼がどこからともなくやってきて城に向かって吠え立てた。農作物を荒らすわけでも、家畜を襲うわけでもない。ただ、城に向かって牙をむく。その理由を月花は悟っていた。

 二日経ち、シエルが目を向くほど美しい結晶を作り上げた月花は、城内へと通された。土足のまま建物の中を歩く事には慣れたが、足を取られそうな敷布は何とかしてほしい。

 広い部屋に通された途端、呆れ果てた。話には聞いていたが、連日連夜宴が行なわれていた。王も王妃も、国を担う人々も揃っている。昼間から酒が振舞われ、踊り子が騒ぎ、楽師が音楽を奏でた。誰もがその中央を見て、熱に浮かされたような顔をしている。ただ一人、苦虫を噛み潰したようなスターリと、それを宥めているトレだけが立っていた。

 豪華を尽くしたような部屋の中央で、長い金髪を惜しげもなく広げた少女が寝そべっていた。巨大な獣の皮の上にクッションを敷き詰め、きらめく宝石に埋もれている。月の宮古のように静寂を好み、静かなる宮で揺れる灯りと共に過ごす文化では、どうやらないらしい。

「お前? 世にも珍しい宝玉をあたしに献上したいという者は」

 膝をつくことをしない二人組みに眉を僅かに寄せられたが、月花は黙って包みを開いた。本人が触れているのだ。結晶は更に美しい光を放っている。感嘆の声が上がった。少女も宝玉に見入っている。

「まあ……なんて美しいの! まるで月のようね!」

 自ら立ち上がり歩いてくる。どうやらお気に召したようだ。伸ばされた手から離すように後ろに引く。端整な顔が不満に歪んだ。

「なぁに、まさか条件があるとでも? いいわ、なんでもよろしくてよ。あたしに出来ない事なんてないのだから」

「都の財は使わせないぞ!」

 怒りに満ちて叫んだスターリを、王が諭す。恥ずかしいことを言うのではないよと。大人達は聞き分けのない子どもを仕方がないなと諭す。そうして、誰も彼の言う事に耳を傾けない。子どもだからと、軽んじる。

 月花は、セレナと名乗る少女の前にまっすぐに立った。ストーリは気づいた。民の歩き方ではない。あれは、幼き頃から己が立ち位置を自覚している者の歩みだ。

「では、月の民を騙るをやめて頂きたい」

 セレナの顔がくしゃりと変わった。おかしくて堪らないといった顔だ。

「ほほ、何を言っているの! あなた、正気をお疑いになったほうが宜しくてよ?」

「ご心配頂かなくとも正常です。水の王よ。王子に水晶を表す古語をおつけになられるほどのお方ならば、セレナの意味をご存知でございましょう」

 王は長い髭をゆったりとしごいた。

「もちろん。月、だ。相応しい御名である」

「市井に生きる月の民は、決してその名を使いません。月を司る名を持つのは王族のみだからです。ご存知ですか?」

 ざわりと驚嘆が広がった。ならばセレナ様は王族だったのかと呟く声が聞こえる。ぴくりと眉を動かした少女を、月花はまっすぐに見つめる。

「王よ、この宝玉が何かご存知でしょうか。これは月の王族が作り出す己が力の結晶です。セレナと仰る貴女、どうして月の名を持つ御身がこれをご存じない? 貴女が月の民であるというのならば、何故狼が牙を向く。貴女を糾弾するが如く猛り狂う。狼は月の朋輩、月の民の眷属。何故月の名を持つ貴女に牙を向き、吠え立てる」

 目に見えて顔色を変えた少女は、とっさに胸元に手を入れる。だがそれよりも早く、いつの間にか位置を変えていたシエルが首元に剣を突きつけていた。

「おっと、大人しくしてろよ。てめぇの悪行、もうばれてんだからよ」

「お前っ!」

「観念しろや。てめぇ、天の民だな」

 ぎくりと少女の肩が揺れた。月花は頭の布を取り去り、長い金髪を解放する。波打って光るそれに今度こそ騒ぎが起こった。スターリは口をぱくぱくとさせて、まるで金魚のようだ。

「月の都一の姫、月花と申します。さて、天の御方。現の夢となってしまうこと、真に残念に思いますが、これにてお開きに致しませんか。月の民を名乗っての所業、見過ごすわけには参りませぬゆえ。徒言葉もご遠慮くださいませ。無駄な時間も好みません」

 ぶるぶると震える身体は弾かれたように月花に飛び掛る。その手が光り、何かが空を切った。

それを、月花は知っていた。

「晦!」

 月花の声で見えない何かは弾けた。ぽかんとした少女に、にこりと笑う。

「わたくし、その術を知っておりますの。貴女の王がわたくしを切り裂きましたのよ?」

 にこりと笑ったまま、『寒月』を発動する。足元を凍りつかせたそれに、少女が甲高い悲鳴を上げた。動くことのままならない少女の前に立ち、見下ろす。目の前で叫んでいる少女の実際の年齢は分からない。天の民は寿命がないのだから。

「貴女に聞きたいことがあるの」

 ずっと、ずっと聞きたかった。誰でもいいから答えてほしかった。なのに誰も考えてくれなかった。忘れろと、もう終わったことだと、そんな子どもはいないと。

「九年前に天の王が連れ去った月の子どもは、無事なのですか」

 ずっと、恐れていた。もしも彼がもうこの世にいなかったら。恐ろしい力を持った天の王の不興を買い、殺されてしまっていたら。

考えないようにしていても、滲み出した恐れは消えない。

「答えて!」

 少女は、笑った。

「王の寵愛を受けているさ」

 何かを叫びながら走ってくるシエルの声が、途絶えた。




 月花は歩いていた。隣を歩くシエルと時々目を合わせて微笑む。彼は立派な服を着ている。上質なマントを羽織り、たくさんの人々が彼に頭を下げた。ブルウィウス・アルクスを先頭にした姉達も、豪勢でありながら品のあるドレスを身に纏っている。誰もが笑っていた。何の不安もなかった。何も憂いはない。

 遠くで幼子が泣く声がする。視線を向けるのにそこには誰もいない。不思議そうに名を呼ばれて、顔を上げる。にかりと明るい笑顔と視線が合う。

繋いだ手が背に回り、己が手も首に回す。そうして重なろうとした唇は、無意識に何かを呟いた。

「華月――……」

 夢は覚めた。




「月花! しっかりしろ、月花!」

 必死の形相で叫ぶシエルが視界いっぱいに広がる。目を開けた月花にほっとしたように力を抜いた。頭が重くて視界が回る。周りでは同じようにたくさんの人間が倒れていた。そして、天の民の姿はどこにもなくなっていた。寒月も破られ、娘がいた場所には水が敷布を塗らしていた。

「……ああ、やられたわ。白昼夢だなんて……目を見るだけで術をかけられるなんて、反則よ」

「白昼夢って、あれか。あるかもしれない他の道を見せるってやつか」

「ええ、そうよ……あるかもしれない、あったかもしれない今とは違う何かを見せるもの…貴方はかからなかったの?」

 シエルは肩をすくめた。よろめく月花を起き上がらせてくれる。

「かかったけどな、叶ってねぇ願いだったから気づいたんだ。まだオレは何も果たしていないからな」

「虹の都を取り戻すのね。謀反の主犯は御姉様?」

「お前、最初から知ってたな?」

「ええ。だって虹を表す名を持つ姉弟なんて、そうはいないもの」

 立ち上がるとふらりと揺れる。まだ身体が現実味を持たない。少しずつ起き上がる人数が増えてきている。シエルの手を借りて身体を支えた。

「貴方が天の宮古を目指すのは、虹の欠片のため?」

「お前……そこまで分かっててよくもまあ、何も聞かずにいてくれたなぁ。そうだよ、虹の欠片だ。正当なる王にしか光らす事の出来ねぇあれだよ。親父から地位を略奪しやがった男の息子はバカ王だ。奴らあれを天の宮古に返上しやがった。自分達が光らせられなかったから、それを理由に民が一揆しないように。無い物は光らせようがないってな。姉貴達はそれをずっと探してた。とっ掴まえた奴から天の宮古に納めたと聞くまで世界中を回った。人をやったんだけどな、そいつらと連絡がつかねぇままなんだ。んで、オレが来たんだ」

 まだふらつく月花の身体を抱きしめて、シエルは笑った。

「姉貴達があんたについていけって言ったとき、何言ってんだって思ってた。けどさ、来てよかったよ。あんたは一人じゃ危なっかしいし、実際白道は助かった。でも、あんた強いけどさ、いっつも見ててはらはらしたぜ。だって張り詰めすぎて、突然ぽきりと折れそうだ。華月華月って、お前まで人生無くしたみてぇだった。けど笑ってほっとした。あんた、ほんとかわいい女だな」

 いつもの茶化す雰囲気はない。真剣でいて柔らかい瞳が月花を映している。この瞳を知っている。いつもこうやって見ていた。見てくれていた子どもがいた。

 シエルは少し躊躇ったように口ごもった。

「月花、オレと虹の都に来ないか。オレは必ず都を取り戻す。死んだ親父とお袋の悲願を果たす。オレを育てて、身体売ってまで今の場所に食らいついた姉貴達に報いるためにも、絶対。だから、オレ、身分的にもつり合うようになる。今ならお買い得だぜ」

 最後は少しおちゃらけたが瞳は真剣だ。照れ隠しだということも分かっている。

「あの術かなりリアルだな。……オレは、横にあんたがいる夢を見たよ。笑ってた。なあ、華月じゃなくてオレを見ろよ。あんたの人生にいる男は華月だけじゃねぇぞ」

 吐息が感じられるほど近い唇を、指でそっと押さえる。

「私も貴方の夢を見たわ。貴方と都に帰るの。御姉様にご挨拶をして、月の都に帰ってお父様とお母様に紹介するわ。驚くでしょうけれど、きっと認めてくださるでしょう。そして末永く幸せに。そんなお伽噺のような締めくくりが、きっと出来てしまうでしょうね」

「だったら」

「でもね、そうしたら華月はどうなるの? 誰からも忘れられてしまった、私の華月。いったいこの世の誰があの子のために心砕くの? 誰もが終わらせてしまった小さなあの子を、私が諦めてしまったら、いったい誰があの子のために涙を流すの」

 それが月花の生きている意味だ。生きてきた意味だ。九年間絶望に支配されないように決意を貫き通せたのは、その誓いがあったからだ。華月を失い、半身を捥ぎ取られたようだった。身体の傷ではなく、息が出来るまでに一年かかったように思う。

「私は一つで精一杯なの。私は華月でいっぱいよ。それだけが私の意味だった。ごめんなさい、シエル。貴方には感謝しても仕切れない恩がある。私に初めて違う道を見せてくれた。違う意味を教えてくれた。けれど、華月を忘れた私は有り得ないの。ありがとう、華月だけしかなかった私に貴方を見せてくれて。私、本当に果報者よ」

 シエルは長く息を吐き続け、そして肩をすくめて離れた。

「……ちぇ。あんた、オレ選ばなくて損したぜ、きっと」

「ええ、本当に。こうなったら華月にそれはいい男に成長していてもらわないと」

「羨ましいよ、華月って男が。……ま、精々顔拝ましてもらおうぜ。そのとき、もっかい勝負な、月花」

 くるりとその指に回された物に目を見張る。何面にもカットされた美しい宝石だった。それ自身が光を放つかのようにきらめいていた。彼はそんな物を今まで持っていただろうか。視線に気づいたシエルは、にやりと笑った。

「天の宮古への通行証。これがありゃ雲の都からでなくても飛べる。あいつらが現れた歪があるはずだからそれ探せばいいぜ!」

「いつの間に!」

 素直に感心した。

「あいつからちょろまかした。オレ、スリの才能あるんだぜ!」

 それは威張るところでは決してない。



 夢に溺れていた人々はしばし呆然としていたが、事態を飲み込めて、ある者は青褪め、ある者は赤面した。恥じ入り頭を下げる水の王が渡そうとしていた礼金も全て断る。変わりに揃えた指先を、小さな彼の息子に向ける。

「どうか、礼ならば貴方のご子息に。貴方々の王子は素晴らしい。恥じ入る前に、一人で戦った彼を誇るべきです」

 トレと並んで、まだ信じられないように月花を見ている幼い王子に微笑みかける。少し、月那を思い出した。ああ、自分はよき姉ではなかった。ちゃんと向き合った時があっただろうか。

「ゴールヌイ・フルスターリ殿下。互いに良き王族でありましょう。我らが誇る都が、わたくし達を誇れるような、そんな王族でありましょう」

「でもとりあえず、その爺みてぇな話し方なんとかすれば?」

「余計なお世話じゃ!」

 夢から覚めたような心地で集まっている人々が見つめる中、巨大な門が開かれる。誰かが悲鳴を上げた。眼前には無数の狼が集まり、シエルは咄嗟に剣を抜いたが、月花は無言で止めた。狼達は動かない。一際大きい黒い狼が進み出て月花の前で止まった。息を飲む音が聞こえたが少女は微笑んだ。

「ありがとう。月の民ではない者が月の民を名乗った。だから糾弾してくれていたのね。感謝します、我が朋輩。我が友よ。貴方は我らの眷属であり、我らは貴方の眷属である。……案内してくれますね。天の宮古への道を」

 巨大な狼はぺろりと月花の頬を舐めて歩き始める。一匹の狼が高らかに遠吠えをあげる。次々に響く狼の声と、必死に手を降るスターリに見送られ、水の都を後にした。

 警戒するように視線が彷徨い続けるシエルと共に狼に囲まれて歩く。月花は久しぶりに狼を撫でられてご機嫌だった。

「本当にシエルってすごいのね。私は天の宮古に行くのにそんな物がいるなんて知らなかったし、奪えなかった。私、貴方と旅が出来て本当によかったわ」

「だろ? オレを選べー、選べー、絶対お徳だー、お買い得だー」

「……呪いみたいに囁くの、やめてくれないかしら…………御貝徳って、なに?」



 黒い狼は巨大な古木の前で足を止めた。ふさりと尻尾で月花の頬を撫でる。大きな口先に感謝の口付けを落とす。見送る為にか、狼達は静かに周りに座っていた。シエルには少し迷惑だったかもしれない。

 何百年も生きてきたであろう古木を撫でる。ざらりとした木皮は温かかった。シエルが光る宝石を取り出せば古木が歪んだ。太い幹に透明な歪みを作り出す。

「これがなきゃただの木だからな。知ってるか、月花。この宝石が取れるのは氷の都だけで、精製出来るのは花の都だけなんだぜ。んでもって、正式に天の宮古に行けるのは雲の都だけ」

「……私、本当に何も知らないのね。貴方がいてくれて本当によかった」

「だろ? まだその選択肢は消えてねぇって覚えとけよ。華月って男とくっつかなかったら、オレの所来いよ。ぜってぇ幸せにしてやっから」

「貴方、そんな、私にだけ都合のいいことをしろというの? 馬鹿にするなと怒るものよ」

「相手から提示されたら腹立つけど、自分が言えばそうでもないぜ? むしろ棚ぼたラッキーな気分」

 月花は呆れた。

「貴方、御姉様の言うとおり、馬鹿だわ」

「うっわ、ひでぇ。オレほどいい男はいねぇぞ」

 呆れたのに口元は笑ってしまう。苦笑なのに心は明るい。まさか、あれほど憎み焦がれた天の宮古を前に、こんな気持ちでいられるなんて思っていなかった。この旅の間にあの日から初めて心を動かした気がする。本当に止まっていたのだ。全ての時も、世界も。

 変わりたくなかった。全てを奪われた華月に会ったとき、せめて月花だけは変わらずにいたかった。だが、そうして心を止めてしまった月花のほうが変わってしまっていたのかもしれない。そんな月花でいても華月は笑ってくれるのだろうか。

 石を持っていない者には繋がらないため、シエルとしっかり手を繋ぐ。巨大な狼は知性ある静かな瞳で二人を見ていた。正確には、心配げに月花を見ていた。

「本当にありがとう。月花の名において、貴方々に月の加護を」

 消えていく二人の背後で、遠くまで響く遠吠えが上がった。


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