表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月の花  作者: 守野伊音
7/12

七.ひとりの理由

 雨で増水したのだろう。まだその姿が見えないのに巨大な川の音が聞こえてくる。痛い足を驚かさないように歩きながら、ようやく目にした川の大きさに目を見張った。向こう岸なんて見えない。これは噂に聞く海ではないのか。山から流れ出、さらさらと穏やかに流れる川ではない。雨で泥水に溢れ、何かを飲み込もうとうねる大河だ。荒れた川には、それでもびくともしない橋が下ろされている。だが、半分までだ。反対側から架かる物はない。一方だけに伸ばされた橋の上には、どうしようもなくなった旅人達が屯している。川岸には旅人用の簡易な小屋があるが既にいっぱいのようだ。シエルはすぐに駆け出して、そこらにいる人に話を聞き始めた。笑顔一杯で少しおどけた様子は、人の警戒心を薄れさえ、親しみさえ覚えさせるほどだ。

 月花の後ろでは、同じように小屋に入れず足止めされた旅人達が木々の下で雨を防いでいる。唐笠を被った男が寒そうに肩を震わせる。ぼそぼそと、雨に混じって話し声が届く。

「虹の都で謀反ですか。それは大変な事ですなぁ。そういえば、あそこは二十年ほど前でしたか、同じように謀反がありましたな。確か王の従弟が玉座を奪いったとか」

「そうです、そうです。……十八年前だったはずです。王と王妃、それと一の姫は国外に逃れましたな。今でも見つかっていないとか」

「よく覚えておいでですな。わたしなど、もうおぼろげにしか」

「いやぁ、息子が丁度その年に生まれまして」

「おや、息子さんがおいでですか」

 どんどん世間話が広がっていく。それをぼんやりと聞きながら、冷たくなった両手に息を吹きかける。秋が深い。通ってきた森も葉を落とし始めていた。湿った落ち葉は雨で香りを放つ。故郷の森を思い出す。その中を駆け回り繋いだ手の温もりまでも鮮明に。


 風が吹く。濡れた手はその温度を痛いほど奪われる。傷口を抉られたかのようだ。こんな時に思い出してしまったときはいつも思う。ああ、彼は今泣いていないだろうかと。

 両手を握りしめるように立っていると、数人の人だかりと話していたシエルは彼らに軽く手を振りながら駆けてくる。青褪めた月花の頬とは対照的に、日に焼けた顔は血色の良い色をしている。

「あんた寒くないの? そんな雨の中に突っ立ってて。木の下にいろよ、少しはマシだぜ」

 背を押されて木の下に押し込まれる。入る際に一度雫の洗礼を受けたが、後は淡い雨を防いでくれる。けれど、冷たさまでは無理のようだ。

「ちょっと厄介だぜ。なあ、あんたどれくらい一気に……えっと、白道、使えそうだ?」

 月花は少し考えた。実際、身体はかなりの疲労が溜まっている。ずっと強行軍なのだ。本来これほど連続使用していいものではない。シエルも流石に疲れたように水筒を呷った。

「やろうと思えば都は越えられるけど……命縮むかしら」

 最後は独り言のつもりだったのだが、隣りで水が噴き出された。シエルは目を白黒にさせながら咽ていた。仕方がないのでその背をさすってやる。細身に見えるが、意外と身体はしっかりとしていた。

「そんなに危険な術だったのか!? 言えよ!」

「乱用しなければ平気よ。そもそも確実に何かを歪めているのだから、代償は必要でしょう。平常は三日に一度くらいの割合が妥当かしらね」

「かしらね、じゃねぇよ! こっから先、その術禁止! ぜってぇ禁止!」

 全身でバツを作っているシエルに、月花は頬を膨らませた。

「それじゃあ、私が困るわ。だって私の足の皮は薄いもの。そんなに長距離歩いては使い物にならなくなるのは目に見えてる。だったら、白道を使って距離を稼ぐしかないのよ」

「……あんた、意外と物考えてんのな」

「……私を何だと思っていたの」

 半眼になって睨むとおどけたように肩を竦められた。腹が立つが、怒りをぶつけようにも、もう話題は元に戻されていた。

「都を飛び越えるのは無理か……なあ、あんた。狼見たことあるか?」

「当たり前でしょう。私達の眷属ですもの」

「じゃあさ、狼が都を襲う理由として何がある?」

 目を見張った。狼が都を襲う? 信じられない。月の都では周りの山々にはたくさんの狼がいるが、決して人を襲わない。山に入った子どもを連れ帰ってくれるほどだ。彼らは月の朋輩であり、月の民の眷属だ。決して互いを傷つけず、守りあう。

 話を聞いたシエルは、さっきの月花と同じ顔をした。信じられないと月花を見る。

「じゃあ、水の都を襲う狼はなんなんだよ」

「知らないわ」

 他国の狼事情なんて分からない。そもそもこれほど遠くまで来た月の民も初めてではないのだろうか。落ち着く為に自分の分の水筒を呷る。

「水の都にいるっていう月の民が原因かな」

 噴き出した。今度はシエルに背中をさすってもらう羽目になる。一の姫として生きてきた時分にやっていれば、宮がひっくり返っただろう。

「月の民は都を出てはいないわ。術を使えるのは王族の女性のみだし、第一理由がないもの」

 山を越え、下って初めて知った。ここは空が遠い。水は澄んだ輝きを鈍らせ、空気が重い。星も、月も全てが遠いのだ。澄んだ故郷を捨ててまで生きたい場所とは思えない。

「出たら罰則でもあるのか?」

「まさか。でも聞いたことくらいあるはずよ」

「何かやって、秘匿されたとか」

「それなら、次代である私達が聞いていないのはおかしいわ。秘匿されるような危険なこと、誰かが知っていなければ危ういもの。私は父さまから何も伺ってはいないわ。ならば、それはあり得ない」

 きぱりと言い切った月花に、シエルは口笛を鳴らした。両腕を頭の後ろに回す。

「月の都っていいとこなんだなぁ。無事旅を終えれたら連れてってくれよ」

「……貴方は都に帰らなくていいの? 虹の都はいま大変だと聞いたわ」

 目が細められる。何かを探ろうとしているようで、見定めようとしている目だと思った。その目に見つめられながら、それでも姿勢は崩れない。ずっと努めてきた王族の背筋だ。

「……なんで、オレ?」

「御姉様がいらっしゃるでしょう」

「あ、あーね。それは大丈夫、絶対大丈夫。なんせ姉貴達だから。トカゲもヘビも食える姉貴達だから。あんた無理だろ? っていうか無理だろ、普通」



 結局、橋が下ろされるのを待つことになった。他には橋がない。この場だけが唯一の通行地点なのだ。土の都から逃げ出すように生きる術を求めてやってきた土の民は、水の都に行く手段を失い途方に暮れていた。

 月花はすぐにでも白道を使いたかったが、シエルが頑として譲らなかった。ならば一人で行くと言えば、今度は腕を離してくれない。これには憤慨して喧嘩になった。だが、月花自身も疲れきっていた。シエルが頼み込んで開けてもらった軒下に腰を降ろした途端、もう意識はなくなっていた。

 次の日も、その次の日も、橋は下りなかった。何もやることのない時間は久しぶりで、いつもなら考えなくて済むことが思い浮かんでしまう。それが嫌で色々な人と話しをした。どうせ皆暇人だ。快く相手をしてくれた。服装と仕舞った髪の毛のせいで月花を男の子だと思っていたが、別にどうでもよかった。そうやって過ごしていたのはシエルも同じだった。だが時間が空けばふらりと戻ってきて、月花と話した。夜は必ず戻ってきて隣りで眠った。冷え込み始めた夜は、二人で寄り添えばなんとかなった。雨が降らなかったことも救いだ。

 三日経ったある朝、誰かの怒声で目が覚めた。隣りで眠っていたはずのシエルは剣を抜き、鋭い視線で声のしたほうを睨んでいる。声は遠ざかっていったが、それで目を覚ました人々のざわめきが大きくなっていく。どうやら誰かの荷物が盗まれたらしい。

「……やばいな。あんまり長居していい雰囲気じゃねぇし」

 様子を見に離れたシエルを見送り、月花は軽く肩を回した。こきっといった。

 ざわついている人の群を見ていると、妙な動きをしている男に気づいた。男は月花と目が合うと、弾かれたように背を向けて走り出した。

「あ!」

 その手に女性用のバッグが掴まれていて声を上げる。持ち主も気づいたらしく叫び声が上がる。収まりかけていた騒乱が再び巻き起こる。気づかれるのが早かった為か、男は逃げ場を失い、逆上してナイフを振りかぶりながら戻ってきた。

「お前のせいで!」

 血走らせた目で月花だけを睨んでいる。咄嗟に駆け出した。後ろでは最早正常な言葉ではないような悪態が叫ばれているが、残念ながら月花にはよく理解できなかった。下品な言葉は聞きなれていない上品な耳であった。

 鈍く光るナイフを避けて転がるように前に進む。無茶苦茶に振り回される刃は月花には当たらず、密集している人々に無差別に降る。止めなければと反射的に叫んだ。

「風月!」

 強風が舞い土を舞い上がらせた。目に入ったらしい男は痛みに呻いた。相手が動きを止めたと油断したのがいけなかった。同じように足を止めた月花に、男は視界を奪われたまま突進してきた。弾き飛ばされて息が詰まる。どこからかシエルの声と、視界に金が舞った。痛みに咽ながら長い髪が本気でうっとうしくなってきた。こんなに布が外れるのなら、いっそ坊主に近いくらいまで切ってやろうかと半分以上本気で思う。


 男は呆然としていたところをシエルに蹴り飛ばされた。手際よく縛られている間に身体についた泥を払う。みんなの唖然とした視線が今なら痛いほど感じられる。髪を隠していたときと今とでは明らかに何かが違うのだ。さわさわと人の間で言葉が交わされていく。感嘆、驚愕、憧憬。他には何か感覚的に嫌なものも混ざっている。

「天女……?」

「ああ、なんて、美しい」

「本物の、天の民……」

 誰かが手を伸ばした。本物かどうか確かめたかったのか、強く引っぱられる。次から次へと、魅せられたような表情で手が伸びる。それをふり払いながらシエルは月花を人の群から引き出した。ぞろぞろとついてくる群から逃げるように橋まで移動する。

「大丈夫か? なんであんた、そんなに騒動に巻き込まれやすいんだよ」

「……私のせいじゃないわ」

 様子がおかしいことに気づいたのだろう。怪我を気遣ってくれる伸ばされた手を逆に掴み、月花は据わった桃色の目で見つめ返した。

「お、おい?」

 据わったその目は、追いつめるように向かってくる人々を見ている。

「……私は華月に会いにきたの。再び会う天の王に殺される覚悟はあるわ。けれど、こんな、天の宮古なんて欠片も関係のない場所で、こんな物の為に足止めを受け、騒動を起こすためにいるんじゃないわ! もう、腹が立つ! シエル! 行くわよ、もう充分休んだわ!」

 拳を握り締めて怒鳴り、びっくりしたと顔に書いてあるシエルを掴んだまま叫んだ。

「白道!」

「あ!」

「都を飛ばすほど長くは使わないわ! それと、言っとおきますけれど、私は月の民よ。天の民なんかと一緒にしないで! 天の民なんか、大っ嫌いよ!」

 言い捨てて、月花は踏み抜かんばかりに白道に足を踏み入れた。



 怒りのあまり出る位置を少し間違えた。門の前に出るつもりだったのに、既に都の中に入ってしまっていた。髪はきっちり布の中に仕舞った。切ってやる、坊主でいいわと鼻息荒く意気込む月花に、シエルはそれだけは止めてくれと土下座した。

 水の都はそれは美しい都だった。都全てに張り巡らされた水路には透明な水が光り、あちこちで噴水が虹を作り出している。夢のような場所だった。

 だが、人の気配はない。誰もが固く扉を閉ざし、水路にたくさん並ぶ船には誰もいない。

「誰もいない。綺麗な都なのに」

「狼が出没するってのは大抵夜らしいけどな―……切るなよ?」

「どうしてそんなに嫌がるの。……ショートならいいかしら」

「ぜってぇ、ダメ! 勿体ない!」

どうせまた伸びるのに何が勿体ないのだろうか。

 色取り取りのタイルが敷き詰められた広場には、巨大な噴水が何本も水をきらめかせている。その下で、二人はもそもそと干し芋を齧った。都の中央には城がある。虹の都もそうだったが、月の都のように一階建てが続いている建築ではない。上に上にと伸び、横もあるが上もある。だが、月の都の宮のほうが、建物自体の土地は広かった。

 城の天辺で巨大な鐘が鳴り響いた。そうすると、固く閉ざされていた門が開く、人々がぞくぞくと出てきた。少し不安そうに辺りを見回し、子どもの手はしっかりと握る。薄絹をひらひらとさせた衣装が多かった。

「あら、何してるの? 貴方達、旅人さん?」

 後ろから話しかけられて、驚いて振り向く。少し太めの中年の女性が立っていた。

「土の都から橋は降りていないから来られないわね。じゃあ火の都から? やだわぁ、何もこんな時にこなくても。いつもはとてもいい都なのよ?平和で、安全で、美しくて。わたし達の誇りで。でもねぇ、今はほら色々あって。どうして急に狼なんか現れたのかしら」

 何も答えていないのに、女性は一人で話続けていく。シエルは空を見上げている。どうやら相手をしてもしないでも同じだと判断したらしい。女性はマーサと勝手に名乗り、年は五十云歳らしい。女性に年齢は聞くものではないと怒られた。聞いた覚えはないのだが。

「まあ、まあ。若いのに二人旅は大変でしょう。月の民さまのご加護を頂くといいわ。今から丁度礼拝を終え、姿を見せてくださるから。いい時に来たわね、貴方達。伝説だと思っていた月の民さまを目の前で見られるのよ! とってもありがたいんだから!」

 興奮気味に語るマーサはそのままにして、シエルはなんともいえない表情で月花を見た。今にも吹き出しそうに口元は歪んでいる。当の月の民の本人には、どの辺りがありがたいのか、今一よく分からない。

「あの、その名は? どのような方なのですか?」

「金の髪がそりゃあお美しい方でねぇ。もう、本当に夢のよう。あのお方がわたし達の為にお祈りしてくださっているなんて、もうそれだけで幸せさね。王はいつまであのお方をとどめてくださるのかねぇ」

「あの……名前は?」

「あら、いやだ。わたしったらいつもそうなのさ! 喋りだしたら止まらなくてねぇ。ああ、そうだね、名前だったね。月の民さまのお名前はね、セレナ様と仰ってね。ほら、いらっしゃったよ!」

 歓声が上がった。いつの間にこんなに人が出てきたのか、広場は埋め尽くされ、美しいタイルの地面は見えなくなった。逸れないように伸ばされたシエルの手を取る。それをぎゅっと握る。視線の先は、高い位置のテラスにいる、金色の娘。

「皆様! 今日もご無事なお姿を見られて、とっても幸福な思いです。わたくしの力が及ばぬばかりに、あの狼達を追い払えずに、本当に申し訳なく……」

 それ以上は言葉にならず、薄絹で口元を覆ってしまう。俯いた少女に、あちこちから声援が飛んだ。

「そんな、もったいない! セレナ様がいらっしゃるだけで、おれ達は救われてます!」

「そうです! いつもセレナ様のおかげです!」

「セレナ様、セレナ様万歳!」

 歓声は波紋のように広がって、割れんばかりに響いている。後はひたすらセレナ大合唱だ。マーサも腕を振り回して参加している。

「……セレナ、ですって?」

 月花は低い声で呟いた。轟くような歓声は他の人に届かせなかったが、熱気に周りが見えなくなっている人々から守るように肩を抱いていたシエルには届いた。

「聞き覚えがあるのか?」

 月花は首を上げて、長い金髪の少女を見た。

「何百年前かの王族に使われてはいたでしょうけれど、近代で聞いたことはないわ」

「……お前、意味が分かるんだな。じゃあ、オレらのことも気付いてた?」

「ええ」

「……そっか」

 シエルは静かに呟いて、困ったように笑った。目を合わせ、月花も微笑んだ。互いに何も言わなかったし、聞かなかった。

 だってそれらはきっと、シエルとの友情に、何ら関係のないことなのだから。



 金髪が城に戻ると、人々は熱に浮かされた表情のまま一日の行動を開始した。店を開き客を呼ぶ。庭に出て洗濯を干し、子どもは外を駆け回る。平和そのものだた。きゃらきゃらと笑い転げながら子どもが前を走り去る。マーサも忙しげに家に戻っていった。

 広場に残ったのは、まだ手を繋いだままの月花とシエルだけだった。少し人に酔ってしまった月花を支えながら、シエルは人気の少ない場所を探した。今からする話は、あまり人に聞かせないほうがいいと判断したからだ。だが不慣れな都では、方角さえ危うい。水路に阻まれる事の多い道を迂回して、戻って、飛び越えて。そうこうしていると、近づくつもりのなかった城壁に来てしまった。

「あちゃ、やっちまったぜ。また姉貴達にバカって言われる!」

「ここに御姉様はいらっしゃらないわ」

 月花はくすくすと笑った。あんな熱狂的な人に揉まれたのは生まれて初めてだ。少しふらつく身体を叱咤する。

「あれ、何だろな」

 指差された先を見ると、えらく身形のよい少年が走ってくる。その後ろを、眼鏡をかけたひょろりとした青年が追いかけている。

「トレ、いいかげんにあきらめろ! お前の足で我に追いつけるはずがなかろう!」

 子ども独特の高い声で、けれど子どもと侮るにははっきりとした口調だった。逆に今にも泣き出しそうなトレと呼ばれた青年のほうが、頼りない。

「ゴールヌイ・フルスターリ様ぁ! そんなこと仰らないと、お願いしますぅ! 城にお戻りくださいませぇ!」

 青年が少年に掴みかかる。ひょいっと避けられて地面に突っ伏す。鼻からいった。痛そうだ。少年は少し哀れんだ目を青年に向けたが、すぐに踵を返して走り始めた。その小さな身体を、通りすがりにシエルはひょいっと持ち上げた。

「ゴール……なんだって? 長ったらしいな、お前」

「なんだ、きさま! 離すのじゃ!」

 手足をばたつかせているが、如何せんリーチの差は埋められない。上質の厚い生地のマントをひらめかせて、自分に絡まっている。

「ゴールヌイ・フルスターリでしょう。水晶のことよ。水の都では神聖なものなのね、きっと。ほら、あっちの家にも玄関に飾られているわ」

 子どもは暴れるのをやめて、まじまじと月花を見た。

「おぬし、分かるのか? 只者ではないの!」

「……お前、若いのに古くせぇな」

「無礼であるぞ! ……なんだ、そのかわいそうなものを見る目は!」

 再度暴れ始めた少年の腕は、鼻血を出しながらも少年の身を案じて飛びかかってきた青年の顎に当たった。

「スターリ様を離せ! げふぉ!」

「あ、トレ、すまん」

 ぱたりと倒れた眼鏡の青年は、ぴくりとも動かなくなった。無情にも少年はそれを蹴り起こす。ついでにシエルの脛も蹴り飛ばす。

「いって!」

「トレ、早く起きろ。我は行く!」

「スターリ様ぁ!」

 自由になった少年は、眼鏡を治しながら走る青年を連れて街の中へ消えていった。

「何だったんだよ、あれ。オレ蹴られ損じゃね?」

「運が悪かったんでしょ。さあ、宿を取りましょう。今夜はお風呂に入れるかしら」


 宿はどこもがら空きだった。土の都方面からの旅人全てが遮断されているし、狼が都を襲うのだから当たり前だ。月花達は何の苦労もせずに宿を取ることが出来た。二部屋借りて食事をした。月花には大変嬉しいことに風呂があった。水が豊富なこの都では年中風呂に入れる。月の都もそうだった。いつだって水が溢れ、風呂は毎日入るものだった。旅をしてからは、川や泉で水浴びをするか、偶然見つけた温泉に入るかだ。遮られた部屋の中で浴室に入れるなんて夢のようだ。長い金髪の汚れをしっかりと取り、やっぱり長いと邪魔だと再認識した。湯船で足をゆったりと伸ばし、風呂を満喫した。

 風呂から出れば、一階の食堂でシエルが仏頂面で麦酒を煽っていた。

「飲む?」

「結構よ。私は甘酒が好き。熱燗でもいいけれど?」

「何それ。オレ飲んだことない」

「ああ、梅酒飲みたいわ」

 宿はまだ日の明るい段階から入り口を閉めてしまった。窓にはきっちりと雨戸までしてしまう。どうやらシエルはそれで予定を崩されてしまったらしい。ぐいっと麦酒を煽り、だんっとテーブルに置く。

「ちぇー、色々買い足そうと思ってたのによ。早すぎるって。夜はこれからだろう!って、まだ始まってもねぇよ! まだおやつの時間すぎて一時間だっつーの! どんだけ健全なんだよ、この都! 狼か!? 狼がいけねぇのか、こんちくしょう!」

「……そんなに悔しかったの? 買い足しは明日でもいいじゃない」

「都の夜には夜の楽しみが……悪かった。オレが悪かったから、そんな純粋な目でオレを見るな!」

 きょとんと首を傾げて蜂蜜酒を煽る。甘かった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ