六.ひとりの決意
夢はいつも同じ。あの頃と変わらない華月が笑って月花を呼んでいる。
『月花。月花かわいい』
自分のほうが余程可愛いくせして、華月はいつもそう言った。嬉しかったけれど恥ずかしさのほうが勝ってしまって、ありがとうと言えなくて、いつも可愛げのないことしか言えなかった。
『月花かわいい。月花すき、だいすき』
私も好きよと、そっちは簡単に言えたのに。
『月花、すきだよ』
ああ、お願い。いかないで。いなくならないで。私も好きよ。いつまでだって大好きよ。私だって、どれほど貴方のことが。
お願い、帰ってきて。月花の元に帰ってきて。
華月、大好きよ。華月、華月、華月――……。
「華月……」
名を呼べばいつも夢は覚めてしまう。
流れ落ちた涙を拭い、引き攣る目元を擦る。いつものことだ。いつもと違うのは、自分の着ている服が絹ではないことと、荷物の袋で擦れた痕が痛いこと。いつの間にか頭に乗せられていた白い手拭。心配げに微動だにせずに覗き込んでいる、シエル。
ぱちりと桃色の目で瞬きをすれば、肺が空になるのではないかと思うほど深く息を吐いた。
「具合悪いなら先に言えよな! びびったじゃん、まじで。オレの心臓止める気か」
「……ごめんなさい。もう平気、行きましょう」
「いきなり動くなよ」
眩暈がして頭を押さえる。濡れた手拭が落ちる。
「水飲むか? ちょっと下に川があったから汲んできてやるよ」
腰を浮かせたシエルに悪いと思ったので水月を使った。しかし、盛大に驚かれた挙句、彼は中に落ちたのである。使うんじゃなかった。
休み休み、白道を使わないときは地上を歩き、土の都へ辿りついた。
その名の通り、城壁から街まで土作りだった。全体的に色が少なく茶色か、薄ぼけた赤か、土が乾いた白しかない。
ここは虹の都ほど検問が厳しくなかった。門兵自体がいない。シエルはさっさと中に入っていき、何かを買って戻ってきた。男性の服だ。目立つと言われて、髪の毛は巻きつけた布の中に隠した。服も着替えた。そのほうが面倒が少なくていいらしい。
アルクスの言ったとおり、彼は非常に役に立った。まず物知りだ。勉学的な意味ではなく、その土地の文化にあっという間に馴染んでしまう。月花がまるで分からないことも、当たり前のようにこなしてしまう。市井の生活をしたことのない月花には非常にありがたい助けとなった。
そんな彼に念を押して注意されたことは、絶対に男を信用するなということだった。
「女の一人旅に男を同行させんな。まず、ずぇったいに信頼すんな。むしろ連れて行くな。逃げろ、走れ、蹴り飛ばせ」
「一緒に来たっていいことなんてないわ」
まして先がさっぱり分からない旅なのだから。命の保障さえしかねる。首を傾げたが、シエルは握り拳で力説してくる。
「女一人ってだけで男には価値があるんだよ。しかも器量良けりゃ尚更な。あんた、世間知らずにもほどがある! そんなんじゃ華月ってやつに再会できても、あっという間に食われちまうぞ」
むっとする。記憶の中でほわっと笑う可愛い華月。
「華月は人食い鬼なんかじゃないわ」
「……よく今まで無事だったよな、あんた。男は狼だから気をつけろよ。いいか、皆が皆、オレみたいな紳士だと思うなよ」
「こんな街中のどこに狼がいると言うの。それに、狼はとても優美な獣よ。誇り高き月の朋。我が月の民の盟友よ」
「よし、よっく分かった。あんた、これから何も喋るな」
ひとまず食事をするため街に入る。色がないからそう見えるだけでなく、活気がなかった。道端に座り込んでいる者も度々見かける。みな暗い顔をして、昼間なのに走り回る子供を見かけない。シエルは通りを一度歩きぬけると、真ん中辺りで一つ曲がった道にある店に入った。他にきれいな店は幾らでもあったが、それなりに年季が入り、地元の客であろう人々がひしめいていた。
土の都定食を頼んだ。出てきたのは言葉を選ぶなら、豪快な、料理だった。
ぶつ切りにされた肉にかぶりつきながら、シエルが頭を下げる。
「昨日は気づかなくてごめんな。倒れるまで無理してたなんて知らなかったんだ」
「私こそごめんなさい。醜態を晒してしまって」
巨大な肉の塊をどうしようかと途方に暮れる。ソースの味は悪くないが大味だ。月の都では薄味の料理が多い。
「今後の為に聞いときたいんだけど、あれってそんなに体力とか消耗するもんなのか?」
「白道は本来ならば開くはずの無い道を術で通行しているのだから、とても疲れるわ。もっと小さな術ならたくさん使えるし、さほど疲れない」
「ふーん。あ、それ丸齧りしたほうがいいぜ。姉貴達だってあんな気取ってるけど、仕方なきゃ蛇だってかぶりつくから。それにしても、あんたほんとに偉いな。あんだけ歩いて根をあげねぇんだ。正直、どっかでへたり込むと思ってた。足の裏とかずるむけじゃね?」
確かに靴の中は血塗れだ。癒しの術『光り月』もあるが、できる限り術力は温存したい。しかし、どうして何も言っていないのに分かるのだろう。
「オレも昔よくやった。今度どっかの山で降りような。よく効く薬草取ってやるよ」
シエルが勢いよくかぶりついた春巻きから汁が飛んだ。避けられずに顔面で受け止めた。
必要な物を買い足し、街道から少し離れた道を歩いていると突然シエルが舌打ちをした。
「ちっくしょ、やっぱガキの二人旅は狙われるってか。走るぞ!」
手を引かれて走り出すと同時に、背後で罵声が上がった。数人の男達がばらばらと横道から現れる。手に手に棒やナイフを持ち、口汚く罵りながら追ってくる。
「土の都は治安がひでぇって噂ほんとだったのかよ! 真昼間から狙ってきやがって。高級料亭は遠慮したんだから、そっちの客狙え、そっち!」
「シエル、前!」
どうやって人が入っていたのだと思えるような建物と建物の間から、骨と皮のような男が踊り出てきた。振りかぶられたナイフが光る。月花は咄嗟に前に出た。
「三日月!」
見えない刃がナイフを弾いた。衝撃で頭に巻いていた布が解けて、豊かな金髪が溢れ出す。男達は目を見張った。
「……黄金、黄金だ! この娘をつかまえろ!」
「大儲けだ! 見たことねぇぜ、こんな娘!」
目の色を変えて、狂ったように追いかけてくる男達に怯んだ瞬間、シエルが手を掴んで走り出した。飛び掛ってくる男に蹴りを食らわし、道を開ける。
「シエル! 白道に入るわよ、次は水の都でしょう!?」
確認の為に言った言葉に、シエルは煮え切らない顔をした。舌打ちが聞こえた。
「ちょ、待て! まだ行くな!」
シエルの腕を掴みなおし、月花は白道へ飛び込んだ。忽然と消えた二人を男達がどう思ったのかはどうでもよかった。白道に入るや否や、シエルは頭をがりがりと掻いた。
「あー、ちくしょう! 少し時間つぶして様子見ようと思ってたのによ!」
「どういうこと?」
「水の都に入るには大河を渡らなきゃならねぇんだけど、そこが制限されてんだよ。水の都は旅人の出入りを拒んでる。だからここで何泊かして様子見るつもりだったんだよ」
ひとまず都内で白道を降りる。できる限り長居はしたくない。連日使用の疲れはまだ癒えていない。現れたのは、裏の通りだった。活気はなくとも旅人が通る表街道とは違う。地面に寝転がる人、泥に塗れた子ども、死人のような瞳。太陽が出ているのにその温かさを欠片も感じられない雰囲気だった。
改めて見た土の都は荒れていた。豊かで穏やかな土地で育った月花が初めて見る貧しさだった。もうすぐ冬を迎えようというのに彼らは屋根を持っていない。ぼろぼろの服一枚を纏い、素足だ。月花が初めて着た固い服よりも、もっと固く、もっと汚れて、膝までしかない。子どもまでも虚ろな瞳で空を見上げていた。寄り添う大人の姿はない。
生きながら死んでいるようだった。息を飲んだ月花の気配に気づき、幾人かが視線を向けた。そして、目を見張る。
「……おい、月花下がれよ」
緊張したようにシエルが前に出た。気がつけばそこら中にいた人々が見入ったように月花を見ている。足元にはいつの間にか幼い少年が立ち、ぼんやりと月花を見上げている。
「てんにょさま?」
月花は戸惑い、汚れた子どもの頬を拭った。白い指に汚れが移る。
「私は地上の民よ」
「でも、きらきらしてる。きんのかみが、たいようのひかりできらきらしてる」
「坊や……お母様は? もうお行きなさい。雨がきますよ」
空は晴れ渡っていたが、月花は静かに言った。子どもはきょとんと悪意の存在しない瞳を向けた。
「おかあさまって、なぁに?」
言葉が出ない。同時にざくりと音がした。子どもが金の髪を握っている。片手には錆塗れのナイフがあった。
「月花!」
シエルが子どもから月花を引き離す。子どもは金の束を持ってそこにいた。何が起こっているのか分からなかった。幼い子どもがナイフを持っていることに違和感を感じ、それ以上の、言葉に出来ない場の雰囲気をどうしても理解できなかった。
月花を背に庇うように鋭い目つきをしているシエルもいつの間にか剣を抜いていた。彼の持つすらりと長い刀身よりも、幼い手が持つ錆びの浮いた短いナイフが異質で恐ろしい。
「てんにょさま、きれいなのちょうだい。あしたのぱんになるから。ねえ、ちょうだい」
その場全てが異界に見えた。異質な物だけで構成される彼らにとっての通常が、月花には見慣れない、吐き気を催すほどおぞましい空気を作り出していた。今にも崩れ落ちそうな服を着た人々が、老人も子どもも、ゆらりと近寄ってくる。
月花の髪を握りしめた子どもは、悪意など存在しない瞳で月花を見ていた。いっそ純粋な光を宿した瞳でナイフを握っている。
「月花……白道に入れ。この都はあんたに毒だ……こいつらには、あんたが毒なんだ」
低く呟かれた声が聞こえるのに、息が吸えない。だって、まろやかな頬で笑っているはずの子どもは、汚れてぱさついた肌の下、虚ろな瞳でナイフを振りかぶる。
「早くしろ!」
叩きつけるような怒声にようやく身体が動いた。ほとんど反射的に術を発動させる。白道に入る寸前、子どもに棒を振りかぶった大人の姿が見えた。叩きつけるような雨の音と悲鳴を聞きながら、白い闇が訪れた。
転がるように白道に入った月花は呆然と座り込んでいた。今さっきまでの出来事全てが夢ならいいと思った。純粋な表情のまま殴り倒された子どもの顔が頭から離れない。
一房だけ短くなった髪を握りしめる。こんな物の為に、幾らでも生えてくる、月の都では当たり前の髪の毛なんかの為に。人々は子どもを殴り倒した。
「……これしきでへこたれるなら、とっとと帰れ、お姫さま」
吐き気がする。身体中の力がどこかに行ってしまったようだ。突き放すようなシエルの言葉は、なのに何故か優しかった。
「こんなこと、これから幾らでもあるぜ。もっと酷いこともたくさんある。死ぬような目にも何度も合うだろうさ。帰れよ、天の宮古なんてどこにもない。そうしてみんな諦めるんだ。そうして生きるんだ。失ったものをいつまでも追うな。あんたなら幾らだって幸せになれる。みんなそう言っただろ」
そう、みんな言った。それがお前の為なんだよと、もう忘れなさいと。もう終わったことなのだよと。優しく優しく月花を諭した。
肩に置かれた手をふり払う。思った以上の力が入った。シエルも驚いた瞳で月花を見た。身体中に力を篭める。でも一番篭めたのは心だった。力任せに奮い立たせる。
「馬鹿を言わないで」
「でもあんたには似合わねぇよ、全然。あんたは光の下で微笑んでるほうが似合ってる。明日の天気も知らないほど大事に大事に愛されて、傷無く汚れを知らず生きるほうが」
「馬鹿にしないで。私は華月を助けるために旅に出たの。故郷も何もかも置いてくる決心をしたのは、あの子を捨てるためではないわ。いつかきっと、あの子を連れて帰るのだと。そのために都を出たのよ」
息を吸った。揺らぐことなど許さない。自分で自分を許さない。
ずっと自問してきた。あの日生き延びたのは何のためだ。一生残る傷跡を抱え、母の命を今にも散ってしまいそうなほどに儚くしてまで生き長らえたのは何のためだ。
「命を削りそうなほど術を極めたのも、寝る間を惜しんで全てを覚えたのも。全て、全て華月を救いにいくためよ。華月に会いに行くためよ。華月を忘れた私なんて無いのと同じよ! そんな私は必要ない! あの時に死んでしまえばよかったのよ!」
あの日から月花の時は止まったままだ。世界は色を無くし、優しさが温もりを与えてくれることはない。
どこか全てが遠かった。彼に似たたくさんの瞳が、夜空に浮かぶ月が、転がるようにはしゃぐ二人の子どもが。愛しくて、悲しくて、苦しかった。
「華月が好きなの、華月が大好きなの。約束したのよ、ずっと一緒にいようねって。あの子が一人で泣くのなら私が傍に行くわ。それだけの為に生きてきたのよ!」
「幸せに生きてたらどうすんだよ。あんたのことも全て忘れて、幸せに生きてたら」
「そうしたら……初めて、私は一人になるわ」
でも、それならそれでいい。彼の事だけを想って生きてきた。彼が笑っているのならそれでいい。いや、良くないかも知れない。胸を掻き毟るほどの痛みに苦しむかもしれない。でも、それはそのときだ。
月花は、はっとした。
「やっぱりこんな危ない旅に、貴方を連れて行くなんて出来ないわ。貴方に何かあったら、御姉様達に申し訳が立たないとずっと考えていたのだけれど……」
シエルは呆れたように足の裏で脛を掻いた。
「あのなぁ、さっきまでショックに呆けてた奴が、急に人の心配すんなよな。オレはいいんだよ。どうせ旅に出る予定だったんだから。それがちょっと早まっただけ。オレも、天の宮古に用があるんだよ」
「……さっきはどこにもないと言ったくせに」
「嘘も方便ってね。それがあんたの全てなら、オレは何もいわねぇよ。オレが口出すことでもねぇしな。目的同じなんだからご一緒しましょうかねぇ。あ、でも普通は男同伴させんなよ! いいか、ずぇったい忘れんな。男は狼だからな!」
月の朋輩、優美な獣。我らが月の民の忠実なる獣。どう見ても、やっぱりシエルは狼には似ていないと思うのだ。
土の都から水の都までの距離は普通に歩いてもそう遠くはない。だからすぐに白道は閉じた。連日の使用で疲労が溜まっている。シエルも文句を言わなかった。叩きつけるようだった雨は小雨になっていた。冬も間近の季節に夕立とは珍しい。外套のフードを被るだけで防げるが、少し寒い。
シエルは途中でひょいと消えて薬草を手に戻ってくる。すり潰して足の裏に貼れば靴擦れが良くなるそうだ。
「もうちょい行ったらでっけぇ川が二つの都を両断してる。両岸に巨大な跳ね橋があるけど、どうも水の都側が橋を下ろさねぇらしい。んで、水の都には行けねぇ、出れねぇ、困ったねぇの三重苦」
「シエルは本当に色々知ってるのね。どうしてそんなに事情通なの」
「歩いてりゃ結構耳に入ってくるだろ?」
当たり前のようにさらりと返されて、言葉を失う。そこに華月がいないのなら無いのと同じだった。何を見ても、何も見てはいなかった。何も聞こえなかった、聞かなかった自分を知っていた。それでも気にしなかった。華月を助けにいく。それだけを見ていた。絶っていた物が道を作るかもしれないなんて忘れていた。なんて情けない。
呆れたように月花を見ていたシエルは、軽く肩をすくめた。
「ま、気にすんな。オレは癖みたいなもんなんだよ。昔は色々旅もしてたからな。虹の都に定住したのは三年前さ」
これには月花が驚いた。だって、彼は、彼らは。
「どうして? だって貴方々、元より虹の民でしょう?」
「……どうしてそう思った?」
すっと目が細まる。思わず息を飲んだが、すぐにいつもの軽快な光が戻った。
「オレのことはいいんだよ。お前のこと話せよ」
「いま、たくさんのことを見過ごしてきたのだと落ち込んだばかりなのよ」
「そんなん知るかよ」
舗装されていない道を、他愛もない話をして歩いた。遠く高い位置にある月の都と星の都は他国との交流がないため、本当に伝説だと思われていたらしい。そこで当たり前に暮らしていた身としては複雑な気分だが、シエルの話を聞いているのは楽しかった。幼い頃は世界中を転々としていたというシエルは、たくさんのことを知っていた。風の都、花の都、森の都、鉄の都、洞の都、闇の都、霧の都。行ったことのある場所からない場所まで、色々なことを知っていた。けれど月花の話も興味深げに聞いていた。元々好奇心が強いのかもしれない。
「へえ、いいな、月の花って。そういう言い伝えって好きだぜ、オレ。あんたは何か願い事したのか?」
「私の願いは一つよ。月の花、千年の花、どうか華月を守ってと」
「まーた、華月! もう耳タコ――」
歩き続ける時間が、この九年間で唯一楽しいと思った。
「あんた、そのほうがいいよ」
水の都を目指して十日目、シエルは言った。首を傾げると少し困ったように鼻の頭を掻いた。
「やっと笑った。今までは能面みたいな顔だったからな」
「……私、笑っていた?」
「あ? そんなに仰天すること?」
驚いた。息が止めるかと思った。だって笑ったことなんて、意識せずに微笑んだことなんてこの九年間あっただろうか。いつだって渾身の力を篭めて笑みを形作った。そうして笑顔に似た何かを浮かばせた。
月花は呆然と己の頬に触れた。
「……あの日から、分からなくなったの。どうやって笑っていたのかが分からなくて、でも私は微笑まなくてはならなかったから、だから、練習をして」
呆れたように肩を竦められる。
「それで『責務』を離れたら能面かよ。あんた、もっと自分の為に生きたほうがいいぜ」
背を向けながら言われたそれは、まるで遠い国の言葉のようだった。