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月の花  作者: 守野伊音
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四.ひとりの旅立ち



「姉さま」

 呼ばれて、月花はふり向いた。

 長い金髪の髪は緩くウェーブがかかっている。動きに合わせてふわりと揺れる柔らかい髪は日の光を反射して光った。桃色の瞳は穏やかで、白い肌の中で微笑んでいる。星の都を含めても、月の姫以上に美しい娘はいないと専ら評判の姫だった。



 月花は持っていた刺繍針を置いた。

「何ですか、月那。騒々しいですよ? また木葉に叱られても、もう姉さまは助けてあげませんからね?」

 長い袂で口元を覆い、月花はくすくすと笑う。庭を抜けてきた弟は肩の位置で切り揃えた金髪に葉っぱを幾枚も乗せているのだ。それを取ってやる間、十三になった彼は大人しくそこにいた。夏が終わり、秋が始まろうとしている今の時分はどうしても枯れ葉が多くなる。

「姉さまは先月学校を卒業されましたよね」

「ええ、一年通うことが遅れてしまいましたけれど、今年でようやく卒業です。ゆず子は引退してしまいましたし、少しさみしいものですね」

 ゆず子は月花を最後の仕事とし、弟妹の世話係につくことはなかった。元々そうする予定だったらしく、月の王はそれを惜しみ何度も説得をしていたらしいが、先月、月花の卒業に合わせて晴れて引退した。弟妹の世話係は彼女の後任、木葉がついている。


 ふわりと花のように微笑む姉姫に、月那は声を荒げる。双方の護衛達は、頭を下げたまま引いていく。

「星の都の皇子と結婚など、ご冗談、ですよね?」

「耳が早いこと。いったい何方から伺ったのかしら」

「そのような事はどうでもよいのです!」

 同盟国の年恰好も似た二人の婚約だ。問題があるとは思えない。幼い頃から幾度か会ったことがある青年は好青年になったと、めっきり身体の弱くなった母が珍しく頬を染めて興奮気味に語っていた。元気な母を見るのは好ましい。

 月那の姉姫は幼い頃に大怪我をした。そのときの傷は今も身体に残っている。相手はそれも承知で構わないと言っている。彼女はよき姉だった。二人の弟妹の面倒をよく見て、様々な事を根気よく教えた。身体の弱い母に代わり、どこに出しても恥ずかしくないような弟妹を育て上げたのは彼女だ。母は最近前にもまして儚くなった。

 姉姫は賢く、勉学に富み、術にも才能を見せた。何でも出来た。父王の良き右腕となり国を支えた。怪我をして九死に一生を得た後、一年学校に入るのは遅れたが、その遅れを取り戻すかのごとく模範的な姫だった。器量もよく、都一の美しさだといわれている。

 姉姫はよく笑う。けれど、月那は思う。昔はもっと違う笑い方をしていたのではなかっただろうか。

 何がおかしいのか、姉姫はまだ笑っている。

「姉さま……」

「あら、恐い顔。どうしたの? アステール様はとても良い方よ。わたくしの傷跡もちっとも気にならないと仰って」

 取り留めなく話を続ける姉姫を視線で止める。怪訝そうな桃色の瞳が月那を見た。

 結婚は別にいい。月那も数度話したが大変良い方だった。明るく朗らかで、優しく、そして強い。昔、姉姫にせがんで読んでもらったお伽噺の『勇者』のようだった。比の打ち所のない青年である。気になるのは、今まで一度としてそういう素振りを見せたことのない姉が、いきなりお見合いを承諾したばかりか、その日に日取りを決めるくらいの積極性を見せていることだ。

「あら、善は急げと申しますもの」

 いい縁で姉がそれを望むのなら構わない。つらい思いをたくさんしてきた人だから、悲しいことは忘れて新たに幸せになってほしいと、幼い頃から願ってきた。それなのに、月那は湧き上がる不安を制御できない。穏やかな日々にどこからか滲み出てくるそれは、いつもその存在を忘れさせてはくれない。

「姉さまは、本当に、本当にこの結婚を望んでおられますか。わたしにはどうしてもそうは見えない。姉さまはわたし達に何かを隠している。そう思えてならないのです」

「まあ、何故。貴方も大きくなり、百合月の面倒も見てあげられるし、お父様を支えることだってできる。ゆず子は引退してしまったし、わたくしがこの国でしなければならないことは、わたくしでなければならないことは、大半が終わってしまったでしょう?」

「そのようなことは!」

「いいえ、もうわたくしのすべきことはないわ。後は結婚して世継ぎをもうけること。それくらいだもの。貴方は『月の欠片』を光らせた。王の資格を得たのですから」

 月の欠片は王を継ぐ資格のあるものだけが光らせることができる。隣りの都には星の欠片がある。

「月の都は貴方が治め、百合月と兄妹仲良くするのですよ」

 姉は微笑んだ。儚く、花のように。ああ、けれど何故だろう。月那はいつも思う。姉姫はこんな風に笑っていただろうか。昔、もう顔も覚えていない一人の少年がいた頃は、もっと、ちゃんと笑っていたのに。


 



 月の王は久しぶりに会う元世話係の老女を前に、相好を崩した。

「久しいな、ゆず子。お前の怒鳴り声が聞こえないと寂しい気持ちまでしてしまう」

 皺だらけの細い身体はそれでも矍鑠としていた。杖を持つも、しっかりと伸びた背筋は今でも月の王の背筋を伸ばす効果がある。

「国王さま、この度の月花さまのご婚約、本当でござりますか?」

「おや、耳が早いな。その通りだよ」

「左様でござりますか……」

 ゆず子はため息をついた。それを聞きつけ王は首を傾げる。姫の美しい身体についた唯一の傷さえ気にしないと言ってくれた。王妃もいたく気に入っている青年だ。姫も乗り気で、あの調子では孫の顔を見るのはすぐかもしれない。

 微笑む王に、もう一つため息が落ちた。王は少し機嫌を悪くしたが怒鳴りつけたりしない。元々優しい王であるし、彼を鍛え上げたのはゆず子だ。未だに頭が上がらない。

「ゆず子、何をそんなに案じておる」

「貴方は相も変わらずツメが甘うございます。王よ、我々は姫さまを失いましたよ」

 ゆず子は奇妙なことを言い出した。かなりの高齢だ、ついに呆けたかとも思ったが目の光は知性の証だ。その静かな瞳に見つめられれば、今まで隠れていた動揺が扉を叩く。

「姫さまが変わられたとお思いでしたか? 悲劇を忘れ、乗り越え、国のために生き、弟妹を育て上げ、術を磨き、貴方の右腕としてこれ以上無いほどに」

「だから、なんだというのだ」

「お気づきにはなりませぬか。姫さまはもう、この国で成すべきことを終えてしまわれた。妹姫さまの面倒をしっかりと見る月那さま。彼の君がいらっしゃるから退くことが出来る。努めである学業も終えた。王よ、分かりませぬか。姫さまはずっと務めを果たし終えるのを待っておられた。そうして、ここを出て行く日を待っていた。忘れてなどおいでではなかった。賢い方です。優れた方です。あの方はずっと、華月さまを助けにいく日を待っておられたのです」

 久しく耳にしていなかった名前を聞き、王の心臓は跳ね上がった。

 王の耳には今も残る声がある。自分を糾弾する娘の声だ。だが、彼は知っていた。幼い娘が糾弾を向けた一番の先は、己自身なのだということを。

 どっと汗が噴き出して、それを拭う手が震える。汗が出るのに冷え切ってしまった手のひらは力が入らず、背筋から凍っていく。

「……だが姫は、もう、彼のことを一言も」

「貴方は娘の何を見ておいででした。そうやって終えてしまえる存在の為に、笑い方を変えてしまうものですか! もうずっと、あの方は笑ってなどいらっしゃらない。きっと片時も忘れたことなどないのです。ずっと想っておられた。ばばはずっと見て参りました。あのお二人は、二人で一つだった。何者も入れない絆があった。姫さまは心の底から華月さまを好きでいらした。華月さまとて同じ。誰よりも何よりも、月花さまを愛しておられた。そうして紡いでいくはずだった未来は無残に壊された。けれど、月花さまは、それほど物分りの宜しい御子ではござりませんでしたよ。決して諦めない、強い意志をお持ちです。王よ、姫はもう帰りませぬよ。一人では、決して」

 身体中の力が抜け落ちる。がくがくと震え始めた自分の姿を、ゆず子は優しく見た。母よりも母らしくあった存在は、今の彼を叱りもしなかった。ただ事実を教えてくれたのだ。

冷や汗は急速に引き、残ったのは信じられないほどの虚脱感だった。

 久しく思い出すこともなくなっていた九年前の傷。それをあの娘はずっと抱えていたのだろうか。決して癒さず、癒えることを許さず。生々しい傷をずっと抱えて、そうして微笑んでいたのだろうか。だとすれば、自分は本当に父親失格だ。

「……先程、庭で白道の中に消えていかれる月花さまを見ました。すっかり旅支度をされていましたよ。気を利かせた護衛が離れるこの時を、ずっと待っておいでだったのですよ。命を絶ってしまわぬかと奥方様とわたくしが案じておりましたこと、あの方は知っておいででした。……謝ってくださいましたよ。消える寸前『ゆず子おばば、ごめん』と。一瞬だけ、本当に瞬きほどの一時だけ、わたくしの姫さまとお会いしましたよ」

 穏やかに微笑むゆず子の後ろで騒がしい音がする。喧騒が響き、近づいていた。静かな宮が急に騒がしくなる。昔、よく脱走する子ども達を探していたかのように。

 顔色を変えた月那が駆け込んできたとき、父王はすでに全てを知っていた。

 そして、昼間は姿が見えぬ都の象徴に祈る。

 哀れな子どもらに加護をお与えあれ。太陽に蹂躙された貴方の愛子をお守りあれ。


 月の花、千年の花。月の都に伝わる古きまじないの象徴よ。

 どうか、愛しき子どもらに未来をお返しください。




 月花は歩いた。

 追っ手が追いつけないほど遠くに行くために白道を開きっぱなしにして、白い闇の道を歩き続けた。国で月花以上の術者はいない。だから彼女が本気で逃げようとすればその姿を捉えることは難しい。休むことなく白道を行き続けた少女は、徒歩では一月かかる道のりを越えてしまっていた。白道は体力を消耗するので、一昼夜歩き続け、夜が明けたのを見計らい確かな地上の地面に降り立つ。

「ここまでくれば、もう追いつけないわね」

 長い金髪を一つに結び、月花はようやくその場に腰を降ろした。地面に直接座ることを躊躇う姫ではない。幼い頃は地面に寝転がったものだ。服は絹ではない。ごわごわして肌に痛いし、重い。それもいずれ慣れるだろう。

 一つ深い息を吐いて疲れ切った身体を鎮める。術を使うとそれに比例して疲労する上に、歩き続けた疲労もある。今すぐここで眠ってしまいたい。月花はゆるりと首を振って、小さく息を吸った。

「『水月』」

 ぽつりと呟くと地面に小さな円状の水溜りが現れた。澄んだそれは小さな範囲でありながら手を入れても底に行き着くことはない。冷たく澄んだ水で顔を洗う。目がしゃきっとして背筋が伸びる。どこかで狼の遠吠えが響いていた。ならばこの場は月の都の範疇だ。出来るなら早く次の都に行って、天の宮古の情報を手に入れたい。

 月の都と星の都は、どの都とも離れているため交流がない。白道を使ってここまで来たが、実際は山があり崖があり、獣が出て、嵐がある。川には橋が必要で、崖には道が必要だ。だからこそここまでの危険を冒して都を出ようとはせず、また月の都を訪ねようとする者はいなかった。

 月花は足の間で荷物を開く。幾種類かの薬草、干し芋や、干し肉、糒。武器の類はない。重いので持ってはこなかった。武器はなくとも術がある。刀を受け止めることも振り払うことも、斬りつけることも可能だ。

 作り出した水場の水を飲み、月花は立ち上がる。手を一振りすれば音もなく水はなくなった。

「虹の都か……白道の長期使用は思ったより堪えるけど、仕方がないわね」

 忘れ物がないか確認し、荷物の入った袋を腰につけなおす。服の上からとはいえベルトが擦れて痛いから、都に着いたら少し対策を練ろう。そう思うか思わないか、それくらいの一瞬で、月花の姿はそこから消えていた。



 死ぬほどの傷を負った。生きていることが不可思議な傷を負った。けれど生かしてもらった。たくさんの人の手によって。母の命を削ってまで。まともに動けるまでに一年以上かかった。月花はもう、一秒も無駄にはできなかったのだ。

 聴く全てを吸収した。見た全てを自分のものにした。得た全てを力にした。


 何も必要としなかった。何も求めず、ただ全てをこなすことを責とした。そうして早く役目を終えようと。自分がいなくても困らないほどに他の成長を見届けたら、そうしたら都を出ようと決めて。

 記憶のままに幼い姿。自分を呼ぶ幼い声。他の誰にも遠慮したように引っ込み、困ったように眉根を下げた彼が、月花の姿を見つけたときにだけ綻ぶように笑った。それだけで充分だった。全てを置いていく覚悟を決めるには、本当に充分だったのだ。

 全てが真っ赤に染まり、叫びが華月の喉を切り裂こうとしていた日。血を吐くように叫び続けた華月の声と、月花に降る赤い雨と、温かい雫達。あの日から、月花の願いはただ一つだ。



 月の花、千年の花。

 私の願いを叶えてください。全て自分で努力します。全て自分で頑張ります。だからお願いします。ただ一つを聞き届けてください。

 月の花、千年の花。

 どうかお願い。華月を守って――――――……。


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