三.ふたりの終わり
「月花様、月花様! 大人しくなさいませ! 動いてはなりませぬよ」
ゆず子おばばの声は今日も耳にうるさい。だが生まれてからずっと聞き続けていれば聞き流すことも容易だ。
「今日は華月様、七つのご生誕祭でございますよ! 全く、月花様も後三ヶ月で七つになられるというのに。本日もたくさんの賓客がございます。一の姫として恥ずかしくなきようなさってくださいまし。この一年でとても良き成長をされておりましたのに、華月さまが絡むとすぐに幼くなってしまわれて……」
きれいに結い上げられた金髪にたくさんの飾りが取り付けられていく。しゃらしゃらと音を立てるそれは見た目にはとても美しいが、つけられている身としては重たく邪魔だ。何枚にも渡って重ねられていく着物も色鮮やかで美しいが、同じく重たく邪魔だ。瞳の色に合わされた桃色はたいそう可愛らしいが、どうしてこんなにも動きづらいものを着るのだろうといつも思う。本来王族とは、そんなに動き回るものではない。月花は長く座ってたくさんの人々の報告を受けるよりは、外の空気を吸いながら季節の移り変わりを知るほうがよほどいいが、今日はそうも言っていられない。
結局七つになるまで碌に顔を見ることすら出来なかった華月と、久しぶりに話を出来るのだ。今日は隣りに座ることも、お話しすることも、もしかしたら手を繋ぐことも出来るかもしれない。離れた間に月花は五センチも身長が伸びた。華月はどうなのだろうか。ぐんぐん伸びているのか、ちっとも伸びていないのか、それともやはり月花とおんなじなのだろうか。
美しい刺繍に飾り紐、宝玉が身体の色んなところで揺れている。それをぼんやりと見ながらも心の中は一つのことでいっぱいだ。
たくさん知ったことがある、その分たくさん知らないことがある。それを今日、分け合えるのだろうか。そうでなければどこか落ち着かない。どこか寂しそうな月の瞳が、月花を見つけた途端満月のようにぱっと輝く光を見られたら、互いの淋しさなんて吹っ飛んでしまうのだ。
そわそわとしてしまう少女を、ゆず子おばばを筆頭とした女官達は苦笑しながら嗜めた。だが、彼女達も嗜めはしてもいつものように眉間に皺を寄せて怒ったりしない。この九ヶ月、あれだけべったりだった子ども達はよく我慢したといえるのだから。
どこに行くにも二人で一緒、まるで二人で一対のようだと誰もが言った。その二人が九ヶ月も離れていた。褒めてもいいくらいだ。
「月花様、口を動かさないでくださいましね。ほら、ご覧くださいませ。月花様の瞳と同じ、美しい桃色の紅でございますよ。金の髪と映えて、なんてお美しいのでしょう。まるで月の花のように可憐でございます」
すっと細い筆が唇をなぞる。くすぐったくて身悶えしたくなったが耐えた。これで紅を失敗したらまたやり直しだ。その分華月に会える時間が減ってしまう。
準備が完成してすぐに椅子から立ち上がる。くすくすと笑われたがそんなの構わない。すぐにでも走っていきたいが、服は重く、引っかかるので自然しずしずとになってしまう。だが、それでこそ、王族のいげん、というものらしい。転ばないように頑張ることのどこが威厳なのかは、まだ分からない。
後ろに何人かの女官を引き連れて、月花は長い廊下を歩いた。足袋を履いた足は滑るように廊下を進む。目の前から同じような集団が現れる。二の王子、月那だ。この都では王子も姫も一緒くたに呼ばれる。だから二の王子であっても一の王子がいるとは限らない。
四つの月那は、正装でとたとたと歩きにくそうに走り寄ってくる。それを誰も咎めたりはしない。だって彼はまだ六つになっていない。
「あねさま! あねさま、きれいね!」
「ありがとう、月那もかわいいわ。お衣装きれいね、汚してはだめですよ?」
飛びついてくる弟を互いの帯を崩さないように抱きとめる。着崩れるのなんか構わず飛び込んでくる小さな塊に少し苦労する。
「式の間、大人しくしていなさいね。大事な式なのだから」
「はーい! あねさまのいうこと、きちんときけるもの。つきな、いいこ?」
嘘だ。聞くときもあるが、聞かないときもある。だがそれは流すことにした。ここで月那に駄々をこねられては、後で非常に困る。臍を曲げられないように微笑む。
「ええ、とてもいい子。だから、静かにじっとしていましょうね」
首を傾けて見上げてくる弟の頭を撫でてやる。この様子ならば今日が何の式典かは分かっていない様子だ。何故かこの弟は華月とそりが合わないらしい。華月の言ったとおりだ。
嬉しそうに笑う弟を離し、女官に預けなおす。しがみついてくる姿はかわいいとは思うけれど、今は少しでも早く先に進みたい。
「月那、姉さまの言うことが聞けないのですか?」
「やだやだやだ! だってあねさま、このごろちっともつきなとあそんではくださらないもの。つきなはさみしいです」
「月那は姉さまの弟ですけれど、百合月の兄さまでもあるのですよ。兄さまとしてしっかり妹姫のめんどうを見てあげてくださいね」
しっかり目を合わせて教え込むと、途端に目をきらきらとさせた。末の妹姫は一歳になり、月那もほんの少し兄としての自覚が出てきたのだ。姉を慕っている彼は、姉と同じ立場にあると思うと嬉しいのだろう。ぱっと顔を輝かせて、とても良い返事をしてその場を走っていった。きっとすぐに百合月の元へと行くのだろう。
ほんの少し罪悪感を覚えながら、月花は足を速めた。
目的の部屋には既にたくさんの贈り物が並んでいた。それは廊下にまではみ出して、包装鮮やかな贈り物が目を楽しませるが、通るには邪魔だ。ひらひらと風に揺れる装飾品をなびかせて、贈り物で閉まらなくなった部屋を覗き込んだ。
「華月!」
「月花!」
青を基調とした服で、凛々しくも可愛らしく飾り付けられた華月は、顔を覗かせた月花の姿を認めたと同時に走り出し、着崩れないように抱きついた。月花に負けず劣らず飾り付けられてはいるものの、やはり男子用の礼服のほうが動きやすいようだ。
九ヶ月ぶりの温もりは、それでも何も変わらず互いに安堵と喜びをもたらした。
「髪のびたね。あ、わたしと身長おんなじ! 華月も五センチね」
「わあ、月花かわいい! ふわふわしてて、本当のお花みたい。かわいい」
「華月だってかわいいもの。お姫さまみたいよ!」
「……うれしくないよ、月花。それに月花はほんとのお姫さまじゃないか」
切りそろえられた髪は一年かけて肩を越していて、さらさら風に揺れている。月花のような癖はなく、まっすぐときれいだ。
少しの間は、そのままやっと会えた幸せを噛み締めていたが、月花は思い出したように袂を探った。慌てていたので取り出すのに少し手間取った。薄い桃色の和紙で包んだ箱を、華月の手に乗せる。
「おたん生日、おめでとう!」
「わあ、ありがとう! 中身はなぁに?」
「……がんばったんだけど、どうしても桃色にしかならなかったの」
目に見えてしょんぼりとしてしまった月花に首を傾げながら、華月は薄い包装を破いてしまわないようにそっと開いた。中から出てきた小さな箱を開けば、淡い桃色の丸い石のついた指輪が入っている。
華月は目を輝かせた。
「わあ! もしかして月花のけっしょう!?」
「……うん。『満月のひほう』を習ったから作ってみたんだけど、うまく月色にならなくて、なぜだか目の色になっちゃったの……華月は男の子だから桃色いやかなって思ったんだけど、もらってくれる?」
「当たり前だよ! すごくうれしい! ありがとう、月花、大事にする。ぜったいずっと、すっごく大事にする」
満月の秘法は、術者の力を結晶にするものでお守りになる。本来ならばそれは美しい満月の如く光を放つのだが、拙い術では淡い桃色にしならなかった。それでも月花の年で、完全なる丸を作り出せる者はいなかったので、それだけでも大したものだ。
本当に喜んでいる華月に、月花の不安げな表情は消えていく。感嘆の声を上げながら光りに当てたり、透かしたりしている姿に自然に笑顔になっていく。
一年近く離れていて、今まで以上にみっちり勉強や作法を仕込まれても、身長が伸びても、髪が伸びても。それでも互いは何も変わらないのだと思えて、ほっとした。
「あのね、結婚するにはゆびわがいるって聞いたの。だから作ったの。手作りは心がこもるからいいんだって!」
「ありがとう! 本当にうれしい! じゃあね、三ヵ月後の月花の誕生日には、ぼくのけっしょうでゆびわを作るね。それで正式な婚約者だよ!」
「あ、知ってる。めいじつともに、っていうのよ」
「月花ってむずかしい言葉を知ってるね。ぼくも、もっと勉強しなきゃ」
そうしてまた約束を積み重ねた。笑いながら、手を繋ぎ、額をあわせて目を瞑る。離れていた時間を共有するほどの時間はない。だからせめて、温もりだけでも交し合いたかった。時間だと女官が呼びに来るまでずっとそうして二人でいた。離れる寸前に軽く唇を重ね合い、またにこりと笑う。
するりと離した手を、名残惜しげに一瞬だけ指を絡ませて、そうして離れた。
式典の間だけだ。終わればすぐにまた隣りに並べる。少しなら二人で遊んでいてもいいといわれた。またすぐにこの手は繋げるのだと。
二人は、何の疑いもなくそう信じていた。
王族直系ではないため国を挙げての式典ではなかったが、それでも重役を担う人々はみな集まった。案の定騒ぎ始めた月那を上手に宥めて、式は滞りなく進んでいく。たくさんの大人達に囲まれた華月は緊張した顔をしていたが、時々月花と目が合うと、花が綻ぶように微笑んだ。目が合えばにこりと笑い合い、それだけで太陽の光を身体一杯浴びたように温かくなった。
厳かに進む式典の終わりを心から望んでいた月花は、中央にある水鏡に何かが映っているのを見つけた。祭壇の上に席が設けられる王族だからこそ気づいたのだ。祭壇の中心にある大きな水鏡に張られている水が、波紋を作り出している。隣に座る母に疑問を投げかけたかったが、華月の七つの誕生日を祝う式典で、自分が粗相をするわけにはいかない。
誰も気がつかない中、また一つ波紋が広がった。
更なる健やかな成長と栄光を願われた祝詞が終わり、その祝福を授かるために司祭の前に華月が立つ。司祭は柊の葉を水鏡の水で濡らし、それを傍まで歩いてきた華月の頭の上に散らせた。頭を撫でる葉を受けようと少し下げ、瞳を閉じた華月の傍で、水が唸った。
誰かが叫んだ。
悲鳴が上がり、席を蹴倒す音が響いた。水から光が溢れ、その中から一人の美しい女人が現れた。長い金髪をうねらせ、肌も露わな女人は、言葉もなく固まった華月の顎に指を滑らせた。
「これは、なんと美しい童じゃ」
滑らかな声が鈴のように紡ぎだされる。豊満な身体を隠しもせず、女人はくつくつと笑った。胸元や足を覆う布は少ないのに、袖元だけはたっぷりとある絹の生地で華月の小さな身体を覆ってしまう。
「なんと、男か! 顔をもっとよく見せておくれ……ああ、ほんになんと愛らしい。気に入った。そなたはわらわの元へとおいで。わらわがずっと愛してあげよう」
妖艶に笑う女人の唇が頬に触れても華月は動かない。月のような瞳は恐怖に揺れ、泣きそうに涙がたまっている。色をなくした唇は音も出せない。だけど、月花には聞こえた。たすけてと。
「だめ! 華月を連れていっちゃだめ!」
飛び出した月花を父王が真っ青になって抱きかかえた。髪が乱れるのも服が着崩れるのも構わなかった。目の前で華月を失おうとしている。恐れるものはそれだけだ。
女人はたっぷりとした金髪をなびかせ、うるさそうに月花を見た。白魚のような細く長い指は抱きかかえた華月の頬を撫でている。愛おしそうに見つめて水の上に立つ。
「やかましい子どもは嫌いじゃ」
細められた瞳に何かがこもるのを見て身体は勝手に縮み上がった。けれど目を逸らすことは出来ない。だって、華月がいるのだ。じっとこっちを見ている。月花を呼んでいる。恐怖に震え上がった身体で、それでも月花を呼んでいるのだ。
「御待ちください、天の王よ!」
「月の王よ、そちの姫か。きんきんと頭に響く声じゃ。無礼ぞ、下がらせい!」
父は月花を抱いたまま頭を下げた。
「どうぞ、その子どもをお返しください。まだほんの子どもでございます。天の宮古へゆくことは出来ませぬ。天の王ともあろう御方が、このようなお戯れを」
「戯れではないわ。この子どもはわらわが大事に大事に育てゆこう。下々で生きるより余程幸福な生を約束しよう。天の王であるわらわが決めたこと、もしや異存なぞありはしないな?」
黙った月の王を見て女人は高らかに笑った。そのまま光を放ち、現れた時と同様に水の中に戻っていく。水はうねり、光が満ちた。
「待って! だめよ、だめ! 華月を返して!」
父の腕から飛び出し、月花は走った。裾が邪魔で、帯が邪魔で、転ぶように駆け出す。光る女人の髪を鷲掴む。
「この人さらい! 華月はあなたなんかにあげない! 華月はわたしの大事な人よ! かどわかすなんてゆるさない! 人さらい! 罪人! 恥さらし!」
煩わしそうに眉を寄せる美しい顔を無視して、手を伸ばす。後少しで華月に触れられる。
伸ばされた震える手に指先が触れた瞬間、華月の頬に朱が散った。
驚愕に見開かれた大きな瞳の中に、同じように見つめる月花がいた。赤が華月の白い肌を彩る。拭ってあげたくて伸ばした手は既に地上に落ちていた。
背後で母の悲鳴が上がった。いつも穏やかに微笑み、声を荒げた姿なぞ見たことのなかった母が金切り声を上げている。
そこからのことは全て真っ赤に塗り潰された。
痛みがあったようにも思う。けれど痺れと寒さが強くて、はっきりと形にならなかった。真っ赤な雨が降る。同時に力が抜け、温りもどこかにいってしまう。赤い雨が温かい。この雨はどこから降るのだろうか。
「う、ぁ、あ、っ、ああああああああああああああああああああ!」
赤く霞む視界は世界をちゃんと見せてはくれない。けれど、それが誰のものかは分かる。ずっと、誰よりも近くで聞いてきた声。月花の半分だ。
「月花、やだ、月花! 離して、月花、月花ぁ! やだ、やだよ、月花!」
泣いている。叫んでいる。こんな泣き方初めてだ。こんな泣き方は知らない。こっちまで痛くなってしまう声だ。
「離せ、離せぇ! 月花! いやだ、月花ぁ!」
抱きしめてあげなければ。優しく、母さまがしてくれるような口付けをあげなければ。
抱きしめたいのに手が届かない。動かない。泣き崩れる母の姿が見えた。周りにたくさんの知っている顔がある。真っ青になってたくさんの布を押し付けてくる。胸元を強く押さえられているのに、温かいものが流れ出る勢いは止まらない。人々は真っ青になりながら庇うようにその背で月花を囲んでいた。
たくさんの人の壁の向こうで、高らかに笑う女人の姿が見える。
「天の王! 何てことを! わたくしの姫に、何てことをっ……!」
「わらわを煩わすからじゃ。この者はわらわがもろうた。わらわがそう決めた。ならばわらわのものじゃ」
長い裾の腕の中に抱きこまれた華月が泣き叫んでいる。めちゃくちゃにもがいてその腕から逃げ出そうと、違う、月花の傍へ来ようとしているのだ。
「月花! 月花! 月花ぁ!」
華月が呼んでいるのに、答えてあげられない。声が出ない。変わりにごぽりと嫌な音がした。母が、大臣が、父が、ゆず子おばばが、悲鳴をあげた。何かが喉の奥から溢れてきて、どろりとした感触が口端から零れる。味は分からない。何も分からない。ただ悲しい。悲しくて悲しくて、さみしい。
「月の花、千年の花! ぼくの願いを叶えて! 何もいらない、一緒にいられなくてもいい! だから、月花を助けて! 月花を死なせないでぇ!」
ああ、華月。ばか、だめよ。一生に一度のお願いはもう使ってしまったのよ。取り消したりしないで。
叶わなかったお願いは無かったことになって新しい願いを聞いてくれるのだろうか。
でも、やだ。やだよ。一緒にいたいよ。離れたくないよ。さよならなんてしたくないよ。
もう聞こえない。耳障りな高笑いの音も、月花まで泣いてしまいそうな痛い声も。何も聞こえない。そこにはいない。何も見えない。誰もいない。
華月がいない。ずっと一緒にいたいのに、華月がいない。どこにもいない。
ああ、お願い。月の花、千年の花。わたしのお願いを叶えて。華月をとらないで。華月をかえして。華月をつれて、いかないで――…。
目を覚ましたのは、全てが終わった後だった。
左の首から胸を通り右の太ももの付け根まで、ざっくりと切り裂かれた月花の傷は出血を続け、その命を蝕み続けた。ずっと死の淵に瀕し、母とゆず子は眠りもせずに付き添い続けた。十日過ぎた日に后である母が倒れ、弟妹の面会は謝絶されていた。あまりの惨状と、死の匂いが濃い姉姫の姿を見せることは憚られたからだ。
一週間死の淵を彷徨い、目を覚ますまでに二週間。再び意識を失う寸前、やつれ切った母の姿をその目に映した幼い少女が、発した言葉はただ一言だけだった。
「華月はどこ――……?」
再び深い眠りに落ち、覚めては痛みで気を失う。弱りきっていく身体を癒そうと、王族血縁の女性はこぞって宮へと参上し、『光り月』の術を使った。幼い身体が命を繋ぐことが出来たのは、奇跡と、倒れても倒れても彼女を癒そうとする女性達と、命を削るほどの力を彼女に与えた母があったからだ。切り裂かれた身体は熱を持ち、僅かに残った体力さえも奪い取る。意識はほとんど無いに等しかった。目覚めても身体を両断するかの傷は、激痛となってその意識を奪った。だから何も分からないはずだった。なのに、少女は眠りながら泣き続けた。
泣かないで、ああ、体力が無くなってしまいますと、母が切々と訴える中、それでも少女の涙は止まらない。半身を失くしてしまった少女の涙を止められるものはここにはいない。だから声だけが響いた。切々と、今にも儚くなってしまいそうな母の嘆きが。
「泣かないで、わたくしの可愛い姫。ああ、どうか、涙を流さないで。命を流してしまわないで……お願い、母がいますよ、ここにいますよ。ですから、どうか、お願い、泣かないで。逝かないで、逝かないで――……」
月花がやっと意識を保てる状態になった頃、傷を負ってから既に三ヶ月経っていた。
「父さま……? 何を仰っているの? 華月をお見捨てになると、そう仰るの!?」
子どもっぽい丸みを帯びた頬は痩せ細り、薔薇のように赤かった頬は青白い。やつれきり、今にも消えてしまいそうな儚さの中、少女は声を荒げる。
父である月の王は、まだ予断を許されない娘が興奮しないよう、できる限り穏やかに話すことに努めた。
「月花、あのお方は天の王なのだ。わたし達地上の民人ではどう足掻いても届かない方だ。天の王へ毎年供え物を差し上げて御祭りするだろう?」
「だって、差し上げていないのに勝手に持っていくのは罪人よ! 華月は物じゃないのよ? 私の大事な人よ!」
叫んだために喉がつまり傷口が痛んだ。本当は喋るだけでも気を失いそうなほどに痛い。けれど月花は止まらなかった。痩せ細った指で強く布団を握りしめ、生気を失い、けれど怒りだけを溢れさせた桃色の瞳で父を睨んだ。
「返してほしいと願い出ようにも、天の宮古はどこにあるのか分からないのだ……諦めなさい、月花。あの子は天の王に見初められ、現世で最も素晴らしい天の宮古に召されたのだ。光栄なことなのだよ。お前は誇りに思わなくてはならない」
疲れ切った父の顔を見た。やつれ切った母を見た。大臣達を見て、女官を見て、ゆず子おばばを見た。
そして月花は悟った。ぞっとした。
みんな、もう、諦めてしまったのだ。
「むりよ、父さま。わたし、華月がいなきゃ、うれしくなんてなれないわ」
口端から血が流れる。ゆず子おばばと母が真っ青になって駆けてきた。痛みだけが渦を巻き、身体に力が入らない。痛み以外の感覚の無い身体は言うことを聞かず、寝かしつけようとする腕にしがみついてでも起き上がった。苛烈に光る瞳で大人達を睨む。怒りよりも恐怖が勝った。
「お願いよ、父さま、華月を助けて。華月をかえして」
「嗚呼、月花よ。父の苦しみも分かっておくれ」
「やめて、諦めないで、あの子を終わらせないで! いや、やめて、父さま。華月を終わらせないで、あきらめないで、わたしに華月を失わせないで。父さま!」
温かいものが頬に落ちる。心を滑り落ちる雫に視線を上げれば、母が泣いていた。はらはらと美しい月の雫を流しながら。
「お願いです、姫……分かるでしょう? 貴女は月の都一の姫なのですよ!」
生まれて初めて、母が怒る。いつも優しく諭してくれた母が、大声を出した。
儚い母の言うことは何でも聞きたかった。まして泣いていたら、この母が怒るほどのことなら尚の事。なのに母は言う。今すぐに聞いてあげたくなるほど悲しげに叫ぶ。大事な、何より大事な月花の半身を諦めろと。
「かあ、さま、華月は泣き虫なの。わたしがいないとだめなのよ。わたしがいないと一人で泣いてしまうの。一人で、誰も知らない場所で、一人で泣くの。だめよ、母さま、わたし約束したの。華月と結婚するの。結婚してずっと一緒にいるの。そう約束したのよ。今は婚約者なの。ゆびわだって渡したわ。わたしの誕生日に、今日に、華月がくれるの。ねえ、月の花のおまじないだってしたわ。ちゃんとお願いしたわ。ねえ、母さま、母さまぁ!」
痛みと熱さで世界が揺れる。世界が真っ赤に染まり始める頃、はっとなったように母とゆず子が真っ青になった。
「姫様、月花様! 落ち着いてくだされ。どうか、このばばの言うことを聞いてくだされ。傷口が開いておる! 誰か、薬師を呼んでおくれ!」
「いやよ、あきらめないで。華月が泣いているわ、お願い、華月を助けて! 終わらせないで、華月を終わらせないで。なんでもする、おやつもいらない、勉強だってちゃんとする、遊びになんていかない。ずっと、ずっと、なんでもする。お友達だっていらない、ずっと月の都のために生きるわ。わたしのお願いなんていらない。なんにもいらないから華月をかえしてぇ! お願い、父さま、母さま! どうして、何がいけないの、なぜ、どうして華月なの。いやよ、お願い、華月に会わせて……!」
視界が真っ赤に塗り潰されて、この三ヶ月で嗅ぎなれた血の匂いが充満する。身体が両断されたように動けない。でも、痛いのはそれだけじゃない。もっと痛いものがある。涙も出ないほどに痛い。痛すぎて死ぬこともできない。
「……すまない」
「お父さまぁっ――――――!」
落ちていく意識の隅で泣いていたのは、いったい誰だったのだろうか。
七つの誕生日は七年の人生の中で、最も痛く、最も辛く、最も悲しく、最も怒り。
最も世界を呪う日となった。
最早伝説に等しい天の王が地上に光臨し、美しい少年を召し上げていった。人々の心に固く刻まれた思いは時が癒し、そして元々他国との交流が無かった月の都は、唯一の同盟国星の都以外にその事実は広まらない。神事に使われる水鏡は取り壊され、術が張られた。最早何物も侵入できぬように。
一人の少年を失い、一人の少女の願いを砕いた世界は、それでも何も変わらなかった。
九年経った世界は、もう、何一つ動揺してはいなかった。