十一.ふたりの天
急に部屋の中に影が落ちる。一瞬、空が落ちたのかと思った。
障子の向こうに多数の人の気配がある。虹の民全員が剣を抜き放ったが、その誰の物でもない軌跡が障子を切り裂く。
部屋の外はいつの間にか包囲されていた。たくさんの天の民が様々な武器を持ち、明るい色の金髪を輝かせている。一番前にいるのは天の王だ。長い髪を怒りで不自然に靡かせ、美しい顔を般若のように歪ませている。
華月はまだ濡れていた目元をぐいっと袖で拭い、月花を抱きしめる力を強くした。そんなに強く擦ったら駄目だというのに、彼は自分のことは結構無頓着だ。
「……淡い月色と桃色の瞳。そち、あの時の小娘かえ……あの傷でようも生き延びた。わらわは殺したつもりだったぞ。何故、仕損じたのじゃろうなぁ」
軽やかに歌うような声と記憶していたが、怒りに滾った声は重い。言葉自体が重さを持ったように空気を震わせる。
「華月を帰して。ここは華月の生きる場所じゃない」
「何故そう言い切れる。地上のように飢えも寒さもない、花の咲き誇る宮古じゃ。王族が与えなければ病も死もない、とこしえに生き続けられるこの世の楽園ぞ」
彼女は心からそう思っていると月花にも分かる。月花は身体の奥から湧き上がってくる衝動を止められなかった。瞳を向けられるだけで無意識に逃げを取る身体を、意思の力で押し止める。痛みも真っ赤に染まった記憶も、抱きしめてくれる二本の腕があれば耐えられた。
「楽園なんかじゃないわ。だって華月が泣いているじゃない。貴女は華月を泣かせてばかりだわ。あんな声で華月を泣かした貴女が治めるここは、楽園などではないわ!」
「黙りゃ! 華月、その小娘をお放し。そなたを誑かす者などわらわが駆除してくれよう」
華月に向ける声だけが甘く、視線は蕩けるようだ。美しい天の王が一心に想いを向ける少年は、それを冷たい目で見返した。
「月花はそんな低俗なことしない」
「この宮に女人はいらぬ! 華月が見る女はわらわだけでよい。美しいそなたを老いと死の中に堕とそうとする魔性、わらわが成敗してくれよう!」
怒声にびくりと身体が震える。身体は過去の痛みと、生を無くす虚無感を覚えているのだ。歯を食いしばり、叫びださないように渾身の力で睨む。そっと震える頬に柔らかいものが落ちた。固く強張った視線を上げれば、優しく微笑む華月がいる。幼いときのように純粋さだけを持った微笑ではない。だが、確かに月花の華月だった。
「月花を殺したければ、僕を殺してからだ」
「華月! そなたが死ねば宮古におる地上の民は皆殺しじゃ、嬲り殺してくれる! そこにおる虹の民も全て、生まれてきたことを後悔させてくれるわ!」
「……僕は弱い。選べる物が一つなら月花しか選ばない。月花だけでいい。僕の世界はずっと月花だけだ。月花がいない後のことに興味ない。これ以上、君の物では生きられない。僕は、ずっと昔から、月花の物だから」
慌てたのは虹の民だ。大切な次代の王を無くすわけにはいかない。その当人は呆れたようにがりがりと頭を掻いた。
「ばーか、オレはかまうっつーの。お前らだけで話進めてんじゃねぇよ。ソレイユ!」
天の王の横に立っている青白い顔をした青年は、驚いたようにシエルを見た。
「てめぇ、いい加減何かしろよ。自分にはどうしようもないとか言って逃げてんじゃねぇぞ。てめぇが止めなきゃ誰が止めるんだよ。そいつが大事なら、道を踏み外そうとした時に命懸けてでも止めやがれ! これ以上取り返しのつかないことを見過ごすつもりか。人生奪われたのは華月だけじゃねぇんだぞ! 月花も、こいつらの時間は九年も動けてねぇ。ガキの九年がどれだけ大きいか分かんねぇのかよ! まだ続ける気か! これ以上、てめぇはまだ目をつぶる気か!」
光が舞った。
鋭い光がシエルを襲い、弾かれたように吹き飛んだ身体を、ロートが己の身体で受け止める。
「我が君!」
グラウが叫んで駆け寄った。懸命に怪我の様子を確かめている。いつもの冷静さが消え去り、青褪め必死に少年の身体に手を滑らせていた。
「地上に堕ちた只人の身でわらわに利く口があると思うてか? 虹の王よ、ソレイユは身体が弱い。その力が故にな。おかしなことを言うて誑かすでないわ」
臣下であると疑わしいほど気軽に接していた態度を豹変させ、五人は怒りを天の王に向けた。
「我らの王に何をする!」
その目は怒りに燃え、今にも飛び掛っていきそうだ。
「シエル様! 貴方が死んだら誰が虹の王たり得るのですか! 死んではいけませんよ! 目を開けなさい! 目を、開けてください、我が君!」
死に物狂いで鼓動を確かめるグラウの手を、それより少し小さな手が掴んだ。
「……だから、男子しか継承権もてねぇ今の制度を変えろって。姉貴達ほど怖いのいねぇし。あれ、怪我もねぇ。何でだろ、ああ、そっか、虹の欠片だ。さっさと貰っといてよかったぁ。持つべきものは天の王の双子だなぁ」
「……貴方みたいな馬鹿、もう知りません」
「え!? オレなんかした!?」
抱きかかえられていた体勢から跳ね起きたシエルに、月花はほっとした。触れている華月の身体も力が抜けたのが分かる。口ではどうこう言っていても、結局心配していたのだ。やっぱり華月は優しい。
「ソレイユ、何を……」
動揺した天の王の声に視線を向ける。凄まじい力を放つのが信じられないほどしなやかな腕を、ソレイユの細い指が掴んでいた。彼の顔は俯いていたが、上げられた瞳は見たことのないほど強かった。
「もう、やめましょう。どうしても止まれないと言うのなら、私を殺してからにしなさい」
「何を、言っておるのじゃ? 我ら、たった二人の兄妹ではないか! わらわにそのようなことができるわけがない。ソレイユ、どいておくれ。また熱が出てしまう」
ソレイユはにこりともせず、淡い色の光で己を覆った。風もないのに髪が靡く。ソレーユは目を見張った。気づいたのだ。いつも穏やかな双子の兄は、本気で自分と戦おうとしていると。
「ソレイユ、わらわ達が本気で争えば天が堕ちてしまう!」
「それもよいでしょう。不老の私達は、いつの間にか信じられないほど傲慢になってしまった。地上の民を害することを平然と行なえてしまえるほどに。儚い命を慈しむ事を忘れ、蔑むようになった。……どこかで軌道を変えなければならない。変われないのなら、いっそ滅びるべきだ」
青い光が空を駆け巡った。同時にソレイユの腕が裂ける。ソレーユが悲鳴を上げた。力が強すぎる故に身体が耐え切れないのだ。それゆえ力は劣るが安定のあるソレーユが王となった。己が身を顧みないのであれば、力はソレイユのほうが上だ。
「……虹の王よ、貴殿が正しい。この身など今更惜しむものではない。華月、申し訳ない。分かっていながらここまで来てしまった。貴方を帰します。この命を使ってもソレーユを止めてみせます。どうか笑ってください。九年間、一度も笑わせてあげられなかったから、せめて解放だけでもさせてもらいます」
ソレーユの身体が弾け飛んだ。呆然と乱れた金髪を前に垂らし、ソレーユはふらりと立ち上がった。信じられないものを見るように兄を見つめている。
「ソレイユ……兄上、本気でわらわを倒そうと……?」
「本気だよ。本気で、君と倒れようと思っている。ソレーユ、私達は間違ったのですよ。何百年生きても、私達は間違い続ける。もうとっくに見切りをつけられているのです。父王は月の女王に見限られた。たくさんの民が去った。もう、陽の都が世界を統べているのではない。地上は、地上の民だけのものだよ」
「兄上!」
壁が砕け散り、庭園に皹が入った。叫び声と共に放たれた全てを消し去る狂気は、ソレイユの片手が薙ぎ払う。同時に彼の頬が裂けた。
「月の花、貴女にも詫びる言葉を見つけられません。妹の暴挙、兄である私が止められなかったことも、貴方々の大切な時間を奪ってしまったことも。貴女が生きていてくださって本当によかった。私が言うべきではありませんが、華月をよろしくお願いします」
誰も手を出せなかった。衛兵も近付けないでいる。空高く舞い上がった双子の戦いは熾烈を極め、空を割り、空気を乱した。ソレーユの攻撃は悉く弾かれたが、それを防ぐソレイユの身は壊れていく。それでも彼は止まらなかった。血を撒き散らせながら妹を追い込んでいく。
双子の戦いの余波は、地震となり嵐となり地上を襲った。どちらかが吼えれば地が裂け、腕を振れば海が猛った。よろめきながら、ソレーユは叫んだ。
「兄上、もう、もうやめるのじゃ! 兄上が壊れてしまう! 何故、何故いけないのじゃ! 父上が嘆きながら探し続けた月の民を、わらわも愛しておる。華月を愛しておる。それの何がいけないというのじゃ! わらわは天の王じゃ、天の民が地の民を統べて何が悪い!」
「最初から間違っていたのですよ。ソレーユ、私達はもう誰からも忘れられ、伝説となった。それほどに地上の民の心は私達から離れてしまった。それは私達が近づかなかった事も大きい。違う者だと線を引いた傲慢さが、私達を孤立させた。ここを去った月の女王は分かっていたのでしょう。どちらが正しいかは分からない。だが、私達のあり方は決して正しくはない。私達にはもう誰もいない。それが私達が作り出した結果だ。今更もう交われない。今更、月の民に憧れても無駄ですよ」
「違う! だってわらわは華月を愛しておる! 天の民は月の民を受け入れられる!」
「私達が彼らを選んだからいいのではない。彼らにも選んでもらえなければ意味がない。互いが選びあわなければ手を取り合うことは出来ないのですよ。…………ソレーユ、もう終わりにしましょう。私達は傲慢さゆえに私達だけで閉じてしまった。彼らは誰かと繋がりあう事を選んで地上に降りた。優れすぎたが故に離れて暮らすしか出来なかったが、それでも地上に根を下ろした。幾らでも繋がる道を残している。天にはもう私達しかいない。どことも繋がれずにこのまま迷走を始めるくらいなら、いま、終わらせてしまいましょう」
血が滴る腕が掲げられる。ソレーユは美しかった金髪を乱しながら吼えた。全てを切り裂く見えない衝撃波は、視線だけで壊された。ソレイユの身体から青い炎が立ち昇り、全てを覆い尽くす。比例するように彼は血を吐き、体勢を崩した。天の王は叫んだ。少女のように泣きながら顔を覆う。
「嫌じゃ、嫌じゃ! 何故、兄上がそのようなことを仰る。あやつらの所為か? あやつらが兄上を誑かしたのか!? 華月も兄上も……そうじゃ、全てあの娘が来たからじゃ。あの女が災いを齎したのじゃ! 滅ぼしてくれる、兄上と華月を奪っていく娘などわらわが消してくれるわ! 女など嫌いじゃ! 父上の心を永遠に奪い去った月の民の女など殺してやる!」
長い髪が揺れる。鬼のような表情でソレーユが飛び出した。ソレイユが青白い顔色を更に変える暇もなく、風よりも早く人々の間をすり抜け、華月の腕から月花を奪い取った。
天の王は、月花の首筋に長い爪を突きつけたまま、屋根の上に飛び乗る。
「お前じゃ、お前が全てを狂わせたのじゃ。月の女王直系の娘。父上の心を奪い去った女の子孫じゃ。その上華月の心を絡めとり、虹の王まで誑かして兄上を困惑させた。透き通る金の髪か? 滑らかな白い肌か? 淡い桃色の瞳か? どれじゃ、どれで皆を誑かした! 母上を嘆き殺した女の末裔が、今度はわらわを滅ぼしにきたか!」
「やめて、痛い! やめ、っ、離して!」
鋭い爪が服を切り裂いた。掴みかかられていた場所から服は破れ、大きく開かれる。腕を掴まれて白い肌が露わになった。真白い肌の上に走る長い傷跡に爪が立てられる。痛みに月花は悲鳴を上げた。
「このような醜い傷跡を堂々と曝しておきながら、何ゆえ男を誘いこめるのじゃ! 可愛らしい顔をしていようとも女は醜い! 醜悪じゃ! 母上も嘆きながら他の男を頼った。お前もそうだろう。幾多の男の上で喘ぎ、乳房を吸わせ、腰を振るのじゃ!」
「やめて、痛い! 何を言っているのか分からない! やめてったら!」
凄い力で指が食い込む。とっくに露わになった乳房を掴まれ、肩を揺さぶられる。狂気さえ垣間見える瞳は、月花の全てを嫌悪していた。
「母上のように幾人もの男を誘い、恍惚と笑うのだろう! それが女なのじゃろう! わらわは違う。一人だけを愛する。華月だけがよい。他の女など見せない。女が男を惑わすのならば、華月には近づけない。わらわだけを見ればいい、わらわだけを愛せばいい、わらわだけを抱けばよい。わらわも華月だけを、その全てを愛しぬく。その涙も、血も、美しい銀髪も、全てわらわのものじゃ!」
「貴女の好きは違うわ! 好きなら相手に笑っていてほしいものよ! 貴女は全部奪ってる。それじゃ相手も貴女も幸せになんてなれないわ! 貴女に何があったかなんて知らないけれど、貴女は知らないのだわ。互いに温度を分け合う温かさも、笑ってくれた嬉しさも、共にいられる幸福も。奪うのではない、欲しがるだけでもない。笑ってほしいから頑張るの、貰うばかりではなく応えるの。与えて与えられて、教えて教えられて、そうして一緒にいられるのよ。どちらか一方が傾いていれば長く手を繋いでなんていられないわ。疲れて、手が痺れて、離さなければならなくなってしまうのよ!」
「訳の分からぬことを……! 月の民の女は、総じて男を誑しこむに長けた者ばかりじゃ。見目だけ美しく、綺麗事ばかりほざく。儚げな月光のようでいて、その実、陽の光より強かじゃ。穢らわしい! 月の女など汚らしい者ばかりじゃ!」
平手が頬に飛んだ。それは月花の怒りを増幅させる効果しかなかった。
「私の母さまはとても素晴らしい方よ! 穏やかで可愛らしくて、賢く美しく、そしてとても優しい方よ! 私の母さままで侮辱しないで!」
「ええい、お前など天の宮古から出ておいき! そしてこの世に二度と戻ってくるでないわ! 今度こそ、二度と戻れぬ黄泉への道をくれてやろう!」
光を纏わせた手が振りかぶられる。絶叫が聞こえた。華月が叫んでいる。シエルに押さえられながら、目を血走らせんばかりに見開いて月花を呼んだ。
覚えのある奇妙な時間があった。時間が止まったように緩やかに進む。少しずつ進んでくる弾ける光は、きっと真っ赤な雨を降らせるのだろう。
「新月!」
月花は幼いままではない。停滞を続ける不老の天の民は忘れてしまっただろうが、地上の民は成長するものだ。
光を飲み込む闇がソレーユの術を飲み込んだ。一瞬現れた隙を、ソレイユは見逃さなかった。
「……月の花、貴女が正しい。私達は長い間、本当に、無駄に生きてきてしまったようです」
力が篭り過ぎたが為に歪に曲がった指を、青い光が抑え込んだ。ソレーユの背後に立ったソレイユは、悲しげに双子の妹の頬にキスを落とした。
「お眠り、ソレーユ。兄が傍にいてあげるから、しばらく眠っておいで。寂しくないよ、父上や母上のようにお前を捨てたりしない。私はお前の兄だからね。ずっと一緒にいるよ。だから、この兄だけで我慢しておくれ。華月は私達のものには為り得ないのだから…」
青い光が猛る光を包み込んだ。暴れて弾ける光は膨らみ、そして急速に収縮していく。小さく丸い光となったそれを、ソレイユは大切に胸の宝玉に収めた。
地面まではソレイユが連れていってくれた。ふわりと身体が浮いた瞬間、彼の口からごぼりと嫌な音がして血が溢れる。
「待って、すぐに癒すから!」
光り月を発動した腕は柔らかく絡めとられる。
「いいのです。そう簡単には死にはしない。……貴女には深く怨まれていても仕方がないのに、どうして私のことなど気にかけるのです? 華月は私を見もしませんでしたが」
「まあ! 華月は怒ると長いのよ。その分滅多に本気で怒らないのだけれど。そういう時はくすぐってでも無理矢理笑わせて、そうして一緒に笑うの。それに私、貴方を憎んでなどいないわ。だって貴方は私を助けてくれたし、華月を気にかけてくれていたのでしょう? 貴方がいなければ私達は生きてここから出られなかった。私は貴方にお礼を言うべきよ」
ソレイユは血の匂いをさせながら目を丸くして、楽しそうに微笑んだ。
「華月が貴方を愛しているのも分かる気がします。困りましたね……総じて天の民は、月の民に惹かれやすいことですし、貴方のことも気に入ってしまいそうです」
地面に下りるや否や、転がるように華月が駆けてきた。真っ青になりながら抱き込んでくる。身体中をペタペタとさわり、怪我の有無を確かめている。必死な華月には悪いが、くすぐったいのでやめてほしい。
「やめてやめて。怪我などしていないったら。華月、聞いてったら!」
「……ひどい痣になってるけど、血は、出て、ない。折れても、ない?」
肺が空になるほど長く息が吐き出される。月花は、自分を撫で回す手が震えていることに気がついた。最後に、腫れた頬に冷えた手が震えながら当てられる。あの日の怪我は、月花の身体に一生残る引き攣れた傷と真っ赤な記憶を残したけれど、華月の中にも同じほど大きな何かを刻んでいた。
「月、花。大丈夫? 本当に?」
「ええ。大丈夫よ。いやね、華月ったら。私はこうして話しているでしょう?」
「よかっ、た。またあんなことになったら……僕は、君がいなければ生きられない。息も出来ない。月花、お願い、生きていて。お願い、あんな思い、二度とごめんだ。耐えられない。目の前で君が切り裂かれたあの赤い日、僕は全て終わったと思ったんだ……」
おそるおそる抱きしめてくる身体をぎゅっと抱きしめ返していると、ふわりと温かいものが被せられた。見覚えがある。シエルの外套だ。顔を上げれば少し気まずそうに顔を背けられた。
「お前、頼むから今すぐ恥じらいを最大限に発揮しろ。世間知らずとかそんな問題じゃねぇ。乙女の絶対領域を、今、この瞬間に作り出せ!」
「だって、破られたのだから仕方がないじゃないの」
ぷくりと頬を膨らませれば、弾かれたように月花を引き剥がした華月と、シエルの声が重なった。
「そんな問題じゃないよ!」
「そんな問題じゃねぇよ!」
「……同時に怒鳴らなくてもいいじゃない。いつの間にそんなに仲良しになったの?」
男の子の友情はよく分からない。華月は人見知りが激しくて、怒鳴りあうまで仲良くなった子はいなかった。七歳の誕生日までの歳月で、一緒に転がりまわるような友達は月花だけだったのだ。
華月は憮然と口を尖らせた。
「仲良くなんかないよ。僕は月花がいればそれで」
「そうそう、オレたちゃ仲良しさんなの。マブダチ」
肩を抱いてブイサインを作ったシエルに、凍りつくほど冷たい視線が向けられる。
「肩組まないでくれる。むしろ触らないでくれる。……マブダチって、何」
「ダチだって。マジのダチ!」
「……ダヂダ? ……マジって、何」
「よし、よっく分かった。お前も月花に負けず劣らず世間知らずだ」
華月はむっとしたようにそっぽを向いた。
「ずっと宮から出られなかったんだから当たり前だろ」
「まあ、だよなぁ。残念だったな。でもこれからいっくらでも知れるだろ! オレが色々教えてやるよ。オレはかなり市井に詳しいぜ。なんせ生まれてからずっと市井だからな!」
それまで呆然と成り行きを見守っていた五人は、ほろりと涙を零す。零した振りをして実はからりと乾いていたグラウは、淡々とした口調で言った。
「寧ろその場合、残念なのはシエル様です」
「うん、ちょっとオレも思ったけどな。止めさしてくれてありがとう」
「恐れ入ります」
「嫌味だよ!」
「存じ上げております。わたしも嫌味でございますゆえ、どうぞお気になさらず」
無表情に見下ろすグラウの肩を抱き、ヴィオレットが爆笑した。
「グラウはシエル様の教育係を兼ねていますからね、貴方の言葉遣いを修正できないことにイラついてるんですよ。その内睡眠学習されますぜ。耳元でざます、ざますって」
「なんでざます。いーんだよ! 月花だって華月だって、オレほどじゃないけど充分砕けてんじゃん。箱入りだってあーなんだから、別にオレだけってわけじゃ」
少し大きな外套を月花の身体に合うように直していた華月は、指を差されてくるりと振り向いた。
「確かに、我が身は未熟ゆえ虹の王との御会談、畏れ多く存じます。お言葉を交わさせて頂きました事、この身の光栄でございます」
「虹の王、貴方様と出会えましたこと、わたくしの誇りでございます。どうぞご健勝くださいまし。虹の王の未来に幸多からん事を」
両肩をぽんっと叩かれ、シエルは両手で頭を抱えた。
「てめぇら……裏切り者――!」
「なんとでも」
「まあ、失礼ね」
半壊していた宮はあっという間に修繕されていく。大工が釘を打つのではない。術者が集まり、破片をつなぎ合わせて元の形を作り上げていく。その様子を庭園の隅の池から眺める。金色の鯉がぱしゃりと跳ねた。
「ここなら虹の都に繋がっています。どうぞ、お気をつけてお帰りください」
丁寧な物腰で示された場所に、一同目をぱちりとさせる。
「え? マジ? 虹の都にもあったの!?」
「結構どこにでもありますよ。月の都の入り口はどうやらそちら側から壊されてしまったらしいのですが、私達も地上を気にしてはいたのですよ。ただ、やはり天の民は長い寿命による自尊心が強すぎる。地上に下りても対等に話そうとしなかった。そちら側から渡るのは難しい場所もあります。これもその一つです」
面白そうに池を覗き込んでいる人々を置いて、ソレイユは手を繋いでいる月花と華月の前に立った。酷く青白い顔をした彼の胸元で、宝石が静かに揺れる。
「華月、本当に幾ら言葉を尽くしても謝りきれない。償いのしようもない」
返事が返らないことに気を悪くもせず、ソレイユは悲しげに宝石を持ち上げた。
「許してくれとはいわないが、ソレーユもかわいそうな子なんだ。たくさん、無くしてしまったね。色々なものが信じられなくなって……私は早々に諦めてしまったけれど、最後まで純粋だったこの子が一番傷ついてしまった。初めてだったのですよ。何かを好きだと言ったのは」
「だから、それが何。僕には関係ないし、分かろうとも思わない。たぶん、それでいいんだ。僕らと君達は交わらない。それでいい」
「……そうですね」
悲しげな微笑みが返る。
「月の花、貴女にも詫びのしようがありません」
「いいんです。だってこれから幾らでもどうでもなるもの。後は勝手に二人で幸せになりますから」
向こうから吹き出す声が幾つか聞こえた。どうやら盗み聞きしていたようだ。一歩遅れてソレイユがくすくすと笑い始める。
「本当に、貴方が華月の月の花でよかった」
「月花、もう行こう」
引っぱられて、転びそうになる。元々シエルが持っていた宝玉以外にもう一つもらった。だから彼らは彼らで手を繋ぎ、月花と華月は二人でしっかり手を繋いだ。
「ひゃっほい!」
「だぁ!? シエル様飛び込まないでくださいよ!」
「腰が、シエル様、わしの腰が置いてけぼりに!」
「オーランジェの爺さん、ぎっくりか!?」
「うわ、爺さん入れ歯飛んだ! ごめん、爺さん、触りたくない」
「……シエル様、誰が診ると思っているのですか」
非常に騒がしく消えていった。手を繋いでいるために、一人が飛び跳ねていったら全員が引きずり込まれたのだ。飛び込む前に怪我人が出てしまったようだが、優秀な医術を持った人がいるので大丈夫だろう。
池の回りは急に静かになる。池の前に立つと、無言だった華月は握る手を強くして振り向いた。
「それでも、君達が地上に堕ちてくるほどの決意があるのなら、交わる未来もあるかもしれない。滅びだけが道じゃない。そういう道も、探す気があるのならあるかもしれない」
「華月……」
「どうするかは君達次第だ。変わりたいのなら、変われるよう足掻いてからにすればいい。どっちにしても、僕はどうでもいい。ソレイユ、君の王としての裁量次第だ」
ソレイユは目を丸くした。双子なのにあまり似ていないが、それでも所々似た雰囲気が垣間見える。
「初めて、呼んでくれたね」
「……色々、してくれていたのは、知っているから。でも礼は言わない。許しもしない」
「どうか、幸せに。笑っていてください」
「言われなくても。月花がいれば、僕は充分すぎるほど幸せだ」
金色の鯉が跳ねた。華月はそれを合図としたかのように一歩踏み出す。月花が礼を言おうと慌てて振り向くと、ソレイユは青白い顔で微笑んでいた。
「あの、本当にありがとうございました!」
「幸せにしてあげてください。そして貴女も、幸せになってください。どうか、月の民が選んだ道は正しいのだと、私達に見せ付けてください。ソレーユが心穏やかになれるほど、幸せに」
もちろんと答えたけれど、言葉が届いていたのか分からない。
気がついたら、色鮮やかな髪色をした人々が街を歩いていた。しかしその大半は帽子に隠してしまっている。だって、白い息が出るのだ。
「雪、だ」
ひらひらと降る雪は地上の全てに平等に降り注ぎ、白で覆う。永久の春の宮古からいきなり訪れれば、寒さに凍えそうになる。薄着なのだから尚更だ。
「華月、平気? 寒くない?」
黙ったままの華月の顔を覗きこんだ月花は、ふっと小さく息を吐いた。そして繋いでいた手を解き、改めて華月を抱きしめる。
「泣いていいよ、私がいるから、一人じゃないから。一人でなんて泣かせないよ。いっぱい泣いて、そしたら笑ってね」
華月は月花の羽織った外套を強く握りしめ、声もなく泣いた。冷たい雪は涙が溶かしていく。華月は寒がりな子どもだった。雪が降れば建物の中に逃げ込んでしまうような子どもだった。月花は雪が大好きで、だからいつも彼を引っ張り出して一緒に遊んだ。
「雪だよ、華月。雪だるまが出来るわ、雪兎だって。そうだ、私達もう自分でかまくらが作れるわ。ねえ、雪が降ってるわ。冬だものね。華月、冬よ」
「うん……冬だね。ふふ……冷たい、寒いね、月花。寒いよ、温かくなんてない。雪だよ。凍えそうだね………………もう二度と、寒さに触れられないと思っていたよ」
冷たい雪が降り積もった地面に膝をつき、泣き続ける華月の背を撫でた。通りいく人々が二人の髪色に足を止めて見つめているが、それもどうでもいい。いまは腕の中で泣く温もりだけが大切だ。
「おかえり、華月」