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月の花  作者: 守野伊音
10/12

十.ふたりの月の民

 その日から、シエルは華月の部屋に通った。懐には、褒美にと願い出た際にあっさりと返してもらった虹の欠片が入っている。元々天から賜ったとはいえ、もう都のものだという。逆に扱いに困っていたそうだ。虹の都の物は、虹の都の者の手へということだ。意気込んで旅をしていた五人組は軽く絶望していた。今までの苦労は何だったのだと拍子抜けし、用事は終わったのだから帰ろうという部下を押し止め、未だ目覚めない月花を理由に居残った。シエルが帰らないのに自分達だけ帰れないと、結局全員、天の宮古に残っている。



 最初は顔を見るなり放り出された。そうされると無性に入り込みたくなるもので、帰ったふりして侵入した。読んでいた本をぶん投げられた。

 なんでこんなことをと思いはするのだが、気がついたら来ているのだから仕方がない。ソレイユが話を通しているらしく、門はあっさり通される。部屋までの道をいつも一人で歩く。無用心だと思ったが、彼は人が傍にいることを極端に嫌う。いつも畳の上に一人でいた。本当にいつ見ても一人で、夕方シエルと入れ違いで現れる天の王が来るまでずっと一人だけで過ごしているのだ。毎夜過ごす女人の存在も彼の安らぎにはなり得ないでいる。彼が心地良さそうに目を細める姿さえ、シエルは見たことがない。笑うところなど夢、幻想としか思えなかった。


 シエルが入り口に現れると、華月は目に見えて嫌な顔をした。

 最初の三日間はきれいに無視してくれた。四日目の朝、一年中咲き誇る花を適当に摘み、無視する少年が埋もれるほど全力で投げつけた。その時から、心底嫌な顔をして出迎えてくれるようになった。進歩だ。

「よ」

 右手を軽く上げて挨拶をすると、毛虫を見るような目を返された。

「……帰れって言ってるだろ。ソレイユにでも願いを叶えてもらって、早く出ていけ」

「そのソレイユが来いって言ったんだよ。んでもって、土産。ここはいつでも色んな食い物があるなぁ。ほれ、無花果」

 正確にはシエルからではない。それに気づいたのか、華月は果物に手を出さない。黙ってじっと見つめている。これが彼の好物だったと言ったのは少女だ。好きな物を好きと言わなかった彼の好物を、目覚めた少女だけが知っていた。

 その少女は寝込んだまま動けない。今まで気力だけでなんとかしていたのだろうとグラウは言った。本人は今すぐにでも動くと言い張るが、指先一つでベッドに逆戻りだった。弱っているにもほどがある。部下には彼女の見張りを命じた。目を離せばすぐにでも飛び出してしまうだろう。ローゼなどは何を話していいのか大変に戸惑い、顔を真っ赤にしていた。



 月花は部下に任せ、シエルは毎日ここに訪れている。しばらくは互いに何も言わなかった。日当たりがよく風通しのよい部屋は眠たくなってくる。欠伸をして、ちらりと華月を見ると、少年は山積みになった本を読んでいた。あの栞は使われていない。机の上に置かれているだけだ。だが、いつでも目の届く場所においてあることに、シエルは気がついていた。

 いつも、眠っているか本を読んでいるかだが、何をしていても欠片も楽しそうではない。昔はよく外を転げ回ったと聞いたが、どう見ても外を喜ぶ性格には見えないし、想像もできない。

「お前さあ、聞かねぇよなぁ」

「……聞くべき事なんて何も無い」

「美人だぜ。そんでもって、世間知らず。あれで一人旅しようとしてたなんてなぁ」

「一人で!?」

 感情のなかった瞳が弾かれたようにシエルを向いた。置き去りにされた長い銀髪が遅れてさらりと追いかける。

 シエルは心の中で口笛を吹いた。こんな顔も出来るのだ。シエルの表情に気づいたのか、すぐに取り繕ったように能面になったが、瞳の揺れは隠せない。だから旅の話をつらつらと勝手に話しをした。

 月のような瞳はシエルを見なかったが、聞いているのは分かった。だからシエルは話し続けた。一方的にほとんど会話にならない。だが、ぽつぽつと、話し返してくれることもあった。



 昼時、シエルの分も運ばれてきた膳を食べる。見たこともない食材もあったが、味は大変美味かった。上品で上質で舌の上で蕩けていく。そんな極上の料理を、華月は土でも食べているかのようにほんの少し口にして、箸を置いた。

「お前なぁ、食えよ、もっと。そんなんだから華奢いんだよ」

「よけいなお世話だ。君だってごついとは言えないだろう」

「そのオレよりひょろっちいのはお前だぜ? そんくらいは食わなきゃ情けねぇなぁ」

「………………」

 黙りこんでしまったから怒ったのかと思った。会話も終わりかなと諦めたとき、ぽつりと何かが呟かれた。彼からの珍しい会話を聞き逃して後悔したが、幸いよほど気になるのかもう一度言葉は繰り返された。

「……ひょろっちいって、何?」

「…………ん?」



 静かな棟に珍しく人の声が聞こえてきた。華月の表情が色を失くす。ただでさえ無表情だったのに、全てを消し去り、人形のようになった。

 袖だけ生地の多い服を着た天の王は、部屋にいるのが一人ではないことに純粋に驚いて見せたが、華月がいつもより多く食事を取っているのを見て喜んだ。妖艶な顔をしながら、少女のようにはしゃぐ。強い色をした金髪を惜しげもなく光にさらし、華月を抱きしめる。豊満な胸元に顔を押し付けられた少年は、子どもに抱かれた人形のようだった。

「華月、華月、口づけをおくれ。ああ、わらわの愛しい華月」

「……離して。まだ食べてる」

 近づいてきた唇を顔を逸らす事で拒否し、膳の前に座りなおす。天の王は呆然としていたが、すぐに我に返り慌ててその横に座り込んだ。

「いつもより食べておるのじゃな? よいことじゃが、駄目じゃ、華月。キスをしておくれ。抱いておくれ。わらわを愛しておくれ」

「食べてるって言ってるだろ。邪魔するな」

 僅かに怒気を孕んだ言葉に天の王はびくりとした。子どものように顔を歪め、悲しげに目元を潤ませる。蕩けるような甘い声で背中に擦り寄っていく。

「すまぬ、すまぬな。華月、怒らないでおくれ。ああ、華月。そなたを愛しておるがゆえじゃ。怒らないでおくれ」

 耐え切れなくなってシエルは箸を置いた。思ったより大きな音になったそれで存在を思い出したらしい天の王は、まじまじとシエルを見た。

「そなたが部屋に人を通わすは珍しいの。どうじゃ? 気晴らしになるかえ? 地上の民がよいのなら幾らでも連れてこようぞ。そうじゃ、華月。一度笑ってみんかえ? そなたは一度も笑わぬゆえ、わらわは心配じゃ」

「何もいらないし、楽しくもないのに笑えない。笑ってほしければ僕を解放しろ。叶えるつもりがないのなら、もう出ていけ。早く務めに戻るんだ。王が昼間からこんな場所で何をしているんだ」

「ああ、華月。許しておくれ、怒っておるのか。じゃが、わらわはそなたを愛しておるのじゃ。それゆえにそなたを連れてきてしもうた。愛しておる、そなただけを愛しておるとも」

「愛が免罪符になると思うな。いいから出ていけよ」

「華月、ああ、華月。怒らないでおくれ。ちゃんと務めに戻るゆえ」

 うろたえた天の王は、無理矢理唇を寄せたあと、躊躇いがちに戻っていった。華月は強く唇を拭い、吐き捨てるように呟いた。

「……愛しているといいながら、どうせ僕を好き勝手にするくせに」

 誰も通らない静かな棟。けれどここは二人だけではない。いい天気だから外に出ないかと誘ったシエルに、華月は静かに首を振った。

「見張りがすっ飛んでくる。うるさいのはごめんだ」

「あんた、何かやったのか?」

 引き戸の向こうには美しい庭園が広がっている。華やかな色合いが多い宮古にしては、緑や大人しい花が多い。白い石が敷き詰められた庭は、もしかしたら彼の故郷に似ているのかもしれない。

 華月は、美しい顔を欠片も動かさなかった。

「目を潰してくれって言ったんだ」

 言葉を失った。永劫的に冬の来ない暖かな宮古の風が吹く。なのに背筋が凍った。目の前の少年の瞳には何の光も無い。細い手で片目を覆い、華月は庭園を見た。

「だって、ここには欠片が多すぎる……目を開けていると痛くて堪らない。気が狂いそうだ。……狂ったほうが、よほど幸福だろう」

 疲れ切った声だった。自嘲気味に笑う月が色を失う。彼女の話を聞いていた時に宿していた光が、闇に呑まれていく。

「どれだけ探してもあの子がいないのに、なんで金の髪ばかりなんだ。……見たくないんだ、その色が掠めるたびに心躍ってしまうくらいなら、この目を抉り出したかった。最後に見たあの子は血塗れで、それでも、泣き喚く僕を助けようと、泣きやまそうと手を…………それでも、僕が見たかったのはあの子で、あの子だけで………………目を潰したかった。それが駄目なら帰して、僕を月の都に帰して、あの子のいる場所に帰して。何一つ返すつもりがないのなら殺してくれよ! もう死なせてくれ!」

 両手で顔を覆った袖口から、骨の浮き出た腕が見えた。

「……あんた」

「彼女のいない僕の世界に、いったい何の価値があるっていうんだ。……分かってるさ、どうせ僕はもう触れない。こんなに汚れてしまった。あの子に触れない僕なんて、なくていい」

 胸元で閉じた服はシエルには見慣れない。もしかしたら、月花の言っていた着物というものなのかもしれない。着崩された胸元には小さな指輪がある。小さな子供用の、桃色で可愛らしい指輪だ。玩具のようなそれは、いつだって肌身離さずそこにあった。

「……早く帰れよ。天の王は僕を不老にしようとしている。その前に僕は命を断つ。僕が死んだら宮古にいる地上の民は全て殺される。あいつは本当に実行する。早く連れて帰って。…………生きていてくれた。もう、それだけで充分だ。本当に、それを知る為だけに生きていたのかもしれない」

 シエル、と、初めて名を呼ばれた。

「ありがとう、彼女を守ってくれて。お願いだ、早くここから連れていって。僕がいつまでも忘れないからあいつは怒ってる。次に会ったら本当に殺してしまう」

「……お前は会わなくていいのかよ。お前、まだ好きなんだろ。ほんとに好きなんだろ」

「いいんだ。生きていてくれたから。僕は随分汚れてしまった。こんな僕は見られたくない、知らないでいてほしい。この世に彼女がいると知れた。だから僕は彼女の幸せだけを祈って死んでいける。僕の月の花は幸せになるんだ。千年に一度しか咲かない花じゃない。永久に咲き誇る、月の都の象徴、月光花だ」

 最後の言葉は消えていった。つらそうに顔を歪め、泣きそうな声で、それでも彼は望まない。その手に願いを掴むことを。

 見ているほうが泣きたくなる。彼の九年間など知らない。恋敵だ、最大にして最強の。分かっているのに、それなのに、どうしてこんなにも手を貸してやりたいのだろう。どうしてこんなに痛いのだろう。



 音をたてて引き戸を閉める。薄い紙が張られ、幾つも枠のついた木の戸だ。驚いて顔を上げた華月は、こんな一瞬一瞬だけ本来の素の表情が現れる。こんな時しか現れない。それが無性に腹立たしい。能面をかぶらなければ生きてこられなかったなんて、悲しすぎるではないか。


「……ざけたことぬかしてんじゃねぇぞ」


 胸倉を掴みあげる。簡単に持ち上がるほど軽かった。

「お前をどう判断するかは月花の勝手だ! 勝手にてめぇの価値決めつけて貶めてんじゃねぇぞ! 月花がどれだけお前に会いたかったか知ってるか! 毎晩泣きながら眠って、起きててもお前のことばっかだ。お前が泣いてないか、悲しい思いをしてないか、そればっかなんだよ! あいつの九年間はお前の為だけの時間だ。お前だけが生きる意味だ。会えよ、会うことがあいつへのお前の責任だ。会って、その上でもしもあいつに嫌われたら、そしたらオレがお前を引き取ってやる。お前らは自分の人生を蔑ろにしすぎだ! 簡単にてめぇの人生奪われてんじゃねぇぞ! お前の希望は必死でお前を追ってきてるのに、てめぇが諦めてんじゃねぇよ! 少しはてめぇだけの都合で、てめぇの為に生きてみろよ!」

 掴みあげられて苦しそうに、けれどそのつらさではないものが華月の顔を歪めている。泣き出しそうだと思った。今にも張り裂けそうな悲しみが叫んでいるのに、彼はぐっと唇を噛んだ。それが開かれたとき、聞いているほうが痛い声で怒鳴った。

「見られたくないんだよ! こんな汚い僕なんて、あの子にだけは見られたくない!」

「綺麗なだけの奴なんかどこにもいねぇよ! いたとしたら、そいつのほうが欠陥品だ! あの月花でさえ綺麗なだけではいられない。憎しみだって殺意だって持ってる。それでも、その上で選んだ愛のほうが、無垢よりよっぽど尊いんだ。それに、お前は綺麗だよ。だってお前が好きなのは月花だ。あんな綺麗な生き物を好きなお前は、充分綺麗だ。誰かを思って必死に生きる奴は誰だって綺麗なんだよ! 自分を誇れねぇってんなら、月花を好きな自分を誇れ! いいじゃねぇか! 助けてもらえよ! 綺麗な月花がお前を好きなんだから、もう、それでいいじゃねぇか! お前が自分を好けなくても月花が好いてくれる。救ってもらえよ! もっと楽に生きたっていいじゃねぇかよ!」

 荒い息を深く吐き出し、手を離す。

「てめぇで不幸追うんじゃねぇ。あんたは確かに不幸だ。自分じゃどうしようもないもんに巻き込まれて逃げられない。でもな、受け入れてしまうな。そうしなきゃ生きて来られなくても、今はもう不幸じゃねぇんだ! 月花がいるんだぞ、お前に会いにきてんだぞ!」

 どさりと落ちた華月は呆然と座り込んでいる。震える両手が顔を覆った。

「分から、ないんだ、もう、あの日から……一緒にいられるだけでよかった、それだけで幸せだった。僕の世界は彼女で、繋いだ手だけが全てだった。なのに離されて、何も無くなった。幸せの成りかたも忘れてしまった。これ以上彼女を失うなんて、もう、嫌だ。あの子に目を逸らされるくらいなら、二度と会えないほうがいい!」

 白い胸元に下げられた子ども用の小さな指輪が淡い光を放つ。華月の目が何かの感情で揺れたが、それが何かは分からなかった。



「…………なんですって」



 突如上がった、この部屋にいるはずのない人物の声にぎょっとする。狭い部屋にばらばらと人が降ってきた。己の部下が積み重なった上に少女が降り立つ。シエルは自分の迂闊さを呪った。たった一人で都を出る事を選んだこのお姫様が、目的の物を目の前にして大人しく待っているはずがなかったのだ。お目付け役をつけても、何が何でも出てきてしまうだろう。

 予想出来ない少年の反応をおそるおそる確かめる。

 そして、動けなくなった。

「……バカはお前だよ。そんなに会いたかったのなら、やせ我慢なんてすんなよな」

 華月は泣いていた。目を見開いたまま、本人はきっと、自分が泣いていると気づいていない。縫い付けられたようにただ一人を見つめ、美しい月の瞳が雫を零す。止まること知らない雫は、儚い色の瞳を溶かしてしまうのではないかと心配した。

 だけどシエルは、その涙に何故かほっとしたのだ。





 さすが天の王の住居だ。白道を繋げるだけでかなりの力が必要だった。それでもシエルの気配を目指してむりやり侵入したら、ちょっと許せない言葉を聞いてしまった。

 今までの思いが一気に爆発して激怒になったが、その姿を見て消えていく。

 長く伸びた銀色の髪、見開かれた月の瞳、そこからこぼれ落ちる雫達。

 嗚呼、嗚呼、本当に、もう充分だ。

「華月……」

 一歩近づく。そんなこと気づいていないように華月は泣いている。触れられるほど近づいても何の反応も示さない。

「私よ、月花よ。会いにきたの。私、貴方にどうしても会いたかったのっ……!」

 手を伸ばした瞬間、びくりと身体が揺れ、一歩後ずさった。狭い部屋は彼の身体をすぐに壁で押し止める。

「……華月、私のこと、嫌いになった? いらなくなった? …………でも、華月、私は貴方が好きよ、ずっと好きよ。ねえ、華月っ……」

 我慢できなくて、月花も泣いた。脅えるように月花を見ている華月が悲しくて、つらくて。思わず俯いて、それを見た。小さな、まだ月色に出来なかった約束の指輪だ。目を見張ったら涙がもう一筋流れる。泣き出した月花に、華月は躊躇うように瞳を揺らした。同じように泣き続ける華月は、ようやくぽつりと言葉を紡いだ。

「僕、は、汚い、から。お願い、帰って……ここにいたら殺されてしまう。もう嫌だ。あんな思い、二度と。……ごめん、来てくれて、うれしかった。だから、もういいから。僕のことは忘れて…………お願い……僕はもう君と一緒にはいられない」

「どう、して?」

「僕は、君が知っている僕じゃない。たくさん、汚くなった。本当に、汚れてっ」

 見られるのも耐えられないと視線が逸らされる。逃げる頬にそっと手を伸ばす。泣き濡れた頬を挟み、額をつける。震える身体はそれでもとても温かくて、懐かしい匂いがした。

「いいの。なんでもいいの。どこが汚いのか全然分からないくらい華月は綺麗だけど。だけどね、綺麗じゃなくても、いいの。生きていてくれるだけでいいの。汚れても何かを憎んでも、泣き虫華月でも、いいの。また会えた。また触れた。ねえ、これを失う以上の何を恐れるというの。……好きよ、華月。好き、大好き。貴方が好きよ。一緒にいようよ。一緒にいたいよ。お願いよ、お願いだから、一人でなんて泣かないでっ!」

 言いたいことがあった。伝えたいことがたくさんあった。でも、いざ目の前で会えたら、色をなくした九年間なんてどうでもよくなった。これ以上何が必要というのだ。腕の中で震える人以外、何がいるというのだ。しがみつくように抱きしめてくる腕を失くす以上に恐ろしいことが、この世にある訳がない。


 華月は目を見張るほど大きくなってはいなかった。月花と同じ身長と体型は、まるで幼い頃に戻ったようなのに、あの頃のような丸みはなく、子供特有の高い体温も甲高い声もない。それでも華月だ。間違うことなく華月を見つけたのだ。

 月花は万感の思いを込めて、彼の身体を掻き抱いた。

「華月、好き、大好き。貴方が好き。ねえ、華月、好きよ。さよならなんてしたくないよ。もういや、もう一度失くすなんていやぁ……一緒にいたいよぉ……!」

 抱きしめた腕が、抱きしめてくれる腕だけが、全てだった。互いの涙に塗れて声はつまる。愛してるなんて分からない。そんなことも分からぬ幼さの中で、持っていた好きという感情全てを費やした。好きで、好きで、大好きで。本当にそればかりだ。それだけでよかったのに。


 何も言ってくれない不安が出てくる。泣いていた鼻をすんっと鳴らす。

「華月、もう、私を好きとは言ってくれないの……?」

「僕は、汚く、て。君を汚してしまう……」

 月花は逃げる手を無理矢理己の頬に当てた。びくりと肩を揺らせ、小さく震える手に預ける。

「華月、好き。なんにも変わってないわ。昔も今も、華月は綺麗、とっても綺麗。華月可愛い、華月大好き。ねえ、華月。私は華月が綺麗と思っているし、好き。でもそれはおいといて、華月は自分のことばかり。私は華月がどう思っているか聞いているのに。華月は私をまだ好きでいてくれてるの、それとももう嫌いになったの。どっち」

「……嫌いになんて、世界が終わったってならない」

「本当に? 私のこと、今でも好き?」

「そんなの、当たり前じゃないか」

 同じように鼻を鳴らし、ようやくまっすぐに見てくれた瞳と合わせる。月色をした瞳は何も変わらず美しく光り、涙に濡れていた。月花の泣き虫華月だ。

「……君が好き、君だけが好き…………夢を見たよ、幾度夢に焦がれたかもう分からないけれど、僕もずっと、君だけを想ってた。僕だってずっと君が好きだった。君が、好きだよ、本当に好きだよ。僕だって、どれだけ君が恋しかったか…………」

「私も夢を見たわ。毎日毎日、ずっと。でも貴方は小さなままだったわ。こんなに綺麗になっているのなら、今の貴方の夢も見たかった」

「君も小さなままだった。……綺麗になったね、可愛い」

 ぽろりとこぼれ落ちた涙を拭って、拭われた。固く抱き合ったままの身体は、互いの体温が心地よくて、涙が止まらない。

 ふと気がついた。少し身体を離して向かい合う。

「華月……どうして名前を呼んでくれないの?」

 びくりと触れている身体が震えた。華月は動揺したように視線を彷徨わせ、そしてシエルで止まった。にやりと笑われてかっと頬が染まる。照れたというより、やけになったように見える。そうだ、華月は大人しいようでいて負けず嫌いだった。

「私の名前、忘れちゃった?」

「そんな訳ない! 僕が君を忘れるなんて! 息の仕方を忘れるほうが簡単だ」

「じゃあ、どうして!」

 戸惑って揺れた瞳は、少し拗ねたように月花を見た。

「……呼んだら消えそうで怖い。いつも呼んだら夢が覚めちゃったから」

「あら、私もよ。でもこんなに華月を呼んでいるのに覚めないから大丈夫よ。貴方、この温かさが夢だというの? だったらずるいわ。私は夢の中で貴方に触れられなかったのに」

 頬を膨らませれば、華月は口元を緩ませた。花が綻ぶように微笑み、何か覚悟を決めたようにまっすぐに月花を見た。

「つ、つき…………か」

「はぁい」

 嬉しくて嬉しくて、にこりと微笑む。

「月、花」

「はぁい」

「月花、月花……月花月花月花っ……!」

「華月、大好き」

思いを一言ずつにこめて、また笑う。ほっとしたように華月の表情も崩れた。

「月花、好き、月花が好き。何もいらない。月花がいい、月花が傍にいてくれるのなら、何もいらない。月花が好き、月花、大好き。何もいらない、月花がいてくれれば、本当に何も。月花、好きだよ。僕だって月花を想ってた。ずっとずっと好きだった…………月花、君が好きだよ…………キスしても、いい?」

「ええ、もちろん。してほしい」

 宝物のように優しく、壊れ物のように躊躇いがちに、消えないように強く抱きしめられて、柔らかい口付けが降る。涙が零れた。

「……生きていて良かった。死を選ばなくて、本当に良かった」

「貴方、そんなことを考えていたの!? 私が貴方の無事を祈っていた間、そんなこと考えていたの!」

 涙が吹っ飛ぶ。ちょっと貴方どういうことよと掴みかかる。それなのに、掴まれている本人はうれしそうに微笑む。見覚えのある笑顔だ。泣き虫だった華月は嬉しくても泣いてしまう。

「もう思わないよ。僕は君のものだもの。月花、好き、大好き。やっぱり月花だ。月花のままだ。月花が月花でうれしい……生きていてくれて、よかっ……あんな、あんなに真っ赤に。月花、生きてる、生きてっ……死んでしまったかと思った、僕は置いていかれたのかって………月花、ありがとう、生きていてくれて。月花、月花、月花ぁ……!」

 抱き合っているわけではないのかもしれない。互いに必死にしがみついているだけだ。夢ではないと確認したくて、二度と離れたくなくて。あの日の続きをようやく手に入れられたのだと信じたくて。

 泣きながらかき集めるように言葉を捜す。だけど出てくるものはばらばらだった。全てが溢れ出てくるのに、言葉は見つからず拙い断片だけが口を出る。

「会いたかった、本当に、ずっと。華月、華月、やだ、いなくならないで。もう、いや、華月に会えないのは、もういやぁ」

「……僕も、いや。僕だって会いたかった。月花、月花。僕の月花。好きだよ、かわいい、月花。かわいい。ねえ、泣かないで、月花」

 たくさんキスしてくれるから少しだけ安心した。言っている本人はもっと泣いている。昼間は泣き虫華月で夜は弱虫月花だったのに、今は二人とも泣いている。

 いっぱい話したいことがあった。伝えたいことが、聞きたいことがあった。知らない互いを埋めようと、自分だけが知っている記憶を分け合おうと。知らない君にならないよう、君が知らない自分にならないよう、同じであろうと願い続けた過去があった。

 けれど、同じには、もうなれない。九年間は埋められない。一秒一秒知らない互いが降り積もり、今がある。だが、もういいのだ。同じでなくていい。同じでないから抱き合える。今があるならそれでいい。世界が二人で閉じてしまえないことを知らない子どもではなくなった。閉じてしまえなくても一緒にいたいから、人は努力するのだ。



 でも、話をしたい。もっといっぱい話してほしい。声が聞きたい。だから月花は、旅の衝撃を華月に教えた。きっと驚くと思ったからだ。

「あのね、人食い鬼がいたのよ。私の首を舐めて、噛んだの。味見よ、きっと。もう少しで食べられてしまうところだった。食人鬼なんてお伽噺の中のことだと思ってたわ」

「……月花? その話をもっとじっくり聞きたいな。その人食い鬼の名前と外見と、出没都」

「駄目よ! 華月なんて頭からぺろりと食べられてしまうに決まってるわ! 華月の三倍くらい大きな身体をしていて、顎が五つもあったの。それでね、心臓を捜して胸を潰すのよ、すっごく痛かった」

「月花、僕ね、沢山本を読んだから、鬼を殺す術を百通りくらい知ってるんだ」

 吹き出す声が聞こえて、ここにいたのは二人だけではなかったと思い出した。よく考えれば後六人いたのだ。すっかり存在を忘れられ、二人だけの世界を見せ付けられていた彼らはそれぞれの反応でそこにいた。両眼を覆った指を開いて見てないと言い続けているオーランジェ、後ろを向いているロート、にやにや笑っているヴィオレット、興味なさ気にそっぽ向いているグラウ、真っ赤になっているローゼ。

 肩を竦めたシエルは、一つため息をついて苦笑した。

「勝負までいかねぇな、こりゃ」

「シエル……私、貴方に感謝しているの。本当よ。貴方がいなければ、私はまだ、どこにも行けず彷徨っていたかもしれない。ううん、人食い鬼に食べられていたかも」

 ぴくりと華月が眉を動かした。

「知ってるよ。んでもって、あんたがどんだけ華月が好きかも知ってる。よかったな、会えて。今のあんたが多分、ほんとの月花なんだよな。そっちにも会えてよかったぜ」

「……月花、旅の話をいっぱい聞かせてくれるとうれしいな。本当に色々と」

「なんだよ、渋ってたわりには独占欲強いじゃねぇか。かわいい顔しててもやっぱ男は男だもんなぁ。大丈夫だって、なーんもないから。いや、ほんと悲しいくらい、今お前らがしてた熱烈ラブっちの欠片もなかった」

「うるさい! ラブっちってなんだよ。大体、虹の王族がなんでのこのこ出てきているんだ。虹の欠片を受け取ってさっさと帰れ」

 五人が目を見張る。警戒したように剣に手が伸びるが、シエルはそれを片手で制して、呆れたように息を吐いた。

「月の民ってどんだけ頭いいんだよ。びっくりするぜ、ほんと。月の都があんなに離れた場所になければ、お前らが地上を治めてたかもな。その力も頭も外見も。びっくりする」

「……月の民は元々天の民だ」

 華月はぽつりと呟いた。

「どうして貴方、そんなことを知っているの?」

 華月は月花にだけ優しく微笑んだ。甘く蕩けそうな笑顔だった。

「ここには古い文献がたくさんあるから。天には元々幾つかの民がいて、陽と月の民が世界を治めていた。だけど月は陽と離反した。星、雲、虹、雨、(いかずち)の民は、天よりも月について一緒に地上に堕ちてくれたんだ。星の民は月の民を守護する役目にあったから今でも近い位置にいる。他国から離れた位置にあるのもその為だ。違うものなんだ、最初はね。今はもう忘れられてしまったけれど。きっと、戻るつもりがなかったんだ。だから覚えている必要のないものとして伝承されなかったんだよ。陽の民は天の民と名を変えた。天の民は月の民を探し続けたけれど、その結界に阻まれて決して見つけ出す事ができなかった。けれど地上の民に近くなればなるほど力は弱まり、あの日侵入を許した。何千年も昔の天の王は月の民の女性に恋をしていたらしい。あ、今とは違う王だよ。けれどその女性は一族丸ごと消えてしまった。それでもずっと探していたらしいね。今の天の王を見れば、逃げたかった気持ちも分かるよ」

 自嘲気味に笑う様子に胸が痛くなって、月花は華月の頭をぎゅっと抱きしめた。

「華月は変わらず賢いわ。すごい、わたし、おべんきょうだいきらいなの」

 華月ぱちりと瞬いて、くすりと笑って背中に腕を回してくれる。

「本を読むのが好きなんだよ。でもぼくは、じゅつをつかうのがにがてなんだ」

 首をかしげたシエル達を前に、二人は額を合わせてくすくすと笑った。





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