宴の後
八月のミーティングが終わり、いつもの飲み会が終わったのは、午前零時に近かった。
二階にある居酒屋を出て茅場町から昭和通りをめざし、上野方面へと歩き出す。時折暇なタクシーが速度を落としてこちらを一瞥するが、金もなさそうだと判断してかテールレンズを見せつけて立ち去った。何台目かのタクシーがそうであるのに嫌気がさし、深夜の牛丼屋に入った。始発電車の時間までには十分すぎる時間があった。
「ご注文は」
「・・・並盛サラダセット」
「ハイ、ご注文を繰り返します 並盛サラダセットがお1つ 以上ですね」
ボケ、一人で2つも食えるかと、酔った頭で思いつつも返事は
「ハイ」
「並盛サラダセット御一つ注文です」
と、中年のカマキリに似た細い店員が厨房に向かって勝鬨声をあげた。見ると明るい厨房には誰一人いるでもなく、カマキリは今来て通路を引き返すと受けた注文を何事もなく作り始めた。完璧なマニュアル対応の動作であった。ハイ、と出された牛丼もマニュアル通りの味がした。先客はネクタイをしたサラリーマンとおぼしき青年と、疲れたジャージの中年のオヤジ。ほどよく冷房がきいた店内で、二人は無言で箸をうごかしている。
ネクタイが先に出てからジャージが店を出た。新客は来ない。何となく気まずいような気が自身を促して勘定を払うと緩んだ口元に楊枝をはさみ、膨れた腹をさすりながら重たい鞄を肩にかけて店を出た。
昭和通を上野方面へ。ぽつぽつと歩きながら、腹が膨れりゃ歩幅がちぢみエサを目にすりゃあ歩幅は伸びるかぁと、楊枝を上下にしながら歩いていると、ビルのヘコミに細長い段ボールが横たわっていた。横には大きなビニール袋に入ったアルミ缶とビニール傘、おもちゃのよな家電の小山。見事に塗装の剥げ落ちた自転車と靴がこの時間帯に合っていた。数分後、またビルのヘコミに細長いブルーシートに包まれた人型と大きなビニール袋に入ったアルミ缶。すりきれた革靴はあるが、自転車はない。また数分後、ブルーシートの人型と大きなビニール袋に入ったアルミ缶があった。
「逞しいねェ」
とつぶやくも同情心は無い。何事にも縛られない自分らしい生き方なのかという意味では感心させられるが、なりたいとは思わない。それでも労働で対価を得ているのだから、つい楊枝を捨てて
「えらいよぉ オヤジサン!」
と、何の脈絡もなく、男か女かも知らぬまま深夜の歩道で雄たけびを挙げた。ブルーシートの人型が小刻みに揺れた。
昭和通りを御徒町を過ぎると大きな歩道橋が目に入る。その歩道橋の手すりにつかまりながら、重くなった足を一段づつあげ、踊り場的な通路を入谷口へと向ける。昇るとそこにはまた階段とエスカレータとがあり、改札口に向かっている。そのエスカレーターを登り切った所の左手にはホームレスの様御一行が段ボールを敷き詰め、六人が就寝中で二人が酒盛りをしながら真夏の夜を楽しんでいた。エスカレーターを上がりきった左手奥のビルの壁際では、上下白のニッカポッカの作業服を見事に着こなした初老の男がシャドウボクシングをしてた。折り目がついたその作業服を着こなす角刈り初老は、職人の心意気を感じさせる何かがあった。
がっちりとした体躯が前に後ろに、右に左に、時に円を描き、時に頭を下げて目を輝かせ、シュッシュッと息を吐く。繰り出すこぶしは右に左に、下から上へと仮想の獲物を追い続け、見ていて切れがいい。かじったなと感じさせるものがあった。数分ほど立ち止まり、初老の足の運びと体の動きに見とれていると、幾度目かの回り込みをした時に目が合った。角刈りの初老は
「おぅ!」
と言って動きを止めた。白髪混じりの角刈り初老は、小気味よいシャドウボクシングをやめるとこちらに向かって歩き出した。壁際の街灯に映し出されていた黒い顔は思いのほか白く、目元は意外なほど人懐っこさを感じさせるものがあった。身ぎれいである。ホームレスではない事を直感した。
「おぅ あんた 何立って見てんだぁ 終電にでも乗り遅れたのかぁ」
「そうなんです つい飲んでいてそれで・・・でもいい動きですね こうシュッシュッと」
「そうでもねえよ もう年だし足が重いよ若い頃のようにはいかねえなぁ」
「そうでもないですよ なかなかのキレですよ」
「ありがとうよ そうだ どうせ行くとこないんだったらこっちに来て一緒に飲まねぇかぁ」
「えっ 飲む あっ いえ でもちょっと人を探していますんで」
「ひと 誰だいこんな時間に 人探しとは」
「女の人 ホームレスの女の人です」
「おんな ホームレスのぉ ここでかい」
「年のころは70位で 小柄な人なんです」
「女はここにゃあ いないよぉなぁ いないなぁ 下だよ下 きっと下だよ」
「した」
「そう 下だよ下 ほら交番のある階だよ この下の」
「下 そうですか 下ねぇ じゃあ行ってみます」
ひと月ほど前の7月中旬、やはり飲みすぎて終電に乗り遅れたのでいつものカプセルホテルに行く途中、この階で偶然にも声をかけてくれた小柄な白いワンピース姿の老婆に段ボールを渡され、始発が走るまでの一夜、段ボールに座り、ネクタイを緩めてあれやこれやと世間話を始めたのが始まりだった。老婆は小柄で、持っている財産らしき物といえば小さいがはちきれそうなコンビニのビニール袋が2つと、茶色く汚れた布製のバッグが1つという粗末なものだった。その白いワンピースの老婆が自分の段ボールを分けてくれたのだった。自分では、誰が見ても平凡なサラリーマンだと思っていたのだが、白いワンピースの老婆にしてみれば、段ボールも無い可哀そうな男に見えたのかもしれない。自分の姿をと見直すと、財産らしい持ち物は肩から下げていたバックが1つきりだった。
段ボールのお礼に一言ふたことの挨拶を交わし、これでは申し訳ないとコンビニに行って菓子パンとサンドイッチ、お茶とジュースを買い、自分なりの謝意を表した。初めは白く長い髪を後ろで束ねた頭を左右に振ったが、そこを何とかと頼み込むみ、下を向いてた顔をもたげてかぼそい声でお礼を言った。良くは聞き取れなかったが、お礼の言葉であろう事は十分わかった。白いワンピースの老婆にしてみれば深夜の霹靂だったに違いない。ススけたような顔に胡乱な目は、七月の蒸し暑い夜にはどこか似合っていた気がした。顔が小さかった。その小柄な体と顔と胡乱な目は、閃光な記憶となって私の記憶に焼付いた。
温まった通路の平らところに段ボールを敷き、並んで座った。小柄な白いワンピースの老婆と並んで座ると、また、か細い声で話しかけてきた。その話は老婆自身の幼い頃の思いで話から始まり、地方から若くして東京のご主人のもとに嫁ぎ不自由のない生活を送ってきたが、数年前にご主人が病気がもとで亡くなると何をどうしてよいかも分からずに日々の暮らしを送ったこと。さらに数年が過ぎた頃にはお金も無くなり何もわからずに家を出て、入り組んだ迷路のような日々を流れるままに生きたこと。好むと好まざるにとにかかわらず、今の生き方を選んでしまったこと。世間づきあいが下手で人の世話にるのも疎ましく、生活保護の話も断ってしまったこと。子供が出来なかったことが今でも寂しいことの一つだとも言った。昼間は世間の邪魔にならぬよう、目立たぬように静かに息をしているというが、その詳しい日々の行動についてはついに語らず、細かなことに話が及ぶと頑なまでの貝になってしまった。
「姉さんサンドイッチ食べなよ美味しいよ 暖かくなると痛みやすいから今食べて ほら」
「うん」
行きかう人は、老いも若きも男も女も中年も、みな一瞥しながら時には笑い、時には蔑み、時には眉間にシワを寄せて通り過ぎて行く。二人の沈黙の時がまた始まり、そして続いた。午前3時を少し過ぎたころ、小柄な老婆は横になりたいと言って、区の広報誌を広げた。話し相手が亡くなった私は、老婆のパンと一緒に買った焼酎をまだ飲んでいる。
東の空から暑い夜の闇をほんのりと薄め始めるころ、始発の電車が眠っていたレールを揺り動かし、車輪のきしむ音が朝を告げ、今日も暑くなりそうだと感じさせる時間になったところにワンピース姿の老婆を起こし、来月もまた東京に来るので会えたらいいねとか、また酔っぱらって終電に乗り遅れたら段ボールを貸して下さいとか、縁があって会えたのだからまたきっと縁がああるに違いないなどと話しかけ、だからまたここできっと会えるかも知れないなどと、思いつくままの気持ちを話した。そして、最後にこの顔を忘れないでほしいと、付け加えた。
「そうだ姉さんの名前をまだ聞いていなかった 何ていうの」
と訊いたが
「わ か ら な い」
と、か細く言った。
「自分の名前分からないの・・・」
と訊き返したのだが、またか細い声で
「わ か ら な い」
とだけ言った。それじゃあ元気でいてねと伏がちな顔を覗き込み立ち上がったが、返事は無かった。
「今日はどうするの」
と訊いたとき
「今日は カレーの炊き出しがあるから 食べに行く」
と言って広げていた区の広報誌をたたみ始めワンピースの埃をパッパッと払い、無言で階段に向かって歩き始めた。ひと月前の出来事だった。
角刈り初老の説明を頼りに、先ほど登ってきた階段を下りて交番のある階へと向かった。この階には建物と床との直角部分に背をつけて座り込むホームレスの形や、直角に背を着けて横になる形が夏の夜の闇に置かれたオブジェのように見た。段ボールをまとったオブジェと青いビニールシートの上に置かれたオブジェ、黒い塊が丸まっただけのオブジェたち。そのオブジェを右端からそれら一つ一つの覗き込むようにして見て行くが小柄な老婆のオブジェが見当たらない。違う、これも違うとつぶやきながら交番の横あたりまで来た時だった
「何してるの」
と、不審に思ったのか交番入口の若い警官が尋ねてきた。
「人を探しているんです」
「ひと 知り合いの人か誰かですか」
「まあそんなところです 70位の小柄な女性何ですが 知りませんか」
「女性?70位で小柄 ちょっと見かけないですねぇ」
「そうですか見かけないですかぁ じゃあ あっちまで見て行きます」
若い警官には見るからに怪しい中年男が、ホームレスの財産でも置き引きしているのかとでも思ったのか、言葉とは裏腹にその目は鋭かった。もめ事は起こすなよといった目でもあった。
「気を付けてください」
は、儀礼的言い回しだったに違いない。
関わりたくなかったら声なんかかけるなボケと、思いはしたが口には出せず次のオブジェを覗き込み、また次のオブジェはと頭を振りながら移動していると、一番先に今までの大きさとはいかにも見劣りする小さなオブジェがあった。建物の壁に背中をつ付けて膝を抱え込み、体育座りのようなオブジェである。あれだなと直感し、そのオブジェへと足を運んだ。通路に敷いてたのは区の広報誌であることを確かめると間違いないとおもった。ひと月前の蒸し暑い夜、この上の階で段ボールを渡してくれた老婆が自分はこれだけでいいと言って区の広報誌を広げ、胡乱な目で段ボールを渡してくれたことを思い出す。白いワンピース姿の老婆はグレーのジャージ姿に替わり、元の色が分かれぬほど見事に履き込んだスニーカーと黒い靴下の足元に替わってはいたが、白髪交じりの髪型は代わっていなかった。その老婆のオブジェの前に立ち、しゃがみ込みむと
「姉さん ねえさん 俺のこと覚えている」
と声をかけてみた。
「・・・」
「姉さん 顔をあげてみて ほら見て ほらこの顔」
促されてゆっくりとあげた老婆の顔にススけた黒さはなかったものの、胡乱な目は変わりようのない健在さがあった。間違いない。
「・・・アンタ だれ アタシしらない・・・」
「俺ねェ 一ヶ月前ぐらいに前に終電に乗り遅れて それで・・・ほら段ボールを貸してくれたじゃない 覚えてない」
「しらない 覚えてない わからない」
「本当に知らない 良く見て」
「・・・」
ひとヶ月前、終電に乗り遅れたことでカプセルホテルに行く途中に姉さんと会い、朝までここにいたらと言って段ボールを渡してくれたこと。そのお礼にサンドイッチと菓子パン、お茶とジュースで謝意を表したこと。それから姉さんが地方から東京に嫁いできた身の上話や、その日はカレーの炊き出しがあるから今日はカレーが食べられると言ったことなどを、普段会話もしないであろう老婆に分かるよう順序立てをしながらゆっくりと、そして緩やかに話をしていった。
「そおねぇ ぱん もらった むぎちゃも もらったことあった」
「そう どんな人から」
「もらったけど しらないひとだった」
「この顔 覚えてる」
「・・・しらない わからない」
「そのパン 美味しかった」
「うん おいしかった おいしかったよ」
「そう それは良かったね おいしかったか」
「よかった よ」
そう言うと老婆は抱えている細い脛を両手でさすり、胡乱な目を細めて額を立膝に付けると元の姿のオブジェになった。巻貝のオブジェになった。
薄手の白いワンピースからグレーのジャージと履き込んだスニーカーへと替わったものの、手持ちの家財はと見れば、ひと月前と変わらぬビニール袋が2つと布のバッグが1つ。衣類を詰め込んでいるであろうビニール袋には、これから来る秋冬用の厚手のもなど見当たらない。今夜は段ボールもない。後ろで束ねている長い髪は白さが増し、しおれかけているようにも見えた。小顔のシワが目立って見えたのは痩せたせいだろうか。顔のシワと体の細さは、何よりもますます寂しさを感じさせるものがあった。
だが自分にできることはパとやジュースで謝意を表すくらいなもので、何をしてあげられるものでもなく、またこの老婆も余計なことだと思ことだろう。人の世話にはなりたくない、それはヤダと言って生活保護を断ったくらいだである。これ以上この老婆の世界に踏み込むのは、中途半端なの自己満足にしかならないであろうと思えてきた。そんな気持ちになったので
「それじゃあ姉さん 元気でいてね 元気でね」
と、言い終えから立ち上がったが、返事は無かった。やっぱり少し寂しい気分になった。
「探してた女 下にいたかい」
三階に戻り、白髪の角刈り初老が座っている段ボールの前に立つと、老は開口一番聞いてきた。一人で焼酎のお茶割を飲んでいる。先ほどまで酒盛りをしていた二人組も酔いつぶれてしまったのか、横になって動かない黒い化石となっている。
三階は駅の改札口に通じる途中の踊り場的場所で、階下から続く階段がある。その階段を囲むようにコンクリートの囲みがあり、その囲みには淡い色のタイルが貼られている。六畳ほどの広さに細長くダンボールが敷かれ、酔いつぶれて寝てしまった二人を含め、合計八人のホームレスが気の向くままの姿で寝ている。勿論男ばかりである。六人はとうに酔いつぶれ、使い古したボロ雑巾をまとったようなミノムシ姿で動きもせず、その姿はまるで真夏の夜の冬眠のようでもあり、またサナギのようでもあった。風雨にさらされ汗と埃で固まった鳥の巣状態の頭がなければ、きっと人間とは気づかないだろう。
皆がそんな異様とも思えるボロ雑巾姿で寝ている特別区にいるためか、角刈り初老は少し浮いた感じがした。こざっぱりとして身ぎれいである。角刈り初老は段ボールの左隅に陣取り、淡い色のタイルを背もたれにして胡坐をかいている。胡坐の前には缶チューハイと小さな焼酎のペットボトルがかなり、数えるてみると20本もあった。お茶と日本酒のワンカップもあった。つまみは何も無かったが、タバコがあった。周りの空気を読み、一通り見渡してから角刈り初老の前にしゃがみ込んだ。
「いたのかい下に 探していた女」
と顎をしゃくりながら上目づかいでまた聞いてきた。
「いたけど 俺のこと忘れてたみたいで知らない 分からいの繰り返しでした」
「そうか しかたねえよなぁ ここにはいろんなのがいるからなぁ」
と言うと角刈り初老は焼酎をお茶で割り始め、一口飲み
「で 何で探してたんだいその女 よっぽどいい女か知り合いか だなぁきっと」
と興味を持ったのか暇だからなのかは分からないが、また聞いてきたので、ひと月前の話をした。
終電に乗り遅れたのでカプセルホテルに行く途中で老婆に声をかけられ、その老婆が持っていた段ボールを分けてくれたことと、そのお礼にパンとジュースを買ってあげたこと。田舎から東京に嫁いで暮らしていたが、ご主人が亡くなってついに家を出たことと、人との関わり合いが下手で生活保護を嫌ってホームレスになったとなど、老婆の身の上におこった話を順に話していった。一ヶ月したら東京にまた来るので、その時また会えるといいねと言って別れたことも加えた。そして今日の日を迎え、またもや終電に乗り遅れたから老婆を捜し、会えるには会えたのだが再会の歓喜とまではいかなかったことを言った。最後に、ひと月前よりも細くなったようだと付け加えた。
「しょうがねえよなぁ まぁそれも人生だ 酒でも飲んでけ どうせ朝まで電車は動かねえよ」
「それじゃあ自分の飲む分くらいは買ってきます」
「いいよ こんなにあるんだぁ いらねえよ 気ぃ使うな こんなにあるんだいらねえよ」
「いやぁ でもつまみぐらいあった方がいいでしょうから つまみぐらいは買いますよ」
言い終えて立ち上がり、コンビニにへ向かった。行きすがら周囲を見渡すと、まばらではあるが人通りはあるが、皆一様に目をそむけ、意識して特別区を避けているように思えた。街灯の温かさとは対象に、視線は冷ややかだった。なぜかはやる様なおももちで気持ちばかりの焼酎と乾き物を買うと、降りてきた階段をまた昇り特別区に戻った。いま特別区で起きているのは角刈りの初老と私だけであった。
「少しばかりのものですが・・・」
と買ってきたコンビニの袋を差し出すと
「悪いなぁ まぁ上がれや どうせ朝まで電車は動かねぇんだ 飲んでけ」
と言って勧めてくれた。そして、まあ上がれやで気づいたのだが、ここは彼らの家なのである。この段ボールが敷き詰められた限られた空間は、まさに彼らの家なのだ。ただ屋根と壁とが無いだけの彼らの家なのだ。だから上がれや、なのだ。そうと分かればとさっそく靴を脱ぎ、御免よとばかりに客間に上り込み、角刈り初老の前に胡坐をかいた。昼間の熱で温まった通路は深夜になってもあたたかく、段ボールがその熱を程よく柔らかなものにして尻に伝えてくれた。段ボールは茶色い畳の客間でもり寝室でもあった。ただ屋根と壁とがないだけの家なのだ。
「あれ 日本酒がありますね 来る前に焼酎を飲んできたので これもらいますいいですか」
「あぁいいよ いいよ焼酎もあるから後で飲め みんな飲んでもいいんだから」
と言って角刈り初老は破顔した。話し相手が欲しかったのかと思った。
イカの乾き物をつまみに温燗のワンカップを一口飲むと
「そうそう まだご主人のお名前も聞いていなかったですね なんて呼んだらいいんですか」
「俺かい おれはの名はたじまだ 田のしまで 島は山がある鳥の嶋だ」
「田嶋さんですか わたしは有賀です」
「ほぅ有賀さん で アンタ何やってんだい仕事 サラリーマンみたいだけど何やってんだい」
「仕事ですかぁ仕事は建築関係です 建築と言ったって今は福島の除染の仕事方が多いけれど」
「福島?除染 ン アンタ手配しかい みえないねぇ」
「いえいえ堅気 堅気です 素人の一般市民です 民間人のサラリーマン」
「そうか 会社の人かぁ そういやぁちゃんとした格好してるもんなぁ ここにゃあ手配師がいっぱいいるからなぁ 福島だァ除染だといやぁみんな手配師だと思うよホント」
と言うなり口元をとがらせ目線を上に向け、あいつらだァとばかりに睨みをきかせ
「ほれ!」
と鋭い目と口元で知らせてくれた。その目線の先、階段を上がった三階部分の通路には先ほどから獲物を物色しているかのような作業服姿の男が三人いるのは知っていたが、あれが手配師なのかと初めて分かった。話には聞いたことがある手配師を初めて見た。
「ここで福島だァ除染だと言って もし人の手配の話でもしてたらコノヤローとかで刺されますかね 心配だなぁ なんせ素人で一般人ですから」
「ンなこたぁねえよ だいじょーぶ刺しゃーしないよ大丈夫 あいつらだってそんな馬鹿じゃねえよ 安心しな」
「なんせこっちは素人ですから心配で 心配で」
田嶋老はニヤッと笑って焼酎のお茶割を口にした。
この特別区の事情通の田嶋老がまた焼酎のお茶割を飲みながら話すには、手配師は朝までに何人集めなければならないというノルマがあるらしく、真夜中からウロウロきょろきょろしながらシゲシゲと人物査定をし、その日与えられたノルマの人数を何とか揃え、東奔西走しながら日々のノルマを消化しているのだという。人工は1日働いても何だかんだとハネられて、結局手元に残るのは4~5千円程度。ひどい時には3~4千円の時もあるという。人工になった若いもんは可哀そうだ、飯食って焼酎飲んだらおしまいだ、その日食ったら何にも残らねえと、悲哀な内輪話をしてくれた。
その点自分はNPOが何とかと言う家に入れてくれたから恵まれていて、電気も風呂もあるテレビだってみんなで見るから好き勝手は言えないが、見れることは見れる。電話だってあるから連絡はつくし住民票だってある。生活保護が受けられるからホームレスじゃあないと持ち前の自論を通し、焼酎のお茶割を作り始め、自慢した。身ぎれいにしている訳が分かったような気がした。
「ところであんた何か一曲歌いなよ ぇえ一曲 いいだろう」
「えぇ 歌ですか ここで 一曲ぅ 歌うんですか」
「そうだよ ここでだよ どこで歌うんだぁ まさかカラオケ行こうてんじゃないんだ」
「そうですかぁ ここで・・では一曲」
「いいねぇおぅ男だ それでこそ男だぁ」
「ではと ♪~ 見よぉ東~海のぉ空開けてぇ~ 旭日高く輝けばぁ~ 天地の正気溌溂とぉ~ 希望は踊る大八洲~~」
と、腹の底からここぞとばかりに怒鳴りだした。半ばかけくそである。終電に乗り遅れた中年男のやけくそである。
その時、である。深夜の上野駅、薄明りの入谷口。まばらにいた数人の通行人、男は口を開けて身をそらして立ち止まり、女は関わりを持ったら大変とばかりに顔を伏せて足早に過ぎ去り、階段上の手配師はこれまた口を開けてバックギアの後進曲で後ずさり。ホームレスのおこぼれを生活の糧としていた平和のハトは、豆鉄砲を喰らったかのように一目散で飛び去った。皆が示し合わせたようだった。そして囃し立てた田嶋老はお茶割の焼酎を口元で止めて、目を剥いた。そんな中、カチャカチャの音とともに足早に駆け寄る複数の靴音が特別区の段ボールに近づいてきた。
「よぅ!」
と言う田嶋老の声で後ろを振り向くと、やっと制服が似合い始めた警官とその先輩格の警官が、私の後ろ2メートルばかりの所に立っていた。
「ヨッ! 見回りご苦労さまです ご苦労さん」
先制を期したのは田嶋老だった。
「あっ もう午前2時を過ぎて皆さん寝ていますから 大きな声を出さないで下さい 静かにお願いします」
と、先輩格の警官が静かな口調で模範を示し、若い警官はいくつかの動かぬ黒い塊のホームレスを見渡している。
「ど~も この人終電に乗り遅れたんだって 朝には帰るってサ心配いらないよ どうだいン 飲んでくかぁ」
「・・・」
「・・・」
「いいの?いらないの?飲まないの?ほんとに? そ~か飲まないかぁ残念だァなあ 見回りご苦労さん そんじゃあ気ぃつけてねン」
田嶋老の言葉に悪気はなく、勝手知ったる友の苦境を慮るような優しい響きがあった。警官は顔を見合わせてから
「くれぐれもお静かに もめ事はおこさない様にお願いします」
と言い終えると、普段の見回りについた。
「いつもああやって見回ってるんだぁ な~にぃ知れた間柄よぉ気にするなぁ」
と言うと顎を引き
「それにしても アンタ 腹が据わってるねぇ ここで見よ東海の空!とはねえ ええぇ!」
と言って、また焼酎のお湯割りを飲んだ。目は笑っている。
一呼吸開けて田嶋老は、俺も少しは腹が据わってると言って生い立ちを話し始めた。生まれは千葉の勝浦で、実家は元網本で船板一枚下は地獄の漁師の生まれ。小学校の頃から口荒い大人の漁師に交じって船に乗り、大人に交じってそれなりの仕事はしてみるものの、ガキの頃から何でもかんでもお下がりの8人兄弟の7番目。それでもみんなについて船に乗り、魚を獲っては小遣い稼ぎ。そんな漁師が面白くなって中学になった頃にはロクに学校にも行かず、ただ小遣いを稼いでは遊んでいた。日銭がとれるから宵越しの金など持ったことなどは無く、いつしかそんな癖がついて時が過ぎ、気が付けば7番目が漁師の家を継げるわけもなく、かといって船を買うだけの蓄えもない。見切りをつけて陸に上がって始めた仕事が建築業。建築といっても基礎や建物を造った後の内装の仕事である。
景気のいい時分はあっちこっちの現場を渡り歩き、九州から北海道まで行ったこと。現場には自分みたいな人間ばかりが集まって、夜酒が入れば怒鳴り合い、酒が過ぎればケンカになった。所詮、皆大手さんの下働きだから一匹狼という肩身の狭さ。会社というありがたい組織には一度も入ったことがないから、自分の意見は自分の意見として言い通し、自分の身は自分で守らなければならないから好むと好まざるとに関わらず、自然と腹が据わって来るもんだと言った。その穏やか口調には、重みと真実が感じられた。いつしか逃げたハトが生活の糧を求めて戻ってきた。もうすぐ午前3時になろうとしていた。
田嶋老の話が一区切りしたところで
「内装の仕事ですか クロスの 壁紙の仕事」
「いやそぉじゃねえ その前のボード仕上げだ」
「ああ ボードね 石膏の」
「そうだ 石膏ボード あれを貼っていくんだ」
「じゃあ若い衆を使っているんだ」
「俺ぁ親方じゃねえから わけぇ衆は使っちゃあいねえ いねえけどぉ 声ならかけられる」
「今のその仕事の相場って どのくらいなんですか」
「俺が行くところはいい金になるがぁ ここじゃあ手配師がハネるからぁ4~5千だな 相場はそんなもんだ」
「福島の除染の仕事があるんですけど やる人いないっスかねぇ みんなが住んでいる一般住宅の掃除みたいなものなんですがねぇ」
「除染かぁ除染ねえ どうかなぁ分かんねえなぁ」
除染とは言っても原発で作業をするのではなく、現在いま福島の人が実際に住んでいる住宅の屋根や外壁を除染液で洗い、その液を回収して指定された場所に置いたり、庭の植木を剪定してこれまた指定の袋に入れこれ、指定された場所に置く。庭の土は表層から5センチほど剥ぎ取り、同じように指定された袋に入れるがその袋はその家の庭に指定された深さの穴を掘り、指定された方法で埋め戻す。穴が掘れないような場合は、指定された場所にこれまた置くのである。これで除染かよ、と思っても疑問を持たず口にせず、ただひたすら作業に励むこと。無駄口をきかず、地域住民とはトラブルを起こさぬこと。何があってもケンカはご法度で、何事も穏便にすること。作業時間は朝9時から午後5時まで。勿論休み時間と昼食時間の休憩はありますよ、などと思いつくままに身振り手振りで話を進め、焼酎で喉を潤した。田嶋老は黙って首を上下に揺らし、ゆっくり静かに焼酎のお茶割を飲んでいる。
宿舎はあるので着替えと作業服、長靴があればそれでもう結構。洗濯機はあるので洗濯は自分でする事。朝夕の食事は付いているが、昼は自前です。休みは基本、日曜日。でも雨の日は休みになっちゃうし、雪も降れば休みになっちゃうね。盆暮れの休みは?だね。ああ、でも暮れはきっと雪で休みだね。春まで休みになっちゃうね。で、肝心なのが日当ですよね。この日当が、これらの条件で1万5千円。どうですどうですなどと、知りえている作業内容と条件を酔いのまわった頭でひねり出し、友達気分で伝えた。酔いは絶好調であった。
「若い衆に話してもらえませんか」
「そんなに 出せるんか ええっ本当にぃ えぇ」
「是非お声をかけてくれませんかぁ お願いしまっす」
「1万でも来るかも だがぁ 今すぐっつう訳には なぁいかねえなぁ」
「えっ 何か事情でも エエ 分かりますわかります」
「いやなぁ いまわけぇ衆みんな仕事が見つかって 出払って るんだ 忙しいんだ」
「分かりましたわかりました また来月東京に出てきますんで その時また会いましょう で その時までにお声をかけておいてください それで いい それで・・・ン」
「わかった じゃ あ~ そん時までに 声かけとく」
それではと視点が定まらぬ目で鞄を探し、中からノートとペンを取り出して田嶋老の下の名前はハイハイ、えっ、にんべんが付くの?にんべんが付くこの字ね、ペケペケと。はいはい住所は東京の、アララのあちらで、いいとこで、NPOがついたトコトコ荘ね。電話が03の、ホイホイ局でフンフン番で、エッ!、呼び出し、アラアラ若い子が可愛い子でぇ、でもそれって昔の若い子でしょ、エ!、今の、プリプリと、ホ~っ。エ!、部屋番号を言わないと繋いでもらえない、と。不在の時は、名前を言ってアラアラアラのラで、部屋番号がチョイチョイと付くわけですね。OK、OKです。書きました、書きました。ハイこの通りですとメモった文字は幼稚園児顔負けの、だった。
「アンタ わけぇ衆の味方だ そんだけ稼げりゃあ 自分でアパートも借りられる 所帯だって持てる 夢じゃあねぇ アンタえれえなぁ」
「あっ それからヤクザもん モンモ 指づめ これはダメです 酒飲んでのケンカ もめごとみんなダメ 働く意欲の一般人ですヨ一般人」
「分かってる わかってるょ みんな 真面目だよ しんぺえすんなぁ」
「ところで田嶋さん 背中 モンモ ないよねぇ」
「あるわけないよぉ オラっ」
と言うが早いか右の肩から肌着をずらすと、大岡越前の裁きのごとくの決め姿。
「分かりましたわかりました 大丈夫だいじょうぶ あと皆さん 住民票を取れますかぁ」
「おお それも大丈夫 みんなNPOにいるから 住所もあるし 住民票も ある じゅ~しょは ある」
「最後に 約束は守りましょうね あんときは酒飲んでたからは 無しですよ 知らねえ 忘れたは無しですよホントに」
「おおぅ だいじょーぶだ アンタはいい人だぁ おおぅ 飲め 何だまだ3本しか飲んじゃいねえじゃねえか エエ~ 飲め のめ」
「何かどうでもいい人みたいな言いっぷりだなぁ」
「ン!なんか いったかぁ」
ホームレスの特別区で人生初の酒盛りを体験し、ついでにタバコも頂戴した。マルボロのメンソールと赤ラークを立て続けに2本吸うと、喉が痛かった。4本目の焼酎のふたを開けた。風もなくなり蒸し暑いが静かな時間が流れた。街灯の薄明かりに虫は無く、空にも雲がない。通行人は誰もいない。見回りの警官も来ない。三階部分でくすぶっていた手配師はどこかに移動したのか諦めたのか、姿が見えない。田嶋老は階段を囲むタイル張りの壁に背をあずけ、相変わらずのお茶割である。ささやかな乾きものを勧めたが
「いらねぇ」
と静かに言った。そしてまた一口。暫くしてから体が傾いたかと思うと、左手で隣に横たわる黒い塊をうごかした。黒いボロ雑巾のような塊は何の反応もせず、押されるまま、引かれるままに揺れている。何度目かのゆさぶりで
「おい石ちゃん おい石ちゃん おきろ 起きろよ 石ちゃん」
と黒い塊に呼びかけた。黒い塊は田嶋老の呼びかけにいやいやながら鈍い反応を示し、汗と垢と埃で固まった鳥の巣状態の頭をもちあげた。
田嶋老が石ちゃんと呼び揺り動かした塊は、石田という名前であることは後日知ることとなる。その黒い塊の石ちゃんが着ていたのは、こげ茶色のジャージらしかった。枯れた肉体から出る汗と垢、外界からの埃と塵が混沌と絡み合って混ざり合い、更に長い年月が幾重にも層を成して光り輝き、街灯の薄明かりで黒く見えたのだった。一般にいうところの世間の風当たりが、このジャージを一層強固な鎧のように仕上げているのかのようだった。形容しがたいその黒い塊は一種独特な凄味があり、近づきがたい入谷の闇のようだった。小奇麗な佐久間老とはあまりにも対照的な白と黒だった。虫も停まらないだろうと思った。
「おい 石ちゃん みろ」
冬眠から目覚めた動物が、朦朧とした意識の中で体を起こしたような姿を初めて見た。息をのむ。アル中なのかそれとも垢と埃とが層になってそうさせたのかは定かではないが、石ちゃんの顔は黒く大きくむくんでいた。確かな理由は分からないが、体の割には確かに大きくむくんだ感じだった。そのせいか目はカミソリで切ったような細く、物の識別ができるかは疑問である。60代半ばではないだろうかと推測した。
「こんばんわ」
と挨拶をすると、石ちゃんは細い目を指の様なものでこすりながら初対面ですとばかりに、ニッと笑った。黄色い歯の前の部分が欠けていた。
「よう 石ちゃん この人 若けぇもんに 仕事 せわするって よ えれえなぁ 手配師じゃ ねえってよ 堅気だとよ」
石ちゃんに向かいそう言うと田嶋老は、シャドウボクシングをしていて目が合ったことやホームレスの老婆を探しに下の階に行ったこと。身銭を切って焼酎と乾きものを買ってくれたこと。自分の焼酎にお茶を入れてくれたこと。見よ東海の~で警官が来て、ハトが逃げたこと。そして福島で仕事をすれば、若者が自立できるかもしれないこと。その仕事の内容と日当などを、朦朧体の石ちゃんの脳に30分もかけて懇切丁寧に話し続けた。だが石ちゃんは「ふぅん」とか「はぁ」とか「ヴぅ」と言うのが精一杯で、階段を囲っているタイルの壁に身をゆだねているだけである。
「えれえよ なぁこのひと エェ そうだろぅ石ちゃん」
と田嶋老が言うものの、返事は相変わらずの「ふぅん」とか「はぁ」とか「ヴぅ」だけだった。それでも田嶋老は熱弁を続け
「おい きいてんのかぁ よぉ おい しょうがねえなぁ 石ちゃんは」
「きっと疲れてるんじゃあないんですかぁ」
と必死にカバーするも
「こんな もん なぁ~に疲れんだぁ 疲れること な~んにもしちゃあ いねえ よ」
と佐久間老が言い終わる頃に石ちゃんは、枯れ木が朽ちるように横倒れし、手の付けられない化石か石炭になった。
「だから ダメなんだぁ! だらしねぇ」
と、田嶋老は吐き捨て、石ちゃんを見下した。
手持無沙汰になった田嶋老は、今度は右隣に寝ている石ちゃんより小ぶりではあるが、かなり枯れている同じような黒い物体の足とおぼしき部分をゆすり、汗と垢、埃と塵で黒く分厚くなったジャージらしきズボンの裾を引っ張った。
「兄貴 親分 ボス おきろ おやぶんよぉ」
と今度は威勢がいい。親分・ボスと呼ばれたこのホームレスは、石ちゃん同様・以下同文の身なりであった。汗と垢と、埃と塵が混沌と重なり、くっつき固まって地層を作り、擦れてこすれて磨かれて黒く光っている。その地層にヒビが入っているのは干ばつの地割れに似ていた。風貌は石ちゃん以上でも以下でもなかった。違っていたのは、石ちゃんはタイルの壁に背をつけていたが、親分は腹を向けて寝ていたくらいであった。その親分が幾度かのゆさぶりと引張りに反応し、腰のあたりで別れるジャージらしきズボンをずり下し、やおら右手を突っ込み掻き始めた。垢とも埃ともわからぬものが雲母のように剥がれ落ち、くすんだ肌色が見えた時
「・るせえなぁ」
と上半身をあげた。石ちゃん同様、鳥の巣頭だった。やはりススけた顔に黄色い歯はないが、胡乱で濁った三白眼は忘れようのない衝撃的印象を与えてくれた。上体を起こすとまたケツを掻き、その手を前に移すと臭うような股間も掻きはじめた。
「・うるせえなぁ 聞いてるよ」
と不機嫌そうに歯茎だけの口で言った。
「おやぶん ねぇ このひと・・ 」
と田嶋老が言いかけたところで
「・るせえなぁ 聞いてるよ!」
にべもなく遮った。
「親分さんですか?」
「そおよぉ ここの おやぶんだぁ ぼす だぁ」
「お名前は?」
「なまえ? エっ おやぶん 名前 なんだっけ」
と田嶋老。
「バカやろぅ おらぁ親分だ」
の枯れた鶴の一声に田嶋老は
「・・・だって」
と言って焼酎のお茶割で喉を潤し、親分と呼ばれた塊は
「どうでもいいからさっさと寝ろ!」
と言って、元あった位置に元の形で横になった。最後通告のようだった。
このやり取りで目が覚めたのか、親分の頭の位置で寝ていたホームレスが
「お~ぉ 良く寝た」
と起き上がり、這って私の左隣にきてから胡坐をかいた。マズイ!実にまずい!どうするこの位置!この風向き、風下ではないか。先ほどから明け方の涼しい風が頬をくすぐり、焼酎で火照った体を心地よくほぐしてくれ、一句詠みたくなるほどの趣の風であったのに。そんな趣だったのに、である。真夏のすえた生きている生ゴミが何の断りもなく、遠慮会釈もなしに突然居座ったのだ。
焼酎の匂いなど赤子の様なものである。まさに玉砕粉砕、木端微塵。驚天動地に支離滅裂。空前絶後で人類滅亡。今日胃袋に入ったすべての食べ物どころか、人生そのものを吐きかけた。意識が薄れ天使が舞い降り、こちらにおいでと微笑んだ。お花畑のお釈迦様も微笑んだ。宇宙の果ての生ゴミブラックホールに落ちるような気分だった。
が、である。人は忍耐に我慢。辛抱に辛抱だ。負けてなるものか。そうだ、昔お台場が夢の島と呼ばれていたあの頃の13号埋立地。都の清掃職員は毎日が玉砕粉砕、木端微塵。驚天動地に支離滅裂。空前絶後で職員滅亡かと思われていたが、忍耐に我慢、辛抱に辛抱と重ね、根気と根性で乗り切った。今は名前も変えて人もうらやむお台場だ、俺に出来ぬわけがない。
「おぅ 浜ちゃん おきたかぁ まぁ一杯やれ やぁ」
と言って田嶋老は、この60位の男に焼酎のワンカップを渡した。浜ちゃんと呼ばれたこの男は、無言で焼酎のワンカップのセロハンをスルスルと剝き、ふたを開け、ウッウッと鼻声をあげて飲み始め、オォッオォッ~!と言った時には半分以上がなくなっていた。二度目に
「オオッ うめぇ」
と言った時には空だった。
「浜 ちゃん このひとは ねぇ」
と田嶋老は石ちゃん同様に懇切丁寧に、私がここで飲んでいる理由を一から話し始めた。その音質は、とっくに伸びきった古いテープから発せられる博物館級のレコーダーのようだった。それでも浜ちゃんは、ほ~ぅとか、ふ~ぅとか、へ~ぇとか言って、それなりの相槌を打った。風下でなければ話してみてもいいかとも思ったが、まだ吐き気がして声にならない。まだまだ我慢の局地である。忍耐である。
薄れかけた意識の中で、スズメがチュンでカラスがカ~ァと鳴き、ハトがポッポポッポと歩き出し、ネコが一匹知らぬ顔をすころ、東の空はすでに高く、雲がゆっくりと流れていた。真面目で健康的な老若男女は不健康で怠惰な特別区には見向きもせず、足早に改札口を目指している。今日はまだ平日である。
「田嶋さん 何時になりますかねぇ」
「ン~ あそこ あそこ」
と田嶋老が向けた顔の先には大きなビルがあり、そのビルの屋上にはこれまた大きな時計があった。6時半を少し回っていた。
「そろそろですね ご馳走様でした」
「・・・」
「また来ますぅ 若い衆の件 話 しておいてくださいね」
「オ~っ わかって るぅ だいじょうぶだぁ 気ぃつ けてなぁ」
「田嶋さんもお気をつけて仕事してください」
「オ~っ」
「ン 浜ちゃんにも よろしく です」
浜ちゃんは焼酎を飲むと再び黒い塊になってしまった。靴を履いて一路改札口へ歩き出せばモーゼである。人の波が左右に割れて映画の十戒状態。人は見ていないようで、実は歩きながらでも厳しく見ているものである。それとも臭いが移ったのか・・・。
スイカでピッ!で常磐線。階下には電車が入りドアが開いており、シートに身を任せば瞼は重く腰が痛く、酒臭い。電車が動き出せば眠くなり、ウトウトしながら幾度目かの揺れで電車が止まりって目が覚める。周りを見れば通勤通学の健全社員と健康生徒であふれている。その健全健康な隙間からホームを見れば、下車駅の一つ手前の駅である。ここで寝てはと、また我慢。何とかこらえていると電車は予定通り下車駅に近づいたので、やおら立ち上がる。ドアの所には健康的に育った足の女子高生とその友達とおぼしきショートカットの女子高生。ドアが開くと誰に言うでもなく、だが聞こえるように
「お酒 臭くさっ」
はたぶん、健康足。
「朝から飲んでる」
と、ショートカット。私はホームおり際に
「ボケっ 宴の後じゃぁ」
と、小さく小さくつぶやいた。朝の陽ざしは目にいたかった。
九月に入り、日々の仕事をうっちゃり寄切り投げ出して、時はに浴びせ倒して転がして何とか過ごしきっていた。何だかんだとやらねばならぬと、九月の予定を書き込む黒い表紙の手帳を見れば「中旬・田嶋老TEL」の文字がある。あれから一ヶ月が過ぎようとしているが、田嶋老相変わらずだろうか。変わらぬといえば、あの日と同じ暑い夜が今だに続いていることだった。月末には、また東京に行かねばならない仕事がある。連絡だけは早めにしておくことに問題はなく、受話を握る。
「NPOさん こちら有賀と申しますが 田嶋さんいらっしますか」
「はい、田嶋さんは出かけておりますが 夕方には戻りますので伝言でしたら承ります」
対応した声は中年らしき女性であった。騙したと思ったが、そうじゃない、田嶋老の頭の中ではこの女性はとても若く、しかも、とてもかわいい女の子なのだと思い直し
「それでは夕方 そうですね6時頃またこちらから電話します 有賀から電話があったことだけお伝えください」
「有賀様ですね 承知いたしました」
「お願いします」
今日も一日うっちゃるぞとばかりに気合を入れて何とか無難にやり過ごすし、ため息が出るころ夕焼け小焼けのメロディーが地方の空に響いた。それから雑務をこなして6時近くになったので、5分早いがマァいいかと受話器を握り、朝かけた番号にリダイヤル
「有賀と申しますが 田嶋さん戻られましたか」
「ハイ あっ朝の方ですね 少々お待ちください」
の声が終わると軽やかなメロディーが少しばかり流れ
「ハイ 田嶋です」
と、重い声。
「あっ田嶋さん 有賀です この間はご馳走様でした」
「おお 有賀さん あんときは飲んだねぇ」
と、男の会話が始まった。話の流れは帰りの電車の中やその日の二日酔い、あの日の夜の宴と見よ東海の空などなど、覚えているか、覚えてるのたわいもない男の心を思いつくままに話していく。田嶋老の顔破する様が伝わってくる。仲間が増えたと感じているのだろう。まだ破顔は続いているなと思った。
「ところで田嶋さん 来週の金曜日に東京に行く用事がありますので会えませんか」
「来週の金曜日かぁ エ~と 仕事だけど 6時以降なら大丈夫だぁ」
「6時以降ならOKですね わかりました それでは6時に上野に行きます」
「じゃあ俺は あの改札のあるところの脇にパンダのあるから そこの前にいる」
「パンだ ですか」
「そう パンダだ でかいからすぐわかるよ」
と言う調子で日にちと時間、待ち合わせ場所があっけなく決まった。
一週間後の朝、東京に行くため土浦駅の改札口をめざして階段を登ったところ、踊り場の所で若い男女が何かの制服を着てパンフレットらしき印刷物を配っていた。何の制服だろうと立ち止まって見ていると、髪の長い丸顔の女性が近づいてきた。持っているパンフレットを差し出しながら
「いま簡単なクイズに答えて頂くと、1回分の無料乗馬体験券をさしあげています 簡単なクイズですので是非いかがでしょうか」
と言う。ああ、この服は乗馬服なんだと思っているそばから、ラッキョウに目と鼻をつけた様な顔の男もやってきて
「とても簡単なクイズですので 是非いかがでしょうか」
と、口を揃える。何でここで乗馬のパンフレットを配っているのかと聞けば、最近つくば市に乗馬クラブが出来て、そのPRを兼ねて会員獲得のために簡単なクイズを行っていると言うのだ。簡単なクイズと言っても本来根が馬鹿だから分からない、と言って先を急ごうとしたのだが、とても簡単なクイズですからと髪長丸顔の女が食い下がる。そんなに簡単なクイズなら言ってみてと問題を聞けば、髪長丸顔が
「では問題です さて乗馬クラブに行ってする事といえば一体なんでしょうか?」
と言うので
「アンタ 乗馬クラブに行ってやろことと言えば決まってんじゃない そんなのは分かる」
「そうです その決まっていることを応えてください その決まっている事とは何!」
「そりゃあ簡単すぎる アンタ乗馬クラブに小龍包食べに行くかぁ?釣竿持ってサカナ釣りに行くかぁ?行かないよねぇ 洗濯にだって行かないよぉ」
「ハイ!行きませんよねぇ」
「俺にもわかる!答えは簡単!」
「ハイ!ではその簡単な答えは一体何でしょうか!」
と髪長丸顔が言えば、ラッキョウ顔の男も身を寄せ付けてきて
「何でしょう!」
と、とまた口を揃えるではないか。そこで言わぬは男の恥とばかりに
「答えは簡単! 種付けだァーーー!!」
と右手の拳を高く上げ、朝の通勤通学者に向かって怒鳴ってやった。一同大爆笑、爽やかな青春ドラマの朝の光景のようであったが、二人は絶句した。
「ご主人 ご主人 あのぉすみません 当乗馬クラブでは種付けはしません あれは別の場所でしますから」
とか細くラッキョウが言うので
「本当かよ!ええ!答えは種付けじゃあないの?何だハズレかぁ 残念だなぁ!」
と悔しがってみせると髪長丸顔が
「でもせっかく答えて下さったので特別にこれを」
と言って封筒を差し出した。何かと聞けば無料乗馬招待券だという。ハズレて貰ったのでは世間様に対して申し訳ないと頑なに固辞をしたのだが、どうしても貰ってくださいと二人が言うので、二人の顔を立てて貰うことにした。すると今度は
「それでは予約を入れておきますので すみませんがお名前を」
と言うではないか。予約って何ですかと聞けば、当乗馬クラブはすべて予約を入れて頂いておりますので、無料招待券のお客様であっても一応予約と言う形をとっております、と言うではないか。予約となれば日にち時間が指定される。
「それは無理だよ日にち時間指定じゃあ しかも平日だろう無理むり」
「いえ あのう 日にち時間指定ですが、この中から選んでいただける様になっております」
と髪長丸顔も食い下がる。見ると確かに幾つかの日にちと時間枠があるが、そうはいっても平日は平日である。仕事一途な男に無理難題の山である、結局面倒だと思いながらもしょうがねえなぁという顔つきで
「名前ですかぁ 名前は福山です」
「あっ 有難うございます 福山様ですね 失礼ですが下のお名前は・・・」
「下は雅治です みやび の 明治のじ で雅治です」
「はははははーー」
髪長丸顔は大口を開けて笑った。ラッキョウはプッと吹き出し背を向けた。
「ご主人お上手なこと」
「分かるぅ よく床上手って言われるんだぁ」
「・・・ハイ分かりました でも今度は本当のお名前をお聞かせください ネ」
「まいったなぁ まいったなぁ 本当はね木村!木村っていうの」
「木村さん?・・・まさか下の名は拓哉さんと言うのでは・・・」
「分かったぁ分かったぁ まいったなぁ もうお嬢さんスゴイ!凄すぎる」
「・・・わかりました でも本当のお名前をお聞かせください」
「分かりました 本当は有賀です ほら上着に入っているでしょう」
と、背広の上着の刺しゅうを見せて確認をさせると
「ハイ有賀さんですね 下のお名前は あっハイハイわかりますハイハイと それから確認のお電話をこちらから入れますのでお電話番号を市外局番号からお願いします えっハイ029のハイハイ局の0110番?えっ0110番ですかぁ これってもしかしたら土浦警察じゃあないですかぁ そうでしょう じゃぁ警察の方?えっ違う一般の方?一般のかた ハイ!もういいです結構です ありがとうございました」
私は朝の貴重な時間を無駄にして、電車を一本遅らせてしまった。人生とは、どこに落とし穴があるか分からないものなのである。
茅場町で用事を済ませ、上野駅には約束の時間より少し早めに着いた。約束の6時ちょうどに合う電車がないことも無いのだが、私は本屋によってブラブラするのが好きなたちである。好きな作家の多くが今では故人となり、何だか時代に取り残されたような気分になるが、好きな作家が一人だけいる。浅田次郎氏だ。だが幻冬舎のアウトロー文庫からだすあの手の本を最近見とんと見かけないのが残念でならない。やはり浅田氏は純文学よりアウトローだ。幻冬舎も読者を一人失いかけている。自論である。
改札を出ると左手にコンビニがあり、そこで焼酎と紙コップと乾きもと柿ピーを適度に買って約束のパンダの前に行くが、田嶋老の姿は無かった。5分ほど早いからそのうち来るだろうと待っていたが、6時になっても姿が見えない。少し不安になったが動くわけにもいかず、我慢と辛抱の文字が頭に浮んで下を向いていると階段を駆けあがてくる上下白のニッカポッカが目に入った。右手を大きく上げて左右に振っている。
「おぉー 有賀さん ここここ」
ひと月前のあの姿と着こなし、ズボンの織り目もついている職人らしい体躯が正面にくると
「すまんすまん まだ時間があるとおもってちょっと話込んだら遅れちゃった」
と、人懐こさを顔に出した。3分くらいの遅れにペコペコせれるとかえってこちらが申し訳なく思ってしまう。
「別に3分ぐらいですからそんなに謝らなくても・・・」
と言うのだが
「いやいや ホント 申し訳ない」
とまた謝った。
二人並んで階段を下りると、そこは勝手知ったる特別区。時間が早いのかホームレスの数が少ないが、この日は丸顔にショートカット、白いTシャツにGパンで決め、白のソックスに白のスニーカーという主婦とおぼしき中年女性が、胡乱で濁った目をもつ親分の前にしゃがみ込んで何やら話をしている。私は特別区の住人に頭を下げて挨拶をすると、気もちばかりの手土産を田嶋老に手渡した。するとまた、すまぬすまぬとまた頭を下げるので、もうやめてくれと頼んだ。全くひと月前の姿そのままの親分と、その右手側の段ボールには二人のホームレスが向き合って胡坐をかき、既に酒盛りをしている。どちらも40代中頃ではないかと思えた。親分ほどは汚れてはく、生地の柄が判別できたので、新人なのかもしれないと思った。髪はと見れば鳥の巣とまではいえず、肩まで長いだけのボサボサだった。
「あれっ 今日は石ちゃんも浜ちゃんもいないようですが」
「ああ石田も浜崎も最近見かけねえんだ どっかに行ってるんだろうよ 見かけねえんだ」
「どこかって どこに行ったんですかねえ」
「そんなのわかりゃあ どっかなんて言わねえよ そのうち帰ってくるんだろうよ たまにあるんだ気にするなぁ いつものことだ」
「そうなんですか」
「そおだ そのうち帰ってくる まあ上がれ」
「はい」
親分の前の通路には中年女性がしゃがみ込み、親分の左手側には田嶋老が座ったので私も靴を脱ぎ老のまえに胡坐をかいた。中年女性はわたしの左後ろの位置になった。親分も田嶋老も、いつものタイル壁に背をゆだねている。
早速酒盛りの準備をしなくてはとコンビニ袋を開ける田嶋老を見ていたが、中年女性と親分の会話が耳に着く。小さな声は雑踏の中で時には消され、時には邪魔され、またある時は車の騒音にさらわれていったが、それでも二人は聞き返して確認をするでもなく、身振り手振りで会話を補うでもないが意志の疎通はできているいるようだった。何やら仕事の話らしいが良くは分からない。そんなやりとりがひとしきりすんだのか
「親分間違いなくこっちに回してよ 絶対よ約束よ それから後から旦那が来るからこれ飲んどいて それじゃあアタシはこのへんで」
と言ってコンビニ袋に入った数本のワンカップの焼酎を置くと
「わかってらぁ よく言っとくからぁ 任せとけぇ」
という親分の声を確かめるようにして聞くと、中年女性は立ち去った。ハッキリとした口調は勝気のある性格ではないかと思った。
夕暮れ時の特別区で極楽トンボを決め込むぞと浮かれていると、何か、どこか違う臭いのするオールバックの小太り中年オヤジが私の左後ろにしゃがみ込んだ。中年女性と同じ場所だった。どこか違う臭いと言うのは嗅覚で感じるのではなく、視覚から感じることが多々あるものだ。同じ臭いがするというのは時として同業者だという事を表す事がある。この臭いの元は何だろう。明るい色が緩やかに混ざり合った厚手のTシャツの前にはラメが入り、首には太めの金のネックレス。腕には立派な時計と水晶のブレスレット。下はGパンに白のソックスと白いスニーカーだった。50になったかどうかは分からないが、この臭いは身に着けている装飾品から発せられている事だけは分かった。派手なプロスポーツ選手上がりでは無いことは確かだ。
オールバックは特別区の住人とは旧知の中らしく、ここ大丈夫かと親分に確認してから靴を脱ぎ、上り込んだ。胡坐をかき、私と並んだ。どうやらこのオヤジが先ほどの中年女性の旦那らしい。
「どうも 私 最近 田嶋さんと知り合った者です」
初対面の自己紹介をすると
「いやぁハイ 私は 山口です」
と意外なほど丁寧は話し方だったのでちょっと的外れの気がした。それでも風体が気になるので
「何をなさっているんですか 私は建築関係ですけど」
などとありきたりな事を装い、それとなく聞くと
「私は勝手気ままな自由業です」
と返ってきたので
「自由業!ですか うらやましいなぁ」
と平凡な相槌をした。
「そうですかぁ 自由業は大変ですよ 保証はないし ほんと大変ですよぉ」
口数はそれほど多い方ではないと感じた。
一通りの社交辞令が終わるとオールバックの山口氏は、親しいであろう親分と最近の人の流れと集まり具合、若者の行き先と懐具合などを話し始めてから、今回はこれでといいながらながら指を立てた。そんな事をしながらやる自由業とはいったいどんなものなのか知りたくなったが、ここで口を挟むわけにもいかなかった。人の動きをホームレスの親分から聞だし、それをお金に変える自由業とはいったいどのような職業なのだろうか。何か特別な職種の為に身分を隠して調べをする覆面調査員か、はたまた区の民生委員なのか、妄想は膨らむばかりであった。
「よぅ 有賀さん 何難しい顔してんだよぉ 飲めよ できたから」
見ると焼酎のワンカップと乾き物が二人の膝の前に並べられていた。田嶋老は相変わらずのお茶割を自分用に準備をして飲み始め、私は焼酎のふたを開けるとストレートで飲み始めた。話はひと月前の出会いから始まり、お互い約束を守った男同士だと自画自賛してからそれでもあんたの方が少しだけ上だ、いやいやアンタの方がほんの少しだけ上だと他愛もなく言いあった。
オールバックの山口氏と親分は、特別区の雰囲気とはほど遠い神妙な顔つきでまだ話し込んでいる。こちらは田嶋老と極楽トンボとなる入り口にさしかかっていた。親分の右隣の頭の中はすでに満開状態の放心状態で、何を話しているのか唸っているのか言葉なのか雑音なのかわからないが、以外にも節度を守っているのでボリュームは控目である。六人が三つに分かれての六者三様である。夕暮れの通行人は男も女も帰宅の途に着く人ばかりなのか、無言で改札口に向かう人ばかりである。陽が落ちて、なぜか車の騒音だけがあわただしく感じるようになった。
互いに2本目の焼酎が無くなり3本目に移るころ
「いやぁそれにしてもこのあいだは よく飲んだあなぁ あの日だいじょうぶだったぁ 仕事」
「いやあ参りました でもこれ 朝にこれを飲んだから午後には何とか抜けました 助かったですよ」
と私は上着のポケットから携帯用の小さなアルミの袋に入ったサプリを出した
「なんだ それっ」
「これ! 酒のみの強い味方 レイドックス 正式にはスーパーレイドックスと言うんですよ」
「れいどっくすぅ なんだそりゃあ」
「システインペプチドです レイドックスの成分 グルタチオンの方が分かりやすいかなぁ」
「そりゃあサプリかぁ 何の事だか分かんねぇが ウコンみたいなやつかぁ」
「まあそなとこですが でももっと効くし比じゃあない グンバツ パーペキですよ」
「ぐんばつ?ぱーぺき? 何だそりゃぁ」
「抜群によくって パーフェクトな完璧っていう事です」
「ふ~ん まあスーパーって言うくらいだから いいんだろうなぁ」
「今日は帰りがけにこれ飲んで帰れば明日はOKと そう言う事です ところで田嶋さん 先月の話ですけれど・・・」
と頃合いを見て話を本来の路線に変えると
「話しぃ あぁ言った言った福島の除染 言ったが今若けぇ衆は何でも今仕事が忙しくて 長期に出かけてしまっていねぇんだ」
「長期って まさか ちょうきけい じゃあないですよねぇ」
「長期刑ぇ 違うよ 長期の仕事が入ってみんな出払ってしまったってって事だよ」
「ああ、長期出張なんですね」
「会社では そう言うんか ちげぇねえ だから若けぇ衆は集められねえ」
「そうですか人がいないんじゃあ 仕方ないですねェ」
と言いながら膝もとの乾きものに手を出した。その会話を隣で聞き逃すことなく、鋭く捉えたオールバックの山口氏が上体をこちらに向けると先ほどまでの目とは違った据え方で
「アンタ 何処かの前の手配師かぁ」
とマジ顔で言いきった。佐久間老田嶋との話は途切れ、空いた口が開きっぱなしになった。アルコールで赤く染まりかけた顔が一転して青く変わった。黄色のない信号になり、極楽トンボは地に落ちた。
「アンタ ここじゃあ人集めは難しいよ やめな」
言葉が少ない分、妙に威圧的だった。そうだ玄人だ、本物だと直感した。宝くじなら大当たりである。
「平山さん この人一般人 会社員 普通の人だよ」
田嶋老も焼酎が入っているとはいえ、突然妙なことを言うものだと思った。山口氏を平山さんと間違えて言うなんてどうしてだ、そんなに酔っぱらっているとは思えないが。酒盛りがが始まってまだ30分も経っていないのにである。
「それじゃあ親分 また今度」
と言ってオールバックの山口氏は立ち上がり、後も見ず駅に向かって歩き出すとあっけなく人の波に消されていった。そこにあの臭いは感じられなかった。
「田嶋さん 平山さんって 誰のこと」
「ンン 平山さんって誰って言ったって 今の人 有賀さんの横にいた人じゃあねえかぁ」
「ええっ 山口さんじゃないの今の人 俺には山口だって言ってたよ」
「山口ぃ ンン? 山口ぃ? エエぇ 山口? あぁ!山口ねェ」
そう言い終えるのが早いか田嶋老は、右手の人差し指を右頬にあててスッと線を引き
「山口だぁ」
と言った。私はプロにその手のポロと間違われていたのだろうか。
「これですか これ」
と言って我ながらちょっとアマチュア的な線を右の頬に引き、田嶋老の真似をした。
冗談じゃない。それじゃあ立派なプロの玄人が素人を相手にプロと見ていたのか、冗談じゃない。こんな顔をしていても気の優しい善良な一般市民である。税金だって滞納はするがちゃんと利子をつけて収めているし、消費税だって酒税だって、タバコ税だってガソリンの揮発油税だって二重取りだとわかっていても払ってる。お店でごねた事など一度もない。車だってキチンと車検を受けて重量税も払っているお手本的な一般市民なのだ。間違いない。
「それならそうと 何で合図してくれないのぉ 目とかで」
「大丈夫だよ ここにいれば大丈夫だ」
田嶋老は焼酎のお茶割を飲みながら笑うばかりである。遊ばれているような気がした。
事情通の田嶋老によるとオールバックの中年は、このあたり一帯を地盤にしする手配師の元締めだというのだ。この日は何人、この日は何人だと注文を受けると若い衆を使いノルマを課し、集めた人工を車に乗せて現場に送っているという。朝晩の食事は無いが、昼食は元締めの持出しだという。長期の仕事で人工が集まればかなりの実入りになるのだが、最近は集まる人工が賢くなり、ああだこうだと互いに携帯で情報を交換し合っては少しでも条件の良い所に行ってしまうのだという。ある長期の仕事では、深夜に宿泊先を抜け出した人工がもっと条件のよい仕事場に向かい、自分から進んで売り込んでいったという強者が現れたとか。
もともと手配師と集めた人工とに雇用契約書などあろうはずもなく、口約束のピンハネ付きだからどうしても目先の金に走ってしまう。当然と言えば当然のことであるが、そうなってしまえば手配師の面目は丸つぶれで、挙句にどうするこうすると仕事先から締め上げられ、すったもんだの末に罰金刑で一件落着とするのだという。だから、あれはあれでなかなか厳しい仕事だとも言った。他人様が思うほど楽な仕事じゃないと手配師をかばった。仕事には、他人には分からぬ苦労と危険が付きまとうものなのであるとも言った。
それならと矢島老の生活をと聞いてみれば、これがなんとも素晴らしい。老も何年か前までは半ばホームレス状態が続いていたが、ある日、NPOの誰とかさんに声をかけられアパートに入ることになった。入居といっても金もなければ保証人もいない。そこでNPOさんは田嶋老を伴って区役所に赴き、アパートの住所で住民登録をした。当然この年で財産も無ければ金もなく、実家とは50年も昔に音信不通の縁がチョ状態。身寄りもなければ知人もいない。生きていくのが極めて困難、死ぬしかないと福祉課の受付で立て板に水の演説会。嗚呼何と悲しや我が人生、かくして老は生活保護の申請をして受給を確保した。
毎月13万2750円なりの大金を受け取るとNPOさんに持って行き、ひと月の部屋代5万円、一食500円の食事が日に3度で月30日計算で4万5000円、電気代と風呂やトイレの共益費が1万1000円、その他雑費で4000円、〆て11万円也を払うと目出度く3畳一間の城主になる。残ったお金はお小遣いとなってお茶割に消える。食事は一食でも食べなければその分は戻ってくると言い、風呂は3日に一度でテレビは皆で見る。見たい番組でケンカになるから老は特別区で焼酎を飲む。小遣いが足りなくなると幾日か仕事に出て、生活保護制度にに抵触しない範囲で稼いでいる。
このやり取りを聞いていた親分は一人手持ちぶたさになったのか、中年女性からもらったワンカップの焼酎に黒い唇をつけヴィヴィと流し込む。黄色い歯もない口は便利である。黒くススけた顔に白く濁った三白眼と暗黒色の地層を巻き付けたような風貌は、風向きによっては異様な臭いを周囲にまき散らす。ゴボウの様な指でワンカップを持つ姿は、ある意味親分の凄味があった。
「・・ところでアンタ どっから来たんだ」
と親分が突然聞いてきた。身元調査であろうか。
「どこからって 茨城ですが・・・」
「・・いばらきぃ」
「そういえば 親分は茨城でしたよねぇ」
田嶋老が割り込んできだ。新人らしきホームレスは、すでに泥雑巾のようになって動かないでいる。
「親分は茨城でしたか」
「むかしなぁ 昔 だぁ」
「茨城のどちらですか 私は土浦ですが」
「つちうらだぁ ほぉ~お つちうら 俺は竜ヶ崎だ しってかぁ」
「知ってますよ竜ヶ崎 6号から牛久に向かって沼の所を右に入る 知ってますよ」
「ほんとかぁ じゃあ 砂町 しってかぁ」
「勿論知ってますよ 6号から入って竜ヶ崎の砂町 更に過ぎれば新利根 河内と あっ今合併して名前変わったけど・・・」
「そうか 新利根 河内 知ってっか・・・そおか」
親分はススけた顔をこちらに向けると胡乱な三白眼をパチパチさせ、私の顔から遠い過去の記憶を引き出そうとしているように思えた。目が幾分和らいだ気がした。意外な展開になってきた。
特別区の親分が茨城の生まれでそれがなんと竜ヶ崎とは、何と世間は小説のような話である。その親分が東京に出てきたのは半世紀以上も昔のことで、誰しもが立身出世を夢見ていた時代であった。一旗揚げてお国入りをするのが男の甲斐性と思われていた時代でもある。親分もそんな男の一人だったという。職人として働きだして稼いだ小銭を貯めて、好きな女と所帯を持った。そこそこ暮らしも楽になり、サァあこれからというときに遊びを覚えてしまったという。遊びといったら飲む、打つ、買う、の三拍子。なあに、金なんぞはこの腕でとは言うものの、思い通りに世の中は進まない。金がなくなりゃあ女房は子供をつれて家を出る、女房がいなけりゃ酒を飲み、飲んでつぶれりゃ明日の仕事が出来ない三重苦。生まれた土地にも帰れず仕舞いのホームレス、上野に来てからはいつしか誰言うともなく親分となった。
垂れかけてるまぶたで濁った三白眼を閉じると黒いゴボウの様な指で鳥の巣頭を掻き、一息ついてから焼酎を飲みほして
「バクチが一番悪いなぁ バクチが・・・ 後は わすれたぁ」
と暗くつぶやき、ゆっくり倒れて化石になってしまった。車は広い道路で変わらぬ騒音を立てているが、人通りは途切れがちな静けさだった。秋風を感じてビルの時計を見たら、午後9時半を少し過ぎていた。
田嶋老に声は無く、暫くたっても黙っていた。初めて聞く親分の過去を焼酎のお茶割で流し込み、自分の腹に収めているようでもあった。その親分の過去が田嶋老の過去にダブったのか、それとも腹にたまった過去が苦しくなったのか
「しらなかった 親分がねぇ」
と短く吐き出した。老の声に先ほどまでの快活さは無く、二人だけのお通夜の様な酒盛りになっていたが、それでも焼酎だけは離さなかった。
「バクチが一番わるいかぁ バクチが」
と私もつられて吐き出した。なるほどバクチは勝てば勝ったでまた行きたくなり、負けたら負けたでまた行ってしまう、身が亡ぶ麻薬のようだと思った。事実、親分は自爆した。
「有賀さんはバクチ やるんかい」
「私は30年前にパチンコをやったのが最後です」
「パチンコかぁ パチンコはバクチじゃあねえだろう」
「同じようなもんです」
親分は化石のままのダンゴ虫、新人二人は寝返りを打つのが精いっぱいの枯れ枝姿。それに加えて見るのも寂しい男が二人、秋の夜にお通夜のような酒盛りをしていると
「ああ いたぁ~ おじさんいたぁ~」
の若い弾んだ声が入谷口に響いた。振り向くと二十歳を出たか出ないかの麗しさ。髪は短く白のブラウスに紺のスーツ姿でハイヒール。左手には小さな女の子の手をしっかり握り、女の子は2・3歳くらいと思われた。童女は髪を背中まで伸ばし、フリルの付いたピンクのワンピースに白のソックス、かわいいピンクのスニーカーを履いていた。特別区にはあまりにも場違いの装いと雰囲気だった。この二人はオーパーツかと思った。
「おじさんいたぁ 久しぶり 元気だった」
「おおアンタか 久しぶり 元気だよ どうだ一杯やるかぁ」
田嶋老は焼酎のワンカップを差し出したが
「いいの 今日はいいの それよりお酒買ってきてあげる ねっ」
と言うと、童女のを手をにぎり、今来た通路を引き返した。
「田嶋さん ねっ!あの子田嶋さんのこれっスかぁ」
とからかいながら、左手の小指を立てた。
「ばか なにいってんだ 年が違いすぎるじゃねえか」
「年なんて関係けぇねえでしょう それにしてもかわいいねェ」
初老と中年が忘れかけていた青春を思い出し、若い余韻を感じていると
「ハイ!これ」
と言うなりコンビニの袋を差し出した。中は焼酎のワンカップ数本とイカの乾きものだった。
「ありがとうね すまないね」
と頭を下げながら田嶋老が礼を言い、私は黙って会釈した。二人の間には空のカップが8個ある。
「どういう関係ですか」
と酔った頭で単刀直入に聞いた。若い母親が話すには、三週間ほど前の夜に雨が降り濡れて帰るしかないと歩いていると、特別区のこの場所にいた田嶋老が持って行けとばかりにビニー傘をあげたという。へぇ!優しいねと思い、田嶋老を見てから
「それがキッカケ ねえぇ」
「いやいや 本当はもっと前から知ってるんだ」
と意味深な返事をした。童女は黙ってクリッとした目をこちらに向けてる。ああそうかと思い
「ハイ これ」
といって小袋に入った柿ピーを二袋あげると喜びを飛びあがることで表現し、両手で受けると若い母親の顔を見上げた。食べていいかと母親に尋ね、いただきなさいの許しが出ると女の子はピンクのスニーカーをぬぎ私の左に正座して、開けてもらった袋に手を入れた。童にしては身の処し方が美しい。しかもかわいいのである。ポリポリと食べる音さえかわいいのである。
「お嬢ちゃんのお名前は何といいますか」
「・・たさき なな です」
「なん歳ですか」
ななちゃんは柿ピーをつまんでいた右手をワンピースでサッと拭くと、小さな指をVの字にした。それを見た母親が正座する娘のわきにしゃがみ込み、耳元で優しく
「もう3歳になったんじゃないの」
と言うや、握っていた指をもう1本あげてWの形にし、穢れのない目で私を見た。その瞬間である、このまま家に連れて帰ろうかと思った。かわいい、かわいい、本当にかわいいのである。誰が何と言おうと、かわいいのである。
「3歳じゃあ 年少さんかな・・・」
ななちゃんは若い母親の顔を見て、良くわからないという目をした。
「そうです 年少さんよねぇ」
と、ななちゃんの顔を見ながら母親が答えると、童はこっくりと頷いた。
「じゃあ おともだちいっぱいできたかなぁ」
と聞けば、今度は正座をしていた足を伸ばして立ち上がり、背伸びをすると両手を高く夜空にあげて大きな円を描くようにして降ろすと
「こぉ~んなにぃ~」
といって笑顔の目を輝かせてると、小さな体は何度も段ボールの上で飛び跳ねた。長い髪が宙を舞い、ピンクのワンピースが揺れて白いソックスが段ボールを幾度となく蹴った。幼い笑顔と笑い声は特別区の淀んだ空気を一掃したようだった。ダメだダメだ、ああもうダメだ。帰る帰る、連れて帰る。捕まってもいい、新聞に載ってもいい、帰る帰る、連れて帰ると頭の中はエンドレス状態。このままではやりかねぬと思った。調子に乗ってななちゃんの横に立ち並ぶと
「こぉ~んなにぃ?」
と言いながら真似をして飛び跳ねたのだが、息切れをしてめまいがした。少しふらついた。それでもこんなことには負けじと自分に意地を張り
「よぉ~し 今度は高い高いをしてあげる」
と言ってしまった。自分への意地で言ってしまった。
今度はななちゃんの前に立ってからしゃがみ込み、両手を高くあげさせると
「今度はロケットだぁ 高い高いだぁ」
と言って勢いよく立ち上がり、自分の両手も高く上げた。夜空に再び幼い歓喜が響き渡った。まばらな通行人も足をとめ、いつもとは違う顔で白い歯を特別区に向けた。幼い歓喜が3度続いた。
ななちゃんと若い母親は幾度も礼を言うと、もう時間も遅いし明日もあるしと切り出して改札口に向かって行って歩き出した。5メートルも行かぬ間に奈々ちゃんが振り返り、小さな手でバイバイをした。もう寂しくて声が出ない。
「ありがさん 顔色 わるいよぉ」
右に焼酎左にイカの乾きを持ち、田嶋老は崩れかけながらも気にかけてくれた。確かにたしかにそうである、自分でもわかっている。一回目の高い高いで腰が痛み、二回目にはめまいがして、三回目には、一瞬ではあったが目の前が停電状態になったのだから、若くないなと思い知る。
「赤鬼が青鬼になったんかぃ」
「・・・」
「さっきのぉ 何とかというスーパーサプリ もう飲んだ方がいいんじゃないの」
「・・・」
まだちょっと声を出せずにいるので、何とか左の掌で声を遮って
「・・ちょっと・・」
と精いっぱいの声を出す。酔って青いのだはない、あまりのも激しい運動で息が苦しいだけなのだ。大丈夫!大丈夫!意地でも、意地でもである。その意地で何とか呼吸が楽になり
「田嶋さん さっきの奥さん 本当は前から知ってたんでしょう 正直に言ったらぁ」
「ははは~ 別にかくす気はねえよ」
と意味深な笑いの後にイカの乾きを口に入れ
「じつは なあぁ」
と言うと、こんどは焼酎をちびりと含んでクチャクチャ顔を撫でまわし
「じつは なあぁ」
「ンンなぁ もったいぶって」
の催促に、崩れかけた体を前にしてクチャクチャ顔を突き出して話しはじめた。
事情通の田嶋老によれば、先ほどの若い母親は2時間ほど前にいたアノ平山さんの息子の嫁で、息子は別の場所で手配師をやっているという。つまり中年女性がオールバックの奥さんで、若い母親が義理の娘で、高い高いやった童女が孫であるとのことだった。頭の中では点と点が丸くなり、丸い形は玉となり、家族と言う絆で通してみればそれは立派な数珠になった。が、である。それにしては苗字が違うのではないかと思い
「田嶋さんそれにしては苗字が違いますよ おかしいよそりゃあ おかしいぃ アンタ間違ってる」
酔っている割には我ながら鋭い指摘と思ったが
「それはなぁ 孫が可愛いいからだよ 孫がかわいいからイジメられないようにだなぁ 嫁の方の苗字にしてるんだ わかるかぁ」
「はぁ なんでです」
「何でですかって いいかぁ 孫が幼稚園に行きゃあ父母会があるわなぁ そこには亭主の職業やらなんやら書き込むわなぁ まあ職業なんて何とでも書けるが苗字と名前とくりゃそうはいかねえ 見る人が見りゃすぐわかるは ましてや父母の中に警官の旦那か女房がいてみろやぁ なぁ手配師だぁ わかりゃ親子ともどもハチの巣になっちまぁがなぁ 分かんだろうそこんところ」
「なるほどねぇ そうゆう事ですか 子育てはたいへんですねぇ」
「アンタだって子供いるんだろう そのくれぇ分かんなきゃぁ なあ」
「ああ 私は一人もんで子供もなしですから」
「へ~ぇ 一人もんかぁ アンタ へぇ~」
「田嶋さんは どうなの」
「見りゃあ 分かんだろう見りゃ いりゃあこんなとこで酒飲んじゃあいねえよ」
「そうだよね」
そう言い合うことでお互いを慰めているようだった。
若妻は週に何時間かキャバクラに勤めてはいるものの、たまにはこうして特別区の新入りホームレスの入居情報や、古株古参から何らかの情報を得ているらしかった。一家総出のチームワークで家業を盛り立てているようでもあった。なるほど自由業は大変であるなと、変なところに関心をした。親はかわいい子供のためには身を粉にするとは良く聞く話だが、なるほどなと感じた話でもあった。こんな狭い段ボールの空間でもその人なりの生きる道と、そこから日々の生活を得ようとする仕事があるが一方で、軽蔑さげすむ世間の目もあった。田嶋老は目をつむり、タイルの壁に寄りかかり半ば崩れかけていた。
ビルの上の大きな時計は午後11時を過ぎていた。今夜は最終で帰ろう、そうすれば土浦止まりだから乗り越す心配もなく安心して寝てもいかれる。崩れかけている田嶋老も、今夜は自分の城に帰って寝るだろう。私は空になったカップや乾きものの袋をコンビニ袋に詰め込むと、
「田嶋さん また来月東京に来ますから 覗いてみます 居たらよりますよ 親分や皆さんに宜しく言ってください それじゃあこれで」
といって靴を履き、ゴミ袋片手に改札口に向かった。少し歩きかけたところで
「おぅ げんきでなぁ」
の声が深夜の入谷口に響いた。笑い声に近かった。
この時間帯なら太い足に酒臭い、とは言われまいと思った。
暑かった夏も十月に入ると朝夕の冷え込みが肌を刺し、四季の移りを感じさせていた。私の生活はといえば、1ヶ月前も2ヶ月前も1年前ともさほど変わってはおらず、その日の事をその日にうっちゃっては寄り切り、また時には浴びせ倒しをしながらも、その日その日をしのいでいた。黒い表紙の予定帳を開いても、十月の欄に田嶋老との約束事項は書いてはなかったが何故かちょっとは気にかかる。このところの朝夕の寒さがそう思わせたのかも知れなかった。
何ともいえモヤモヤ感が午後になってもくすぶっていた。また末には東京に行くのだからチョットだけ、チョットだけ覗いてみよう、田嶋老がいなければ別段寄る必要もない。いてもその時の気分が乗らないようなら遠巻きで見ていればいいと、自分なりの言い訳を探していた。東京には十月の二十日前後で予定を組んだ。
毎月のことながら打ち合わせは午後5時前にカタが付き、天下晴れての御赦免となった。この解放感を何度味わっても飽きがこなのは、きっと自分は仕事という作業には向いていないのだろうといつも思う。仕事が趣味だと言う人がたまにはいるようだが、口が割けても私には言えないし、言う気もない。
いつものように本屋に向かい、何が目新しいものでもないかと歩き回ってはページをめくり読みあさる。これほど有意義な時間つぶしはないだろうと思う頃には時も過ぎ、そろそろかなと思う6時になっていた。店を出て特別区を遠巻きに見てみると、親分の左に田嶋老が胡坐をかき、例のタイルに背をつけて座っている。その横には、また初めて見る50代くらいの幾分ススけた顔の男が胡坐をかいて笑っていた。三人とも焼酎のワンカップを持っていた。三人とは少ないなあと思いながら見ていると、もう一人がビニール袋に入った酒とつまみらしいものを持って現れ、親分の前に胡坐をかいた。どこか見た覚えがあるなと思い、誰だ誰だと考えているうちにふと気が付いた。浜ちゃんである。あの日の朝方にやおら起き出して、私のわきに座って焼酎をあおった13号埋立地の浜ちゃんである。今日は別人のような小ざっぱり感が漂い、まるで別人28号といったところだった。何だか急に懐かしく思え、気が付けばコンビニに向かっている自分がそこにいた。
焼酎のワンカップといつものイカの乾き物、そして柿ピーを買うを今度は特別区へ向かう。段ボールの前にしゃがみ込むと田嶋老がよう有ちゃんと言い、親分が茨城かぁと言い、50代くらいの新顔は黙って頭を下げた。浜ちゃんはあん時のぉと言って思い出してくれた。コンビニの手土産を渡すと、三人の
「上がれ上がれ」
の声に勧められるままに上り込み、田嶋老の前に胡坐をかいた。ひとしきり親分と田嶋老のその後の生活ぶりを聞いた後
「それにしても浜ちゃんの姿が変わったので 最初遠くで見た時は分からなかった 別人だねェ」
と話を浜ちゃんに向けると
「そうですかぁ あっいやそうかもしれないですね 実はあれから仕事が見つかってアパートも借りられるようになったんですよ」
と笑みをみせての得意顔だった。そして良かったよかったの大合唱で乾杯の音頭となり、またしても酒盛りの特別区になった。四人が焼酎を飲み、カップの半分がなくなる頃、話題は当然浜ちゃんの立身出世物語となった。
九月初めの朝だった、浜ちゃんが週に一度の炊き出しのに並んでいると、脇の方から近寄ってくる若い男と目が合ったという。割り込みかと思ったらこれが手配師で、関西の方で仕事があるというではないか。順番を待ってその日の炊き出しをもらうと、手配師が据わっているベンチに自分もすわり食べながら話を聞いたという。
仕事の内容は土木作業だが、何せ急な工事の突貫だから実入りがいいし条件もいいと言う。この手の話にはいつも落とし穴があり、どっぷり落ちては泣いてきたのだからあまり信じてはがフンフン、はいはい、へえへえと聞いているうち腹も膨れてその気になり、ポンと腹をたたいて行くことに決めたという。 仕事は朝から晩までの土木作業で二交代制、三食付で住む所もある。6畳の部屋に二人だが、テレビがあって見放題、勿論風呂もあるし洗濯機もある。真面目に仕事をしていればお金はかからない、そればかりか当面の着替えと支度金が1万円出るという。こんな夢の様な条件がついて働いて、1日なんと8000円、月末にはまとまって貰えるというのだ。浜ちゃんは飛びついた、話半分でも4000円にはなる。
そうと決まればと手配師は、紙袋に入った着替えと1万円を浜ちゃんに渡して車に乗せ、銭湯に向かったという。銭湯では当初店主に断られたが手配師が平身低頭懇願し、それならばと店主が条件をつけてOKになったという。その条件が湯船に入る前に何度も何度も体を洗い、頭を洗って歯を磨き、きれいさっぱりしてから湯ぶねに入ることだったという。
店主がにらんだ通り、浜ちゃんの体から流れる泡は周り一面泥の泡だったという。手配師も浜ちゃんが体を洗えば洗うほど中身が消えて無くなるのではないかと心配したらしく、いつまで洗えば綺麗になるんだと聞いたという。浜ちゃんも、お風呂がこんなに疲れるものとは知らなかったと言った。そして湯ぶねに入って上がった時には、体全体がスースーして軽くなった様だったともいった。実際、癒せたかもしれないと思ったという。浜ちゃんの独り舞台である。
焼酎を飲みながら三人は腹を抱えるやら転がるやら、空きっぱなしの口を手で閉めて喉の渇きをおさえたりした。行き交う人たちは何がそんなに可笑しいのかと不審に思ったうようだが、こればかりは最初から聞いていないと分からないだろう。かくして浜ちゃんは他の三人とともに手配師の車で関西に向かったのだった。
向こうでは突貫工事で休みがなく、少し仕事はきつかったが他の条件は手配師が言っていた通りだったという。浜ちゃんはその日の日当はその日のうちに貰う主義だったが、今回は最初から月末の約束だから仕方がないと一抹の不安をかかえながらも仕事に励んだという。そして待望の月末、何と夢の様な金額が約束通り浜ちゃんに支払われた。震える手でそのお金を貰い、一旗あげての凱旋であった。
「よかったなぁ浜ちゃん 本当に良かった 芽が出たなぁ」
と田嶋老が言えば胡乱な三白眼の親分も
「よくやった おとこだなぁ よくやった えれえやなあ」
と続き、感極まった私も
「頑張りましたねえ よかったよかったですねぇ よかったですねぇ」
という言葉しか見当たらないほど喜んだ。新顔のホームレスは置物の赤べこよろしく首を上下に動かして喜んでいた。
「で 浜ちゃんこれからどうすんるだ これからよぉ」
と言って田嶋老は浜ちゃんの顔を凝視した。老はここまで立ち直った浜ちゃんを、またこの特別区に戻したらこの男の人生はもう無いだろうというような口っぷりである。親心からである。
「それなんですが 関西でまだ仕事があると言うのでまた関西に戻ろうかな と・・」
「よく言った それでこそ男だ 浜ちゃん」
田嶋老の言葉はここにいる皆の気持ちを代弁した様な言葉だった。三人が三人とも頷いた。
「おい浜 おめえはまだ若い いつまでもこんなところにいるんじゃねえ いいな わかったな」
親分が思うところの心を感じ取った浜ちゃんは
「有難うございます ありがとうございます これまで何かといろいろと・・・」
と涙を流して言葉を詰まらせた。そして詰まりながらも、これまで何かと飲ませてもらったお礼とご馳走になったおにぎりやパンの美味しかったことなどを言った。
「そうか で いつまた関西に行くんだ」
と田嶋老。
「あすの午後には また手配師の車でいきます」
「そうか じゃあ今夜が過ぎればまた会えないかも知れねえなぁ 寂しくなるがそれが いいことだ」
「たじ そんなこたぁ言うな 寂しいなんて言うな 浜の門出じゃあねえか いいか浜 もうここには戻って来るなよ いいな わかったなぁ」
「はい がんばります がんばります」
私には何も言えなかったが、この人達の優しさは世間一般のほかの誰よりも厚いと思った。互いに食べ物を分かち合ってきた分、その分、厚いと思った。
「そうとなりゃあ 門出の酒だァ 浜ちゃんいいよなぁ」
田嶋老の声に浜ちゃんはコクリと頷き、頬を伝う涙をぬぐった。浜ちゃんがどうしてこの特別区に流れ着いたのかは知らないが、やはり親分や田嶋老そしてこの新顔のホームレスに至るまで大小の違いはあるにせよ、何らかの重荷を背って来たのであろうことは想像に難くない。午後九時四十分、今日も終電で帰ろうと決めた。
浜ちゃんが飲み、田嶋老も飲み、胡乱な三白眼の親分も飲み、私も新人も気勢をあげて飲んだ末、親分が潰れた。続いて新人が潰れて共に特別区の黒い化石となった。十時ともなると十月末の爽やかな風を通りすぎて、冷気となって襲ってきた。
「寒くなってきましたねえ」
と誰に言うともなくつぶやくと
「何言ってんだ有賀さん こんなの寒いうちには入らねえよ 見ろよこいつ裸足だよ」
言った先には、化石の新人が裸足でいたのだった。そう言った佐久間老も裸足である。
「寒いなあ 今何度くらいあるんだろう 震えるねぇ」
「あれ見ろよ 5度だ たいしたこたあねえ」
田嶋老が顔を向けた先には例の時計だったが、今は温度になり現在の温度を表示していた。時計と温度計が何分かおきに変わるらしいのだ。
「いやあ凄い 本当に寒いですねェ でも裸足ですかぁ 凄いですねェ」
「有賀さん これで寒いと言ったら冬はどうするんだぁ 生きちゃあいけないよ 人間強くなくっちゃあ生きていけないよ」
田嶋老の言葉に浜ちゃんが頷く。凄い人たちだと感心していると、腕に黄色い腕章をした二人の初老が毛布を持って心配顔をして特別区に来た。
「寒くないですか」
と一人が言った。あまりの寒さに私は
「寒くて寒くて死にそうです 助けてください」
「そうですか それでしたら毛布はどうですか 配っています いりますか」
「いりますいります 下さいください すぐ下さい」
と言うと、もう一人の初老が怪訝そうに
「失礼ですがあなたはホームレスの方ですか?」
と言うではないか。まあこの時間にここで酒を飲んでいればホームレスと間違えられても仕方がないかと思いつつも背に腹は代えられない
「そうですホームレスです 寒くて困ってます」
と言ってしまった。この湾曲した正直さはいつになっても隠せない癖のようなものだった。だがNPOはこちらの腹を見透かしたように
「申し訳ありませんが 見たところホームレスの方とはお見受けできませんので お渡しすることはできません 申し訳ございません」
と言うではないか。言葉は丁寧だが、実に冷たい。なぜ、どうして、今アンタ達は毛布はいりませんかと言って来たのではないか、間違ってないよとね、と言って詰め寄ったのだが
「いや実は これはNPOの活動の一環で 困っているホームレスの方を対象にお配りしている毛布なんです ですからホームレス以外の方にお配りすることはできないのです ご理解をお願いします」
とイケシャーシャーと言うではないか。何だコノヤローこっちは寒くて困ってるんだ、今はホームレス状態だと、気持ちの限りを込めて言うものの
「規則となっていますので」
と鳥つく島もない。
「じゃあ こちらの方が寒いと言うのであげてください」
と浜ちゃんの方を見たら
「いや おれはいいです ホームレス卒業しましたから」
と言うではないか、コノヤロー。田嶋老も田嶋老で、俺もホームレスではないと言わんばかりの顔でNPOを見て、顔を横に振るではないか。またもやコノヤローである。この場の空気を鋭く感じたNPOは不愛想な顔で階段を下りて行ってしまった。
「浜ちゃん なんで毛布欲しいと言わなかったの 田嶋さんも田島さんだよ なんで顔を横に振るんだよ 俺が寒いって言ってるの聞いてるんでしょうが・・・まったく」
半ばヤケである。いくら位焼酎を飲んでいても十月末の空気には勝てなかった。
「そうか そんなに寒いんかぁ じゃあ浜ちゃん 親分の横の段ボールの下に毛布があるから 有賀さんに掛けてやれ」
と言うではないか。親分の毛布!?親分の毛布って言った?えっ聞き違い、もしかしたら酔っていたための空耳アワー?聞き違い?と思っていると
「そうだね」
と言って浜ちゃんが立ち上がった。冗談だろう、オイオイ浜ちゃん冗談だろうと思っているうちに親分の毛布を引っ張り出した。凄いスゴイすごい毛布である、これぞ特別区の毛布だ、夏場の生ゴミなんて赤ちゃんの屁みたいなものだ、毛布と言うより汚物を固めた布である。親分の衣服をパッチワークしたような色と柄、そして時代物の骨董的悪臭。小便を垢と埃で塗り固め、生乾きの状態で仕舞い込んだような代物である、人類史にかつてこのような物が存在したであろうか。
「ワ―!浜ちゃん いい!いらない寒くない 暑い暑いから寒くない いらない いらないホントにいらない 汗あせ ホラこんなに汗がでてるぅ 寒くないから ア~~っ・・・」
と、あがきわめき騒ぎながら、頭の上で必死に手を振っても浜ちゃんは一向に動じず、それどころか本当に遠慮していると思ったらしく
「有賀さん そんなに遠慮しなくてもいいんですよ 有賀さんは仕事を世話しようとまでしてくれた人でしょう これくらいはしなくちゃあ ねえ」
と言うが早いか、頭から親分の汚物毛布をかぶせたのである。息を止めて目をつむり、吸う事も吐くこともできず目も開けられない。エラが無いのでこのまま無呼吸状態で死ぬのかと、本当に覚悟を決めた。自分の頭の中では人類滅亡の時と思われるほどの時間が経ったような気がした。どの位の時間であっただろうか、ついに苦しくて埃の様な息を吸い込んだその時、気を失った。薄れる意識の中で田嶋老が
「ああやっぱり寒かったんだ 見てみろ もう寝てんじゃねえか よっぽど寒かったんだなぁ」
と言った。
どのくらいの時間が経ったであろうか、私は胡坐をかいた状態で横になっていた。戻りつつある意識の中で、自分は便所の中に落ちている夢を見ていたような気がした。が次の瞬間、あの親分の毛布を払いのけ、起き上がった。正気に戻ったのである。
「よう有田さん 起きたかい」
と田嶋老が言えば
「死んだようによく眠っていましたよ 息もしていないかと思いましたよ」
と浜ちゃんが続ける。
死んでいたんだヨと、言いたかったが我慢した。そして
「毛布は親分に申し訳ないから返します その代り大き目な段ボールを貸してください」
と言って親分の傍らを見た。あるある綺麗な段ボールがあるではないか。その中から自分で真四角に近い形になるような段ボールを見つけ、組み立てた。一辺が80センチ位になる物を見つけると、組み立ててみる、良い出来であった。
「有賀さん 何してるのぉ 頭 大丈夫かぁ」
田嶋老である。大丈夫もクソもあるもんか、こっちは生存の危機に瀕してるんだ、黙ってろと言いたいが、温和な性格がどうしても言わせない。
「見ててください よ っと」
と言いながら、四角になった箱を頭からかぶり上半身を入れ、そのままの状態で胡坐をかくとちょうど箱の中に納まった体の上に顔だけが突き出る恰好になった。段ボールの四隅のペラペラが顔の前と後ろ、それに左右にまだ突き出ているから、それらのペラペラを顔の下に引き込むとちょうど四角い箱の上に首だけが出る格好になった。暖かい段ボールの服の出来上がりである。
「浜ちゃん見ろよ ありゃあ晒し首ださらし首 おもしれえ事考えるなぁ」
と言うと腹を抱えて笑い出し、その声に何事かと思った通行人も思わず笑い出し、あたり一面笑いの渦となった。言われた浜ちゃんも腹をかけて笑い出す始末で、コノヤロー、お前があの時NPOから毛布をもらっときゃあこんな恥をかかずに済んだのに、と本気でおもった、が、この暖かさは本物の安らぎであった。
「で 有田さん どうやって酒飲むんだぁ それじゃあ手も足も出ねえじゃねえか おもしれえ人だなあ ええっ」
と、トドメを刺すようなことを佐久間老は平気で言うのであった。悔しいくやしいの一点張りである、意地でも飲んでやる、男の意地だ!と思っても、やはり手も足も出ないのだ。まさに箱になった達磨である。
「おい浜ちゃん 有賀さんに飲ませてやれぁ」
と田嶋老が言うと浜ちゃんは、私が飲んでいた焼酎のワンカップを持つと口の前に近づけて、優しく飲ませてくれた。
「はははははぁ~ 晒しっ首が酒飲んでらぁ~ コリャアおもしれぇ」
と、また大きな声で田嶋老が笑いながら叫んだので、寝ていた親分が起き出した。通行人も足を止めた。
「何やってんだァ ああイバラキ」
面目丸つぶれであった。親分も田嶋老も浜ちゃんも腹を抱えて笑い、そして喜んだ。腹の底から笑えたひと時であった。顔の筋肉と腹の筋肉がひきつるくらいに皆で笑った。いい余興だった。
「ああ今日はホントに楽しい日でした ほんとに楽しかった 帰ってきてよかったぁ」
笑いも一段落したところで、浜ちゃんが何気なくぽつんと言った。本心であることはみんなが分かっている。親分も田嶋老も、そして私も、更に酔いつぶれてはいるものの、もしこの新人ホームレスが起きていればきっとそう思ったに違いないと確信する。明日になれば皆それぞれの生活の糧を求めて行くのであるが、今は仲間であることを確信している。
「有賀さん 電車だいじょうぶかい 乗り遅れたら凍え死んじゃうよ 朝になりゃあもっと冷え込むから ほんとアンタなら死んじゃうよ」
と佐久間老が言えば
「ああそうだ イバラキ はやくかえれぇ」
と親分も気遣ってくれた。浜ちゃんは何故か神妙な面持ちだった。時計は午後11時を回っていた。そろそろ帰らなければならない時間帯であった。
身にまとっていた段ボールを折りたたんで親分に返すと、なぜか無性に寒さを感じる。気温のせいだけではないことは確かであった。立ち上がると今日も楽しく飲んだことを親分と田嶋老に言い、浜ちゃんには関西で男になってくれることがこの特別区のホームレスにとっては何よりの光になる事などと御託を並べ、親分、田嶋さん元気でいて下さい、浜ちゃん頑張ってなどと言い終えると、段ボールの家を後にした。帰り際の背中に向かって親分が
「また来いやぁ」
といい、田嶋老は
「これから寒くなるから 暖かくなったら来いよ」
と気遣い、浜ちゃんは
「関西で頑張るから」
と言った。新人はまだ化石姿で横になっている。どんな繋がりで引き寄せられたのかはわからないが、皆が一つの思いになっている事はたしかであった。後ろを振り向けば、自分の弱さが見透かされるようで怖かったから、改札口に向かいながら精一杯右手を挙げて今日の別れとした。
終電に乗って腰を下ろすと、車内は柔らかい暖房が入っている。ひと月前はまだ冷房であった事に気づき、一ヶ月と言う時の長さを改めて感じた。思い起こせば七月の夜、終電に乗り遅れてホームレスの老婆に会い段ボールを貰って一晩を過ごし、その翌月には老婆を探して田嶋老と知リ合い、そして親分、浜ちゃん、オールバックに可愛いななちゃんと若い母親に知り会えた。いま思い起こせば何と不思議な迷路に入ったものかと考える。自分の人生において、まさかホームレスの知り合いが出来るとは思ってもみなかった、が、現実はこうして飲んでいる。
眠くなった頃、携帯電話の着信音が小さく鳴ったのであけてみると「上野の宴は、ほどほどに!」と、部下の忠告メールが入っていた。