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 午前中の講義を終えて、健太の位置情報を見た。健太は大講堂にまだいるようなので、そこへ向かった。

「昨日はお疲れ」

 僕は、講堂の後ろの方の机にうつ伏せになっている健太の肩を軽く叩いた。健太は、講義が終わったあとも寝ていたらしい。顔を上げた健太の額は、紅くなっていた。

「昼飯、食べに行かないか」と誘ったが、また暫く寝るということだったので、一人で食堂に向かった。

 長い列に並びながら、頭上に設置してあるパネルを眺めた。今月の新メニューは、マグロ丼という丼物だった。お試し期間セール中で、並盛りが通常の価格よりも五十円安いということに惹かれたし、海水魚をテーマにしていることに興味がわいた。文化保存学部食文化学科の関係者が、マグロ丼という料理を再現したのかも知れないなと考えた。海水魚を食べたことがある人がこの料理を再現したとしたら、その人はかなりの高齢の方ではないだろうかと想像した。

 マグロ丼を待つ間、僕は移り変わっているパネルの定食メニューを見ながら、伊藤さんにどんな料理をリクエストしようか考えた。少し前に並んでいた学生が、豚の生姜焼き定食をお盆に乗せて、列から抜けていくのを見て、豚の生姜焼きをリクエストしようと思った。  

 マグロ丼は、電気分解に失敗したときに生成されるような赤いゲル状の物体に、醤油の味をつけてご飯と一緒に食べる料理だった。食べた時に口に広がる臭いが、少し不快だった。


 購買部で、合コンのセッティングの礼を兼ねて、卵サンドとお茶を健太に買っていった。健太は、次の講義の時間も睡眠に当てるとのことだったので、僕は買った品を机に置いて、自分の受講している講義の教室へ向かった。講義が終わる直前に健太からメールが入っていた。

「今日、飲みに行かないか」という健太からの誘いだった。昨日の今日でもあるし、連日飲みに行くというのも、気分的にも財布的にも気乗りはしなかったが、「了解。何時に何処?」と返信をした。


 健太と約束したバーに、時間通りの八時に着いた。店内の照明は控えめだったけれど、カウンターからタブレットを見ている健太をすぐ見つけることができた。バーテンダーは、僕のビールをじれったい手順を踏みながゆっくりと注いだ。

「お待たせ。二日酔いはもう大丈夫か?」

 座ったカウンターチェアーは、座が高すぎて足が地につかないで覚束ない感じがしたし、バーテーブルはガタガタしていて安定性に欠けていた。

「もう大丈夫だ。お代わりしてくる」

 健太はカウンターに向かった。テーブルにおいてあるピーナツ皿は、蛍光イエローで、中に入っているピーナツが不健康な食べ物であるかのような印象を与えている。

 店のバーテーブルは十二卓あり、空いているのは三卓だけで、その内一つは予約席になっている。店は、設備の割に繁盛しているようだ。

 「昨日はお疲れ」と健太が言って、僕等は乾杯をした。ビールの泡は、弾力があった。

「昨日、伊藤さんとその後どうしたんだ?」と、健太言った。伊藤さんとしたのか、してないのか、健太の興味はそれだけのようだ。

「神保町まで送った」と僕は言った。

「押しの弱い奴だな。伊藤さんは、お前に好感を持っていたと思うぞ。健康診断もして準備万端だったのにな」と健太は言って、テーブルの置いてあるピーナツを二、三個口に放り投げた。

「次に手料理を作ってもらえそうだよ」

「それはよかったな。次は何時会うんだ?」

 健太は、ビールグラスを僕が持っていたグラスに当てて、それを一気に飲んだ。僕も、それに続いたが、鼻の下に泡が付着するのが気になって、グラスを傾け切れなかった。

「まだ具体的な約束はしていない。伊藤さんの誕生日が、来月十一日なんだけど、その前に会うのがいいのか、後がいいのか、悩んでいる」

「そこに悩む意味はあるのか?」

 健太はピーナッツを口に放り投げた。

「真利江ちゃんの予定を聞いてみて、誕生日の前に空いているのであれば、会えばいいし、それが駄目なら誕生日後に会えばいいだろう。真利江ちゃんなりの都合も、気持ちもあるんだから、お前が一人で悩んでもそこに答えはない」

 健太の言っていることが、正しいように思えた。

「明日、メールして誘ってみるよ」

「昨日しておくべきことを、明日にするなよ」 

 健太は、あまり役に立ちそうにない警句を吐いて、ピーナツを口に入れた。

「お前は、あの後どうしたんだ?」

「亜梨沙と過ごした」

 健太にしては婉曲的かつ素っ気ない一言だった。僕は、ビールを飲み干した。

 僕が、「ミタ、アッタ、ヤッタ」としか言わないことを、健太は、起承転結のある天気予報のように語るのがいつもだった。寒冷前線が日本列島に押し寄せてくるような出会いがあり、積乱雲が形成されていくように二人の合意が成立し、雹が降るのを避けるかのように布団の中に入るのだ。そして、前線が通り過ぎると、北寄りの風に吹かれるままに別々の方向に飛び去っていくのだ。

「それはよかった。幼なじみなんだよな。付合ったりしないのか?」という僕の質問に、健太は答えなかった。テーブルに両肘を着き、ピーナッツを何度も口に運ぶだけだった。

「ビールをもう一杯もらってくる。ピーナツ、まだいる?」と僕が聞くと、健太はピーナツ皿を口に運び、皿に残っていたピーナツを流し込んだ。


 バーテンダーは、ピーナッツを皿に入れるのは粗雑だったが、ビールは、最初と同じように丁寧な注ぎ方だった。僕はビールとピーナッツのお代わりを持って席に戻った。健太はタブレットを操作していた。

「浩一、カウンターに座っていた女、見たか?」

 健太は、カウンターの方を降り向いて、座っている女性を一瞬だけ指差した。僕は、「ああ」と肯定した。バーテンダーが何回かに分けてビールを注いでいる間は、注がれるビールグラスを見つめるか、棚におかれている酒の銘柄を読むか、店内を眺めるしかない。カウンターに女性が座ったのも、僕の視界には入っていた。

「これ、見てみろよ」

 健太のタブレットには、個人情報画面のトップページが表示してあった。鮫島優子という名前は、カウンターに座っている女性の名前だろう。

「また一人で飲みに来たみたいだな」

 健太は、カウンターチェアーに重心をかけ、僕の方に身を乗り出して言った。

「待ち合わせじゃないの?」

「いや、一人だ。前に見かけたのが、一ヶ月前くらいだが、その時も一人だった。女性が、待ち合わせでアルコールを先に飲んだりはしないだろう。飲んだとしても、紅茶か珈琲だ」

 カウンターに座っている女性のその後ろ姿は、惹きつけるものがあると感じた。もし、僕が街であの女性の後ろ姿を見たら、追い抜いて、さりげなく後ろを振り返って顔を見てみたいと思うだろう。カウンターチェアーから伸びている足も、吸引力があった。僕は、黒色のタイツに編み込まれている螺旋の模様を、太ももから足首まで目で追いかけ、そしてまた足首から太ももまでを目で追いかけた。渋い黒色のミニスカートが、螺旋のさらに先へと僕の視線が這い上がっていくことを拒否していたのが残念だった。

「俺、ビールをお代わりしてくる」と言い、健太はカウンターに向かった。

 バーテンダーがビールを注いでいる間、健太はその女性の横顔を見つめ続けていた。虫眼鏡で一点に集めた太陽光のような視線を健太は送ったが、その女性は、一度も健太の方を見ることもなかった。


「やっぱり美人だな」と健太は戻って来て、ビールを一口飲んでから言った。

「前の時も、何人かの男が彼女に声をかけたが、全員玉砕してるんだ。俺達みたいな大学生が声をかけても、そもそも相手にされないさ。見ろよ。彼女があそこに座ってから、バーに来ている男の大半が彼女の情報にアクセスしているぜ」

 直接彼女に声をかけに行かないんだな、という僕の発言に対して、健太はそう答えてから、僕にタブレットを見せた。

 彼女の被アクセス記録は、この二十分の間に十件以上あった。被アクセス履歴に、加藤浩一という自分の名前もあった。僕が彼女の被アクセス記録を眺めている間にも画面が更新され、アクセスは二件増えた。予約席で空席となっているテーブルチェアの向こうに座っている三人組の男達も、熱心にタブレットを見ていた。タブレットの画面に表示されている名前のどれかは彼らのだろう。

「この前、彼女を見かけたときに調べたんだが、彼女、夫とうまくいっていないようなんだよ」

 健太の調べた所では、夫から彼女に対してのアクセスが極端に少ないらしい。僕も被アクセス記録を遡って見たけれど、鮫島肇という、彼女の夫からのが一週間近くなかった。

「夫は、十八日間家に帰っていないな。あんな綺麗な嫁がいるなら、俺は昼飯食べにも帰宅するぞ」と、健太は言った。

「つまり、彼女は、誰かに声をかけてもらうのを待っている?」と僕は言った。しかし、そうではないと健太に一蹴された。

「彼女は、夫のことを間違いなく愛している」と健太は言った。

 一ヶ月間の彼女のアクセス履歴を遡っても、四、五人の女性と思われる名前以外は、夫へのアクセスだそうだ。しかも彼女は、四、五時間に一度は夫にアクセスをするという熱の入れ方らしい。

「彼女は、夫の注意を引きたいんじゃないかな」と、健太はビールを飲みながら言った。

 妻が一人でバーに飲みに行っていて、そのバーでは不特定多数の男からのアクセスがあるとなると、さすがに夫も心配をしてくれるんじゃないかと、彼女は期待している。だから、綺麗な格好をして、バーのカウンターで、もの寂しそうに一人でお酒を飲んで、アクセスを集めている。つまり、彼女に声をかけても、徒労に終わるだけ。それが健太の分析の要旨だった。

「夫の方も、他に愛人を作っていたりしている様子はないな。単に仕事に狂っているだけだな」と、健太は言った。

 僕も、彼女の個人情報の配偶者から、鮫島肇氏にリンクして彼の移動線を見てみた。地図上に表示された国立の研究所の中から外に出ることは数週間に一度だし、研究所の外に出るときは、自宅に帰る時だった。


「引き際を知らない奴だな」

「怖気付いたな」

 健太は、男が彼女に声をかけにいくのを察知すると、わざわざ後ろを振り向いて、その求愛劇を眺めた。そして、自分の席に戻って行く男達一人一人に短いコメントを付けては、ピーナッツを食べ、ビールを飲んだ。自分の分析の正しさを確認したいのだろうと僕は思った。

 僕は、伊藤さんの事が気になり彼女のことを調べた。伊藤さんは家にいて、二十分前に映画の配信要求を行っていた。映画を見ながら家でくつろいでいるのだろう。そして、彼女のアクセス記録を見ると、「加藤浩一:2208.07.25.20:40」という記載があった。僕は、自分の被アクセス欄を見た。そこには、当たり前のことだが、「伊藤真利江:2208.07.25.20:40」という記録があった。気持ちが高揚したのは、アルコールが回ってきたからではないだろうなと、僕は思った。

読んでくださってありがとうございます。

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