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 伊藤さんは、大学の近くのアパートで一人暮らしをしているということだった。僕とは逆方向の列車だった。伊藤さんから、大学の専攻は何をしているの、と質問をされた。

 僕は、専攻しているのは超伝導関連と言ったが、伊藤さんには聞き慣れない言葉だったようだ。僕は、超伝導の性質を簡単に伊藤さんに説明した。そして次に、現在に至る迄の超伝導の科学史をかいつまんで説明した。

「室温超伝導体が発見されて、超伝導を低いコストで利用できる技術革新が起こったんだ。たとえば、ロスの無い送電が実現して、地球の半分は太陽の光に照らされているというグローバルかつシンプルな考え方が浸透したんだ。それは超伝導の地球球体説って言われているんだけど、聞いた事ない?」

 伊藤さんは、首を横に小さく振った。

「要は、世界中の至る所に太陽光発電セルを設置して、地球上の何処かでは必ず太陽光による発電ができるという状況を作り、その電力を有効活用しようという考え方なんだ。その考えに基づいて、地球上の至る所に発電セルが設置されたんだ。すでに三分の一くらいの発電セルは雪や氷に埋まってしまって機能してないけど、あと二百年は現役として活躍できる発電システムなんだよ。この町を今、明るくしている電力はブラジル辺りで発電されている電力が送電されてきたものが含まれているんだ。ブラジルに降り注いでいる太陽が、夜の上野を明るくしているって、ロマンがない?」

 僕は、詩的な表現を加えてみたけれど、伊藤さんは肯定とも否定とも分からない頷きをしただけだった。健太のように、取り留めのない雑学で女の子達を感心させる技量が僕にはないのだろうか。

「僕は、超伝導体の交換技師になるための知識を大学で勉強しているんだ。超伝導体は、三十年程度で定期的な交換が必要になる。どうしてかと言うと、伝導体が還元してしまって、室温超伝導という性質を失ってしまうんだ。工場でまた酸化させれば、またリユーズが可能なんだけどね。まぁ、そんな欠点もある室温超伝導体の交換をするには、専門的な知識と訓練された技能が必要なんだ。そして、送電網は世界中に敷設されているから、交換のために日本だけでなく世界中を見て回ることができるし、定期的に交換が必要になるっていう性質上、僕等の世代にとっては食い逸れのない職業なんだ。寒いところでの作業が多く、ときには海底での作業が数ヶ月も続いたりと、厳しい環境での仕事が多いというデメリットはあるんだけどね」

「つまり、世界を飛び回って、電線の交換をする人になりたくて大学に通っているということ?」

 伊藤さんは、僕の話を要約した。

「そういう事になる」と僕は答えた。

「素敵ね」

 伊藤さんは、夜空を見上げながらそう言った。電線の交換をするという職業を素敵と言ったのか、二等星くらいまでしか見えない上野の星空が素敵だったのか、僕には分からなかった。ただ、僕が一方的にしゃべり過ぎたということはよく分かった。

「伊藤さんの専攻は?」

 僕は、話題を変えた。

「文化保存学部。文化保存学って聞いた事ある?」

「聞いたないかな。文化を保存するための学問?」と、僕は適当なことを言った。

「大雑把に言えばそれで正解。文化を保存するための学問って言うと、すごく難しいことやっているみたいに聞こえるわよね」

 伊藤さんは僕が言った事がおかしかったようだ。僕のつまらない話で、伊藤さんの機嫌を害したと思っていたけれど、そこまで深刻ではないようだ。

「私の所属している学科はもっと狭い範囲なんだけどね。何学科か当ててみて。あと、先に改札通っていて」

 伊藤さんはそう言って改札の前で立ち止まり、肩にかけていた桜色のショルダーバックのチャックを開けて中を探り始めた。僕は、文化保存学がそもそも一体なんなのか考えながら上野駅の改札を通った。

 伊藤さんは、改札を通るのに使ったタブレットをバックにしまった。

「ヒントをくれない?美術関連?音楽関連?」

「さぁ、どうでしょう。ヒントは、浩一君も少なくとも一日一回はその文化を堪能しているかな」 

 僕が、そのヒントで真っ先に思いついたのが、トイレ、しかも大きい方のだった。しかし、それを面と向かって伊藤さんに尋ねることは不適切に思われた。トイレの便器に流されないままになっている排泄物をまじまじと観察し、文化的に保存すべき価値のあるものかどうかを考察するのは、伊藤さん以外の誰かで良いような気がしたし、そんなことをしている人がいるとも思えなかった。


 ホームへの登る階段は、一本前の列車が出発したばかりらしく、ホームから降りて来る人の流れができていた。伊藤さんの後ろを僕が歩く形で、僕らは階段を登った。

 僕は隣に立っている伊藤さんの横顔を一瞥した。構内のホームから列車を浮上させる超伝導体がレールにはめ込まれているのが見えたが、今はその話題をしない方が良いだろうと思った。

「降参だよ。本当に」

 僕は、両手を上げた。ホームには、列車が到着するアナウンスが流れた。

「私は、食文化学科なんだ」

「文化保存学部食文化学科」

 僕は、声に出した後、心の中でもそれを反芻した。ひどく退屈な印象を受けるのは、文化という言葉が二回使われているのからだろうか。

「それは、どんなことをするのかな?まだ具体的なイメージが湧かない」

 列車が到着し、僕等はそれに乗った。多くの人が降りて、列車の中はまばらに人が座っているだけだった。僕等は並んで空いている席に座った。体がふっと浮くような感覚のあと、列車は動き出した。

「最近のレポート課題では、ドストエフスキーの『罪と罰』で、ナスターシャがラスコーリニコフに出したキャベツスープはどんな味かというのがあったわ」

 僕は、その本を高校の時に読み始めて、まだ読み終わっていない。閲覧履歴上では第一編の初めの数ページの所に長いこと電子枝折が挟まったままのはずだ。そして、その枝折を動かす予定もない。そもそも、ナスターシャという登場人物がいることも僕は知らない。

「どんな味だったの?味噌とか醤油味ではないだろうということは僕にも分かるけど」

「煮込んだキャベツの葉の味がしみ出した、塩味のスープだとレポートには書いたわ。材料は、水、塩、キャベツのみ。使われている塩は、バスクンチャク湖産の塩で間違いないと思う。キャベツは、そのままのキャベツを食べ易いサイズに切って入れただけ。キャベツを瓶に詰めて発酵させる漬け物のような物が当時はあったらしいんだけど、それを使ったスープではないと思うの。もしそれを使っていたら、酸味の効いたスープになるんだけどね」

 僕はそのスープを想像してみた。それは、愛する恋人のために丹精を込めて作った料理ではないだろうと思った。そして、僕はそれを飲んでみたいと思わなかった。

「食文化学科は、昔の料理の味を保存することを目標としているという理解でいいのかな?」

「そんな感じかな。ちょっと変わったことをやっているでしょ?」

 伊藤さんは、少し前屈みになって、下から僕の顔を覗き込むような体勢で言った。伊藤さんから仄かに柑橘類の甘い匂いがした。直前までこの席に座っていた人の香水の残り香なのかも知れない。

「とてもユニークだと思う」と僕は答えた。ユニークであると同時に、不毛だと思ったけれどそれは言わなかった。

「料理とその味の保存って、骨が折れるのよ。気付いた時には料理法が分からなくなっていましたなんてこともざらだしね。レシピが残っていても、調味料や材料がこの世からなくなっていましたなんてこともあるし。材料にしても、品種改良で味がどんどん変わっていってしまうし。そうそう、調べて分かったのだけど、当時のキャベツは今みたいに甘くなかったのよ。地球の寒冷化に伴って、脂質と糖質の成分が多いキャベツが生み出されたんだって。二百年前のキャベツを去年実習で育てたけど、水っぽくて、食べるときに少し葉っぱ臭かったわ。食べられないほどじゃないけどね」

「その再現した味が、当時の味だと、どうやって証明をするの?」 

 僕は、疑問に思ったことを口にした。

「証明をする手段はないわ。だから、きっとこんな料理だったのではないかって、出来る限り当時の材料を集めて、実際にその料理を作ってみて、食べてみるの」

「さっきのキャベツスープも作ってみるの?」

「もちろんよ。レポートに提出した内容に基づいて、それぞれがスープを作ってみて、みんなでそれを試食して、議論するの。どの味が最も当時の料理に近いかってね。浩一君も食べてみたい?」

「キャベツスープは気が進まないかな。肉が入っているのを食べてみたいかな」

 僕は正直に答えた。

「肉料理は、時間もかかるし、大変なのよ」と、伊藤さんは言った。

 去年の夏休み、日本の鹿児島で食べられていた黒豚を使っての料理実習があったそうだ。当時の黒豚の遺伝配列に組み替えた現存異種の受精卵を人工子宮で育てるまでコンピューター任せだったらしいが、それが産まれてからの二週間は、飼育室の環境制御の緊急アラームが頻繁に鳴る状態で、飼育室に交代で泊まり込みをしていたそうだ。そして、現存種のように機械任せにできない部分はマニュアルで育てた分、三ヶ月も育てると愛着がわいたらしい。泣いて馬謖を斬る諸葛亮孔明の気持ちで調理したと言いながら、しゃぶしゃぶが一番美味しかったな、と笑顔でその時の味を振り返っているのを見て、伊藤さんは見た目より精神的にタフな人なのかも知れないと思った。

「じゃあ、スーパーで買える材料で作った肉料理が食べたい」と僕は言った。

「それだと、ただの手料理になるじゃない」と、笑って言った後、「手料理を作ってくれる彼女とかいないの?」と伊藤さんは僕に尋ねた。

僕は「いない」と答えた。

 列車を一緒に降りたあと、「家は駅の近くだから、ここまでで大丈夫だよ」と言われたので、僕は伊藤さんを神保町の改札口で別れた。僕は、神保町駅の改札を出ず、来た時とは逆方向の列車に乗った。


 僕は家に着いたあと、タブレットで伊藤さんの位置情報を見た。マップに表示された位置情報と伊藤さんの住民票の住所とが一致しているので、無事に家に着いたのだと判断できた。健太にも連絡をしておこうと電話をかけたが繋がらなかった。とりあえず健太は何処にいるのかと、位置情報を見ると上野からそんなに離れていないホテルにいる表示となった。健太の決済履歴を見ると、「生ビール(中)@480*4、ジントニック@580*3」という支払履歴があった。そして、ホテルの支払履歴もあった。佐々木さんと吉田さん、どちらとだろうか、と気になった。占いで相性が良いと出ていた吉田さんの位置情報をまず見てみようかと思ったが、止めることにした。どうせ健太の方から事の顛末を話してくるだろうと思ったからだ。


 いつもより熱めの温度でシャワーを浴びた後、タブレットに伊藤さんからメールが入っていた。

「今日は、楽しかった。あと、心配してくれてありがとう」

 彼女の位置情報にアクセスしたことに気付いたのだろう。僕の被アクセス記録に彼女のアクセス記録があった。

「僕も楽しかった」と送った後すぐに、「どんな肉料理が食べたいか、今度教えてね。おやすみなさい。またね」という返信があった。

「ありがとう。考えておくね。おやすみなさい」とメールを送った。

 僕は、これは脈有りかもしれないと思った。


 ベッドの中で眠ろうとしたが、マンションの隣に住んでいる大学生の下手くそなクラシックギターの音が気になってか、なかなか寝付けなかった。彼は一ヶ月くらい前から、ギターの練習を始めたが、上達していない。ずっと同じコードを繰り返し練習し続けている。僕は、水を一杯飲んだ後、長いこと使っていなかった真空壁のスイッチを押した。空気の排出音とともに、徐々にギターの音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。伊藤さんがこの部屋に来ることがあるようなら、事前に真空壁のスイッチは入れておこうなんて妄想しながら寝た。


読んでくださり、ありがとうございます。

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