第32話 癒しの私
聖君は食べ終わると、お店に戻った。そのあと、お母さんと菊ちゃんが、お昼を食べたようだ。お店はお客さんも、あまりいなくって、ゆったりとしているようだった。
私はリビングで、クロとのんびりとしていた。そこに聖君のお父さんが帰ってきた。
「腹減った~~。今、店、混んでるかな」
「いえ、すいてるみたいですよ」
「じゃ、カウンターで飯食ってこよう」
そう言って、お店の方に行ってしまった。
クロは一瞬、お父さんの足元にじゃれつきにいったが、すぐにまた、私の足元に寝転がった。
私はクロをなでたり、抱きついたりした。さっき、聖君が抱きついていたっけ。あ~あ。私も抱きつきたかったな。
3時になり、聖君のお母さんに呼ばれ、私はお店のほうに行った。お店には、藤井さんがいた。
「こちらは、藤井紗枝ちゃん。今日からバイトに入ってくれます」
聖君のお母さんが、私に紹介してくれた。
「藤井です。よろしくお願いします」
藤井さんがぺこりとお辞儀をした。
「あ、私は…」
榎本桃子ですと言いそうになり、どうしようかと黙ってしまうと、聖君のお母さんが、
「桃子ちゃんっていって、時々お店の手伝いをしてくれてるの。お料理が得意で、ケーキ作りも上手なのよ」
と、私を紹介してくれた。
「こんにちは。この前、お店で会いました…よね?」
「はい。覚えています」
藤井さんが、ちょっとだけ、微笑んだ。でも、かなり緊張してるのが伝わってくる。
聖君はというと、さっきから、キッチンで菊ちゃんと話をしている。
「菊ちゃん、今日はお疲れ様」
聖君のお母さんがそう言うと、菊ちゃんがホールにやってきた。
「お疲れ様です。じゃ、私はこれでお先に失礼します」
菊ちゃんは自分のリュックを背負うと、お店を出て行った。
「さ、聖、紗枝ちゃんにいろいろと、教えてあげてくれる?今、お店すいてるし」
「うん」
「あ、桃子ちゃん、その間、ちょっとキッチンの手伝いしてもらってもいいかな」
「はい」
私はエプロンをつけ、キッチンに入った。
聖君は、まず、藤井さんをカウンターの奥に連れて行き、物置に掃除道具が入っているとか、その横のクローゼットに荷物や、上着を入れるようにと説明していた。それからお店のトイレの場所を説明した後、藤井さんにエプロンを渡すと、メニューを持ってきて説明をしたり、伝票を見せながら、説明をしだした。藤井さんは横で、かちかちに固まったまま、聞いていた。
「お客さんが来たら、左手でトレイを持って、トレイの上に水乗っけて、メニューは左手の小脇に挟んで、で、もし、テーブルが汚れてそうなら、台拭きも一緒に持っていってください」
「はい」
「それで、メニュー渡して、注文が決まりましたら呼んでくださいって言って、戻ってくる。注文は、エプロンのポケットに伝票入れておいて、書いちゃってきていいから」
「はい」
「それから、キッチンに来たら、オーダーお願いしますとか言っちゃって、オーダー流してください」
「はい」
「その辺、言い方とか決まってるわけじゃないから、適当でいいです。俺とか、他の人の真似しちゃっていいですから」
「はい」
「次、お客さんが来たら、やってみてください」
「え?もう?」
「うん。もうです」
聖君はそう言うと、にこって笑った。すると、藤井さんはみるみるうちに、赤くなっていった。
「桃子ちゃん」
「はい?」
「気になる?ホールの方」
お母さんにそう言われてしまった。
「すみません、手が止まってました、私…」
「いいのよ。ふふ。気になっちゃうわよね、やっぱり」
「すみません…」
「聖、あれ、緊張してるの、わかる?」
「え?!」
「敬語だし、ちょっと、ぶっきらぼうだし」
「はあ…」
さすが、お母さんだ。私には、しっかりと教えてるようにしか見えないや。それに笑顔がやっぱり、素敵だなって、思ってたし。
カラン…。お客さんがひと組入ってきた。若いOLくらいの女の人だ。
「いらっしゃいませ」
聖君が笑顔で出迎えた。
「はい。藤井さん、初仕事。がんばって行ってきてください」
聖君はトレイを藤井さんに持たせた。
「は、はい」
藤井さんは、お水をコップに入れ、トレイに乗せた。それから、メニューを持たずに行ってしまった。
「いらっしゃいませ」
震えるような声で言って、コップを注意深くテーブルに置き、そこでメニューがないことに気づいたらしい。
聖君がさっとメニューを持って、テーブルに行き、
「いらっしゃいませ」
と、お客さんにメニューを渡した。
「聖君、また新しいバイトの子?」
お客さんがそう聞いた。
「はい、今日から入った、藤井紗枝さん。まったくの新人だからお手柔らかに」
そう言うと、にこって笑って、
「ご注文決まった頃、また伺います」
と言って、さりげなく藤井さんも引き連れ、キッチンに戻ってきた。
「す、すみませんでした。メニュー忘れちゃって」
藤井さんがそう言うと、
「ああ、いいよ、別に。ああいう時は、また戻ってメニュー持って行ったらいいし」
聖君は優しい笑顔のまま、そう言った。
「はい」
「あ、注文決まったみたい。聞きに行ってくれる?」
「はい」
藤井さんが、かちかちになりながら、テーブル席に行った。
「あ、伝票忘れてるし。ま、いっか。覚えてこれるよね」
聖君が、キッチンの横に立って、藤井さんを見ながらそうつぶやいた。
「緊張しまくってるわね、彼女」
「うん」
「菊ちゃんといい、麦ちゃんといい、元気いいし、はじめっから慣れてる感じで仕事してくれたけど、あ、朱実さんも、最初から元気良かったわね。でも、彼女は、慣れるまで時間がかかるタイプかしら」
そう言って、お母さんも、キッチンでの作業の手を止め、私と聖君と一緒に、藤井さんを見ていた。
「えっと、スコーンのセットと、ケーキセット。あ!伝票!すみません、お待ちください」
藤井さんは慌てて、戻ってこようとして、テーブルに足をぶつけ、痛がりながらキッチンに来た。
「大丈夫?今、思い切りぶつけてたけど」
聖君のお母さんが聞いた。
「はい、大丈夫です。すみません、私、伝票…」
「慌てなくていいからね」
聖君はそう言うと、また笑顔で伝票とボールペンを渡した。
「すみません」
藤井さんは聖君の顔を見て、真っ赤になり、そそくさとテーブル席に戻ってオーダーを聞きなおしていた。
オーダーを繰り返すのもしどろもどろ。お客さんに、
「聖く~~ん、私たち、いつものでいいから」
と言われてしまっていた。
「はい、わっかりました」
聖君はちょっと大きい声で、にこって笑ってお客さんに答えると、藤井さんが戻る前に、お母さんにオーダーを告げた。
「聖君、すごい。覚えてるの?」
「常連だもん。あの人たち」
「そうなんだ」
私と聖君がぼそぼそと話してると、ホールの方から、
「聖君が、持ってきてよ。話あるし」
とお客さんの声がした。
「は~~い、了解です」
聖君は、そう言ってから、私の方を向いて、ふへって小声で言い、ベロを出していた。まいったなって感じの顔だった。
「あの、すみませんでした。私がちゃんとオーダー聞けなかったから」
藤井さんは暗い顔で、キッチンに来た。
「いいよ、あの人たちいつもあんなだから、気にしないで」
聖君がまた優しくそう言った。藤井さんは、また真っ赤になっていた。
「あ、でも、オーダー書いた伝票は、ここに挟んでくれる?これ見て、キッチンで用意して、テーブル席に持っていったら、ボールペンでチェックしてから、ここにとめるようにしてるんだ」
「あ、はい」
藤井さんがもたもたと、ポケットから伝票を出した。するとどうやら、書き方が変だったらしく、
「あ、待って。その伝票」
と聖君が藤井さんから伝票を取ろうとした。
「あ!」
一瞬、聖君の手が藤井さんに当たり、藤井さんが真っ赤になって、手を引っ込めてしまい、伝票が藤井さんの手を離れ、床にひらひらと落っこちた。
「すみません!」
藤井さんが慌てて拾おうとした時、聖君も同時に拾おうとして、二人して、頭をぶつけていた。
「いて!」
「痛い」
ごちんという音が聞こえるくらいの勢いで、ぶつかった。
「す、すみません」
藤井さんが、謝った。
「ああ、拾わなくていい。俺が拾う。そのまま、動かないでくれる?紗枝ちゃん」
聖君がそう言うと、藤井さんは、真っ赤になり固まった。
「さ、紗枝ちゃん?」
藤井さんが、そうつぶやいた。
聖君はおでこをなでながら、伝票を拾うと、
「あれ?名前、俺、間違えた?紗枝ちゃんじゃなかったっけ?」
と藤井さんに聞いた。
「いえ、あっています。ただ、ちゃんづけで呼ばれたから、びっくりして」
藤井さんはまっかっかだった。
「あ~~、俺、バイトの子はみんな、下の名前で呼んでいて。あまりちゃんづけで呼ばれるの、好きじゃないなら、ちゃんと苗字でさんづけして呼ぶけど?」
「いえ、いいです。みんなと同じ呼び方にしてください」
藤井さんはそう言うと、恥ずかしそうにしていた。
聖君は頭をぼりって掻いて、伝票を見せながら、ボールペンをエプロンのポケットから出して、
「ここは、こういう書き方にしてもらっていい?」
と教えていた。
藤井さんはまっかになりながら、はい、はいって聞いていた。その一部始終を私と、聖君のお母さんは見ていた。
「桃子ちゃん、野菜切るの、手伝ってくれる?」
お母さんにそう言われ、私は我に返り、
「はい」
と野菜を洗って切り出した。
聖君はスコーンのセットの紅茶や、ケーキセットのコーヒーを用意し、トレイに乗せ、
「紗枝ちゃんは、そこに出したスコーンと、ケーキ、持ってきて」
と言って、先にホールに行ってしまった。
「あら、聖、教え忘れてるわ。紗枝ちゃん、ここにケーキ用のスプーンやフォークが入ってるの。これもお皿に乗せて、はい。これを持っていってくれる?」
聖君のお母さんがフォローした。
「はい」
藤井さんは、トレイを左手に乗せ、右手で押さえて、持って行った。
「大丈夫かしらね」
お母さんが心配そうに見ていた。
「す、スコーンのお客様」
か細い声で、藤井さんが言った。
「あ、スコーンはこちらのお客様で、ケーキはこちら」
聖君がそう教えていた。
「大丈夫?新人さん、しっかりしてね」
お客さんに言われてる。わ。あれ、もし私だったらかなり、傷つくな。
なんだか、藤井さん見ていると、私を見ているようだ。私はキッチンしか手伝っていないから、ホールにもし出たら、もっとひどいドジをしちゃうんじゃないかな。
「それにしても、ここって、麦ちゃんといい、菊ちゃんといい、あ、朱実ちゃんもだけど、みんな元気いいじゃない。あと、桜さんだっけ?あの人も明るいし。そういう人しか雇わないのかと思ってたわよ」
一人のお客さんが、聖君にそう言った。
「紗枝ちゃん、まだ今日が初日ですよ。誰だって、初めてだと、緊張もするし、慣れないですよ」
聖君が、優しくそうフォローした。その横で、藤井さんは固まっていた。
「紗枝ちゃん、ホールの流れは一通りわかった?今度はキッチンの方、母さんに教えてもらって。あ、パン屋でバイトしてるんだっけ?スコーン焼くのできる?」
「え?スコーンは焼いたことがないです」
「簡単だよ。桃子ちゃんに教えてもらって」
聖君がそう、ホールで藤井さんに言うと、藤井さんはキッチンに戻ってきた。聖君はまだ、お客さんと話をしている。
「あの、スコーンの焼き方、教えてもらってって言われたんですけど」
「あ、はい」
教えるなんてできるかな、私。
「じゃ、私が野菜切るから、桃子ちゃん、スコーン焼くの教えてあげてね」
聖君のお母さんと場所をチェンジした。
「冷蔵庫にスコーンのたねがあるので、それを取り出して、それから」
と私はひとつひとつ、手順を教えた。藤井さんは、真剣にはい、はいって聞いていた。
見ているとさっきより、はるかに落ち着いてる。やっぱり、聖君だと緊張するのか、好きだから意識するとか、そんな感じなのかな。
「いらっしゃいませ」
また、お客さんが入ってきた。聖君はさっと、水とメニューを持って、テーブル席に行った。
「あ…」
藤井さんは、どうしたらいいのかって顔をしていた。
しばらくすると、聖君が来て、
「スコーンのセットを二つ。アイスコーヒーと、アイスミルクテイーでお願いします」
とオーダーした。
「は~い」
聖君のお母さんが返事をしてから、
「セットの仕方、聖、紗枝ちゃんにちゃんと教えてあげて」
と言った。ああ、さっき、スプーンやフォーク、教えてなかったっけ。
聖君は、はいよって言って、キッチンの奥に入ってきた。4人でキッチンにいると、さすがにぎゅうぎゅうだ。
「スコーンのお皿はこれね。で、フォークはここに入ってるから。焼いてあるスコーンはここ。ここから2個出して、クリームと、ジャムを横に添えるんだ」
聖君はそう言って、お皿やフォークを出し、スコーンを二つ並べた。
「クリームは、ここにあって、これをこんな感じで取って、乗せます」
私の方にクリームがあったので、私がクリームを取り、お皿に乗せた。
「こんな感じで」
と、言いながら、藤井さんの方を向くと、藤井さんが「あ」と私を見て言った。
「え?」
「ぶ!桃子ちゃん、クリーム、鼻についてる」
聖君がふきだした。
「鼻?」
私が手で鼻を拭くと、
「あはは!手についてるから、もっとクリームついちゃったよ」
と聖君は笑って、私と聖君の間に藤井さんがいるのにもかかわらず、腕をのばし、私の鼻についてるクリームを手で取ってくれた。
そのうえ、その手で取ったクリームをぺろって舐めてしまった。わあ。て、照れる。でも、直接、鼻を舐められなくって良かった。いや、さすがに藤井さんがいるから、そんなことしないか。誰もいなかったら、していそうだけど。
「ジャムは冷蔵庫に…」
聖君は後ろを向きながら、冷蔵庫を開けた。その時聖君の真後ろに立った、藤井さんの胸に、聖君の肘が思い切り当たった。
「あ!」
聖君が振り返った。藤井さんは、真っ赤になって、慌てて胸を押さえていた。
「ごめん!わざとじゃない!」
聖君が慌てて謝った。
「聖、セクハラ?気をつけてよ」
聖君のお母さんが、横からそう言った。
「え?せ、セクハラ?」
聖君の顔が青ざめた。
「すみません、私が邪魔なところに立っていたから」
藤井さんは、真っ赤になってうつむいた。
「ううん、キッチンに4人は多すぎたわよね。今日は私がキッチンの方は教えるから、聖、ホールにいて」
聖君のお母さんがそう言うと、聖君は頭をぼりって掻いて、
「ほんと、ごめんね。これから、めっちゃ気をつけるから」
と藤井さんに謝って、ホールの方に行った。
藤井さんはまだ、赤くなって下を向いていた。
「ごめんね、紗枝ちゃん。あの子も悪気はなかったんだし、これから気をつけるって言ってるし。でも、やっぱり、嫌よね。ショックよね?」
聖君のお母さんは、優しく藤井さんにそう言った。
「い、いえ。わざとじゃないのも、わかってますから」
藤井さんが小声でそう答えた。
わざとのわけがない。でも、聖君も相当、ショックを受けちゃっただろうな。顔、青ざめてたし。
それにしても、藤井さんは小柄だけど、胸はある。わりとぴったりめのTシャツを着ているから、目立っている。妊娠して大きくなった私の今の胸よりも、もっと大きいかもしれない。
なんだか、それを見て、負けたと思ってる私って、今、ショックを受けてる藤井さんや、聖君に申し訳ないよね。
でも今、聖君、心の中で、桃子ちゃんよりもでかい!とか思ってないよね。なんて思ってること自体、申し訳なさ過ぎるよね…。
ジャムは私が冷蔵庫から出し、スコーンの横に添えて、お皿を聖君に渡した。聖君は、トレイに乗せ、持っていった。
飲み物は聖君のお母さんが、藤井さんに説明しながら、用意していた。藤井さんは、はい、はいって聞いていたけど、まだ顔が赤く、さっきのことを気にしているようだった。
だんだんと、人が混みだして、聖君はホールでの仕事をさっさと、こなしていった。キッチンでは、お母さんがあれこれ、藤井さんに教えながら、オーダーのものを作っていた。私は、お皿を洗ったり、片付けたりしていたが、それに気がついた聖君が、キッチンに慌てて入ってきて、
「桃子ちゃん、棚の上に入れるものは片付けたりしないで!背伸びとか、駄目なんだよ。母さん、桃子ちゃんにちゃんと注意してよ」
と怒って言った。
「あ、そうよ、桃子ちゃん。そういうのは、あとで私か、聖がやるから」
「はい、すみませんでした」
うわわ。本気で聖君、怒ってた。聖君、私に重いものも持たせないし、高いところのものも、取らせないようにしてるんだよね。そういうの、妊婦は駄目なんだっけ。一瞬、自分が妊婦なのも忘れかけてたよ。
5時近くになると、お客さんがようやく途切れた。いつもなら、朱実さんがいると、聖君は休憩したりすることもある。でも、今日はそうはいかないかな。
「疲れた?喉渇かない?紗枝ちゃん」
聖君のお母さんが聞いた。
「え、大丈夫です」
「いいのよ。聖と桃子ちゃんも飲むでしょ?今、いれるわね」
そう言うと、聖君のお母さんは、ミルクパンに牛乳をいれ火にかけ、グラスにはコーラと氷を入れ、聖君に渡した。
「何がいい?紗枝ちゃん」
「え、じゃあ、アイスティを…」
藤井さんは小声で答えた。聖君のお母さんは、グラスに氷を入れ、アイスティーを注いだ。
「カウンターに座って、飲んでいいわよ。ミルクか、レモンつける?」
聖君のお母さんが聞くと、
「ミルクで」
とまた、藤井さんは小声で答えた。
「桃子ちゃんも、座ってて。ホットミルク持って行くから」
「はい」
私がカウンターに行こうと、エプロンを外していると、すぐ横に聖君はコーラを飲みながらやってきて、ぺとってくっついた。もう、藤井さんはキッチンから出て、カウンターに行ってしまっていた。
「桃子ちゃん、ちょっとだけ、こうやってて」
「うん」
ぴたりと横に張り付いて、聖君はうなだれている。きっと、さっきのことで、落ち込んでるんだろうな。なんだか、くうんって鳴き声まで、聞こえてきそうだ。
私が思わず、聖君の頭をなでなですると、本当に聖君は、クロみたいに、
「くうん」
と小声で鳴いた。
「聖、ホットミルクができたら、マグカップに入れてあげて。私、ちょっと紗枝ちゃんと話してくるわ」
聖君のお母さんは、気をきかしてくれたんだろう。キッチンからカウンターの方に行ってしまった。
「桃子ちゅわん。あれ、事故だから、アクシデントだから、わざとじゃないから」
「うん、わかってるよ?」
何だろう。思い切り、自分を責めたりしてるのかな。
「浮気じゃないから」
「え?当たり前だよ。そんなの」
私がびっくりしてそう言うと、聖君は、私の腰に手を回してきた。
「でもさ、事故だとしても、ああいうの、女の子は嫌だよね?ショックだよね?もし、桃子ちゃんだったら嫌だよね?やっぱり」
「…聖君に触られるのってこと?い、嫌じゃないけど」
「俺じゃなくて、他の人の話」
「嫌だよ。そんなの、嫌に決まってるじゃない」
「だよね、やっぱ」
聖君は、またうなだれた。
「あ~~。初日から、申し訳ないことをした」
聖君はそう言って、私の腰に回していた腕に力を入れた。
「そっか。桃子ちゃん、俺だったら嫌じゃないのか」
「へ?」
いきなり何?
「前は、嫌がってた時もあったのにね。ほら、小さいのがばれるって言ってさ」
落ち込んでたんじゃなかったの?話がずれてきてるよ?
そのうえ、聖君は、腰に回していないほうの手で、私の胸のあたりを後ろから抱きしめ、
「は~~~~。落ち着く」
とほっとしている。
「こら。聖、キッチンでセクハラやめなさい」
いつの間にかキッチンにきていた聖君のお母さんが、小声でそう言って聖君の背中をたたいた。
「いって~な。これはセクハラじゃないだろ。癒されてたんだよ。桃子ちゃんに」
聖君がそう言うと、
「そういうのは、仕事場ではやめてね。あとで、自分たちの部屋でしてちょうだいよ」
と、今度はお母さんは聖君のほっぺたを軽くつねってそう言った。
「痛いってば。なんだよ?父さんと母さんも、たまにいちゃついてるじゃんか。キッチンでだってさ。俺、知ってるよ。父さんが手伝ってる時、よく、母さんのこと、後ろから抱きしめてるじゃん」
「あ、あれは爽太が勝手にしてくるのよ。いつも、怒ってやめさせてるし。ほんと、男の人って甘えん坊で、嫌になっちゃうわよね?桃子ちゃん」
「な、なんだよ。桃子ちゃんまで、巻き込むなよ。桃子ちゃんは、嫌がったり、呆れたりしてないんだよ」
聖君は捨て台詞のようにそう言うと、コーラをゴクゴクと飲み干し、グラスをシンクに入れると、ホールに行ってしまった。
「ありゃ、ヘソ曲げたかな」
聖君のお母さんはぼそってそう言うと、
「でもね、桃子ちゃん。聖が甘えてきたら、ばしって突き放しちゃってもいいんだからね」
とそのあと、私に小さな声で耳打ちした。
「わ、私、嫌じゃないし、甘えられるのも嬉しいから」
私が赤くなってそう言うと、聖君のお母さんは、一瞬黙り込み、
「あら、じゃ、私のおせっかいだったわね。ごめんね」
とにこって笑ってそう言った。
聖君を見てみると、ホールから私のほうを見て、甘えるような顔をした。ああ、その顔もやっぱり、可愛いんだよね…。まいっちゃうな、ほんと。