第3話 ゆっくりとかみしめて
土曜日になり、父と聖君とで、納戸に机を運んだりした。ベッドも家具屋まで行って聖君が選び、来週の月曜には届くことになった。
母は、土曜日だと言うのに、今日、校長先生に祖父と会いに行っている。
「聖君、休憩だ。ちょっと冷たいものでも飲もう」
父がそう言い、二人ともダイニングのテーブルに着き、お茶を飲んだ。私もその横に座り、一緒にお茶を飲んだ。が…、
「き、気持ち悪い」
と、トイレに駆け込んだ。
ああ、お茶までが気持ち悪いのか。このごろ食べられるものが、ぐっと減ってきてしまった。
「大丈夫?」
聖君がトイレから出てくると、すごく心配そうな顔をした。
「うん、どうにか」
「お茶で気持ち悪くなったの?」
「うん」
「顔色もずっと悪いもんな~、桃子は。最近、部屋にこもりっきりだし」
父に言われた。
「だって、一階に来ると、食べ物の匂いがするから」
「ちょっと匂っただけでも駄目なの?」
聖君が聞いてきた。
「うん」
私がうなづくと、聖君は私を黙って見ていた。
「やっぱり、部屋に行ってるね」
聖君がいるから、できるだけ一緒にいたかったけど、駄目だ。つらい。
母が昨日毛糸を買ってきてくれた。編み物の本も一緒に。
今は夏だから、冬用の本も毛糸もまだないらしくて、サマーニットと、夏にでも羽織れるようなものが載っている本を選んでくれた。
ベストや、カーディガン、帽子、おくるみ、いろいろと載っている。何を編もうかな。毛糸は可愛いクリーム色だ。
トントン。聖君の足音がした。ああ、足音だけでわかるようになっちゃった。
「桃子ちゃん、入るよ?」
「うん」
聖君が部屋に入ってきた。
「大丈夫?」
「うん。もう平気」
「あれ?それ何?」
「えへへ。赤ちゃんのものを編もうと思って」
「へ~~!すげ~、可愛い毛糸の色だね。あ、こっちが本?」
「うん」
「見ていい?」
「うん」
聖君はベッドに座り、本をめくった。
「すげ~~、どれも可愛い。それにちっちゃい!こんなに小さいのを着るくらい、赤ちゃんって小さいんだな~~」
「だよね~。可愛いよね」
私が嬉しそうに本を覗き込むと、
「良かった」
と聖君がため息をついた。
「え?何が?」
「桃子ちゃん、部屋にこもってるって言うから、ずっと寝込んでるのかと思ったけど、違ったんだね」
「うん。ただ、匂いが駄目で出れないだけ。匂いがしなかったら、気持ち悪くないから、部屋の中ではけっこう元気なの。それで、お母さんに毛糸と本、買ってきてもらったんだ」
「そっか~」
聖君は私のことをじっと見ると、
「桃子ちゃんはもう、お母さんなんだね」
と優しい目をしてそう言った。
「え?赤ちゃんのものを編むから?」
「うん、それもあるけど」
聖君は、頭をぼりって掻くと、
「この前、俺の奥さんになった自覚まったくないねって言ってごめんね」
と謝ってきた。
「え?いいよ、だって、本当にないし」
「あ、そうなの?だけど、お母さんになった自覚はしっかりとあるもんね」
「私?」
「うん。俺、実はお母さんになった自覚も、桃子ちゃんないんじゃないかって、そう思ってた」
「え?」
「ごめんね。桃子ちゃんは、お茶飲んだだけでも吐いちゃうくらい、大変な思いもしてて、でも、ちゃんとこうやって、赤ちゃんのために、何かをしようとしてるんだから、俺なんかよりもずっと、親の自覚が出てきてるんだなって、思っちゃった」
「そ、そんな。私、まだ全然」
「でも、つわりつらくても、弱音はかないじゃん」
「そりゃそうだよ。だって、お腹に赤ちゃんいるんだし、赤ちゃんのためなら、辛くても、そんなに苦じゃないし」
「ほら、やっぱすごい」
「え?私が?」
「桃子ちゃんだけじゃないね。桃子ちゃんのお母さんもだし、俺の母さんも、つわりひどかったみたいだけど、それ、乗り切って俺が生まれたんだもんな~。母は強しだね」
「……。子供のためだから…」
「ね?それ、当たり前に言うじゃん」
「え?うん」
「そこがすげえな。俺だったら、お茶飲んでも気持ち悪くなったりしたら、あ~~、もう嫌だ~~って、わめいてるかも」
「え~?そうかな。そんなことしないと思うけどな」
「……。桃子ちゃん」
「ん?」
「月曜に俺、来てもいい?」
「え?うん。いいけど、バイトは?」
「夕方からなんだ。昼間は、朱実ちゃんも菊ちゃんもいるから」
「あ、ベッドが来るから、聖君、来て手伝ってくれるの?」
「え?」
「月曜日」
「ああ、それはもちろんするけどさ。あ、そういうことじゃなくって」
「え?」
聖君は、ぼりって頭を掻くと、
「月曜から、俺、この家に住んでもいい?ってことだったんだけど」
と、照れくさそうに言った。
「あ、そっか。う、うん」
明後日だよね。明後日から、聖君が一緒に暮らすってことだよね。
「すぐに荷物を全部は持ってこれないかもしれないんだけど、あ、でも、やっぱりいっぺんに持ってきたほうがいいか」
「……」
駄目だ。聖君が、何を言ってるのかがわからない。なにしろ、頭が真っ白で。
「パソコン持って来ていい?あ、そういえば、桃子ちゃんってパソコンないの?」
「え?」
「パソコン」
「うん。一階にあるお母さんのを借りてる」
「そっか」
明後日から、聖君と一緒に暮らせるんだ。ああ、その言葉をずっと頭の中で、繰り返してる、私。
「当分の着替えと、パソコンと、勉強はどうせしばらくしないだろうしな~」
「イルカのぬいぐるみは、貸すから大丈夫だよ」
「え?ああ。イルカ?」
聖君はそう言うと、ちょっと黙ってから、
「いい。俺、桃子ちゃんに抱きついて寝るから」
と、にやけながらそう言った。
「え?」
「お腹が大きくなったら、それもできなくなるんだね」
「うん」
「そういえば、うちになんと、ベビーベッドがあったよ」
「え?」
「俺や杏樹が使っていたやつ。だから借りなくてもいいってさ」
「そうなんだ。へ~~、すごいね」
「マットはないから、マットだけ買わないとねって、母さんが言ってたな」
「そうなんだ」
「母さんも父さんも、おお張り切り。あの分じゃ、あれこれ赤ちゃんのもの、買ってきちゃいそうだよ」
「いいな~」
「え?何が?」
「私も早く、ベビー用品売り場、行ってみたい。きっと、可愛いのいっぱいあるよね」
「うん、あるね、きっと」
「おもちゃとか、服とか、いっぱい可愛いのあるよね~」
「くす」
「え?」
笑われた?
「母さんも同じこと言ってた。母さん、すげえ楽しみにしてるから、つわりおさまったら、一緒に買いに行ったらいいよ」
「うん!」
私は聖君の肩に、もたれかかった。
「汗臭くない?俺」
「うん」
「ほんと?俺の汗臭さで気持ち悪くなったりしない?」
「うん。聖君、全然臭くない。それどころか、すごく安心できるよ」
「え?」
「聖君の匂いって、安心できるの。不思議だよね」
「そうなんだ。あ、でも俺の匂いってのがあるんだ」
「うん。すご~~く心地いいよ」
「へえ、そうなんだ」
聖君は片手を私の肩に回した。
「お母さんと、おじいさん、今、校長先生に会いに行ってるんだよね?」
「うん」
「どうしたかな~~。なんて言われてるんだろうな~」
「……すんなり承諾はしてくれないよね」
「そうだな~。どうなんだろう」
「でもね、お母さんが私とおじいちゃんに任せておきなさいって、今日もそう言って、出かけていったの」
「頼もしいね」
「うん、桃子は心配しちゃ駄目だって言われちゃった」
「そうだね。桃子ちゃんは、赤ちゃんのことだけ思って、ゆったりとしているのが1番だもんね」
「うん」
「……」
「……」
二人して、しばらく黙ってしまった。
「今、なんか考えてた?」
聖君が聞いてきた。
「明後日から、一緒に暮らすんだな~って思ってた」
「あ、同じだ」
「え?」
「ここで、桃子ちゃんと暮らすんだなって思って、今、感激してたところ」
「聖君も?」
「うん!」
聖君はぎゅむって抱きついてきて、
「これからもよろしくね、俺の奥さん!」
と言ってきた。あわわ。それ、ものすごく照れくさい。
「これ、何回も言うことにしたから」
「え?」
「桃子ちゃんが真っ赤になろうが、何度も言うからね。ちゃんと俺の奥さんだって自覚してくれるまで、何度も」
「う、うん。でも、何年も言うことになったりして。なんてね」
「桃子ちゃん、それ、冗談にならないから。まじで、早くに自覚してね」
「う、うん…」
「それと、結婚式だけど」
聖君は、体を一回離してから、
「母さんも6ヶ月の頃、式を挙げたんだってさ。まだそんなにお腹も目立たなかったし、ただ、着物はきついだろうから、ドレスにしたらって言われた。もし、着物を着たかったら、生まれてから、式を挙げたらどうかしらってさ」
「そっか~~」
「俺はどっちでもいいよ。式を挙げたほうが、桃子ちゃん、俺と結婚したこと自覚してくれそうだと思ったけど、母さんが、一緒に住んだり、赤ちゃんが生まれたら、ちゃんと実感わくようになるから、大丈夫よって」
「……」
実感か~~。そういえば、母もかみしめていったらいいわよって言ってたな。
「聖君。私、結婚したんだってことを、ゆっくりとかみしめていってもいい?」
「え?」
「一緒に暮らしていく中で、聖君との生活をかみしめていきたいなって思ったの」
「かみしめていく?」
「うん。なんだか、一気に結婚したんだってそう思うのもいいんだけど、でもそれ、もったいないかなって」
「もったいないって?」
「だって、聖君の奥さんになるんだもん。ひとつひとつを、かみしめて、喜んで、そうやっていく方がいいなって思って」
「くす」
「え?おかしいかな」
「ううん、桃子ちゃんらしいって思ってさ」
「そう?」
「うん、いいよ!俺もそうする。桃子ちゃんとの生活を、ひとつひとつかみしめてく」
「……」
「うん。それ、いいね。俺も賛成」
「良かった」
聖君はまた、私の肩を抱き、
「そうだね。俺らまだ、18と17だし、ゆっくりゆっくりかみしめていっても、いっぱい時間もあるしね」
と、優しい声でそう言った。
展開が急すぎて、なかなかついていけないってこともあるんだ。
だって、本来なら、プロポーズされて喜んで、指輪買いに行ったり、式場決めたり、それから結納とかがあって、そして新居を決めて、式を挙げて、新婚旅行に行って、新婚生活を味わって。
そんな流れだと思うんだ。
それが、一気に結婚、一緒に暮らす、妊娠、出産って、ものすごい流れに、巻きこまれていっちゃいそうで。
ついていけない。まったく、結婚の実感もわかない。それ、もしかすると、当然といえば、当然なのかな。だって、本当に急展開だったんだもん。
だから、これから、ちゃんと一つずつを味わっていきたいの。
聖君と、一緒にいる幸せを。
「聖君」
「ん?」
「聖君の奥さんになったこと、まだまだ実感わかなくて、ごめんね」
「いいよ、謝らなくても」
「うん。でも、徐々にそう思えるようになると思うから」
「うん」
「だから、ちょっと待っててね」
「いいよ、ゆっくりで」
「うん」
「でも、俺の奥さんって呼ぶからね?」
「え?」
「だって、俺が呼びたいんだもん」
聖君はそう言うと、またむぎゅって抱きしめてきて、
「俺の奥さん。今日もめっちゃ可愛い」
と、いきなりそんなことを言った。ああ、めちゃくちゃ照れる。駄目だ。いつになったら、この言葉に慣れるんだか。
でも、でもでも、嫌じゃないんだ。嬉しいんだ。ただ、恥ずかしいんだ。
いつか、私も、聖君のことをちゃんと誰かに、「私の夫です」って言う日が来るかな。
来るのかな。そんな妄想をするだけでも、私の顔は熱くなっていった。