第173話 前進
聖君は黙って、カッキーさんを見た。カッキーさんは、私と聖君を交互に見て、無表情のまま、また話し出した。
「これから話すこと、本当に桃子ちゃんが聞いててもいいの?」
「なんでそんなこと聞くんですか?」
いったい、何が言いたいんだろう、この人。
「聖君って、あなたにだけ優しくて、他の人は寄せ付けないって思ってるよね?」
「え?」
カッキーさんが私を見て、きつい口調で言ってきた。
「でも、中学の時には、誰にでも優しかった。私にもね」
「…」
「だけど、それも見せかけ。聖君は、見せかけだけ…」
「何が言いたいんですか?」
なんだか、だんだんと腹が立ってきた。聖君はさっきから無言。ああ、顔色も悪いし、また気持ちが悪いのかもしれない。
「私、図書委員になって初めて聖君のことを知ったの。いつも明るく笑ってて、人懐こさがあって…。そういうの羨ましかった」
「…」
「クラスの男子には悪いけど、聖君が代わりに来た時、すごく嬉しかった。聖君はやっぱり私にも、にこにこしながら話しかけてくれて、私の名前だって、草野さんっていい名前だねって言ってくれて…」
「…俺…が?」
聖君が弱々しく聞いた。
「草原みたいな、そんなイメージのある名前なんだねって。私、すごく嬉しかった」
「…」
「聖君と話せたことも、笑顔を向けてもらえたことも、全部が嬉しくて…。そのあとの委員会での集まりでも、私が聖君に挨拶をすると、にこって笑って挨拶をしてくれた。その頃から、聖君っていいねっていう女の子がどんどん増えてきて、あっという間に人気者になって、だけど、私はもっと前から、聖君の良さ知ってるよって、そう思ってた…」
そうか。その頃の聖君は、今と違ってたんだ。ううん、きっと、その頃の聖君が本当の聖君なんだ。
「周りに女子も男子もいっぱいいて、私は話しかけることもできなくなった。3年になっても私は図書委員だったけど、聖君は放送委員になった。聖君が放送する日は、みんなが楽しみにしてた」
聖君はまだ黙って、カッキーさんと目を合わせず、話を聞いている。
「卒業式の前、サイン帳書いてほしくて、何度か聖君のクラスに行こうとしたの。でも、教室の外から見ると、必ず誰かが聖君のそばにいて、話しかけることもできなくって…。だから、卒業式の日に、サインをしてもらって、プレゼントをあげようと思ったの」
「…それで、店の前で?」
聖君がカッキーさんを見て、そう聞いた。カッキーさんはずっと、聖君を見ながら話している。
「うん。学校じゃ絶対に、たくさんの人に囲まれちゃうだろうって思って、お店の前でなら、渡せるかもって…。だけど、すごく怖くて、ものすごく勇気がいって…」
「…」
聖君が下を向いた。
「聖君が店のほうに来たときも、逃げ出したいくらいドキドキしてた。だけど、すごく頑張って声をかけた」
「…」
聖君、なんだか辛そうだ。
「聖君だったら、大丈夫。きっと笑顔で受け取ってくれるし、サインもしてくれる。だって、あの優しくて明るい聖君だからって、そう思いながら、頑張って声をかけたの」
「…」
聖君が完全に頭を下げ、うなだれた。
「でもね、聖君はものすごい目で私を睨んで、何も言わずにお店に入って行った…」
カッキーさんがそう言うと、私のほうを見た。
「私、今でも覚えてるよ。あの時の冷たい目…。凍り付くような怖い目だった」
その時、聖君は、苦しくて辛くて、吐きそうになるのをこらえて家に帰ってきたんだよね…。
「ね、それが本当の聖君でしょ?みんなの前で明るく振舞って、優しくして、でも、そんなの偽物だったんでしょ?」
「違うよ!」
私が、思わずそう言ってしまった。
「桃子ちゃん、あなたが聖君をかばいたいのはわかるけど、でも、中学の時も時々噂があったの。聖君のこと好きな子がいて、聖君に優しくされて、でも、告白したら冷たく断られたって。結局あの優しさは、本物じゃないんだよって…。私、そんなの聞いても嘘だって思ってた。本当は優しいんだ、私は知ってるって。だけど、卒業式の日、思い知ったんだ。本当の聖君は冷たい。腹黒い男なんだ。裏表のある最低の…」
聖君は顔をあげて、すごくつらそうな顔をして、
「あんときは、ごめん」
と、小声でカッキーさんに謝った。
「聖君?」
何で謝ってるの?カッキーさんは誤解してるんだよ。だって、あの時は聖君だって、ものすごく苦しんでて…。
「私、本当に私の名前を褒めてくれたのが、嬉しかったの」
聖君に謝られても、カッキーさんはそんなことにもかまわず、話を続けた。
「自分の名前でいじめられたこともあったから、本当に…。こんなふうに言ってくれる人もいるんだって、なんだか、私のことも褒められたみたいで、嬉しかったんだ」
カッキーさん?声、震えてる?
「でも、その聖君があんなに冷たくて、私、何を信じていいかもわからなくなって、それからずっと、人を信じられなくなって…」
「…」
「それに親も離婚しちゃって…」
麦さんが言ってたっけ。カッキーさんも抱えてる。それをなんとかしてあげたいって。でも、親の離婚だけじゃなくて、原因が聖君だったの?
「私、高校に入ってから、誰も今までの私を知らなかったから、思い切り変わろうって思った。メガネもやめた。何人かの友達とつるんで、バカなこともやった。彼氏も次々に変えた。でも、気が晴れなかった」
カッキーさんが黙り込むと、聖君はカッキーさんの顔を見た。そして、また、
「ごめん」
と謝った。
「今さら謝られたって、嬉しくもなんともないよ」
「だよね…でも、ごめん。あんときの俺の態度で、カッキーの生き方まで変わっちゃったなんて知らなかった…」
「そうだよね。何にも知らないで、のほほんと生きてきたんだよね?聖君」
そんなことない。聖君だって、その時からずっと傷を抱えてた。
「中学の時の友達は、ほとんどいなかったけど、一人だけ、卒業しても連絡を取り合ってる子がいたの。その子は聖君と同じ高校行ってて、私が聖君を好きだったのを知ってたから、いろいろと教えてくれた」
「…」
聖君は辛そうな顔で、カッキーさんを見ている。私はずっと、テーブルの下で聖君の手を握っていた。聖君の手は、なんだか冷たかった。
「すごく女子にクールになった。ほとんど女子とは話もしない。それ聞いて、高校行ってから仮面かぶるのやめたんだって、そう知ったんだ。なのに、すごく女子にモテてる。かたっぱしから断ってるのにもかかわらずっていうのも聞いた」
「…」
「不思議だよね。優しいからってモテてたのに、今度はクールだからってモテてるだなんてさ」
「…」
「いい気になってるんだろうなって思ってたよ。その頃から。彼女がいるってのも聞いた。沖縄に行くみたいだって言うのも」
「そんな話も?」
私がそう聞くと、
「だって、聖君のことならなんでも、噂が耳に簡単に入ってきたみたいだからさ」
とカッキーさんは、ちょっと意地悪そうな口調でそう言った。
「彼女なんかほって、沖縄に行くんだ。そりゃ冷たい性格だから、彼女なんてすぐ捨てられるよねって、そんなふうに思ってたけど、彼女がいるから、沖縄やめて、こっちの大学にするみたいだって、それを聞いて私すぐに、同じ大学を受けることにしたの」
「え?」
「私、成績だけはよかったんだよね。簡単に受かっちゃった。まあ、片親だし、おばあちゃんちにやっかいになってたし、将来はちゃんとしないとなっていうのは、どっかで思ってたし…」
カッキーさんはそう言うと、また私を見た。
「ダイビングのライセンスまで取って、同じサークルに入って、聖君に近づこうとしたの。でも、入ってみたら、できちゃった婚だって言うじゃない?それも、みんなして、その奥さんと私、似てるって言うし…」
「何の目的があって、聖君に近づこうとしたんですか?」
私はじっと、カッキーさんの目を見て聞いた。カッキーさんも目をそらさなかった。
「目的?」
「そう…。どうして?」
「…復讐かな」
「え?!」
私はびっくりした。だけど、聖君は何も言わず、黙ってうつむいている。
「あなたのせいで、人間不信になりました。どう責任とってもらえますか?って」
「…」
そんな…。
「嘘よ、うそ」
カッキーさんはそう言うと、ふふって笑った。ものすごく意味深な笑いで、気持ちが悪いほどだ。
「ごめん…」
聖君はまた、謝った。ああ、真っ青だよ、聖君。
「嘘だって言ったでしょ?別に、あなたに責任とってもらってもしょうがないじゃない。ただ、あなた一人だけ、幸せになってるのは、しゃくにさわったけど」
「え?」
「だから、その幸せを壊したくもなったし…。それに、結婚の相手が、私と似てる子だっていうのも、なんだか、頭に来たの。桃子ちゃんよりも、私のほうが先に出会ってるのにって…」
「…」
「なんで、私は選んでくれなかったんだろうって、そういうのもしゃくぜんとしなかった。ううん、いいの。それはどうでも…」
カッキーさんは、また私を見た。
「ね。がっかりした?」
「え?」
「あなたの旦那さん。そんなにいい人じゃないわよ。人を傷つけても平気だし、あなたにだけ優しいと思って自惚れてるかもしれないけど、あなたにだって、いつ本性を出すか…」
「…は?」
私は目が点になってしまった。
「えっと?言ってる意味が、よくわからない」
「だから!美化してるけど、もっとちゃんと聖君の本性を見たらどうって言ってるの。こんなに早くに結婚して、そのうち捨てられて泣くのが見えてるわよ」
「私が?」
「…じゃなきゃ、本性を知って、結婚したこと後悔して…」
「わ、私が?」
「そうよ。あなたがよっ」
いきなり、カッキーさんは怒りだした。
なんなんだ。いったい。幸せを壊しにきたの?復讐?それとも何?なんなの?
まだ、聖君が好きなんじゃないの?自分より後から出てきた私が、聖君と結婚してることが、頭に来てるんじゃないの?それか羨ましいの?嫉妬なの?それとも、私から奪いたいの?
「カッキーさん」
私はカッキーさんを、真正面から見て話し出した。カッキーさんも私のほうに、体ごと向け、話を聞く体制になっている。
「私は、聖君と結婚したことを後悔もしないし、聖君にあいそもつかさないし、がっかりもしてないし、ショックも受けてません」
私がしっかりとした口調で、まっすぐにカッキーさんを見て話したからか、カッキーさんはちょっとひるんでいる。
聖君はさっきまで、下を向いていたのに、私のほうを顔をあげて見た。
「聖君は本当に、優しいです。それが本当の聖君で、クールなほうは仮面をかぶってる聖君です」
「なんであなたに、そんなことわかるの?」
「…聖君といつも一緒にいたらわかります。聖君がどれだけ優しいかも…」
「だから、それが見せかけの優しさだとしたら?」
「…聖君が冷たくって、裏表があるとしたらってことですか?」
「そうよ」
「それでも、好きです」
「え?」
カッキーさんは驚いている。聖君が横で小声で、え?って言ったのが聞こえてきた。
「苦しんだり、自分を誤魔化したり、仮面かぶったり、そんな聖君だって、どんな聖君だって、私は聖君のこと愛してます」
「…」
カッキーさんが口を開けて、ぽかんとした顔で私を見た。
「あ、愛してる?って言ったの?」
「はい」
「…」
また、カッキーさんが口をぽかんと開けた。
「おかしいですか?でも、愛してるから、結婚もしたし…」
ギュ。テーブルの下で私が聖君の手を握っていたのに、今は聖君のほうが握りしめている。
「苦しんだりって、何か、聖君は苦しんでるの?」
カッキーさんが、聖君のほうを今度は向いた。
「…うん」
聖君は力なくうなづいた。
「な、なんで?あ、体の具合が悪いから?」
「いや、これは…」
聖君は一回下を向き、また顔をあげ、
「俺、トラウマがあって。ずっと避けてたことがあったんだ」
とそう続けた。
「トラウマ?」
「忘れたいくらい嫌な思い出があって、実際、忘れてた。っていうか、記憶をどこかに隠していた」
「え?」
「ごめん。だから、カッキーのことも覚えていなかったんだ」
「私が、嫌な思い出なの?」
カッキーさんの顔色が変わった。
「カッキーが直接っていうわけじゃないんだ。ただ、あの卒業式の日に、相当俺、ショックって言うか、辛い思いをしたみたいでさ」
「ど、どうして?」
「…女性恐怖症かな?」
「え?」
カッキーさんはものすごく驚いた。
「卒業式の日、俺のこと見てた?」
「…うん」
「校門あたりで、女子からボタンとられたりしてるところ」
「すごくいっぱいの人に囲まれて、とても声をかけられるような状況じゃなかった」
「うん…。次々に来て、もみくちゃにされてた」
「…」
カッキーさんは、聖君をただ見ている。聖君はつらそうに話を続けた。
「校門出てからも、中学卒業した先輩たちから囲まれた」
「女子の?」
「そう…。もう、気力もなかったし、ああ、またかって思ったんだけど、なんか、フラフラで…」
「また、もみくちゃにされたの?」
「…うん。勝手に写真撮られて、勝手に腕とか組まれて、抱きつかれて…」
「逃げ出せなかったの?」
「足、動けなくなってた」
「もしかして、怖かったの?」
「みたい…」
聖君はうなだれた。
「あ、それ思い出すだけで、もしかして今もつらいの?」
カッキーさんが聞いた。聖君は、うなづいた。
あれ?この前は平気だったのに、また苦しくなってきちゃったのかな。それとも、カッキーさんが前にいるから?
「そのあとだったんだ。カッキーに会ったの…。もうフラフラで、気持ちも悪くて、頭も痛くて、今にも吐きそうな時、店の前にカッキーがいた」
「…そういえば、顔色悪かったかも」
「うん…。ごめん、話しかけられても、ああ、またかって思っちゃった」
「…」
「それで…、そのあと、家に入って、トイレ行って、さっきみたいに吐いてた」
「え?じゃあ、もしかしてさっきのも?」
「うん。あの日のこと一気に思い出して、吐いたみたい…」
「そ、そんなに?」
カッキーさんは、ものすごく驚いているようだ。言葉が続かなくなり、聖君を見た後に、私のほうを見た。
「そういうの…、桃子ちゃんに話したことあるの?」
「うん…。ずっと、聞いてもらってる」
「…」
カッキーさんはまた、聖君を見た。
「じゃあ、それからなの?女性に対して冷たくなったのって」
「冷たいって言うか、ものすごく苦手になった」
「じゃ、わざと冷たくしてるんじゃなくて、話せなかったとか?」
「そうみたい。自分でも、最近そういうこと、わかってきたんだ」
「え?」
「卒業式のことも、最近思い出した。今、桃子ちゃんと一緒に、俺、心を回復してる最中でさ」
「心を?」
「…見ないようにずっとしてたものを、見てるんだ…」
「つ、つらくないの?それ」
「つらい。だから、今日も吐いた」
「…」
カッキーさんは黙って、聖君を見ている。ものすごくつらそうな目で…。
「じゃあ、私だけじゃなかったんだ」
「え?」
「人間不信」
「俺の場合は、女性だけ。男は別に、平気だから…」
「…でも、だったらなぜ、桃子ちゃんは平気なの?」
「…」
聖君は一回黙って私を見た。そして、カッキーさんを見ると、
「桃子ちゃんも駄目だったんだ。初めはね」
とそう答えた。
「…じゃあ、どうして好きになったの?」
カッキーさんが聞いた。
「桃子ちゃんのすぐ近くに行ったんだ。普通は女性のすぐそばまではいかない。ちゃんと壁作って、近づかないようにしてたから。でも、きっと不意打ちって言うのかな。そばに行っちゃったんだよね」
「それで、気持ち悪くなったりしなかったの?」
「うん…。すごく、居心地良かった」
「え?」
「すごくあったかくて、優しくて…」
聖君はそう言うと、また私を見た。私も聖君を見た。一瞬私たちは、見つめあった。
「…だから、桃子ちゃんだけは、特別なの?」
カッキーさんが聞いてきた。
「え?」
聖君がカッキーさんを見て、聞き返した。
「他の子は駄目だから、近づこうとしないで、でも、桃子ちゃんだけは大丈夫だから、そばにいるの?」
「うん」
「…」
「桃子ちゃんとだと、すごく癒されるんだ」
カッキーさんが私を見た。
「そこが、私とは違うのね?」
カッキーさんが私から聖君に視線をずらし、そう聞いた。
「うん…。桃子ちゃんの前では、素の俺でいられる。唯一、心が許せる女の子なんだ」
「…」
「でも、このトラウマっていうのかな。自分で隠してきた見たくない部分、ちゃんと見ないと前に進めないって思ってさ」
聖君はそう言うと、また私を見た。
「そう思ったきっかけは、桃子ちゃんが、俺にどんどん羽ばたいていってほしいって言ってくれたから」
「え?」
それ、初耳かも。
「羽ばたいてって?」
カッキーさんが聞き返した。聖君はカッキーさんのほうを見て、
「うん。どんどん新しい世界に出て行ってほしい。いろんな聖君に出会いたいって、そう言ってくれたから」
と、さっきよりもずっと明るい表情で話を続けた。
ああ、びっくりだ。あれがきっかけで聖君は自分と向き合いだしたの?
そうか。そうだったんだ。
聖君の手があったかくなった。それに、表情もどんどん変わっていってる。
そして、話を聞いているカッキーさんまでが、頬を赤く染め、目を輝かせていた。