第168話 つらかった過去
聖君がお散歩から戻ってきてから、私は一緒にお風呂に入った。
「杏樹とやけに盛り上がってたね」
私の背中を洗いながら、聖君がそう言った。そう、聖君が戻ってきた時、杏樹ちゃんは私ときゃ~きゃ~言いながら、話をしていた。そして戻ってきた聖君を見て、
「あ、帰ってきた。あ~あ」
と思い切り残念がっていた。
「ガールズトークしてた」
私がそう言うと、
「ちぇ。なんかさ、ガールズトーク、ガールズトークって、やたら俺ら男を邪魔扱いしてない?」
と聖君は、口をとがらせた。
「そんなことないよ~」
聖君、すっかりすねちゃった?そりゃそうか、あれだけ杏樹ちゃんが思い切り、がっかりしてたら。
「聖君は?お父さんとの絆、深めてきた?」
「へ?何それ」
「散歩しながら、話してきたんじゃないの?」
「あ~~、うん。杵島さんのことだよ」
「どんな話?って聞いてもいいのかな、私」
私がそう言うと、聖君は私の顔をのぞきこみ、
「いいよ。でも何?なんでそんな遠慮しがちに聞いたの?」
と聞いてきた。
「え?だって、親子の会話に踏み入っていいのかなって思って」
「あはは、何それ。俺は杏樹みたいに、内緒だなんて言わないよ。だいたい、親子の会話も何も、そんな深い話もしてなかったし」
「そうなの?」
「うん。父さんがね、5年前、杵島さんと母さんが浮気してるかもって疑って、まじで俺はバカだったよなって、そんな話をしだしたんだよ」
「え?」
なんだ。聖君の話を聞くためじゃなく、自分の話をするためだったの?お父さん…。
「今思えば、母さんが俺以外を好きになるわけないのにってさ。なんだよ、思い切りのろけたかったのかよって、ちょっと俺は呆れちゃった」
「あはは。そうなの?なんだか聖君のお父さんって、可愛いよね」
「そう?単なるあほじゃない?」
「え?そうかな。ちょっと聖君に似てるって思ったのにな」
「え?じゃ、何?俺も単なるあほってこと?」
「くす」
「なんでそこで否定しないで、笑うんだよ、もう、桃子ちゃんは~~」
聖君がそう言って、後ろから抱きついてきた。
「父さんね、聖に辛い思いさせたかもしれないねって、そんなこと言い出したんだ」
「え?」
聖君の声が変わった。それから私から離れると、腕も洗ってくれて、
「はい。前向いて」
と私を立たせた。そして胸やお腹を洗い始めた。
「…それ聞いて、どうしたの?聖君」
話をやめた聖君に、私は聞いてみた。
「うん…。辛い思いはしてないよって答えたけど…」
聖君はそう言ってから、私の体の泡をシャワーで洗い流し、
「はい、今度は髪、洗ってあげるから座って」
と私を椅子に座らせた。
聖君、なんだか、歯に何かが挟まったような言い方だったな。何か、言いたいことがあるんじゃないのかな。
私の髪を洗い終え、聖君が椅子に座り、自分の体や髪を洗い出した。私はすぐにバスタブにつかった。
聖君はいつものごとく、豪快に洗ってるんだけど、たまに手が止まる。それから、ふうってため息を漏らし、また洗い出す。
それからバスタブに入ってくると、私に後ろから抱きついた。
「桃子ちゃん」
「ん?」
「俺ね、本当は辛かったみたい」
「え?」
「父さんと母さんの喧嘩も、父さんが亨さんと口論してたのも。まじで、かなりショックだったみたい」
「…」
「父さんには、辛くなんかなかったって言ったけど、言ったそばから、俺、あ、自分の気持ちに今嘘ついたって気が付いた」
「え?」
「辛かったんだ、俺って、そんとき気が付いた」
「そうなんだ。気づけて良かったね」
「え?」
「そうやって、聖君、自分の気持ちに向き合ったんでしょ?」
「…そっか、そういうことか」
聖君はそうぼそって言うと、しばらく私の髪に頬づりをして黙り込んだ。
「俺、いっつも辛くなんかなかったよって言って、そのまんま自分の気持ちもはぐらかしてきたんだな」
「え?」
「もやもやしたり、胸のあたりが苦しくなっても、そういうの感じないようふたをして、たいしたことない、俺は傷ついてないって、そう思い込んでさ」
「…誤魔化してきたってこと?」
「ああ、そうそう。自分の気持ちを見ないで、俺は大丈夫って誤魔化してきてた」
「でも、さっきは誤魔化さなかったんだよね?」
「うん。ああ、俺、辛かったって思ったし、今でも引きずってるって、そう感じた」
「引きずってる?」
「俺、酷い人間なんだ、俺、冷たいんだ。って自分で思いながらも、正当化してた」
「え?え?どういうこと?」
「俺ね、亨さんのこと好きだったんだよ。ほんとに兄貴ができたみたいで、嬉しかったんだ」
いつの間にか、杵島さんから亨さんって呼び方が変わってる。意識して変えたのかな?
「だけど、母さんのことを好きだって知って、それで父さんと母さんが喧嘩して、ちょっとあんときは家族の間がぐらついて、暗くなっててさ。初めてだったんだ、そんなふうになったの…」
「うん」
「俺、正直亨さんを憎んだ。母さんのことも、父さんのことも好きだったし、うちすげえ仲良かったし。だから、それを壊した亨さんを憎んで、今まで慕ってきたことも、後悔すらした」
「…」
「でも、心のどっかで、まだ亨さんを好きな自分がいた。そんな自分も嫌になった。あんなやつのこと、なんで好きでいるんだよって」
「…」
「でもさ、父さんと母さんが仲直りして、亨さんが結婚するって聞いて、俺、よかった、これで亨さんのこと、もう憎まないでも済むってほっとしたんだ。母さんも亨さんに対して何も思ってないってわかったしさ」
「うん」
「家族間がまた、壊れることにはもうならないだろうって、まじでほっとして、亨さんにおめでとうを言いに行った。亨さんは喜んでくれたし、奥さんになる人も、まじで嬉しそうだった」
聖君はそこまで一気に話すと、しばらくまた私の髪に頬づりをして、黙り込んだ。
「でもさ…」
「うん」
「流産して離婚しちゃって…」
「うん」
「それも、奥さんのほう、自殺未遂までして」
「うん」
「すぐに奥さんを捨てたり、そこまで追い込んだ亨さんを、俺、本気で軽蔑したんだ」
「…」
「母さんのことをひきずっていたからだって、なんとなくわかった。離婚してまた、俺の家族をめちゃくちゃにするんじゃないかって、そんな怖さもあった」
「…」
「だから、俺、一回亨さんに会いに行ったんだ」
「え?」
「離婚してから、もう亨さんに会うのもやめようって思ってたのに、どうしても気がおさまらなくて」
「うん」
「ひどいこと言ってやりたかったんだ。それで絶対に、母さんや俺の家族に近づけないようにしてやろうって、そう思ってさ」
「…」
聖君の声が震えた。
「母さんには絶対に、会いに来るなよ。俺の家族、振り回すなよ。もししたら、いくら亨さんでも、俺、許さないからってそう言いたかった」
「…」
「でも言えなかった。亨さんと面と向かったら、言えなかったよ。俺はなんにも亨さんに言わず、そのまんま帰ってきた」
「…」
「俺、帰ってから自分を責めた。何も言えなかった俺。情けない。意気地のない奴って…」
聖君。もっと声が震えてる。
「俺さ、まじで亨さんを傷つけたかったし、本気で憎もうって思ってたし、なんてひどい奴なんだって思ってたんだ。今思うと、俺のほうが最低だろ?だけど、それだけのことを亨さんはしたんだって、自分の考えを正当化してたんだ」
「…」
「だから、そのあとすぐに亨さんが事故に合ったって聞いて、ほら見たことか、罰が当たったんだ、なんて思っちゃったんだよね」
ああ、お母さんが聖君は心配もしていなかったって、言ってたっけ。
「ひどいよね?俺。当然の報いだって思ってたんだから。何様だよって感じだよね?」
「ううん、そんな…」
聖君の声は、泣きそうな声だった。
「俺ね、ずっと亨さんのことは、気にしてないつもりでいたんだ。でも、何回も思い出してた。桃子ちゃんが妊娠した時、俺は亨さんとは違う。俺は桃子ちゃんもお腹の子も愛して、幸せになるんだって、そう思ったし、父さんが血のつながらない俺のことを、本当に大事に思ってるってわかった時も、心のどこかで、亨さんと比べてた。俺の父さんはすごい。あんなやつとは違う。だから、母さんだって、あんなやつ好きになるわけないってさ」
聖君は、また一気にそれだけ言って、黙ってしまった。
「聖…君?」
もしかして泣いてる?
「俺ね…」
「うん」
「そんだけ憎んだり、そんだけ軽蔑してても、それでも亨さんが好きだったんだ」
「え?」
「ってことに、どっかで気がついてて、でも、そんな自分が嫌で…、それの繰り返し」
「…」
「だけど、桃子ちゃん見ててさ、桐太だろうが、平原さんだろうが、許しちゃうじゃん」
「え?」
「そんで受け入れちゃうじゃん」
「…」
「それ見てて、なんていうかさ、俺、もしかしてあほなことしてるかなって思えてきて」
「あほなこと?」
「そう。亨さんが好きなら、さっさと許しちゃえばいいんだ。受け入れちゃえばいいんだってそう思ってさ。そんで、亨さんの店に行く決心をしたの」
それで今日、杵島さんのお店に行ったんだ…。
「ひと月前に、店を再開したって聞いた。そんときは行く気になれなかった」
「うん」
「だけど、足ひきずってて、あれじゃサーフィンもできないよなってそんな話を、ほら、桐太のバイト先の店長。あの人、亨さんとサーフィン仲間でさ、よく一緒にサーフィンしてたから、それでその話聞いちゃって」
「うん」
「サーフィン、まじで好きだったんだよね、亨さん。今、できなくなって辛いだろうなとか、いろんなことがあって、落ち込んでないかなとか、なんかすげえ気になって」
「うん」
「…気になってるのに、忘れようともしてて」
「…どうして?」
「きっと、俺にとってのつらい過去だから。見たくないんだ」
「…」
「あの卒業式に、めちゃ気持ちが悪くなって吐いた時と一緒。俺、辛かった過去は封印して、2度と見ないようにしちゃうみたいだ」
「…でも、向き合おうって思ったの?」
「うん」
「そうなんだ」
聖君はぎゅって私を抱きしめた。
「明日、亨さんの店、開店する前に会ってくる」
「え?」
「そんで、ダイビング一緒にやろうって誘って来る」
「うん」
「そんで…」
「え?」
「そんで、まじで兄貴みたいに慕ってて、それは今でも変わんないって言ってくる」
「…うん」
ボロ。涙が出た。それに聖君は気がついた。
「なんで桃子ちゃんが泣いてるの?」
「わかんない。でも、きっと…」
「うん?」
「聖君の心の中の、塊が溶けたから」
「え?」
「それがきっと、嬉しいの…」
「…何それ。なんだよ、それ…」
聖君はそう言ってから、また私を抱きしめた。
「そんなこと言われたら、我慢してたのにさ…」
そう言うと聖君も、息を殺して泣き出した。頬を伝って、私の肩に聖君の涙が流れてくるのがわかる。
「声出して、わんわん泣いてもいいよ?」
と私が言うと、聖君はぶってふきだした。
「泣いてるのに、笑わせないで」
聖君はそう言ってからも、しばらく黙って泣いていた。