第163話 消えたトラウマ
しばらく芹香さんは泣いていた。聖君はそっと立ち上がり、ティッシュの箱を持って戻ってきた。
「はい」
聖君は2~3枚、ティッシュをひっこぬくと、私に優しく渡してくれて、それから芹香さんの真ん前に箱を置いた。
私がテイッシュで涙をふくと、芹香さんも箱からテイッシュを取り出し、涙をふいた。
「わ、私ね…。桃子ちゃんが妊娠してるって聞いて、わかったんだ」
「え?」
「赤ちゃんをおろしてしまった自分を、責めてたこと…」
「…」
私は思わず聖君を見た。聖君は目を細め、芹香さんを見ている。
「そして、赤ちゃんを産むことを決意した桃子ちゃんや、それを受け止めて結婚した聖君がね、なんていうのかな…」
芹香さんはまた、宙を見た。言葉を慎重に選んでいるのか、それとも、どう表現したらいいかわからないのか、しばらく考えてから、
「羨ましかったわけじゃくって、なんていうのかな…」
と話し出した。
芹香さんは、すごく穏やかな目で私を見ている。そして、
「心からね、幸せになってほしいって思ったんだ」
と優しい声でそう言った。
「え?」
私は驚いた。聖君も隣で驚いているのがわかった。
「幸せになってほしいのは、きっと、赤ちゃん」
「え?」
また聖君と同時に、聞き返した。
「私の赤ちゃんは、この世に誕生もできなかったから、桃子ちゃんの赤ちゃんには幸せになってほしいって思ったの」
そう言うと、芹香さんはボロボロとまた涙を流した。
「だけど、2人はお互いを大事に思い合ってるから、きっと生まれてくる赤ちゃんも幸せになれるってそう思ったし、幸せになってほしいから、もう、関わるのもよそうって思ったの」
「…」
そうか、それでお店にも来なくなったんだ。
「それでね、私はいったい、今まで何をしていたんだろうって思って、それから、もっと私が本当にしていきたいことをしていこうって、なんだかそう思えたんだよね」
涙をふくとまた、芹香さんは穏やかに話し出した。
「人の前に出て何かをするのは好きなの。だけど、モデルじゃなくてもそれはできるって思った。そんなときに、所長が何かを察したのかな。小さな劇団の舞台のチケットをくれたの。それを見に行って、私その帰りにその劇団に入れてくださいって、団長に言いに行ってた」
「ええ?」
私はその行動力に驚いていた。
「感動したんだ。お芝居見てて、ものすごく泣いちゃって。人をこれだけ感動させるってすごいって、私もお芝居したいって、なんていうのかな、考えるよりも先に行動してた」
「そっか。自分がしたいってことに、出会っちゃったんだ」
聖君がちょっと口元をゆるませ、そう言った。
「…それでね、籐也にも劇団に入ったことを言ったの。今度、チョイ役なんだけど、お芝居に出るから見に来てって。そうしたら、俺のライブを応援しに来てくれたら行ってやってもいいって」
「は…、何その取引」
聖君が笑った。
「籐也、応援してやるってきっと恥ずかしくて言えないんだと思った」
芹香さんがそう言うと、
「だろうね、あいつ、すげえシャイだし」
と聖君はまた笑った。
「やっぱり」
芹香さんが聖君を見て、ぽつりと言った。
「え?何がやっぱり?」
聖君が聞き返すと、
「聖さんや桃子ちゃんは、心を開くと本当に相手を大事に思ってくれる、すげえ人たちなんだよって、そう言ってたけど、籐也のことをもう理解してて、大事にしてるんだね」
と芹香さんが真面目な顔でそう言った。
「…理解してるかどうかはわかんないけど、でも、あいつが心開いてるから、こっちもちゃんと受け止めていこうって思ってるよ?」
「…そう。だから、籐也は、あんなに変わったんだね」
芹香さんはそう言うと、小さく深呼吸をして、
「私のお芝居、聖君と桃子ちゃんにも見てほしいの。来てくれないかな」
とそう言った。
「いいよ、いつ?」
聖君は即答した。
「え?いいの?」
「うん、あ、あんまり音がでかいうるさいのだったら、桃子ちゃんはいけないかもしれない。お腹の子にあまりよくないでしょ?」
聖君はすぐに、そう付け加えた。
「大丈夫、静かなお芝居なの。私は本当にチョイ役なんだけど、でも、私の初めての舞台だから、見てほしいな」
芹香さんは、ちょっと恥ずかしそうにそう言った。
「いいよ、で、いつ?」
聖君がまた聞いた。
「11月の半ば。まだ、配役が決まったばかりで、これから練習なんだ」
「わかった。日にち詳しく決まったら、ちゃんと教えて」
聖君は静かに笑ってそう言った。
「…今日、思い切って来てよかった」
芹香さんはそう言うと、残っていたアイスティを飲み干して、
「あ、そうだ、これ。2人に私からお祝い」
と紙袋をテーブルに置いた。
「え?」
「赤ちゃんのものが入ってるの。私、ベビー用品売り場に行って、赤ちゃんの物を買うっていう夢、叶えられちゃった。すごく嬉しかった」
芹香さんは微笑んだ。
「夢だったの?」
私が聞くと、芹香さんは、
「そうみたい」
とまた微笑んだ。
「ありがとう」
聖君が優しく笑って、紙袋を受け取った。
「ありがとう」
私もお礼を言った。
「じゃ、お芝居のチケットできたら、その頃またチケット持って来るね」
芹香さんはそう言うと、テーブルにお金を置き、席を立った。
「頑張って」
聖君が、芹香さんの後姿にそう声をかけた。
「ありがとう」
芹香さんは振り返りそう言うと、お店を颯爽と出て行った。
聖君は紙袋を私に渡して、
「リビングで開けてみたら?」
と優しく言ってくれた。
「うん」
私はそれを持って、リビングに向かった。聖君はエプロンをつけ、桜さんにありがとってお礼を言って、それから仕事を再開した。
リビングにはクロと、聖君のお父さんがいた。
「やあ、桃子ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは」
私がソファに座ると、クロがすぐに私の足元に来た。
「クロは、桃子ちゃんが大好きなんだなあ」
それを見て、お父さんが笑って言った。
私はクロの背中をなで、それから紙袋を開けた。中から出てきたのは、すごく可愛いクリーム色の赤ちゃんの服だった。
「それ、買ってきたの?」
お父さんに聞かれた。
「いいえ、今、いただいたんです」
「へえ、お祝いかな?」
「はい」
服と一緒に、可愛い靴下、それからおもちゃも入っていた。
「可愛いね」
聖君のお父さんは、それを見ながら目を細めた。
「ああ、楽しみだね、凪ちゃんが生まれてくるの」
聖君と同じことを、同じ表情をして言っている。やっぱり親子だよね。仕草や表情、似てるんだ。
おもちゃを袋から取り出すと、クロがおもちゃの鈴の音に反応した。それから、おもちゃをくわえようとした。
「駄目だよ、クロ。それは凪ちゃんのおもちゃで、クロのじゃないんだよ」
とお父さんが優しくそう言って、クロの頭をなでた。
「くうん」
クロが、そう言われ頭を下げて、寂しそうに鳴いた。ああ、こんな姿、聖君に似てる。やっぱり、飼い主に似るんだね。面白いな。
紙袋の奥から、封筒が出てきた。中を開けると手紙が入っていた。
~桃子ちゃんへ 今までごめんね。元気な赤ちゃんを産んでください~
そう一言、書かれていた。
どんな思いで、この服を買ったのだろう。赤ちゃんの物が買えて嬉しかったって言ってたけど、もうつらさはなかったんだろうか。
私はお腹に手を当てた。凪、元気に生まれておいで。そして幸せになろう。
こうやって、凪の幸せを願ってくれてる芹香さんのためにも…。
聖君が仕事を終え、一緒に夕飯をリビングで食べた。それから、芹香さんにもらった赤ちゃんの服を見せた。
「可愛い」
と聖君は、お父さんと同じ表情をした。
私は芹香さんの手紙も聖君に見せた。
「…」
聖君は黙ってそれを見て、そっとたたんで封筒にまた入れた。
「よかったわね」
一緒に夕飯を食べていた聖君のお母さんが、私たちを交互に見ながらそう言った。
「うん」
聖君が静かにうなづいた。
杏樹ちゃんが帰ってきて、私がいるから喜んだ。
「ああ、お姉ちゃんがいるなら、塾終わって即行帰ってきたのにな」
「どこか寄ってたからこんなに遅かったの?」
お母さんが杏樹ちゃんに聞いた。
「うん、友達とコンビニでジュース買って、ぶらぶらしてた」
「杏樹。もう夜暗いんだしさ、もっと気をつけろよ」
聖君がきつく杏樹ちゃんに言った。
「大丈夫だもん。友達って男子だし」
「それもそれで、危ないだろ。あれ?もしかしてそれって、新しい彼氏?」
聖君がそう聞くと、杏樹ちゃんが、
「あはは。違う。古い彼氏?」
と笑いながら答えた。
「え?デートは控えようって言ってた彼氏?」
「うん」
「お前、いつから友達って言うようになったの?」
「…いつからかな。デートやめようって言われてからかな」
「だけど、そうやって二人で話したりしてるんだろ?」
「今日はすごく久しぶりだったよ。2人っきりになったの」
聖君は、ふうんって言って、しばらく黙って杏樹ちゃんを見ていた。
「さ、杏樹、夕飯食べちゃって」
聖君のお母さんが、お店から杏樹ちゃんの夕飯を持ってきた。
「うん」
杏樹ちゃんは元気に食べだした。
「いいの?」
「え?」
唐突に聖君に聞かれ、杏樹ちゃんはびっくりして顔をあげた。
「いいの?友達で」
「…うん、だってしょうがないじゃん」
「でも、友達なのに今日、塾の帰りに二人で話してきたんだ」
「友達になったから、向こうも気が楽になったみたい」
「…そんなもんか」
「うん」
聖君は、ちょっと寂しそうな杏樹ちゃんの頭をくしゃってなで、
「じゃ、俺らもう帰るね」
とにこりと笑った。
「もう?」
「明日桃子ちゃん、学校だし」
「そっか」
「また来るね、杏樹ちゃん」
私がそう言うと、杏樹ちゃんは、
「うん、絶対だよ」
と私をじっと見てそう言った。
車に乗り込むと、聖君が小さくため息をした。
「聖君?」
「ああ、なんだかさ、杏樹、暗かったなって思って」
「もっと、そばにいてあげたかったんじゃないの?」
「いいや」
「なんで?心配でしょ?」
「母さんが、横で優しい目で杏樹のこと見てた。きっと、俺らがいなくなったあと、何か話してるよ」
「…」
「母さんからしてみたら、杏樹の恋の話を聞いてあげるのは、嬉しいことみたいだし」
「杏樹ちゃんの、寂しい思いも?」
「うん。父さんも、時々杏樹と2人っきりで、夜の浜辺に行って散歩するんだってさ」
「え?そうなんだ」
「父さん、杏樹とデートしてるんだよって、前に俺に自慢してた。はは、親バカだよね?」
「ううん、全然」
「…だからさ、大丈夫だよ、杏樹は」
「お父さんとお母さんがいるから?」
「そ…」
そう言ってる聖君が、寂しそうだよ。
しばらく黙って聖君は運転をしていた。ラジオからは、しっとりとしたジャズが流れている。外は海。そして、向かい側からくる車のヘッドライトが、とても綺麗だ。
「あのさ」
聖君が、すごく静かに話し出した。
「うん?」
「俺、なんか大丈夫かも」
「え?何が?」
「女の人」
「え?」
何?突然…。
「今日、芹香さんの話聞いてて思った」
「…」
聖君、横顔がすごく穏やかだ。
「裏表があったり、何を考えてるかわからなくても、もっと心の奥っていうのかな、そこはみんな、優しくて、澄んでるんだって」
「…」
「前にも桃子ちゃん、そんな話してたっけ」
「うん」
「心を開いたら、みんなあったかいって」
「うん」
「俺もそう思った」
「…」
「今日の芹香さん、綺麗だったよね」
「え?綺麗?」
「うん、目とか、表情、穏やかで澄んでたよ」
「そうだね」
「怖がる必要なんて、これっぽっちもないんだなって思った」
「怖がる?」
「トラウマ。俺さ、もう傷つけられるのが嫌で、それで壁作ってたじゃん?」
「うん」
「ああ、桃子ちゃんには全部を話してないよね」
「え?全部って?他にも何かあったの?」
「うん、思い出した。なんかね、カッキーとかかわってて、思い出しちゃったんだ。それに、母さんに聞いたら、もっと詳しくわかったんだよね」
「もしかして、聖君が思い出さないようにしてた記憶なの?」
「そうみたい」
「…今、話して大丈夫?つらくならない?」
私は心配になりそう聞いてみた。
「大丈夫」
聖君はちらっと私を見て微笑んだ。そしてまた、前を向き、
「俺、卒業式の日、ふらふらになって帰ったじゃん」
と話し出した。
「うん」
「店の前に、女の子がいた。知らない子だった。他のクラスの子だ。卒業証書持ってたし、年は一緒」
「うん」
「黒いふちのメガネかけてた。背が小さくて、桃子ちゃんみたいにくせっ毛だった」
「うん」
「榎本君って話しかけられた。何か手に持ってて、渡そうとしてたかもしれない。だけど、近づくだけで、俺、思い切り気持ちが悪くなった」
「…」
「ちょっと、カッキーにも似てる」
「え?」
「その子に俺は何も言わず、無視して店に入った。母さんが店にはいて、俺が真っ青だったから、びっくりしたらしい」
「…」
「で、トイレ直行して、思い切り吐いてた」
「え?」
「そのあと、部屋でダウンしてた。気持ち悪いし、ずっと胸もむかついてたし、頭痛もしてたし」
「…」
「母さんは心配してたよ、ずっと。でも父さんが、そっとしておいてやろうって言ってくれたらしくって、俺は部屋で夜中まで寝てたらしい」
「その記憶、なかったの?」
「ない。あ、疲れて部屋でダウンしたってのだけ、なんとなく覚えてた」
そうなんだ。相当つらいことだったんだ。
「2~3日は、家にいたらしいよ。なんか食っても吐いちゃってたし、母さんも父さんも、風邪でもひいたか、疲れが出たんだろう、しばらく家で休んでなさいって、優しく言ってくれたのは覚えてる。俺も風邪だろうなって、思ってた」
「うん」
「でも、店に出ると、女性客が話しかけてきて、気持ちが悪くなるんだ。しばらく店にも出れなかった。高校行ってからは、なんだか女子と話をすると、胸がむかむかしてきたり、頭が痛くなるから、なんとなく避けるようになった。不思議と男子みたいに、元気で騒いでる女の子は平気だった。だけど、ちょっとみんなでつるんでたり、きゃ~、きゃ~高い声出してる子は、どうにもダメ」
そうだったんだ。やっぱり、それで硬派って言われるようになっていっちゃったんだね。
「…おとなしい子も駄目だった」
「え?」
「恥ずかしそうに声をかけてきたり、そういうのも全く受け付けなかった」
「そうなの?」
あれ?でも私は?
「だから、菜摘や蘭ちゃんは大丈夫だった」
「え?」
じゃあ、私は?
「桃子ちゃんは、駄目だったんだ」
え?!