第162話 我慢していた涙
お店に着いた。聖君と店に入ると、お客さんがいっせいにこっちを向いた。
「あ、聖君だ」
と若い女の子二人組が言ってるのが聞こえた。そして私を見て、こそこそと何か話しだした。
「桃子ちゃん、いらっしゃい」
ホールにいた桜さんが、元気に挨拶をしてきた。
「こんにちは」
今日は桜さんなんだ、バイトさん。
「桃子ちゃん、久しぶりだよね。あれ?まだお腹目立たないね」
「え?そうですか?でももう、マタニティじゃないと着れないんです」
「へえ、可愛いジャンバースカート、これもマタニティなの?」
「はい」
そんな会話をしながらキッチンに向かっていると、客席がざわつきだした。
「え?マタニティ?」
「やっぱり、あの噂、ほんとうだったんだ」
「ショック~~」
う、噂?どんな?
キッチンに入ってからホールを見ると、すでにエプロンをつけて仕事を始めた聖君をいっせいに、女性客が見ていて、ひそひそと話している。
聖君は、にこやかに水のピッチャーを持って、ホールを回りだした。すると、
「さっき、一緒にお店に入ってきた子って、バイトの子?」
と、一つのテーブルの女性客が聖君に聞いた。
「え?いいえ。あの子はバイトじゃないですけど?」
聖君がそう答えると、
「じゃ、聖君の彼女とか」
とそのお客さんが、ちょっとこわごわ聞いた。
「いいえ」
聖君がにこやかにそう答えると、そのテーブル席の二人組のお客さんは、同時にほっとした顔になったが、
「彼女じゃなくって、俺の奥さんなんです」
と、聖君がコップに水を注ぎながらそう言うと、
「え?!」
と、2人ともフリーズしてしまった。
それを聞いてた他の席のお客さんも、同時に聖君を見て黙り込み、そのあと、一気にまた店がざわついた。
「やっぱり、あの噂、ほんとうだったんだよ~」
そんな声を聞いた聖君は、
「噂って?」
とお客さんに聞いた。
「え?あの…、聖君が結婚して、もう奥さんは妊娠してるっていう噂」
「っていうか、あれでしょ?できちゃった婚でしょ?」
「ああ、はい」
聖君は頭をぼりって掻いて、照れながらうなづいた。
「やっぱり~~」
お客さんはみんな、青ざめた。
でも、カウンターにいたお客さんは、黙って後ろを向いて座っている。
あれ?すごくスレンダーなあの後姿、見覚えが…。って、あれ、芹香さんだよ?!
「聖君」
ちょうどピッチャーを持って、ホールから戻ってきた聖君に私は小声で声をかけた。
「カウンターにいる人、芹香さんだよ」
「え?」
聖君も気が付いていなかったんだ。驚いてカウンターを見ている。
「でも、髪」
「うん、ばっさり切っちゃったのかな。それとも、ウイッグかな」
「ウイッグって何?」
「かつらよ」
聖君の質問に、桜さんが小声で私と聖君の間に割り込み、そう答えた。
「あのお客さんは、かつらじゃないわよ。お店入ってきたとき、髪切っちゃったの?って聞いたら、はいって答えてたから」
桜さんはそう私たちに言うと、キッチンに戻った。
「びっくり。切っちゃったんだ」
腰にまで届きそうだった長い髪を、うなじが見えるくらいまで、切ってしまったんだ。
「聖、桃子ちゃん」
キッチンで作業をしていた聖君のお母さんが手を止めて、やってきた。
「こんにちは」
「あ、そうだ。桃子ちゃんは初めてになるわね。奥で洗い物をしてくれてる人、新しいバイトの子なの。麻生さん、紹介するわね。こっちに来てもらえる?」
「はい」
洗い物をしていた手を止め、キッチンの奥から女の人が来た。バイトの子っていうから、また聖君と同じくらいの女の人かと思ったら、もっと大人の女性だ。
「麻生さん、この子が聖の奥さんの桃子ちゃんよ」
「はじめまして、麻生です」
その人が、ぺこりとお辞儀をした。
「あ、はじめまして」
私もお辞儀をした。
「麻生さんは、最近結婚して、江の島にきたんですって。新婚さん同士、仲良くしてね」
聖君のお母さんがにっこりと笑ってそう言った。
え?新婚さんなの?そうなんだ。
「でも、年が全然違いますよ。くるみさん」
麻生さんがそう言った。
「あら、いいじゃない。仲良くなるのに年齢なんて関係ないわよ」
聖君のお母さんがそう言うと、横から桜さんが顔をだし、
「麻生さんっていくつなんですか?まだ年聞いてなかったけど」
と麻生さんに聞いた。
「え~~。なんだか、言うの恥ずかしいな。私、もう29なんです。10月には30になるの」
「え?そうなんだ。全然若いじゃないですか。恥ずかしくないですよ~~」
桜さんがそう言って、笑った。
そっか。一回りくらい上なんだな。
「桃子ちゃん、何か飲む?」
聖君のお母さんに聞かれた。
「え?いいです。さっき、いっぱい飲んできちゃって」
「じゃ、リビングに行って休んでる?」
「はい」
私はそう言って、お店から家のほうに行こうとした。するとカウンターからつかつかと、芹香さんが私のほうに向かってやってきた。
「ねえ」
芹香さんが私を呼び止めたとき、聖君がすごい速さでホールからやってきた。
「桃子ちゃんになんの用?」
うわ。聖君、声も顔も怖い。
「そんな怖い顔しないでよ」
芹香さんが聖君にそう言った。
「ちょっと話があるのよ」
芹香さんが続けてそう言うと、聖君は私の前に立ちふさがり、
「何?話なら俺が聞くけど」
と低い声で芹香さんに言った。
「…」
芹香さんは聖君をしばらく見て、
「ふふ」
と笑った。
「何?」
聖君は笑われて、ちょっと頭に来てるようだ。
「大事にしてるんだなって思って」
芹香さんがそう言うと、ちょっと悲しげに目を伏せた。
「そうだよ。前にも言っただろ?大事な人を傷つけるのは、俺、許さないって」
「…」
芹香さんはしばらく黙っていたけど、
「傷つけないわよ。安心して。桃子ちゃんとだけ話がしたかったんだけど、ま、あなたがいてもいいかな」
と穏やかに話し出した。
「私、モデルやめたの」
芹香さんが、いきなりそんなことを言い出した。
「え?」
私も聖君も驚いてしまった。
「で、今小さな劇団に入って、女優してる」
「はあ?!」
もっと2人で驚いてしまった。
「ど、どういう展開?」
「…びっくりでしょ?」
そりゃもう、びっくりなんてもんじゃないよ?
「どうして、モデルやめたの?」
私が聖君の背中の陰からそう聞くと、
「もう限界が来てたのよね」
と芹香さんが答えた。
「ねえ、ここで立ち話もなんだし、ひとテーブル空いたから、あそこで話したら?」
桜さんがそう私たちに提案してくれた。
「え?でも俺、仕事」
「いいわよ。今そんなに大変じゃないし。キッチンなら麻生さんがいるし、ホールは私一人で十分」
桜さんはそう言うと、カウンターに置いてあった芹香さんの飲み物をテーブル席に運んだ。
「じゃあ、あっちで話そうか」
聖君はエプロンを外し、テーブル席に私を連れて行った。
そのあとを芹香さんもついてきた。
「もしかして、女優になりたくてモデルしてたとか?」
席に座ると聖君が、芹香さんに聞いた。
「ううん、違うわよ」
「じゃ、なんで?」
「なんでかな。多分、あなたたちのことを聞いて、かな?」
「は?俺らのことって?」
「籐也がね、私が聖君を落とすから、籐也も桃子ちゃんのこともっと、せめたらいいじゃないって話をしたら、もうそういうことはやめたんだって言い出して」
また芹香さんは唐突にそう話し出した。
「え?それっていつ?」
「9月の初めころかな」
「で?」
「どうしてやめたのかって問いつめたら、俺はもうちゃんと付き合ってる子がいるんだって言い出して」
「で?」
「籐也のことなんてもういいわ、私は聖君のことあきらめないからって言ったら、聖さんは桃子ちゃんと結婚してて、桃子ちゃんにはお腹に赤ちゃんもいるんだから、2人に関わるのはもうよせよって、ものすごく怖い顔で言われちゃったの」
「なんだよ、籐也ばらしたの?」
聖君がそう言って、ため息を漏らした。
「だから、お店に来るのもやめてたの」
「…俺のことあきらめたってわけ?」
「ううん。もっとなんていうのかな」
芹香さんは一回宙を見て、それから私を見ながら、
「自分の人生を考え直したんだよね」
と、静かに言った。
「え?」
私が聞き返すと、
「私ね、あ、ここだけの話にしてね」
芹香さんはものすごく声を潜め、
「高校のとき、赤ちゃん、おろしたことがあるの」
とそうぽつりと言った。
「え?」
私は思い切り驚いてしまったが、聖君はものすごく冷静に聞いていた。
「相手はモデル仲間。そんなに真剣に付き合ってたわけでもないし、私はモデルとしてずっと頑張っていきたかったから、すぐに中絶した」
「…」
「だから、相手は知らないんだ、私に赤ちゃんができたことも」
「じゃ、誰も知らないの?親は?」
「知らない」
「え?」
聖君は眉をひそめた。
「知ってたのは事務所の所長だけ」
「…」
「親代わりなの。私の親、ものすごい放任主義でね、モデルの仕事始めてからは、所長が親よりもあれこれ、面倒を見ててくれたんだ」
「…」
そうなんだ。
「モデルの仕事を続けたいし、まさか一人で育てるなんてできないって言ったら、中絶するしかないねって、所長も言って…。病院にも付き添って来てくれたんだ」
「所長って女性?」
聖君が聞いた。
「うん。もう50になってるかな?」
「そっか…」
「産む気も、育てる気もまったくなかったんだけど、町で幸せそうにしてる妊婦さんを見たり、赤ちゃんを抱っこしてる幸せそうなお母さんを見るとね、ものすごく胸が痛んで」
「…」
「きっと、罪悪感。一つの命を殺しちゃったんだもんね」
「…」
聖君は黙って、うつむいた。私は、ずっと芹香さんを見ていた。
すごくつらそうだ。もしかしたら、ものすごく辛い思いをずっと抱えてきてたんじゃないのかな。
「…だけど、私にはモデルの道がある。一つの命を犠牲にしてまで選んだ道だから、私、モデルの道を絶対に貫くって、そんな気持ちでいたの」
芹香さんは、静かに話してくれてるけど、時々声が震えた。こうやって話すのも、無理してるんじゃないのかな。ほんとうは話すことすらつらいんじゃないんだろうか。
「でもね、高校を卒業したころから、仕事の量が減ったの。19になったら、ショーすら声がかからなくなったし、専属だったファッション雑誌からも、おろされた」
「…」
「どんどん新しい子がこの世界に入ってきて、若い子のほうが注目を浴びてて…」
そんなに大変な世界なんだ。
「もっと年齢層の高いファッション誌の依頼を受けたらどうかとか、仕事の内容を変えたらどうかとか、いろいろと所長も言ってくれたんだけど、でも、ティーン雑誌にどうにかとどまりたくて、そこにしがみつこうとして、だけどどんどん仕事が減っていって…」
「…」
「若い子たちに対抗意識持って、いろんな意地悪なこともしてきたんだよね」
「…」
「欲しいものはなんでも手に入れてやる。どんな手段を使っても。なんてね、そんなことも思ってたかも」
芹香さんは、そう苦笑いをして言うと、またつらそうな顔をした。
「そんなことやってることも、本当はつらかった?」
聖君が聞いた。ああ、聖君も芹香さんのつらさ、わかったんだな。
「どうかな。ふふ…。自分でもよくわからない。ただ…」
芹香さんはまた苦笑いをしてから、目を伏せてしばらく黙り込んだ。私と聖君は静かに芹香さんが話し出すのを待った。
「ただね…、あなたたちの話を聞いて、私がしてきたことはものすごくバカなことだったって、気が付いたんだ」
「え?」
聖君が聞き返した。
「私、固執してたのよね、モデルって仕事に。だって、私の赤ちゃんを犠牲にしたんだもん。なのに簡単にあきらめちゃいけない、一流になって、あのとき赤ちゃんを産まないって選択したのは、間違いじゃなかったって、いつかそう思える日が来るって、そうずっと思って…」
ボロ…。あ、いけない。涙が出た。ボロボロ。駄目だ。止まらない。
私が泣いているのを見て、
「なんであなたが泣くの?」
と泣くのをこらえてた芹香さんが聞いた。
「だって…」
私はそのまま、ボロボロと泣いてしまい、何も言えなくなった。
聖君は黙って、優しく私を見ているのがわかった。
「ど、どうして泣くのよ」
そう言うと、芹香さんも、涙をボロボロと流した。ああ、やっぱり、ずっと泣くのを我慢してたんだね。一回流した涙は、ずっとこらえてた分、どんどんと流れ、あとからあとから、芹香さんの頬をつたい、しばらく止まることがなかった。