第154話 聖君の絵
1時間もしただろうか。父が私に、聖君の絵を見に行こうと言い出したが、私は祖母と昼食の準備をするからと断って、キッチンに行った。父は、じゃあ一人で見てくるよと、アトリエに行ってしまった。
本当は見てみたいけど。まだ、聖君と話すのが抵抗がある。なんでかな。
「聖君は好き嫌いあるの?」
祖母が聞いてきた。
「パクチー嫌いだって」
「あら、おじいちゃんと一緒ね」
「あれ?そうなの?」
「パクチーなんてそうそうお料理に入れないから、好き嫌いのうちにも入らないけどね」
「そうだね」
祖母と天ぷらを揚げた。ご飯は栗おこわ。祖母の栗おこわは美味しいんだよね。きっと聖君も気に入るはず。
それから、祖母のお味噌汁。これまた、鰹節を削ってだしをとったもので、めちゃ美味しいんだ。
「さて、できた。3人を呼んできてくれる?桃子ちゃん」
「うん」
アトリエに3人を呼びに行った。アトリエは玄関のそばにあり、大きな天窓もついていて、お天気だと本当に気持ちがいい。だけど、今日はあいにくのお天気で、アトリエの中も暗い感じがした。
「ご飯できたよ」
そう言いながら、中に入るとものすごい色鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。
ちょっと薄暗いアトリエが、一気に華やぐ。その色彩は、独創的で、まるでいろんな色の花が咲き乱れているジャングルにでも迷い込んだかのようだった。
その絵はどでかいキャンパスに描かれていて、その前には、エプロンにいっぱい絵の具をくっつけた聖君が立っていた。
祖父と父は、その絵をちょっと遠目から見ていて、
「桃子、どうだい?聖君の絵は」
と祖父が聞いてきた。
「え?」
私は言葉が出てこなかった。あまりにも圧倒されていて。
「…」
聖君は私を見て、私の言葉を待っていた。
「あ、す、すごいね」
「圧倒されたかい?桃子」
父が笑いながら聞いてきた。
「お父さんも驚いてしまってね。言葉も出てこなかったよ」
ああ、そうなんだ。お父さんもなんだ。
「すごいね。色の中に飛び込んだかと思った」
「ははは、桃子の表現も、いいセンスがあるなあ」
祖父がそう言って笑った。
「そうだ。昼飯できたって呼びに来たんだろう?桃子。さて、手を洗って、食べに行こうか、聖君」
祖父がそう言うと、聖君は、
「はい」
と言って、エプロンを外した。あ、手も絵の具がいっぱいくっついていた。
「油絵の具って、取れますかね?」
聖君は祖父に聞いた。
「ああ、こうやって、爪の間にはいったものは、なかなか取れないんだよね」
祖父が聖君に手を見せた。
私はまだ、アトリエにいた。聖君の絵の真ん前に立って、その絵に魅了させられていた。
すごい。力強いし、色鮮やかだし、でも、どこか繊細さも感じられて、すごく不思議な絵だ。
これが、きっと聖君なんだ。
祖父が聖君にはすごい才能があるって言うのが、うなづける。
「は~~」
ため息が出た。聖君、十分芸術家でもやっていけるかも。
ううん。きっと他にもある。聖君の才能。
私の心の中は、うずうずしていた。聖君の才能を観れて、ものすごく嬉しくなってる。
ああ、聖君ってすごい。聖君ってすごい。聖君ってすごい。
うずうずはわくわくになった。心臓が早くなる。どんどん、絵に吸い込まれていく。
新しい聖君に出会ったみたいで、ものすごく嬉しい。ああ、どうしよう。
もっともっと、たくさんの聖君がいるかもしれないんだ。もっと別の、もっと違う顔の聖君が。
「桃子。ご飯冷めちゃうよ」
父が呼びに来て、私は我に返った。
「うん、行く」
私は興奮が冷めていなかった。きっと顔は高揚して、鼻も膨らんでいたかもしれない。でも、言葉が出なくって、そのまま席に着き、ただ黙々とご飯を食べた。
聖君は例のごとく、
「うまい!」
と連発して目を細めて食べていた。ああ、ご機嫌なんだ。そうだよね、あんな絵を描いたんだもん。満足しちゃうよね。
「聖君の絵、作品展にでも出展したいね」
「え?それは無理っすよ。俺、ど素人ですよ?」
「だからいいんだよ。あの荒削りなところがなんとも言えないね」
祖父は目を細めて喜んでいる。
「いやあ、ほんとうに驚いたよ。聖君にあんな絵の才能があるとはね」
父がそううなった。
「独創的な絵を描くって聞いた時から、気になっていたんだ。きっといい絵を描くだろうと思っていたよ」
祖父がそう言った。
「そうっすか?」
聖君は頭をぼりって掻いて照れていた。
「自分でも才能があるって、そう感じなかったかい?」
「いいえ」
「あの絵を見てもかい?」
「はい。自分でもそういうことは、よくわかんないです。ただ、絵を描いてるとき、すげえ気持ちよかったってだけで。あ、すごいっすね、おじいさんは。俺が自由に描けるよう、あれこれ言ってくれたし、引き出してくれたし」
え?そうだったの?
「ははは。僕は何もしてないよ。聖君が勝手に、想像力を働かせただけなんだからね」
「そうかな。おじいさんのところに来る生徒さんって、みんなすごい絵を描くんじゃないですか?」
「まあね。みんな伸び伸びと描いているね。どんな絵を描こうが、それがその子のセンスなんだ。その子の個性さ。だから、僕は評価はしない。どの絵もすばらしいって褒めるだけだ」
「うん、それがいいんですよね。絶対に」
聖君は目を輝かせて、うなづいた。
「俺、実は、ちょっと面白いなって思うことがあって」
聖君はご飯を食べ終わると、話し出した。
「うん、なんだい?」
父はそう言ってから、お茶をすすった。
「人の力です」
「え?」
父と祖父は同時に聖君を見た。
「俺、何度か感じたんですよね。閉ざしてた心を開いて、その人らしさに触れたとき、すげえな、人ってって」
「へえ。すげえっていうのは、どういうことかな?」
「ああ、具体的には言えないんですけど。ただ、どの人も、心の奥には、光ってのかな。なんかあったかいものを持っていて、それに、すげえ力を持ってるって思ったんですよね。みんな、ちゃんと自分で乗り越えて行ける力を持っていて、人のパワーってもしかすると、半端ないのかも、なんてそんなことを感じたことが何回かあって。あ、桃子ちゃんもなんですけど」
「はははははは」
祖父が大笑いをした。
「え?どうしたんですか?」
父が驚いて聞いた。その横で祖母も目を丸くした。
「聖君はわかってるじゃないか。そうだよ、桃子には人の支えを必要としないくらいの強さがあるよ」
「え?」
聖君が目を丸くした。
「人のこととなると、ものすごく強くなる。聖君もわかってるだろう?」
「ああ、はい」
「聖君のこととなると、桃子は強いよ。だから、そんなに桃子を守ろうとか、そういうことを意識しないでも大丈夫なんだ」
「…」
聖君は私をちらって見た。
「桃子もね、甘えようとか、頼ろうとか、守ってもらおうと思ってるうちは、桃子自身の力を発揮できない」
「え?!」
祖父の言葉に、私の心臓がドクンって高鳴った。
「桃子は、聖君の力になろうと思ったとき、本来の力を発揮できるんだ」
「…」
うわ。うわうわ~~~。そうか、そういうことか!
「え?どういうことですか?」
聖君が祖父に聞いた。
「ははは。まあ、じきわかるさ」
祖父はまた、さっきと同じことを言った。
「さて、釣具屋にも行かないとならないし、そろそろ行くかい?」
父がそう言って、席を立った。
「ああ、はい」
聖君もお茶を飲んでから、席を立った。
「じゃ、行って来るよ。桃子、おばあちゃんちで、のんびりとしていなさい。あとで迎えに来るから」
「うん」
父にそう言われ、私はうなづいた。でも、玄関までは出て行かなかった。
私は実は、さっきからドキドキしっぱなしだった。祖父の話にずっと、ドキドキしていて、もっと話がしたくってしょうがなかった。
祖父がアトリエを片づけに行ったので、あとを着いていった。
「おじいちゃん」
「ん?桃子も絵を描きに来たのかい?」
「ううん、話がしたいの。っていうか、相談があるの」
「そうかな?」
「え?」
「顔がすっきりとしていて、頬が高揚していて、もう答えは出てるんじゃないかい?」
「な、何でそう思うの?」
「ははは。来た時と顔つきが全く違うからさ。まあ、いいさ。相談としてじゃなく、話を聞こうじゃないか」
祖父はそう言うと、アトリエの奥にある椅子を持ってきて、聖君の絵の前に置いた。
「さ、座って」
そう言うと、自分はもう一個の椅子を持ってきて、そこに座った。
「この絵を見て、どう思った?桃子」
話を聞くといったのにもかかわらず、祖父が聞いてきた。
「新しい聖君に会ったみたいで、ドキドキしてる」
「ははは。ときめいちゃったのか」
「うん。私、きっといろんな聖君にこれからも出会って、そのたびに恋をしそうな気がする」
「そうかもな」
祖父は静かにそう言って、私を優しく見た。
「私ね、悩んでたの」
「何を?」
「聖君ね、女性が苦手なの。トラウマがあるの」
「ふむ…」
「女性らしい人駄目なんだって。だから、私みたいなのは安心するって。私といると癒されて、他の女性だと、苦手意識があって、話すのも苦なんだって」
「なるほどね」
「それ、嬉しかったの。私だけが聖君を癒してあげられるって思ってたし、女性が苦手なら、他の人のところにいく心配もないって、安心してた」
「ふむ…」
祖父は足を組んで、目を閉じた。
「それでね」
「うん」
目を閉じて、私の表面ではなく、内側を聞こうとしてるのかな。時々こうやって、目を閉じて話を聞くときがあるんだよね。
「今も、サークルの人と関わるのがつらいみたいで、聖君が苦しんでいるの」
「うん」
「苦しんでるのは見たくないの。でも、その人と仲良くなるのも、嫌なんだ」
「どうして?」
「取られたらいやだから」
祖父は私を見た。
「取られる?」
「そばにいてほしいんだ。だから、私ずるいこと考えてるの」
「ずるい?」
「トラウマがずっとあって、ずっと女性が苦手なら、私から離れて行かないって」
「…なるほどね。それが桃子から見たら、ずるいことか」
「違う?」
「考え方しだいだろうね。それで?ずるいって感じて、そんな自分が嫌になった?」
「うん」
「じゃあ、本当はどうしたい?」
「…そばにいてほしいの。だけど、聖君をまるで、かごの中に入れたままにしてるみたいだよね」
「かごの中の鳥?」
「うん。本当はね、おじいちゃんが言うように聖君は、すごい才能があるの。人の力も引き出せる、ものすごい力があって、女性が苦手って意識がなくなったら、誰に対してもそういう力を発揮して、受け止めて行けるだけの器もあって、すごい大きな世界にも羽ばたけるんじゃないかって、そう思う」
「ははは。桃子は聖君のことを、ちゃんと見てるんだね」
「…うん。それで悩んでたの。離れてほしくないから、苦しかった」
「どうして、離れるって思う?」
「え?」
「もし、その才能が開花して、どんどん聖君が世界に羽ばたいていったとき、なんで桃子から離れるって思うんだい?」
「自信がないから」
「桃子が?」
「うん。そんな聖君についていく自信もないし、そんな聖君が私を好きでいてくれるっていう自信もない」
「本当に?」
「…」
私はしばらくまた、聖君の絵を見ていた。
「ううん。それはこの絵を見るまで」
「え?」
「今はね、そんな自信なんてどうでもいいの」
「…」
祖父は黙って私を見ている。
「今は、ドキドキしてるの。聖君の才能に」
「また惚れたってことかな?」
「うん。すご~~く」
「はは、だから桃子は小さな器じゃないって言ったんだよ」
「え?」
「聖君の才能が発揮される、その才能と出会える、それが嬉しいんだろう?」
「わかった?」
「おじいちゃんだってそうだ。今、わくわくしている」
「そう!わくわくしてるの。さっきから、胸が高鳴ってて、嬉しくて」
「はははは。じゃあ、大丈夫だよ」
「え?」
「桃子はね、聖君と一緒に世界に行ける」
「え?ど、どういうこと?」
「聖君の横で、聖君の才能を引き出しながら、その才能に触れ、喜びながら生きていけるってことさ」
「…」
「おばあちゃんがどうして、ずっとおじいちゃんについてきたか知ってるかい?」
「ううん。あ、好きだから?」
「そうだ。おじいちゃんの才能がね」
「え?」
「そして、この考え方もね。心配性で、なんでも後ろ向きだけど、おじいちゃんのこの楽観的で、前向きなところに惚れてるのさ」
いきなり、のろけ?
「それに才能にもね。だから、ついてこれた。いや、だから、おじいちゃんは安心して、好きなことができた」
「…」
「桃子。聖君はね、桃子のそばにいると安心が出来るんだ。知ってるんだよ、実はね」
「え?」
「桃子の器のでかさをさ。でも、心の奥底では知ってても、まだ、表面では気づいていない。だから、桃子を守らないととか、大事にしないととか、思ってるんだ」
「…」
「だけど、桃子は聖君を受け入れ、聖君の才能も受け入れ、それを伸ばすだけの力を持ってるから、どんな聖君にだって、ついていけるんだ」
「…」
「聖君がどんなに大きくなっても、どんな才能を開花させても、桃子はその聖君のそばにいられるよ」
「…ほんと?」
「ああ、もちろん。そんな聖君を見たくはないかい?」
「見たい」
「ははは。そして、また聖君に恋しちゃうんだろう?」
「うん、絶対にそう!」
「じゃ、大丈夫だよ」
「…」
ああ、また胸が高鳴った。ドキン、ドキンって。
「私きっと、聖君のこと小さく見過ぎてた」
「なんでそう思うのかい?」
「だって、どんな弱い聖君も守っていこうとか、どんな弱い聖君を見たとしても好きでいようとか思ってたんだもん」
「はっはっは。どんなすごい聖君も、どんなビッグな聖君も、好きでいようとは思えなかったってことかい?」
「ああ、そうかも。わあ。私って、どれだけ聖君を過小評価していたんだろう」
「自分のこともだね」
「え?」
「そんなすごい力を持ってる聖君の奥さんでいる。そんな桃子を自分で、認めてもいいんだよ?」
「…」
じわ…。涙があふれた。
「うん、うん、おじいちゃん」
ああ、そうか。結局はそこだよね。そんなすごい聖君は、私から去って行っちゃう。だから、聖君を小さく見て、そばに置いておきたかったんだ。
聖君の絵をまた見た。ああ、胸がときめく。
聖君。大好き。どんな聖君も。どんな才能を開花させ、私を驚かすかわからないけど、それでも、どんな聖君も受け止めて、愛していくよ。
私の心は、そう固く決心したせいか、すっきりとしていて、早く聖君に会いたくて、しょうがないくらいになっていた。