第153話 祖父の言葉
父も出かける準備ができて、私と聖君、そして父は車に乗り込んだ。私は父に、
「あ、私後ろに行くから、お父さん、助手席に座って」
と言って、後部座席に乗った。
「いいのかい?前に来なくて」
父が助手席のドアを開け、私に聞いた。
「うん。もう、シートベルトも締められないし」
そう言うと、父は納得して助手席に乗った。聖君は何も言わず、こっちも見ないで運転席に座った。
車を発進させると、すぐに父は聖君と釣りの話を始めた。2人はそのままずっと、楽しげに話していた。私はずっと、外の景色を見ていた。ああ、やっぱり雨、降ってきちゃったな。それも本降りだ。
ワイパーを動かし、雨の降る中、父と聖君の釣りの話は尽きることがなかった。
祖母の家に着いた。玄関まで祖母も祖父も出迎えに来て、嬉しそうに話しかけてきた。
「聖君、やっと来たね。待っていたよ」
「はい。今日は絵、習えるんですか?」
「ああ、そうだね。ちょっと描いてみるかい?」
「はい」
聖君は、祖父に連れられ、アトリエに行ってしまった。
「あれ、おじいちゃんに聖君を取られちゃったね」
父はそう言うと、私や祖母とリビングに行き、ソファに座った。
「今、お茶を淹れるわね。あ、桃子ちゃんは何がいい?ホットミルクのほうがいいかしら」
「うん」
私がうなづくと、祖母はにこにこしながらキッチンに行った。
「そういえば、式場のパンフレットも持ってくればよかったかな?」
父が私に聞いてきた。
「え?どうして?」
「揃えてくれたんだし、おばあちゃんたちの意見も聞いたほうがいいかもしれないだろ?」
「う、うん」
結婚式。ああ、あんなに浮かれてたのにな。今、ちょっと胸が痛むな。
どうしたんだろう、私。なんでこんなこと考えちゃうんだろう。このまま、聖君と結婚式を挙げていいのかな、なんて。
式を挙げても挙げなくても、もう結婚してるのにな。
祖母はクッキーと紅茶、そして私にはホットミルクを持ってきてくれた。
「こんなふうに遊びに来るのは、久しぶりね、桃子ちゃん」
「うん、前はよく来てたもんね」
「また、来てちょうだいよ。おばあちゃん、寂しいわ」
「そうだよね」
おばあちゃんはふうふうって、紅茶をさましながら紅茶を飲むと、
「そうそう。式場のパンフレットは見た?」
と聞いてきた。
「うん、ありがとうね、あんなにたくさん揃えてくれて」
「だって、桃子ちゃんの式なんだもの。一番いいところで、挙げたいじゃない?」
「…」
ああ、反対してたのに、今はこんなに祝ってくれてるんだ。
「お姉さんは反対してましたか?」
父が祖母に聞いた。
「実果?なんか言いかけたけど、そんなの無視しておじいちゃんと、式場のパンフレットを次々に見せちゃった。そうしたら、何も言えなくなっていたわよ」
祖母はそう言うと笑って、
「でも、幹男君のことは、あれこれ言ってたわね」
と、やれやれって顔でそう付け加えた。
「そうですか。幹男君はそのとき、来てなかったんですか?」
「来てないわよ。実果とも会わないようにしてたみたいよ?どうせ会ったってうるさく言われるだけだって、あの子もわかってるんじゃない?」
「ははは、息子に嫌われちゃってるんですか?」
「そうよ~。だから、東京にも出てきちゃったんじゃない?家にいてもうるさく言われてたら、たまらないでしょう」
祖母はそう言うと、また紅茶を飲んだ。
「桃子ちゃん。どこの式場が気に入った?チャペルか、神社か、どっちがいいかしらね?」
「え?」
「それとも、レストランでのガーデンパーティみたいなのはどう?それもいいわよね」
「うん」
「あら、元気ないわね。どうしたの?またつわり?」
「う、ううん。元気だよ。ただ、式場はどこがいいか、まだはっきりとしなくって。どこも素敵だから」
「そうね。やっぱりそれは、聖君と決めたほうがいいかもね」
「うん」
聖君はまだ、アトリエにいるんだろうな。私、どこかでほっとしてるかも。なんか、聖君のそばにいづらいもん。
そんなことを言ったら、聖君、傷つくかな。それとも、今は私のことはあまり、関心ないかな。
そんなことないかな。避けてる?とか、元気ない?とか、気にしてくれてた。なのに私、思い切り避けちゃったかもしれない。
傷つけたかな。キス、されそうになって、避けちゃったの。聖君の顔、凍り付いていたよね。
はあ。駄目だ。暗い。
「桃子?どうした?」
父が私のため息を聞き、心配そうに聞いてきた。
「なんでもない。きっと、あれ」
「あれ?」
「たまになる、情緒不安定ってやつ」
「桃子ちゃん、今、情緒不安定なの?」
祖母が驚いて聞いてきた。
「妊娠してると、ホルモンの関係か何かで、そういうのもあるみたいですよ」
父がそう言ってくれた。
「そうなの?嫌なことがあったとかじゃなくって?」
「うん、違うの。いきなり来るの。前にもあった」
「そういうときは、どうしてるの?」
「どうしてるかな。しばらくすると戻るから、そっとしてるかな」
私がそう言うと、祖母は心配そうに私を見た。
「心配しないで。ほんと、自分でもわからないけど、知らない間にまた元に戻ってるから」
私がそう言うと、祖母は、そう?とちょっと安心した顔つきになった。
祖母は心配性だ。母は楽天的だし、きっと祖父に似たんだろうけど、祖母が心配してしまうと私も、気持ちが沈んでしまうので、いつも祖母と話すときには気を付けている。
だから、今日は祖母と話すのは、ちょっときつい。冗談を言って、笑い飛ばしてくれる祖父のほうがありがたい。
今は人のことを気にかけたり、心配かけないよう明るくふるまったりできない。
「はははは。聖君の絵はいいね。最高だよ」
祖父が高らかに笑いながら、リビングに来た。
「聖君、もう絵を描き終えたのかい?」
父が、嬉しそうに聞いた。聖君がやってきたのが、嬉しかったのかな。
「いえ、まだですけど、ちょっと休憩しようってことになって」
聖君はそう言いながら、ソファに座った。
「いや、聖君には才能があるよ。芸術家肌だね」
祖父もそう言いながら、ソファに座った。
「二人とも紅茶でいい?」
祖母がそう聞くと、2人はうなづいたので、祖母はキッチンにいそいそと向かっていった。
「あれだけ、自由に絵を描いたのは初めてです」
「え?そうなのかい?」
「はい。あ、幼稚園くらいの時には、自由に描いてたと思います。でも、小学生になって、先生からあれこれ言われるようになって、考えながら描くようになっちゃったんです。っていっても、先生には、なにを描いてるのかいまいち、理解されてなかったんですけどね」
聖君はそう言うと苦笑いをした。
「思い切り自由に描くとどうだい?」
「はい、めちゃ気持ちいいですね」
「だろう?聖君は人の評価何て気にせず、もっと自由にのびのびとしたほうが合うと思うよ」
「え?」
祖父の言葉に聖君が聞き返した。
「君は、才能を埋もれさせてるね。きっと自分でもわかってないだろう」
「絵のですか?」
「いや、絵もそうだが、何にしてもだ」
「俺がですか?」
「なんでも器用にやってのけるだろう?」
「…」
聖君は黙った。でも父が、
「そうだな。運転も料理も、釣りだってうまくやってこなせちゃうもんな」
と聖君にかわって答えた。
「だけど、どれも平均よりも上かな、程度を保ってるんじゃないのかい?」
「ああ、はい。そういえばそうかも」
「もっと君には、すごい力があるよ」
「…」
聖君は、目を丸くさせたまま祖父を見た。
「なんでも、君はしたいということを、ものすごい才能を発揮させて、できると思うよ」
「俺がしたいこと?」
「ああ、そうだ。今はそれが、君の中でくずぶってるね。本来の力が発揮されず、埋もれたままだ。もったいない」
「俺がですか?」
「そうだよ、自分でも感じないかい?」
「え?」
「もっと自由にのびのびとしてみたいとか、何かでかいことをしてみたいとか」
「いえ…。あ、自由にのびのびとってのは、あるかもしれないけど」
「だろう?」
「…」
聖君は黙り込んだ。
「俺…」
そして、口を開き、ちょっと祖父と父を交互に見て、それから自分の組んでいる手を見ながら話しだした。
「海、好きなんです。だから、海にかかわる仕事したいって、ずっと思ってました」
「うん」
父も祖父もうなづいた。
「でも、それが具体的に考えられなくって」
「なるほど」
祖父がうなづいた。
「それで、海洋学を勉強しようって、今の大学に行ってるんですけど」
「うん」
父がうなづいた。
「俺、子供好きだから、子供に海のいろんなことを教えたりってのもいいなって、最近思ったり」
「うん」
父も祖父も、身を乗り出して聞いている。そこへ、祖母が紅茶を運んできたが、みんなが真剣に話してるのに気が付き、そっとカップをテーブルに置いた。
「だけど、なんかぴんと来なくて」
「海が好きなのと、それを仕事にしていくのは、切り離してもいいんじゃないのかい?」
父がそう言った。
「え?」
「趣味でダイビングをするのも、いいと思うよ?」
「はい」
聖君はうなづいてから、黙り込んだ。
「まあ、焦らなくてもいいさ。まだ、18歳だ。大学1年なんだから、これから探しても遅くはない」
「そうですか?」
聖君が祖父の言葉に聞き返した。
「ん?遅いと思うのかい?」
「…できたら、早くに進む道を決めたいって思ってます」
「それは家族ができたからかな?」
「ああ、きっとそうです」
ドキン。私や凪のためにだよね。
「ははは、大丈夫だよ。僕だって、先生になったのにやめちゃって、絵の教室を開いた。先生でいたほうが、収入も安定してるし、将来の不安もないだろうけど、それでも、やめてしまった。だけど、家族を養って行けたんだから」
「…それは、おじいさんがちゃんと、自分のやっていきたいことを見つけられたからですよね?」
「いやあ、美術の先生でいたときは、やはり、あれこれ悩んだよ?」
「でも、絵は好きだったんですよね?それで食っていこうと思っていたんですよね?」
「ははは。思ってないさ。だけど、とりあえず、そのくらいしかなかったからね。それをしてみたら、意外にも収入があって、どうにか生活できちゃったんだよ」
「ほんと、おじいさんは楽天的すぎますよ。うまくいったからいいものの、生徒が来なかったらどうなっていたか」
「でも、うまくいったからいいじゃないか」
祖母の言う言葉に、祖父はそう返した。
「未来に不安はなかったんですか?」
「聖君は不安かい?」
「いえ、そうでもないですけど、でも、はっきりとしてないと、ビジョンが浮かんでこないっていうか、ふらふらしちゃうっていうか」
「いいじゃないか、ふらふらしても」
「よくないです。俺、もう一人じゃないし」
聖君が真剣な目をしてそう言った。
「意外と真面目なんだな、聖君は」
祖父がそう言うと、
「おじいちゃんが、不真面目なんですよ」
と祖母が口をはさんだ。
「聖君は誠実なんですよ。だから、僕も桃子を任せられる。生半可なことは言わないし、大事にするといったら、本気で桃子を大事にするだろうって、そう思いましたからね」
父がそう言うと、祖父は真面目な顔つきになった。それから、私を見ると、
「桃子はどう思ってるんだい?」
と聞いてきた。
「え?」
「桃子は、ただ守ってもらう、大事にしてもらう、それでいいのかい?」
ドキ!なんでわかったんだろう、今、それだけじゃいけないって思ってることを。
「私は…」
言葉に詰まった。
聖君はじっと私を見た。
「そりゃ、子供もいるし、守ってもらわないとならないわよね?桃子ちゃん」
祖母は私のほうに、身を乗り出してそう言った。
「え?うん」
ああ、今、うなづいてしまった。
「家族ができることは、別に負担になることじゃないよ?桃子」
父が優しくそう言ってきた。
「え?」
「今、うなづくのに躊躇したね。ちょっと負担に思われないかって、そう感じたんじゃないのかい?」
う、なんでわかったんだろう。
「負担?」
聖君がその言葉を聞き、私と父を交互に見た。
「家族ができることは、自分を強くもさせる。家族のために働こうとか、家族のために生きていこうとかね」
「…」
「聖君だって、そういう思いがあるからこそ、未来のビジョンをはっきりさせたいって思うんだろう。だけど、それは悪いことじゃない。逆に聖君の人生を、力強いものにしていくものかもしれないよ?」
「…」
ほんと?本当にそう?
「桃子ちゃん」
聖君がこっちを見た。
「俺が負担に感じてるって思ってたの?」
「え?」
聖君、すごく悲しそうな目で見てる。
「そう思ってた?」
「ううん」
私は思わず、首を横に振った。
「桃子は、そんな小さな器じゃないよ」
祖父がいきなりそう言った。
「え?」
聖君も父も、祖母も祖父を見た。
「まあ、いいさ。そのうちわかる」
祖父の言葉に私は驚いた。なんで?なんでそんなことを言うんだろう。
「さて。続きを描くとするかい?聖君」
祖父は紅茶を飲み干すとそう言った。そして、聖君とリビングを出て行った。
祖母と父が話してる横で、私はさっきから、祖父の言葉が忘れられないでいた。
「桃子は、そんな小さな器じゃないよ」
どういうことだろう。
なんで、そんなことがわかるんだろう。
もっと祖父と話がしたい。それに、今悩んでいることも、聞いてほしい。
そう思いながら、聖君が絵を描き上げるのを、私は待っていた。