第150話 お疲れモード
夜、聖君が帰ってきた。玄関まで出迎えに行って、
「お帰りなさい」
と抱きついてみた。ひまわりは、まだバイトから帰って来てなくて、母はキッチンでひまわりの夕飯の準備をしている。
「ただいま」
聖君はそう言って、むぎゅって抱きしめてきた。でも、ちょっとだけ、テンションが低い。
「疲れてるの?」
そりゃそうか。大学行ってから、バイトしてきたんだもんね。
「ううん、大丈夫だよ」
聖君はニコって笑った。でも、どこか元気がない。
「風呂入ろう、桃子ちゃん」
「うん」
一緒にお風呂に入った。聖君はいつものように背中を洗ってくれてるけど、今日は鼻歌もない。
「何かあったの?」
「え?俺?」
「うん」
「ううん。別に」
別に?なんだか、そんな返事があるときって、何かあるんだよね。
「桃子ちゃんは、何かいいことあった?」
「え?なんで?」
「だって、玄関で抱きついてくるなんて、そんなことあまりないじゃん」
「いつも、ひまわりやお母さんがいるから」
「ああ、遠慮してたんだ」
「うん」
「ふうん」
ふうん?なんか、もしかして、そんなに興味のわかない会話だった?
絶対にテンション低いよね?聖君。
「あのね」
「ん?」
「平原さんのお母さんに、ほっぺたたたかれちゃった」
「えっ?!!」
聖君が私の顔を覗き込み、
「あ、左?ちょっと紫色してる」
と青ざめた顔でそう言った。
「ほんと?もう痛くはないんだけどさ」
「…」
聖君、まだ青ざめてる。
「あ、でもね、もう大丈夫だから」
「大丈夫じゃないじゃん!」
「え?」
「全然、大丈夫なことじゃないだろ?なんで桃子ちゃんが、ぶたれなきゃならないんだよ」
「違うの。平原さん親子でもめて、平原さんのお母さんが平原さんをたたこうとしたの」
「で?間違って桃子ちゃんをぶったなんてこと、ないだろ?」
「…私が、平原さんの前に出ていっちゃって、ぶたれちゃった」
「はあ?」
あ、聖君が呆れた。
「それって、どういう意味?もしかして、かばったの?」
「わかんない。勝手に足が動いてたから」
「はあ?」
「呆れた?」
「…」
あ、黙り込んじゃった。
「菜摘にも、凪がいるんだし、もっと気を付けてって怒られた」
「あ、そう」
あ、そう?もしかして、これもまったく興味なかった?
聖君は黙ってまた、背中を洗い出した。それから、腕や首も。
「あいつさ」
「あいつ?」
「菜摘。きっとうるさいおばさんになると思わない?」
「へ?」
「凪にもあれこれ言って来たりして」
「…」
そんなこと考えてたんだ。あれ?じゃ、ほっぺたたたかれたのは、もうどうでもいいのかな?
「平原さん、お母さんとそんなに仲悪いの?」
「え?ううん。そうだ!言い忘れてた。今日ね、PTAで聖君の演説のビデオを見たらしくって、それで平原さんのお母さんも考えが変わっちゃったんだ」
「え?変わったって?」
「平原さんを産んだ時のことを思い出して、命の大事さとかそういうこと、考えたみたい。平原さんに対しても、きっと変わっていくんじゃないかな」
「じゃ、もう俺らのことも」
「うん、反対してないし、PTAでも賛成してくれて、応援してくれるって」
「そりゃ、すごい変化だね」
「でしょ?やっぱり聖君はすごいね」
「なんで俺?」
「だって、聖君の演説があったから」
「その前に、桃子ちゃんが平原さんのことをかばったからでしょ?」
「え?」
「桃子ちゃんの、人を大事にする力を見たからじゃないの?そのためなら、知らないうちに勝手に動いちゃうくらいの強さって言うのかな」
「…」
そんなふうに思ってくれたの?
「俺より、強いよ」
「そんなこと…」
「後先考えず、行動したんでしょ?あ、でも、これからは一応、動く前に凪のこと思い出してね」
「え?うん」
「そうだな。お腹に手とか当てる癖をつけたら、凪のことを思い出すようになるかもね」
「そうしてみる」
私はさっそく、お腹に手を当てた。ぐに~~。
「あ、凪が動いた」
「まじで?」
「うん」
「よく動く?」
「うん、よく動いてるよ」
「元気なんだね。胎動っていいね。元気なのがわかって」
「うん!」
聖君は、私を立たせると胸やお腹も洗い出した。
「凪、パパに洗ってもらってるってわかってるかな」
お腹を洗ってるときに、聖君はそんなことを言って、お腹に向かって、
「凪~~。パパでちゅよ」
と思い切り赤ちゃん言葉を使った。
ぐに~~。
「あ、動いた!わかったんじゃないのかな」
「え?まじで?」
「うん」
「そっか」
聖君はちょっと目を細めて、嬉しそうな顔をした。
髪も洗ってもらって、バスタブに入った。聖君は豪快に体と髪をさっさと洗い、バスタブに入ってきた。
「は~~~~」
ため息をついて、私に抱きつくと、
「落ち着く」
とボソッと言った。やっぱり、疲れてたのかな。
「他は?何かあった?」
聖君に聞かれた。
「ううん、特にないけど」
「そっか」
聖君は、しばらく黙って私に抱きついていた。
「聖君は大学どうだった?」
「うん」
「久しぶりに行ったんだもんね」
「ちょっち、疲れた」
やっぱり?
「結婚したことをまだ、知らない人もたくさんいて」
「うん」
「なんだか、いろんな人に声をかけられた」
「?」
「なんなんだろう。夏休みはどうだった?とか。旅行いったお土産あるから、ラウンジで話そうよ、とか」
「それ、みんな女の人?」
「そう…」
そうか。それでお疲れモードなのか。
「で、そんなこんなで話しかけられてたら、カッキーが来て」
「え?うん」
「試験中でも、話して大丈夫そうじゃんって、ものすごくふてくされた顔で言われた」
「…」
あちゃ。そういうのって、聖君苦手そう。
「これからバイトだし、忙しいんだ。じゃあって、そのへんにいる人みんなに言って、さっさと帰ったけどさ」
「カッキーさんは?」
「知らない。その場に置いてきたから」
「そうなの?」
「え?どうして?」
「うん、だって、同じサークル」
「今日サークルなかったし」
「…」
仲間だってあまり、意識したりしないのかな。もしそれが麦さんなら、もうちょっと話したりしただろうに。
い、いやいや。仲良くなられたら、逆に私がやきもちやいちゃうか。
「あ~~あ。俺、今日ちょっと覚悟決めて行ったんだよね」
「大学?」
女の人に囲まれる覚悟かな。
「もう結婚したことをみんなが知ってて、あれこれ言って来るだろうなって思いながらさ」
ああ、そっちの覚悟。
「でも、みんななんで知らなかったんだろう」
「サークルの人はみんな知ってるんでしょ?」
「うん」
「じゃ、部外者には話してないってことじゃないの?」
「そっか~」
「…」
聖君はまた、黙り込んだ。
「話してもいいのにな。俺から発表するのもなんていうか、しにくいっていうか」
「だよね」
わかる。その心境。
「結婚指輪、先に買わない?桃子ちゃん。それ見たら、絶対にみんなわかると思うんだけどな」
「そうかな?」
「え?」
「結婚指輪だとは思ってくれないかもよ?」
「え~~。左手の薬指だよ?わかるでしょ、普通」
「大学1年の聖君がしてても、まさか結婚したとは思わないよ。普通」
「う~~~~~~」
あれ?うなっちゃった。
「あ~~~~。桃子ちゃんを引きつれて、大学行きたい気分」
「へ?」
「そうしたら、みんな寄ってこなくなるかも」
そうかな。私が横にいても平気で寄ってきそうな気もするけど、げんに麦さんだって、芹香さんだって、いい寄って来てた。
「桃子ちゃん、もう出ようか、のぼせたら大変だし」
「うん」
聖君はまた、私の体を拭いてくれて、それからさっさと洗面所を出て行った。
私はパジャマを着て出て行くと、あ、聖君はお父さんとひまわりにつかまってしまっていた。
「大学どうだった?聖君」
お父さんが聞いた。
「お兄ちゃん、勉強教えてほしいんだけど」
ひまわりが聞いた。なんで?かんちゃんに聞くんじゃなかったの?
「大学、久々でちょっと疲れちゃいました」
聖君は苦笑いをしながら父に答えて、ひまわりには、
「あとでちょこっと見るね。俺も勉強あるから、あまり時間取れないけどいい?」
と優しく言っていた。
「また納戸で勉強するの?」
「え?ああ、うん」
「じゃ、そこに聞きに行くね」
「うん、わかった」
聖君はそう言ってから、階段のほうに来た。私がそこで待っているのに気が付き、
「部屋行こう、桃子ちゃん」
とにっこりと笑った。
「うん」
聖君の後に続いて、2階に上がった。
部屋に入ってから、私は、
「ひまわりの勉強、大変だったらいいんだよ?見なくたって」
と言ってみた。
「うん。わかってる。大丈夫。そんなに時間はとらないよ」
「…」
でも、見てあげちゃうんだ。ああ、そっか。これが杏樹ちゃんでも同じなんだ、きっと。多分、それが菜摘でも、私でも。
聖君は優しい。優しいのに、女の人が苦手で、クールになっちゃうんだ。それ、実は心の奥では、葛藤してたりしてないのかな。
優しい聖君と、クールになってしまう聖君が、戦ってることはないんだろうか。
聖君は、私の髪を乾かし、自分の髪は半渇きのまま、納戸に移動してしまった。凪の日記すらまだ、書いていないというのに。
と言う私も、実は宿題があったんだった。どうしようかな、納戸行こうかな。
凪に日記を書いてから、教科書とノートを持って部屋を出ると、納戸から聖君とひまわりの会話が聞こえてきた。
ああ、先を越されたか。
「かんちゃんに勉強教えてって言ったら、数学あまり得意じゃないんだって」
「あれ、残念だったね。かんちゃんの家に行ったり、来てもらう絶好のチャンスだったのに」
「かんちゃんの家、まだ行ったことない」
「そうなの?」
「うん」
「一回、誘われた。今日、誰も家にいないし、来る?って」
「行かなかったの?」
「だって、2人きりだよ?」
「いいじゃん」
「よくないでしょ。それってさ、もしかんちゃんに襲われても、そういうことがあっても、OKだって気で来たんだろって言われそうで」
「あ、なるほどね。それもそっか」
「そういうの、まだ嫌なんだ」
「そういうの?」
「だから、その…」
「ああ、ごめん、わかった。そういうのね」
「子供かな、私って」
「そんなことないだろ?いいんじゃないの?そんな焦る必要もないしさ」
「本当に?男の人って、どうなの?」
「え?どうなのって?」
「あまり、長いことそういうことを拒否してると、愛想着かしたりするの?」
「えっと、そういう情報はどこで仕入れてくるの?」
「バイトの先輩」
「いくつ?」
「今、20歳」
「そんな人の言うこと、真に受けなくてもいいと思うけど?」
「本当に?」
「大事な子なら、何年だって待てるんじゃないの?」
「お兄ちゃん、待てなかったんじゃないの?」
「え?!」
聖君の声が裏返った。
「だから、お姉ちゃん、妊娠」
「いや、その、それはさ」
あ、聖君が慌てている。
「あ~~、なんて言ったらいいのかな。俺、その、無理強いしたつもりはなくって、これでも、桃子ちゃんのことすごく大事にしてて」
「そこが不思議なんだよね。あのお姉ちゃんがなんで、そういうことできちゃったんだろう」
「…」
聖君が黙り込んだ。だよね、そんなこと聞かれても、私だってきっと困っちゃう。
「勉強しようか、ひまわりちゃん。数学のどの辺がわかんないの?」
「私、男の人って別に苦手じゃないんだけど」
「へ?」
ひまわりの唐突の話に聖君の声がまた、ひっくり返った。
「かんちゃんも苦手じゃないの。だけど、電車乗ると、おっさんとかすんごい嫌なんだよね」
「おっさん?」
「大学生くらいでも嫌。最近特に嫌」
「お年頃だから?」
「何それ?」
「ごめん、自分で言って意味不明だった」
聖君が即座に謝った。
「お兄ちゃんは平気」
「俺も大学生ですけど」
「清潔感あるし」
あ、それわかる。
「爽やかで脂ぎってないし」
うんうん。
「イケメンだし、なんかいい匂いもするし」
「俺ってなんかにおうの?桃子ちゃんにも言われるんだけど」
「爽やかな風の匂いかな」
「なんだよ、それ」
そっか。ひまわりも感じてたか。
「だから、こうやって隣にいても平気」
「かんちゃんは?」
「かんちゃんも平気。でも、ちょっと近づいてくると、ちょっとね」
「え?」
「構えちゃうって言うか」
「ああ、なるほどね」
「…お兄ちゃんは、女の人が苦手なんだっけ」
「うん」
「そのくらいのほうがいいよね」
「?」
「草食と、肉食っているじゃん」
「ああ、うん」
「肉食って嫌だな」
「あはは。俺、草食系?」
「だって、女の人苦手でしょ?」
「でも、桃子ちゃんは苦手じゃないよ」
「でも、そんなに迫ったりしないでしょ?」
「えっと~~、今はどうかな」
「え?」
「あ、嘘。迫ってないよ。うん」
聖君がまた慌ててそう言いなおしていた。
「それよりもさ、勉強しようよ、ひまわりちゃん。俺、できたら、自分の勉強もあるし、早めに終わらせたいって言うか…」
「あ、ごめん。そうだよね」
「うん。せかすようで悪いけど、ちょっと疲れてるから早く寝たいし」
「わかった。この問題なんだ」
「どれ?」
そっか。聖君、疲れてて早く寝たいんだ。
私はそっと部屋に戻った。それからテーブルに教科書とノートを広げ、宿題をした。今日は英語だし、どうにか自分の力だけで、終わらせることもできた。
それから明日の用意を整え、私はベッドに潜り込んだ。疲れてるなら、私もおとなしく寝てたほうがいいよね?聖君だって、そうしたら部屋に戻ってきて、寝るだけになるし。
でも、寂しいな。
そっとドアを開け、聖君が入ってきた。
「桃子ちゃん、起きてる?」
「うん」
「もう寝るところだった?」
「うん」
聖君はテーブルにつき、凪の日記をすらすらと書いて、ノートを閉じると、
「まだ、起きてる?」
とまた聞いてきた。
「うん」
うなづくと聖君は、私の横に潜り込んできて、抱きついてきた。
「ほっぺた、痛くない?」
「うん、大丈夫」
聖君は左の頬にそっとキスをしてくれた。
それから、優しく髪をなでると、長いキスをしてきた。トロン。やばい、溶けそうだ。
「桃子ちゃん」
「ん?」
「愛してるよ」
「うん」
聖君はもぞもぞと後ろから私を抱きしめ、
「は~~」
とため息をついた。
「どうしたの?」
「癒されるって思って」
ほんと、疲れてるんだな。
「聖君」
「ん?何?」
「何かちょっとのことでも、話してくれていいからね」
「え?」
「嫌なこととか、なんでも。隠さないで話してね」
「え?うん。話してるよ?」
「ほんと?」
「うん」
「なんにも隠してない?」
「うん」
そうか。じゃあ、大丈夫だよね。
「あ…」
「え?」
「そういえば、言ってないことがあった」
「何?」
ドキ。なんだろう。
「俺、足の裏にたこができちゃってて、痛いんだよね」
「…」
たこ?!
「ぼろって取れると、またできちゃうの。あれ、どうにかならないかな」
たこ~~?
「桃子ちゃんの足にはないね。足の裏柔らかくって、綺麗だもんね」
「…痛いの?」
「ちょっとね、歩きすぎたり、ずっと立ちっぱなしだとね」
あ、そうか。バイトってずっと立ってるんだもんね。
「あ、それと」
「え?何?」
ドキ。今度は何?
「最近、日焼けした皮膚、むけちゃうんだ。ごめんね、シーツに俺の皮あったら」
「へ?」
「汚いよね?」
「ううん、大丈夫。そんなことあまり気にならないし」
えっと。それだけ?
「むぎゅ~~」
あ、抱きしめてきた。
「桃子ちゃん、今日も思い切り抱きたいんだけど」
「え?」
「疲れちゃってて、眠いや。もう寝てもいい?」
「い、いいよ?もちろん」
「おやすみ、桃子ちゃん」
「おやすみなさい」
5秒後、すうって寝息が聞こえた。
疲れてないよなんて言ってたくせに、やっぱりお疲れだったじゃないか。遠慮したのかな?聖君。
本当は、なんでも話してくれたら嬉しい。タコの話でもいいし、なんでも。
でも、タコ。
そうか、この爽やか聖君の足でも、タコはできてしまうのか。にっくきタコめ。聖君を苦しめるとは、許さん。
なんちゃって。ほんとは聖君の足にできたタコなら、それすら好きになったりしそうなんだけど。って、変態だよね、やっぱり、その発想。
聖君の寝息を聞きながら私も眠りについた。聖君がいつでも、安心していられますように、そんなことを思いながら。