第139話 さびしい夜
「基樹ね、怖いんだよ」
「え?」
聖君が後ろから私を抱きしめ、そういきなり言った。
「蘭ちゃんに一回ふられてるから、もし付き合っても、またふられることになるんじゃないかって、それが怖いんだ」
「そうなの?じゃ、蘭のこともう忘れたんじゃなくって?」
「うん。思い切り引きずってるよ?」
「でも、蘭にはもう忘れたって言ったみたいだよ?だから、昨日は会えたんだって。友達として相談に乗るつもりで来たって」
「げ~~。あいつ、そんな強がり言ってたの?しょうがねえな~~」
「強がりだったの?」
「そうだよ。あいつさ、今でも蘭ちゃんにめろめろだよ?昨日だって、めちゃ綺麗になってたって、それでまた落ち込んでいたし」
「え?綺麗だとどうして落ち込むの?」
「きっと、今の彼氏が蘭ちゃんを綺麗にさせたんだって、そう思ったんじゃないの?」
「…」
なんだか、男の子の思考も、複雑なんだな。
「自信がないんだよ、あいつ。蘭ちゃんに、愛想着かされてふられたって、そう思ってるし」
「え?」
「蘭ちゃんのことより、自分の成績が下がったことで頭いっぱいだったしさ。まあ、受験でいっぱいいっぱいだったんだろうけどさ」
「それ、蘭は蘭で、後悔してたよ。自分は彼氏が受験で大変だったとき、さっさと別の人と付き合ったりして、天罰だよねって」
「は?何それ」
聖君は、ちょこっと顔を覗き込んで聞いてきた。でもすぐに、
「桃子ちゃん、もう出よう。顔真っ赤だ。またのぼせちゃうよ」
と言って、私を注意深く立たせた。
聖君は、最近、さささっと自分の体を拭いて、Tシャツとパンツをはくと、もたもた体を拭いている私から、バスタオルを取り上げ、私の体を拭きだす。自分の体は、多少濡れてても、おかまいなしなのに、私の体は念入りに拭いてくれる。
それって嬉しいけど、でもちょっとだけ、戸惑いがある。なにしろ、たまに聖君の手が止まり、背中にキスをされたり、お尻をかわいいって言ってつつかれたりするものだから。
「あ、あのさ。自分で拭けるんだけどな」
「またまた~~。そんなこと言っちゃって」
違うよ。本当に、恥ずかしいんだってば。
「桃子ちゅわん」
むぎゅって抱きしめられた。
「あ、あのさ、お風呂場だとそうでもないと思うけど、ここだとけっこう、リビングに私たちの会話が聞こえちゃってるんじゃないかな」
「え?」
聖君は、抱きしめていた腕を緩め、私の体をさっと手早く拭き、
「はい、終わった」
と言って、バスタオルを片づけだした。
「じゃ、先に出てるね」
聖君がドアを開けようとした。
「あ!」
「え?」
もしかして、まだ父がダイニングにいたら、呼び止められちゃうかもしれない。
「聖君、さっさと部屋に行っててね」
私が聖君にそう言うと、聖君は、にや~~って、思い切りにやついた顔をして、
「了解。でへへ」
と言って、洗面所を出て行った。
あ、あれ、絶対誤解してる。私はただ、基樹君の話を聞きたいだけなのにな。
ドライヤーを持って、2階に行き部屋に入ると、聖君はにこにこ顔で、ベッドに正座していた。
なぜ、正座なのかはわからないけど、
「桃子ちゃん、髪乾かしてあげるから、早くここ座って!早く早く」
と、せかされた。やはり、きっと思い切り期待してる。
「あのね?」
「うん?」
私が言う言葉も期待してるようだ。目が輝いている。
「基樹君の話の続きが聞きたいの」
私がそう言うと、聖君は眉をしかめて、
「また~~?」
と嫌そうにした。
「だって、蘭のこと、心配なんだもん」
「蘭ちゃん、そんなに落ち込んでた?」
「うん。今日も一人で帰っちゃったの。一人になって考えたいって」
「あちゃ。暗いね」
「でしょ?」
「そっか~~」
聖君は、私の髪を乾かし始めた。それから、しばらくすると、
「そういえば、天罰って何?」
と聞いてきた。
「ああ、基樹君に、よりは戻せないって言われて、天罰だって蘭が言ってたんだ」
「天罰じゃないでしょ?それ」
「う~~ん、でもね、今の彼氏に浮気されられたのも、基樹君がいるのに、他の人と付き合っちゃったんだから、同じことしたんだよね、って、そんなようなことも言ってたよ」
「ふうん」
聖君はまた黙って、髪を乾かしだした。
「はい、おしまい」
最後に髪をとかしてくれて、聖君はそう言った。そして、自分の髪を豪快に乾かしだした。
すぐ隣にいると、水しぶきが飛んでくる勢いだ。ガガガ~~ってすごい音を立て、聖君は一気に髪を乾かす。そして、ブラシで髪をとかし終わると、手でまた、くしゃくしゃってして、ちょっと毛先が無造作にはねてますって感じにする。
でも、その、無造作な感じが、すごく素敵なんだ。聖君は自分でも、どんな髪型にすると似合うのか、知っているんだろうか。
「桃子ちゃん」
「ほえ?」
「見惚れてた?」
「うん」
ああ、目がハートだったんだろうな~。
「あはは!たまに桃子ちゃん、ほえ?って返事するよね?」
「え?そう?」
「うん、たいていが意識がどっかに飛んでるときね」
そうなんだ。わ、恥ずかしい。これからは気を付けよう。
「そこがまた、かわいいんだけどさ」
って言って聖君に抱きしめられた。ああ、やっぱり聖君は変態だ。
「凪の日記つけないとね」
「その前に、話の続き」
「ああ、そっか。基樹ね」
「うん」
「でもさあ、あいつらがどうにかすることで、俺らがここで悩み相談してても、しょうがないんじゃないの?」
「え?」
「俺から桃子ちゃんに伝えたことを、今度は桃子ちゃんが蘭ちゃんに言うの?それ、基樹が直で伝えたほうが早くない?」
「う、うん」
「まあ、あいつが、蘭ちゃんに伝えるかどうかはわからない。それに、よりを戻すかどうかも、わかんないけど、でも、それを選択するのも、あいつが決めることでさ、俺らはただ、見守ってるしかできないと思うんだよね」
「そうだね…」
「今日、あれこれ聞きだして、あいつは蘭ちゃんをどう思ってるか、自分で分かったと思うよ。そのうえで、どうするかは、あいつが決めてくことだからさ」
「うん」
聖君って、こういうところが、クールっていうか、ううん。男らしいっていうか。
「でも、天罰はないよ。今回のことだって、必要で起きてるだけでさ、蘭ちゃんにとっても、基樹にとっても、これからのために起きてることだと思うよ」
「そ、そうだよね?」
うん、そうだ。そのこと、忘れてたな、私。
「だから、もうあの二人のことはおしまい」
「え?」
「あとは、いちゃつこうね」
「でも、凪の日記」
「あ、そうか」
聖君は、凪の日記を書きだした。
「パパは明日がとっても、楽しみです~~」
と、口で言いながら書いている。
「あ!」
「え?」
「今、動いたよ」
「まじで?」
「パパの声が聞こえたんだよ」
「え?何?」
「だから、パパの声が…」
「ひゃあ、なんか新鮮」
聖君が目を丸くした。
「何が新鮮?」
凪が動いたのが?
「桃子ちゃんにパパって言われるの…」
「え?そうなの?」
「えへへ。なんか今、照れくさかった」
「ふうん…」
そうなんだ。
「ママって俺も呼ぼうかな」
え?
「桃子ちゃんのほうがいい」
私はすかさず、そう答えた。
「あれ?そういうもん?」
「うん。だって、聖君のママじゃないもん。私は奥さんだし」
「もう、桃子ちゃんってば」
聖君が抱きついてきた。
「じゃあさ、俺の奥さん。今日抱いてもいい?」
聖君、思い切り甘えた声だ。
「駄目」
「ええ?ど、どうして?あんなに俺のこと誘ってたじゃん」
「誘ってないよ、一回も」
「嘘だ。ぜ~ったい嘘だ。あ!そう言って、じらしてるんでしょ?」
聖君は私のことを抱きしめたまま、私の頭に頬ずりしてくる。
「違うよ。明日検診だもん。今日はおとなしくしておくの」
「あ…」
聖君はそう言ったきり、私から離れて黙り込んだ。そして、また日記を開くと、
「凪へ。明日の検診は楽しみだけど、今日はちょっとパパは、悲しいことが…」
といきなり言い出し、日記に書きこもうとしているから、私は慌ててやめさせた。
いったい、何を書こうとしてたんだ。もう~~~~。
「じゃあ、明日の楽しみにとっておくか」
「え?」
「じゃ、勉強でもしようかな、俺。あ、また納戸に行っていい?あそこ、いいね。めちゃ集中できるよ。なにしろ、勉強机以外に何もないんだもん」
「う、うん。いいよ」
「じゃ、行ってくる。桃子ちゃんは明日検診なんだし、もう寝なね?」
「え?」
聖君はさっさと、部屋を出て行った。もう寝なねって言われても、まだ、10時だよ?
「は~~~。寂しい」
試験が終わったら、一緒に寝れるの?っていうか、終わるまで、ずっと毎晩納戸で勉強するの?
う~~。でも、受験の時なんて、2週間会えないってこともあったんだし、それを考えたら、毎晩数時間会えないだけだし。
聖君は勉強が終わってベッドに来ると、どうやら私に抱きついて寝てるようだし。だから、寝てたとしても、聖君とはくっついてるわけだし。
寂しいなんて、そんなのかなり贅沢なこと言ってるよね。
でも、でもでも、やっぱり寂しい~~~。
水でも飲みに行こうと部屋を出ると、納戸から笑い声が聞こえてきた。
え?どうして?
そっと近づくと、ひまわりの声も聞こえてきた。
なんで~~?ずるすぎる~~!
「そっか~。かんちゃん、ひまわちゃんのこと、大事にするって言ってくれたんだ」
「うん。お兄ちゃんのおかげ」
「え?俺の?」
「女の人にクールなところ、かっこいいんだって。かんちゃんも今、私以外の人には、クールに接してるんだよ」
「ええ?なんで?」
「まねしてるみたい」
「どうして?」
「お兄ちゃんにあこがれてるみたい」
「…えっと、それって」
「男の人として、あこがれるって。あんな風になりたいって」
「あ、そういうことか」
「え?なんだと思った?」
「いや、別に。でもよかったね。じゃ、もうひまわりちゃん、やきもちやかないでも済むね?」
「うん!」
そんな会話が聞こえてきた。納戸のドアは閉まっている。う~~、けっこう狭い部屋なのに、今、2人きりでいるってことでしょう?
なんか、嫌かも。でも、ガラって開けて、間に入っていく勇気もないし、ひまわりを怒る勇気もないし。
ああ、私って、結局まだこんなうじうじした性格なんだな。
「勉強してるんでしょ?」
ひまわりが聞いた。そんなの、一目瞭然じゃん。邪魔しちゃ悪いってなんで思えないかな。
「そうだよ、もうすぐ試験なんだ」
聖君は優しい口調で答えている。
「大学も大変そうだね」
「まあね」
「お姉ちゃんは、勉強しないでもいいのかな」
「あれ?高校はまだでしょ?試験」
「うん。あ、試験の前に、勉強教えてもらってもいい?」
「う~~ん、いいけど。でも、確かかんちゃんって、一個上でしょ?」
「うん」
「じゃ、かんちゃんに聞きなよ。そうしたら、かんちゃんとの時間が増えるよ?」
「そっか。そうだよね!」
ひまわりは喜んでいる。聖君、うまいな、そういうことを言って、喜ばせるのが。あれ?それに何気なく、ちゃんと断ったんだな…。
「お姉ちゃん、一人で部屋にいるの?」
ギク。ここで耳を澄ませてるって知ったら、2人とも驚いちゃうな。それどころか、呆れるかもしれないな。
「明日検診だし、桃子ちゃんは早めに寝たほうがいいかなって思って」
「そっか。お兄ちゃんってほんと、お姉ちゃん思いだよね」
「あはは、改めてそう言われると、照れるね」
「ねえ、いっつもお姉ちゃんと一緒に寝てるのってどう?」
「へ?」
わ、何を聖君に聞いてるんだ。
「どうって言われても」
聖君も返答に困ってしまっている。
「いっつも一緒にいるって、どんななのかなあ」
「う~~んとね」
まだ返答に困っている。
「そうだな、なんていうか、もうそれが当たり前になってるかな」
「え?」
「離れてるってことのほうが、考えられないっていうか、前は一緒に住んでたわけじゃなかったけど、もう、離れて住むのは無理かもしれないな」
「一緒にいて当たり前?」
「うん」
「嫌にならない?」
「へ?どうして嫌になるの?」
「たまに一人になりたいとか。一人になりたくって、ここにいるんじゃないの?」
「ああ、一人でここにいるから、気になったわけ?」
「ちょっとね」
聖君がちょっと黙ってから、
「こんなことひまわりちゃんに言っちゃって、いいのかなあ」
とぽつりと言った。
「え?なに?」
な、なあに?ドキドキ。何を言い出すの?
「桃子ちゃんがいると、勉強に身が入らないんだよね」
「どうして?」
「どうしてって、聞いてきちゃう?そのわけ」
聖君が戸惑ってる感じだ。
「気が散るってことでしょ?」
「そう、それ」
「ふうん」
「それ以上は聞かないでね」
「うん。だいたいわかったから、もう聞かない」
わかっちゃったか。ひまわりにも。うわ、なんか恥ずかしいかも。
「そうだよね。いくら妊娠してたって、同じ部屋で寝泊まりしてるんだし、その気になるよね」
「ひまわりちゃん、もう部屋に戻らない?俺、勉強したいんだけど」
あ、聖君が焦ってる。じゃなくって、私も部屋に戻ろう。今、ひまわりが出てきたら、私が立ち聞きしてたのばれちゃうよ。
そうっと足音を立てないよう、部屋に私は戻った。
ドアをそっと閉めたとき、納戸のドアが開き、
「おやすみ、お兄ちゃん。勉強頑張って」
という声が聞こえた。聖君の声は、こもっていて、よく聞き取れなかった。
それにしても、ひまわりのやつめ。いったい、いつの間に納戸に忍び込んだんだろう。
う~~ん、やっぱり複雑な気分だ。妹にまで、やきもちやいてるって知ったら、聖君、呆れちゃうかな。さすがに呆れるよね。
はあ。ため息をつき、私はベッドに寝転がり、寝ようとしたが、結局眠りについたのは、12時ころで、眠りに入る頃に、ドアの開く音がして、聖君がそっと部屋に入ってきた。
「聖君?勉強終わった?」
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん、寝れなかったの」
嘘だ。今、眠ろうとしていたところだ。
「そうなの?俺がいないと寂しくて眠れない?」
「うん」
それは本当のことだ。
「じゃ、もう俺も寝るから、一緒に寝ようね?」
「うん!」
嬉しい。嬉しすぎる。
聖君はベッドに横になると、私に引っ付き、
「おやすみ、桃子ちゃん」
とキスをしてくれた。
「おやすみなさい」
聖君の胸に顔をうずめた。ああ、安心する。その途端、すごい眠気が襲ってきて、私はすぐさま、寝てしまったようだ。