第125話 心から
小百合ちゃんは、しばらく学校を休むようだ。どうやら、つわりがひどいらしく、今、入院しているらしい。担任の竹内先生がそう朝のホームルームで話していた。
「つわりって、そんなに大変なんだね」
昼休み、苗ちゃんがぽつりと言った。
「赤ちゃんを産むってことは、大変なことなんだよ」
菜摘がうんうんとうなづきながら、そんなことを言っている。
そんな二人の会話を、少し離れたところから富樫さんと平原さんが聞いていたようで、
「あの、榎本さんはもう、大丈夫なの?」
と富樫さんが聞いてきた。
「え?私?」
「母に、榎本さんが貧血を起こしたことを言ったら、心配してたから」
ああ、看護師さんだっけね、富樫さんのお母さんって。
「私は今のところ、大丈夫」
と、私が言うと横から菜摘が、
「でもね、無茶はダメなんだからね。一番に赤ちゃんのこと考えてあげないと」
と口を挟んできた。
「そうだよね、ストレスもよくないんだよね」
苗ちゃんもそう言った。
「あの…」
平原さんが、何かを言いたそうにしている。
「?」
「実は、昨日PTAの集まりがあって、そこで榎本さんのことが話題になったらしくって」
え?そうだったの?
「母が家に帰ってきてから、ぶーぶー言ってて、電話でも、役員さんと何やら話し込んでて」
「何を?」
菜摘が怖い顔をして聞いた。
「榎本さんのこと、学校側は対処を間違ってるとか、西園寺さんも、いくら理事長の孫とはいえ、受け入れるべきじゃなかったとか」
「何それ~~。校長や理事長が許可したんだから、いいじゃん」
菜摘が口をとがらせた。
「榎本さんの旦那さんの話、PTAの役員にも聞かせたかったね」
苗ちゃんがそんなことを言い出した。
「それが…」
平原さんがまた、低い声で、言いにくそうに、
「そのことも、あまりよく思われてないみたいで」
とそう言った。
「ええ?話を聞いてもいないのに?」
「だから、あの時のビデオを一回、PTA役員に見せようって、そうなったみたいなんだけど、それすら、母が文句を言ってて」
「平原さんのお母さんって、かたぶつ?」
菜摘が眉をしかめてそう聞いた。
「かたぶつ。昔から、頑固だし、変な正義感強くって」
平原さんが、嫌そうな顔をして言った。
「桃子、気にすることないよ。そんな連中はさ~。校長や理事長、あとPTA会長だって味方なんだし、大丈夫だよ」
菜摘がそう言ってくれた。
「うん」
私はうなづいたが、でも、こんなことが起きるんじゃないかっていう、予感みたいなのものはあったんだ。
もし、今回のことがきっかけで、私や西園寺さんが学校をやめることになったとしても、それも仕方ないかなって、そう思っている。こうやって、学校に来れてるってことのほうが、奇跡なんだから。
夜、夕飯を食べながら、母と父にその話をした。それを聞いてたひまわりが、やたら興奮して、
「そんなかたぶつ、役員からおろしちゃえ」
と唐突に、ものすごい発言をした。
「ひまわり、そういうわけにもいかないのよ。私も、そんな人やめさせたいくらい、今腹が立っているけど」
母がしかめっつらをして、そう言った。
「その人がやめても、また誰かがそんな発言をするだろうね」
父は冷静にそう言った後、
「桃子が言うように、退学にならなかったほうが、奇跡なんだよ。もし、また退学になるようなことになっても、それもしょうがない。受け止めることにしよう。なあ?」
と、優しい目で私を見て言った。
「うん」
「でも、なんだか釈然としないわ。学校側は受け入れてくれたっていうのに」
「学校に通う生徒の親御さんの意見だって、聞き入れていかないとならない時もあるさ」
「お父さんは冷静すぎますよ」
「そうだよ!お姉ちゃんがやめさせられてもいいの?」
母とひまわりがそう言った。
「嫌だよ、そりゃ。でも、桃子本人が仕方のないことだって言うなら、周りがあれこれ言うことじゃないし、そんなに戦って、桃子がストレスをためるよりは、潔く受け入れるほうがいいんじゃないのかい?お腹の子のためにもね」
「お腹の子のためにも戦わなきゃ」
ひまわりがまた、でかい声をあげた。
「ひまわり、一番は無事に生まれてくることだよ」
父は優しく、でも、真剣にそうひまわりに言った。
「そうよね。それが何よりも大事だわ」
母もそう言った。
「西園寺さんは大丈夫なの?つわりで入院って、妊娠悪阻?」
母が心配そうに聞いてきた。
「うん。帰りに竹内先生に聞いてみたら、しばらく入院して点滴してもらうんだって」
「大変ね。桃子、お見舞いに行ってくる?同じ産婦人科でしょ?」
「どうしようかな。具合悪いとかえって、気を使わせるのも悪くない?」
「どうかしら。妊娠して同じ境遇にいるあなたなら、心強く感じるかもよ?」
「そっか。じゃ、行ってきてみようかな」
「妊娠ってそんなに大変なの?」
ひまわりが聞いてきた。
「そうね~。まったくつわりもなく、元気に過ごせる人もいるし、つわりがあったり、切迫流産だの、妊娠中毒症だの、いろいろと大変な思いをする人もいるだろうしね」
母がそう言うと、
「なに?その中毒症って」
とひまわりが聞いた。
「高血圧になったり、足がむくんだり、まあ、いろいろとあるんだよ。だから、あまり食べ過ぎちゃいけないし、体をある程度は、動かしたほうがいいだろうし」
父がひまわりの質問に答えた。
「マタニティスイミングとか、ヨガとかあるみたいよね」
母がそう言って、それから私のほうを見て、
「あなた、スイミング習ってたんだから、マタニティスイミングもやってみたら?」
と言ってきた。
「いい、そんな。お腹が大きいのに水着着たくないし、そんな中に混じってやるのも抵抗あるもん」
私は首を横に振りながらそう答えた。
「桃子は大丈夫だろう。学校に行ってるだけでも、軽い運動にはなっているさ」
父がそう言ってくれて、私はほっとした。
「お姉ちゃん」
ひまわりがめずらしく、しおらしい顔をしている。
「なに?」
「ほんと、無理しないでね。無事、元気な赤ちゃん産んでほしいもん」
ひまわりってば、なんてかわいいことを言ってくれるんだ。
「ありがとう」
私がそう言うと、母と父がうんうんってうなづいた。
聖君は元気に大きな荷物を持って、帰ってきた。お風呂に入っても、超ご機嫌。そんなにダイビングに行くのが楽しみなのかなって思うと、ちょっとしゃくにもさわってしまう。
バスタブにつかってから、体を豪快に洗っている聖君に、
「土曜、菜摘と蘭が泊りに来てくれるの」
と言ってみた。
「え?そうなんだ」
「うん。3人で女だけのトークで盛り上がろうと思って。楽しみだな」
なんだか、悔しくなってそんなことをわざと言ってみた。
「よかったね。久しぶりなじゃない?そういうの。桃子ちゃんも俺と結婚してからは、友達と一緒にいる時間も減っちゃったでしょ?」
え?
「たまにはさ、女友達と一緒にわいわいするのもいいと思うよ。気もまぎれるだろうし」
「…」
そんな言葉が返ってくるとは思わなかったな。俺がいないのが楽しみなの?って、すねるかと思っていたのに。さっきの私のように。
それとも、私が心が狭すぎるのかな。
聖君は豪快に髪も洗うと、バスタブに入ってきて、私に後ろから抱きついた。
「女の子同士の話って、男同士の会話と全く違うじゃん」
「え?」
「だけど、あれってさ、一種のストレス解消でしょ?」
「う~~ん、そうかな」
「話をするのって、いいみたいだよ。それで笑い合ってさ、そうしたら、きっとすっきりするだろうし」
なんのことかな。あ、私が昨日変な夢を見たりしたからかな。
チュ。聖君が耳にキスをしてきた。
「耳、くすぐったい」
「…」
聖君は黙ったまま、私を抱きしめている。
「俺、独占欲強いじゃん」
「え?」
何を唐突に?
「桃子ちゃんが、俺以外の人といるより、俺といてほしいなんて、思っちゃったりするんだよね」
「え?」
「だけど、桃子ちゃんには俺だけじゃなくって、家族や、友達も大切な存在じゃん?」
「うん」
「だから、そういう人たちとの時間、奪っちゃいけないんだよなって、ちょっと思ってたんだ」
「そんなこと思ってたの?」
「うん」
だから、菜摘と蘭が泊りに来るのも、よかったねって言ってくれたの?
「聖君もだよね」
「ん?」
「サークルの仲間も、友達も大事な存在だよね」
「まあね」
そうだよ。それなのに、サークル仲間にやきもちやいててどうするの、私。
「桃子ちゅわん」
あれ?急に甘えモード?
「でも、今夜は俺だけの桃子ちゃんでいて」
「へ?」
「あとで、耳掃除してね」
「…うん」
もう、かわいいんだから。
部屋に行き、髪を乾かしたあと、聖君はにこにこしながら、私の膝に頭を乗せた。
「桃子ちゃんが耳掃除してくれるの、気持ちいいんだよね」
なんて、またかわいいことを言ってくる。
はあ。それに、耳もかわいい。すっかり甘えている聖君の横顔も、めちゃかわいい。駄目だ~~。どうしてこうも、かわいいんだか。
片方の耳が終わり、聖君は私のお腹のほうに顔の向きを変えた。そして、お腹に抱きついてきた。
「凪、今だけ、パパにママを貸しておいてね?」
へ?
「凪生まれたらさ、きっと凪の世話で忙しくなるだろうしさ。今は思いきり、パパ、ママに甘えてもいいでしょ?」
…。か、かわいすぎる!
「凪が生まれたって、甘えてきていいよ」
「え?まじで?」
聖君が私の顔を、目を丸くして見た。
「だって、だって」
「ん?」
「こんなかわいい聖君が見れなくなるの、やだもん」
「は?何それ」
聖君の目が今度は点になった。
「甘えてくる聖君、めちゃくちゃかわいいんだもん!そのたび、胸きゅんしてるもん」
「…」
あ、真っ赤になった、聖君。
「凪、聞こえた?ママって、パパに惚れすぎだと思わない?」
あ、またお腹に話しかけてるし。
「あ!」
「え?」
「今、なんかお腹の中がぐにってしたような」
「ええ?まさか、凪が動いたのがわかったとか?」
もう、胎動?
「まさか。まだだよね?」
「…」
聖君は私のお腹に抱きついて、
「凪凪凪~~!」
と、呼んだ。
「なんにも反応ない。やっぱり、さっきのは違ったんだよ」
「そっか~~。なんだ~~~」
聖君は抱きついたまま、そう言ってから、私の顔をちらりと見て、
「耳掃除して?」
と甘えた声を出した。
うわ。声も顔もかわいいんだから。そんな上目づかいで見られたら、キュン死にしちゃうかもしれないっ!
「かわいいっ」
って思わず、声を出して私は言ってしまった。するとまた、聖君が耳まで真っ赤になった。
「聖君、照れてる?」
「て、照れてるよ」
うわ。かわいい。
「照れてる聖君もかわいい」
「もういいってば!それより、耳掃除!」
「え?うん」
あ~~、かわいいな~~。なんでこんなにかわいいのかな。
最近気がついたの。聖君の耳の裏とか、首筋にキスすると、甘い香りがするの。シャンプーや石鹸じゃなくって、なんかほわって甘くって、かわいい香り。
掃除を終え、私は聖君の耳にキスをした。
「うわ。何?」
聖君がちょっと驚いている。
「終わったよ」
「終わったっていう合図?」
「うん」
聖君はしばらく、私のお腹に抱きつき、それから体を起こした。その聖君の背中に私は抱きついた。
「な、なあに?」
また聖君が驚いている。でも、そんなのかまわず、聖君の耳の裏や、うなじにキスをした。
「ちょ、くすぐったいよ。桃子ちゃん?」
「やっぱり」
「え?何?やっぱりって何?」
「甘い可愛い香りがした」
「へ?」
「聖君のうなじにキスすると、かわいい香りがする」
「ああ、わかる。香りっていうより、それ、フェロモンでしょ?」
「え?」
「なんか、愛しくなるっていうかさ」
「そう、それ。なんで?なんでわかるの?」
「だって、桃子ちゃんもそうだもん。だから、俺、よくうなじにキスするでしょ?」
そうだったのか~~。
聖君が今度は私を後ろから抱きしめ、
「このへんだよね」
とうなじや、耳の後ろにキスをしてきた。
「くすぐったい」
「…」
「聖君?」
なんか、ずっとキスしてるけど?
「ほえ~~~」
「ほえ~~?」
どうしたの?
「桃子ちゃんフェロモンにやられた~~」
「な、何それ?」
「抱いてもいい?」
「え?!」
「やばい!めっちゃ桃子ちゃんが愛しい」
うわ。そんなこと言われたら、断れないよ~~。だ、だけど…。
「でも、聖君、勉強あるんでしょ?」
「いい。明日また頑張る」
「でも…」
「駄目って言っても抱いちゃう」
ええ?
「俺のことさっきから、かわいいって言ってたけど…」
「う、うん」
「桃子ちゃんだってめちゃ、食べたいくらいかわいいんだからね?」
「ええ?」
「だから、食べます」
な、なにそれ~~!
「いただきます」
だから、なにそれ~~~!?っていう間に、ベッドに寝かされ、パジャマをするすると脱がされた。
ああ、でも、駄目だ、私も。聖君のフェロモンにきっとやられた。聖君のキスもぬくもりも、めちゃ嬉しいし、愛しいし。
今日は特に、聖君は念入りに体中にキスをしてくる。なんで?でもでも、嬉しいけど。
「俺がいない間も、これだけキスしたら、俺のこと忘れないでしょ?」
「へ?」
「俺も、桃子ちゃんの体、目に焼きつけていこう」
「…」
うわ。そんなに見つめないで。て、照れる。
「なんで手で隠してるの?」
「だって、恥ずかしいよ、なんだか」
「何をいまさら言ってるの?」
「だ、だって」
「隠しても無駄だよ。俺、もう全部知ってるもん」
「え?」
うわ。そんなこと言われて、顔がほてる。
「桃子ちゃんの体のどこにほくろがあるのかさえ、もう全部知ってるもん」
聖君はそう言うと、私の手をどけて、胸にキスをしてきた。
聖君のスケベ親父。って言いたかった。でも、言えなかった。ああ、やばい。聖君にそんなこと言われて、ちょっと喜んでいる私がいる。
「聖君…」
「ん?」
まだ胸にキスをしている聖君に、声をかけた。
「なあに?」
「目に焼き付けるのは、私だけにしてね」
「へ?」
聖君が顔を上げた。
「他の子の体は、焼き付けないでね」
「あったりまえだろ~?何言ってるんだよ~~~!怒るよ、俺」
「ごめん」
聖君が私の顔をじっと見て、
「桃子ちゃんだけでいっぱいなのに、他の子のこと見る余裕もないって~~の」
と言って、とろけるようなキスをしてきた。
ああ、きっとそう言ってもらいたくって、私はわざとあんなこと言ったんだな~~。
「じゃ、桃子ちゃんも」
「え?」
「桃子ちゃんの体見せるのは、俺だけにしてね?」
「あ、当たり前!」
「だよね」
こくんと私はうなづいた。
「聖君だけだもん」
聖君の首に両手を回した。
「聖君じゃなきゃ嫌だし、聖君だったらいいもん」
「え?」
「…」
言った後に恥ずかしくなって、顔が熱くなった。
「それにしては、さっき、手で隠してた」
「だって」
「だって?」
恥ずかしかったんだもん~~。もう、聖君、意地悪だ。
「くす。桃子ちゃん、真っ赤だ。かわいい」
「…」
「胸まで真っ赤」
聖君は胸に顔をうずめ、
「桃子ちゃんの胸も、甘い香りするよ」
と胸元でつぶやいた。
「ああ、やばいね」
聖君は顔を上げ、私を見つめると、
「やばすぎるよね」
と目を細めて言う。
「何が?」
「桃子ちゃんにこんなに夢中だから、やばすぎるくらい」
「…それは私だって」
「桃子ちゃんに俺、おぼれちゃってる?」
「お、おぼれる?」
「もう、桃子ちゃんってば」
「え?」
「俺をこんなに夢中にさせて、罪だよ、罪」
な、何それ~~?
「どう責任とってくれるの?桃子ちゃん」
「え?せ、責任?」
「俺のハート、すっかり盗んじゃったんだから、結婚でもしてもらおうかな」
「ええ?」
「あ、もうしてるか」
そう言うと、聖君はあははって爽やかに笑った。
もう、こんなときになんでそんな、爽やかな笑顔で笑えるんだ。
「その笑顔」
「え?」
「キュン死にするっ」
「はあ?」
「責任とって、私と結婚してね?」
「…。わかった。もう何回でも、結婚しちゃう」
「え?」
「何回でもプロポーズして、何万回と抱いちゃうからね?覚悟してね?」
聖君は今度はかわいい笑顔でそう言って、またキスをしてくる。
ああ、大変。こんなバカップルで本当にいいのかな。
でも、こんなに愛されて、ものすごく安心してる私がいる。
やっと、聖君、ダイビング楽しんできてねって、心から言えそうな気がするよ。