第106話 見守る
お風呂から出て、ダイニングに行くと、
「お風呂でも楽しそうねえ。聖君の笑い声が聞こえてたわよ」
と母に言われてしまった。
「あはは、聞こえちゃいました?」
聖君がちょっと照れくさそうに聞いた。
「聖君って、笑い上戸なんだもん。一回笑うと止まらないんだもん」
「そうね、聖君、よく笑ってるものね」
「いや、桃子ちゃんがいつも笑かしてくれるから」
聖君はそう言うと、また思い出したのか、ぶってふきだした。
「私、先に部屋に行ってるよ!」
私がそう言って、2階に上がろうとすると、ひまわりが2階から下りてきた。
「あ、お兄ちゃん、お帰りなさい」
「ただいま、ひまわりちゃん」
「私もお風呂、入ってくるね~~」
ひまわりはそう言うと、さっさとお風呂に入りに行ってしまった。
「あれ?」
聖君はちょっと、そんなひまわりの後ろ姿を見ていた。
「どうかした?聖君」
母が聞いた。
「あ、いえ。なんか、いつもよりもそっけないなって思って」
「ひまわりも、聖君と一緒に暮らすことに慣れてきたんじゃないの?」
「え?どういうことですか?」
母の言葉に聖君は聞き返した。
「聖君がうちで暮らしてから、ずっとテンションあがってたのよ。でも、ようやくもとに戻ったっていうか、聖君がうちにいることが、当たり前に感じるようになったっていうか、そんな感じなんじゃない?」
「ああ、そっか。いっつもあんなに、テンション高いわけじゃなかったのか」
聖君はそう言うと、階段の真下で待っている私のところに来て、
「部屋、行こうか」
と私に言ってきた。
「うん」
私は聖君と階段を上った。
「なんかショックなの?」
「え?」
「ひまわりのこと」
「いや、別に。なんで?」
「だって、聖君、静かになっちゃってたから」
「うん。ひまわりちゃんも無理してもしかして、明るくしてくれてたのかなって、ちょっとそんなこと思っちゃってさ」
「聖君のせいじゃないよ?ひまわりはきっと、嬉しくて、はしゃいでたんだと思うし」
「うん。でも俺…」
聖君は部屋に入ってからも、しばらく黙り込んだ。ベッドに座り、ドライヤーを手にして、ぼ~~ってしている。
「どうしたの?」
考え込んじゃってるの?
「いや、俺も無理してたかもなって思ってさ。もっと、普通にしてていいんだよね?」
「え?」
「なんか、明るく振舞いすぎてたかな、俺」
「…聖君、静かなときもあるもんね」
「…うん」
私は聖君の隣に、ちょこんと座った。
「桃子ちゃん」
「ん?」
何かな?ちょっと神妙な顔つきだし、まじめな話かな?
「パンツ、別におばさんくさくなかったよ」
ガク…。パンツ?!
「もう!なんで、こんなときにそんなこと言うかな」
「え?こんなときって?」
「聖君、今、神妙になってたじゃない」
「そう?」
「そうだよ~~」
「でも、ちゃんとそう言わないと、桃子ちゃん、気にしそうだから」
「う…」
そうか。私のことを思って、そう言ってくれたのか。
「でもね、聖君。これからもっともっと、おっきなパンツになっていくんだよ?」
「…ブラも?」
「うん」
「何カップくらい?」
「さあ?わからないけど。あ、授乳ができるブラジャーがあって、そういうのをこの前、お母さんが買ってきてくれた」
「授乳ができる?」
「うん。ブラしたまま、授乳ができるみたい」
「へえ~~」
「でも、それも色っぽくないよ?全然」
「あはは。赤ちゃんにおっぱいあげるのに、色っぽさなんて必要ないでしょ?」
「そうだけど…」
何カップって、目を輝かせて聞いたのは聖君のほうじゃない。
「今度の検診っていつ?」
「まだ先だよ。一月に一回だもん」
「なんだ~~」
「エコーが楽しみなの?」
「うん、そう!」
聖君は私のお腹に手を当てた。
「いつ動くのがわかるようになるのかな」
「えっと、本には何ヶ月って書いてあったっけ?」
「いつ、性別はわかるんだっけ?」
「いつかな~~」
「凪は、女の子かな、男の子かな」
「どっちだろうね」
「…生まれるまでの楽しみにする?」
「え?」
「それとも、お腹にいる間に、先生に聞いちゃう?」
「なんかね、エコー見ててわかっちゃうときもあるらしいよ」
「え?」
「男の子だって、わかったりするみたい」
「へ~~~~。それはすごいね」
聖君は、私の後ろに回りこみ、
「髪、乾かすね」
と言って、私の髪を乾かし始めた。
凪が生まれたら、きっとこんな時間は持てないかな。聖君と一緒にお風呂に入るのも、できなくなるかもしれない。
それはちょっと寂しい。でも、その代わり、凪と聖君が一緒に入って、凪の体を拭いたり、凪のいろんな世話を聖君と一緒にしていくんだよね。
それはとても楽しみ。
あ、でもなあ。母や父も世話をしたがるだろうし。もしかすると、ひまわりだって。
いや、ひまわりはどうかな?あまり子供好きじゃないんだっけ。どっちかって言うと、杏樹ちゃんのほうが世話を焼いてくれそうだ。
「あ、そうだ!」
私が突然、思い出してそう言うと、聖君は驚いて、
「え?何?」
と聞いてきた。
「杏樹ちゃん、なんか悩んでた」
「悩み?あいつが?」
「彼氏のことで」
「なんだよ、彼のことか」
あれ?聖君、そういう話聞きたくないのかな。これじゃ、杏樹ちゃんは聖君には、相談できないね。
「あいつ、彼氏の前では、いい子ぶってるんだろ?」
「え?」
「デートも控えようって言われたみたいじゃん」
あ、なんだ。知ってるんだ。
「で、あいつ、わかったって言っちゃったんだろ?俺にはあんなに、思ってることずばずば言ってくるくせに、彼氏には言えないでいるんだよな~」
「嫌われたくないんだよ、きっと」
「なんで?デートしたいとか、会いたいって言うだけで、嫌われたりする?」
「重たい女になりたくないって言ってたよ?」
「あいつが?」
「うん」
「は~~。まだ、中学生のガキのくせに、何言っちゃってるんだか」
「杏樹ちゃんは、きっと私たちが思ってる以上に、女の子なんだよ」
「え?」
「おくゆかしい女の子なんだよ」
「あいつが?」
「うん」
「…」
聖君はいきなり黙り込んだ。そして、ただただ私の髪を乾かしている。
私の髪を乾かし終えると、自分の髪を思い切り乾かし始めた。でも、どうやら、何か考え事をしているようで、目がさっきから一点を見つめたままだ。
カチ。まだ、半乾きなのに、聖君はドライヤーを止めた。
「だよな~~」
そしていきなりそうつぶやいた。
「え?」
「あいつさ、ああ見えて、けっこう人のこと見えてるんだよね」
「え?どういうこと?」
「なんか、よく観てるんだよ。俺のこともだし、友達のことも」
「…」
「人の気持ちとか、けっこう汲み取れるって言うか、そのへんは俺よりもすごいもん」
そうなんだ。
「なんとなく、彼氏の思ってることも、わかっちゃったりするのかな」
「…」
私は黙って聖君を見ていた。
「微妙にさ、わかるときってあるじゃん」
「え?」
「今、自分に気がないかなとか、どっか気持ちがよそにいってるかなとか」
「彼、気持ちがよそにいっちゃってるの?」
「受験生だろ?きっと勉強でいっぱいいっぱいじゃないの?どうやら、ランク高いところ狙ってるらしいし」
「そっか」
「それを感じて、言えないでいるのかもな」
「自分の気持ちを?」
「うん」
「…」
でも、言わないと、彼に通じないんじゃないのかな。
「あいつが受験終わっても、まだ相手のことを好きなら、そんときが勝負かな」
「え?」
「今はさ、何を言っても、相手のほうも聞く余裕もないかもしれないし。まだ、中学生だろ?追い詰めたら、離れていくばかりかもしれないからさ」
「そっか」
聖君は、そんなふうに考えるのか。私はまた、素直に杏樹ちゃんの気持ちを言いなって、そんなアドバイスをするのかと思ってた。それに、私はそういうふうに杏樹ちゃんに言うつもりでいた。
「むずかしいよな。微妙な年齢だしさ」
「え?」
「まださ、別れるだの、くっつくだの、そんなの簡単にできる年齢だろ?」
「そうなの?」
「付き合うってことだって、まだよくわかんない年齢じゃん。って、俺だけ?俺、中学のころ、そういうのよくわかってなかったよ?」
「私も…」
「だよね?だからさ、あんまり杏樹にあれこれ、言えないっていうか、ここはそっと見守るしかないっていうか」
「そうか。聖君、そうだったんだ」
「え?」
「何も言わずに見守るっていう、そんな愛もあるよね」
「愛?」
「うん」
「…なんか、こっぱずかしいね、愛って言われちゃうと」
「杏樹ちゃんのこと愛してるでしょ?」
「俺?」
「うん」
「そ、そうだね。うん。愛してるよ。大事な妹だもん」
「聖君なら、杏樹ちゃんが傷ついても、大きな愛で包みこんじゃうね」
「俺の?」
「うん」
「…なんか、照れるな。俺、そんなに寛大じゃないけど?」
「そうかな。思い切り、寛大だと思うけどな」
「桃子ちゃん、俺のこと美化しすぎてない?」
「うん。聖君のほうが、自分のこと、小さく評価してるんだよ」
「ええ?そんなこと、桃子ちゃんに言われるとは思わなかったな」
聖君はそう言って、あははって笑った。
「杏樹、桃子ちゃんに相談してきたの?」
「元気なかったから、どうしたのって聞いてみたんだ」
「そっか~~。じゃあ、これからも、話、聞いてあげてくれる?」
「うん、もちろん」
「よかった。あいつ、俺にもなんとなく言ってくるけどさ、でも、俺の話は聞かないから」
「え?」
「っていうか、あまりいいアドバイスもできないからな。俺、やっぱり男側から見て、ものを言っちゃうじゃん?桃子ちゃんなら、女の子側から言ってあげられるじゃん。俺よりもずっと、杏樹の気持ち、わかってあげられそうだしさ」
「そうかな。聖君のほうが、ずっと杏樹ちゃんのことわかってると思うよ?」
「…恋する乙女の気持ちは、俺にはよくわかんないさ」
「…」
「恋する男子の気持ちなら、わかるけどね」
「相手の、気持ちのほうがわかるの?」
「なんとなくね」
「もし、聖君だったら?」
「俺が中学3年で、受験で大変なときだったら?」
「うん」
「そうだな~。やっぱり、付き合ってなんていられないかな」
「…」
「高校3年のときは、逆に桃子ちゃんがいてくれなかったら、俺、受験、乗り切れなかったと思うけどね」
「え?」
「桃子ちゃんがいてくれたから、がんばれた」
「そうかな。私、けっこう勉強の邪魔してたと思うけど」
「そんなことないよ。桃子ちゃんパワーすげえもん」
「…杏樹ちゃんパワーは?」
「中学生じゃ、まだまだ、そのへんは感じられないかもね」
「…そういうもの?」
「だって、付き合ってるのだって、よくわかんないんだよ?なんとなく楽しいからとか、つまらないから別れるとか、そんな感じだったりするでしょ?」
「でも杏樹ちゃん、もしかすると、相当彼氏が好きだったりするかもよ?」
「う~~ん、それなら、受験終わってから、がんばるしかないかな」
「だけど、違う高校行っちゃうから、結局別れると思うって言ってたよ?」
「そうなったら、そうなったでしょうがないさ。でも、違う高校でも、ずっと付きあうやつは付き合うし」
「…」
「俺らだって、違う高校だったけど、続いたじゃん」
「うん。でも、しょうがないことなのかな」
「二人がどうなっていくかは、わからないよ。大事に思いあえたら、続くだろうしさ」
「うん」
「桃子ちゃんが気にやむことじゃないよ?もし、杏樹が別れて、傷つくようなことになっても、それもまた、必然ってやつでさ、杏樹の成長のためになることかもしれないし、もっといいやつと出会うためなのかもしれないし」
「聖君の考えかたって、クール」
「そうかな?」
「ううん。きっとそれって、プラス思考だね」
「え?そう?」
「だって、何が起きたとしても、それも必要で起きることって、そういう考え方でしょ?」
「うん」
「だけど、そう思えるようになるまで、むずかしい」
「そう?」
「うん。そうなんだろうけど、やっぱりつらい思いはしたくないって思っちゃうもん」
「そりゃ、俺だって」
「え?」
「つらいのは嫌だよ」
「…」
「でも、受け止めてくれる誰かがいてくれると、苦しみは半減する」
「え?」
「俺の場合、桃子ちゃんがいてくれるから、なんかつらいこととか、苦しいことがあっても、乗り越えられる」
「それは私だって」
「俺がいたら、大丈夫なんでしょ?」
「うん」
「杏樹も、俺や桃子ちゃんや、父さん、母さんがいるよ」
「うん」
「だからね、一人じゃないから、大丈夫なんだ」
「うん」
「もし、傷つくことがあったら、俺らがそばにいてあげよう?」
「うん」
「それだけは忘れないでいたら、きっと杏樹は大丈夫だよ」
「…聖君」
「ん?」
「やっぱり、大好き」
「へ?」
「聖君のそういう考え方、やっぱり好き」
「そ?」
聖君は少し照れた。
クールだからじゃなかった。優しくてあったかいから、そんなふうに考えられるんだ。
たとえ、傷ついたとしても、そばにいるよ。大丈夫だよ。君は一人じゃないよ。
きっとそんな思いで、聖君は杏樹ちゃんを見ている。
それが、聖君の優しさだ。
ぎゅ。私は聖君を抱きしめた。
「聖君、大好き」
「うん」
「大大大好き」
「もう、桃子ちゃんってば」
聖君も抱きしめてきた。
「俺も、桃子ちゃん、大好きだよ。愛してるよ」
私はこんなにも大事に思われて、やっぱり幸せものだ。でも、杏樹ちゃんも幸せものだ。いつか、杏樹ちゃんもそれに、気がつくよね。
うん、大丈夫。こんなに優しいお兄ちゃんがついてるから、杏樹ちゃんは、大丈夫だね。