第102話 苦手
朝、聖君は、目が覚めると、カーテンを開け、
「うわ。今日も暑そう」
とまぶしそうな顔をした。残暑はまだ続いている。
「桃子ちゅわん」
聖君はベッドにまた横になり、私にひっついた。
「もう少し、いちゃついていようね」
ああ、目がいたずらをするときの子供のようだ。かわいいな~。
「そういえば、俺、お父さんに会っていないような気がする」
「聖君の?」
「桃子ちゃんの」
「だって、昨日、出張してたし」
「え?そうだったの?」
「昨日遅くに帰ってきたと思うよ」
「まじで?ほんと、大変だよね。出張も多いみたいだし、朝早くって、夜遅くって」
「うん」
「釣り、そろそろ行きたいなって思ってたけど、当分は無理かな」
「それはわからないよ。お父さん、きっと釣りに行きたいって言ったら、喜ぶと思うな。それに時間も作ると思うし」
「だけど、忙しいなら、休みの日くらい、のんびりとしたいんじゃない?」
「そのへんの釣りぼりなら、のんびりできるでしょ」
「ああ、釣りぼり…」
あ、釣りぼりじゃ、不満みたいだな、聖君。
「ま、いっか~~。もう少し涼しくなってからのほうが、気持ちいいかもしれないし」
「そういえば、聖君、サークルは?」
「うん。大学始まる前に一回、泊まりで潜りに行くらしいけど」
「それ、行かないの?」
「行ったら寂しいでしょ?」
「そんなことないよ。聖君、行きたいでしょ?」
「…」
聖君は無表情になり、黙り込んだ。
「何?どうしたの?」
「いや、どう反応したらいいのか、わからなくって」
「え?」
「喜んだらいいのか、悲しんだらいいのか」
「どういうこと?」
「俺がいなくても、寂しくないってのは、ちょっと悲しい。だけど、潜りに行ってきていいよって言ってくれるのは、嬉しい」
「寂しくないわけじゃないけど、でも、せっかくなんだし…」
「ほんと?行ってもいいの?」
「うん」
「わかった。じゃ、行ってくるね」
聖君はにこって微笑みそう言った。
前なら、麦さんのことが気になって、ここまで心から「いっていいよ」とは言えなかったかもしれないんだけど。
「桃子ちゅわん」
「え?」
「俺が隣にいなくても、寂しがらないでね。寂しかったらひまわりちゃんと一緒に寝るとか…」
「イルカ抱いて寝るから大丈夫」
「…そっか。ああ、俺が寂しくなったりして…」
聖君はそう言うと、抱きしめてきた。
「いつか、桃子ちゃんも一緒に潜りに行こう。あ、凪も連れて」
「うん」
聖君、嬉しいな。そう言ってくれるの…。
私たちはしばらく、ベッドの上でいちゃついていたけど、
「桃子、聖君。出かけちゃうけど、朝ごはんの用意はいいの?」
と母がドアの外から聞いてきた。時計を見ると、もう8時半を過ぎていた。
「俺が作るから大丈夫です」
聖君がそう答えた。
「そう?じゃ、よろしくね」
母はそう言って、階段を下りていった。
「もうこんな時間だった。朝ごはん食って、店に行こうか」
「うん」
聖君はさっさと着替えて、
「朝ごはん作ってるね」
とにっこりと笑い、部屋を出て行った。
ああ、ほんと、こんなに完璧な旦那さんって、他にいるかな。
って思ってる場合じゃないよね!本来ならその台詞、私が言うことだよね!
私も慌てて着替えをして、一階に下りた。
ダイニングには、朝ごはんも済ませ、のんびりしている父と、ひまわりがいた。
「あれ?ひまわり、早くない?」
私が驚いて聞くと、
「デートだもん」
とひまわりは答えた。
「プールに行くんだってさ」
聖君がそう言って、
「かんちゃんに、DVD持ってきてたんだ。ちょっと待ってて」
と2階にまた上がっていった。
「お父さんも、昨日遅かったんでしょ?」
「ああ、だから、今日は8時に起きたよ。聖君と桃子が、寝坊したんだよ。今日は遅かったんだね」
「え?う、うん。学校行ってたからかな。疲れてたのかもしれない」
「そうか。今日はお店に行くんだろ?無理はしないようにしないとな」
「うん、わかってるよ」
私は父の顔をあまり見ないで、テーブルの上を片付けながらそう答えた。なにしろ、寝坊の原因は、昨日聖君と抱き合ってたからだし、朝だって、本当は30分前には起きてたけど、ずっといちゃついていたんだし。
「はい、ひまわりちゃん。これ、かんちゃんに渡して」
聖君は2階から下りてくると、ひまわりにDVDを渡していた。
「かんちゃん、喜ぶ。ありがとう、お兄ちゃん」
「うん」
聖君はにっこりと笑うと、キッチンに行き、朝ごはんの用意をし始めた。私は、そのまま洗面所に向かおうとしたが、
「あれ?朝ごはんは桃子が作るんじゃないのかい?」
と父が聞いてきた。
う…。
「そ、そうなんだけど、でも、聖君が、その…」
しどろもどろになっていると、聖君がそれに気がつき、
「ああ、いいんです。俺、家でも朝ごはん作ってますから。ちゃちゃっと作っちゃいます」
とにっこりと笑いながら、父に言った。
聖君は冷蔵庫を開けると、食材を出し、本当にてきぱきとあっという間に作ってしまった。
「本当だな。慣れた手つきだし、あっという間に作れちゃうんだな」
父が感心した。
「桃子ちゃん、まだ顔洗ってないの?」
は!聖君の早業に見とれてて、洗ってなかった。
「ごめん、急いで洗ってくる」
「ああ、急がなくていいから、慌てないで、桃子ちゃん」
聖君にそう言われて、私は落ち着いて行動をした。
ひまわりが、
「おいしそう。今度私にも作って!」
と叫んでいるのが聞こえてきた。
「いいよ」
という、聖君の明るい声も。
聖君は多分、ひまわりみたいに能天気で、あっけらかんとしてる子は、苦手じゃないんだろうな。言いたいことははっきりと言うし。
杏樹ちゃんもそうだっけ。桜さんや、朱実さんもそうだし。
あ、そういえば、蘭もはっきり言うほうだよね。菜摘も明るいし。私にいたっては、口で言う前に、表情で全部出ているようだし。
紗枝さんは、そんなに聖君には何も言わないでいるんだろうか。私と話しているときには、いろいろと話してくれたし、一緒に3人で駅まで行ったときだって、けっこうしゃべってたと思うんだけどな。あれも、私がいたからなのかな。
聖君とだと、そんなに緊張しちゃうんだろうか。
朝ごはんも食べ終わり、私と聖君は車に乗り込み、江ノ島に向かった。
「なんだか、二人で車に乗るのも久しぶりの気がしちゃう」
「そうだね」
「お店も久しぶりだな。って、そうでもないかな」
「久々だよ。桐太とも最近会ってないだろ?桃子ちゃんに会いたがってるよ」
「ほんと?メールもまったく来ないけど」
「遠慮してるんじゃないの?俺が前に、あまり桃子ちゃんに近づくなって言ったし」
え~~。桐太が遠慮?私よりも、麦さんにばっかりメールしてるんだと思うけどな。
「あ、そういえば、花ちゃんに籐也君とのその後を聞いてなかった」
「あの二人は、まだまだ進展しそうにないよ。籐也、昨日学校帰りに来て、花ちゃん、全然メールくれないんだって愚痴ってたから」
「そ、そうなんだ」
なんだか、学校が始まっちゃって、お店での出来事が遠い昔のような気がしちゃってるよ。
「あ!」
「え?」
いきなり思い出した。
「何?桃子ちゃん」
「芹香さんは。お店に来る?」
「来ないよ。あれからずっと来てない。籐也もまったく連絡とってないらしいし」
「そうなんだ」
ほ…。思い切りほっとした。
「大丈夫だよ。来ても俺、相手にしないから」
「う、うん」
「それに俺、紗枝ちゃんのことで、頭いっぱいだし」
「え?」
「でも、今日は桃子ちゃん、頼むね」
「うん」
紗枝ちゃんのことで、頭いっぱい?
それ、ちょっと嫌かも。私のことも、忘れちゃって、紗枝ちゃんでいっぱいになっちゃってるってことだよね?
「聖君、今は?」
「え?」
「今も紗枝ちゃんのことで、頭いっぱい?」
「…」
聖君はちらっと私を見ると、私の手を握って、
「桃子ちゃんのことだけ思ってるよ」
ってにっこりしながら優しくそう言った。
あ、わかっちゃったかな。私の思ってたこと。それとも、顔に出たかな。
「くす」
聖君は笑って、
「桃子ちゃんってば、かわいいんだから!」
と、目を細めて嬉しそうに言った。
お店に着くと、お母さんが元気に出迎えてくれた。
「桃子ちゃん、元気だった~?」
わ。すごいハイテンションだ。
「はい、元気です」
私をカウンターに座らせ、
「何か飲む?ホットミルク?レモネード?ココア?」
と聞いてきた。
「え、じゃあ、ホットミルク」
「わかったわ」
そう言うと、お母さんはいそいそとキッチンに向かった。
聖君が車を駐車場に入れて、お店に入ってきた。
「あれ?母さんは?」
「キッチンでホットミルク作ってくれてるんだけど、なんだか」
「ん?」
「すごくハイテンションだった」
「あはは。そりゃそうでしょ。桃子ちゃんにいっつも会いたがってるもん」
「それでハイテンション?」
「うん。母さん、桃子ちゃん大好きだからさ」
そ、そうなんだ。うわ。感動!
「はい、桃子ちゃん。あ、聖も何か飲む?」
聖君のお母さんがホットミルクを、持ってきながら聖君に声をかけた。
「ああ、俺はいいよ。もう、キッチンに入るね」
「そう?」
聖君のお母さんは、ホットミルクをカウンターに置くと、
「桃子ちゃんはゆっくりしてて」
と言って、キッチンに向かった。
私もホットミルクを飲んだら、手伝おう。と思いながらカウンターでホットミルクを飲んでいると、
「桃子ちゃん、いらっしゃい」
と聖君のお父さんがやってきた。
「元気かい?」
「はい」
「そうか、よかった。学校も元気で行けてる?」
「はい」
「そうか~~」
聖君のお父さんは、にこにこの笑顔だ。
「お姉ちゃん!」
「ワン!」
杏樹ちゃんとクロもリビングから飛んできた。
「今日は夜までいられるよね!」
「うん」
「やった~。私塾あるけど、早めに帰ってくるから」
「うん」
「じゃ、行ってきます」
杏樹ちゃんは、そう元気に言うと、お店を出て行った。その後ろをクロが追いかけようとしてドアが閉まると、すぐに引き返して、尻尾を思い切り振りながら、私の足元に来た。
「ワン!」
嬉しそうに一回ほえ、く~んとそのあとは、私の足に体をすり寄せた。クロの背中をなでたら、もっと嬉しそうに尻尾を振った。ああ、聖君みたいだ。
「クロも桃子ちゃんに会いたかったんだよな。よかったな」
「ワン!」
聖君のお父さんの言葉に、クロは嬉しそうにまた尻尾を振った。
みんながこんなに歓迎してくれてるんだ。嬉しいな。
ホットミルクを飲み終わり、私はキッチンに行き、スコーンを焼く手伝いをしていた。
「おはようございます」
かすかに、そうホールから聞こえてきた。聖君は、キッチンから顔を出し、
「ああ、紗枝ちゃん、おはよう。今日悪いね、お休みだったのに出てもらっちゃって」
と笑顔で言った。
その笑顔は確かに、いつもの最上の笑顔と違い、作り笑顔だっていうのがわかる。
「いいえ、あ、桃子ちゃん」
私も聖君の横から顔を出すと、紗枝さんが気がつき、
「桃子ちゃんも来てたんだ」
と言って笑った。でも、その笑顔も作り笑顔だろう。引きつっていた。
「おはよう、紗枝さん」
「お、おはよう」
紗枝さんは、カバンをしまってエプロンをつけ、キッチンにやってきた。
「あの、私何をしたら」
「え?」
聖君はすでに、野菜を切り出していた。
「私、何をしたらいいですか?」
「…昨日と同じで、ホールのテーブルのセッティングしてもらっていいかな」
「はい。えっと、拭いたり、花を飾ったりするんですよね?」
「…そう。じゃ、まず、テーブル拭いてくれる?花瓶と花は用意するから」
聖君はそう言うと、花瓶を棚から出し、水を入れた。
「桃子ちゃん、悪い。スコーン焼く準備ができたら、野菜切っちゃってくれる?」
「うん」
聖君はカウンターに花瓶を並べ、花をいけだした。
「紗枝ちゃん、拭けたら、ランチョンマット並べて。それから、この花瓶も置いていって」
「はい」
紗枝さんは、無表情でそう答えて、淡々とランチョンマットを並べだした。聖君も笑顔がなかった。
もしかして、連日こうだったとか?
聖君はカウンターを拭くと、カウンターにもランチョンマットと、花瓶を置いた。
それから、箒を持つと、
「あのさ、それ終わったら、外はいて来てくれるかな」
と紗枝さんに頼んだ。
「あ、はい。えっと、ドアの前ですよね?」
「それと、ウッドデッキもね」
「はい」
紗枝さんは、箒を持って、ドアを出て行った。
聖君ははあってため息をつきながら、キッチンに戻ってきた。
「ごめん、桃子ちゃん。それ、俺がやるよ」
私が切っていた野菜を、聖君が切り出した。私は、お母さんのほうの手伝いに回った。
「なんつうか、毎朝なんだけど、同じこと俺言ってない?」
聖君がぼそってつぶやいた。
「しょうがないわよ。慣れるまでは」
聖君のお母さんがそう言うと、
「そうなんだけどさ。俺の教え方がまずいのかなって、落ち込んじゃうよね」
と聖君はまた、ため息をついた。
「レジだけはしっかりしてるの。前の仕事でやってたからでしょうね。あとは、徐々に覚えていくわよ」
「…」
聖君のお母さんの言うことに、聖君は黙り込んでしまった。ありゃ、暗いぞ。
私は聖君のお母さんと一緒に、ハンバーグを作っていたが、それも終わり、洗い物をしていた。すると、野菜を切り終えた聖君が横に来て、
「これも洗って」
と今使っていたザルや、お皿を持ってきた。
「うん」
私が受け取ると、聖君は甘えん坊モードの顔になり、ぴっとりとくっついてきた。
うわ。お母さんいるのに、と思って横を見たら、聖君のお母さんは、カウンターのほうに行っていて、いなかった。
ああ、どうやら、カウンターで、コーヒーの豆を挽くんだな。
「桃子ちゅわん」
「甘えモード?」
「うん」
聖君の声、甘える声だ。
「もしかして昨日も一昨日もこんな感じ?」
「一昨日は俺、もっと張り切ってたし、元気だった。でも、徐々に元気がなくなり、笑顔がなくなり。あ、お客が来たら、元気に明るく対応してるけど、朝はどうもね」
これじゃ、紗枝さんもやりづらいかもな。
「聖君が無表情で仕事するの、初めて見たかも」
「え?」
「いつももっと、楽しそうだもん」
「俺?」
「機嫌いいと、鼻歌まじりだし」
「だよね。うん、それ自覚してるよ。もっと楽しんで仕事しないとっていうのも」
「…」
聖君はチュって私にキスをして、
「これでパワー、もらえた。元気出すね」
と言って、にこって笑った。
「それだけでいいの?」
「え?」
私は濡れてた手をタオルで拭き、それから聖君をむぎゅって抱きしめた。
「桃子ちゅわん」
聖君もぎゅって抱きしめてきた。
「元気100倍」
そう言うと、聖君は本当に嬉しそうに笑った。
そして、ホールに行くと、元気に準備を始めだした。
「あら、聖、いきなり元気になった」
コーヒー豆を挽き終わったお母さんが、こっちに戻ってきてそう言った。
「はい、そうですね」
私がそう答えると、お母さんは私を見て、
「桃子ちゃんパワーか。じゃ、今日は聖、大丈夫かな」
と優しい笑顔でそう言った。
「昨日は大丈夫じゃなかったんですか?」
「うん。怖い顔もしていたし、めずらしいわよね。店では営業用スマイルを、絶やさないあの子がね」
「そうだったんですか」
「ま、しょうがないかな。聖、どうも紗枝ちゃんのことは苦手というか、ううん。もともと女の子が苦手なんだもの。なかなか打ち解けられなくても、しょうがないわよね」
私は聖君のお母さんの言葉に、ちょっと驚いた。
「他のバイトの子は?」
「桜さんにも初めは、あまり話をしてなかったわよ。でも、桜さんってぽんぽん言ってくるじゃない。それに答えてたけどね。朱実ちゃんは、いつもあっけらかんとしてるから、聖もそんなに緊張しなかったみたいね」
「緊張するんですか?聖君も?」
「そうよ。麦ちゃんや菊ちゃんは、サークルも一緒だし、そんなに緊張してる様子はなかったけど、あの子、女の子は警戒するところがあるじゃない?前から、そうなのよね」
「前から?」
「あの子が高校1年のときに、バイトしてた子も、大学1年だったけど、あまり口もきかなかったしね」
そうか、今に始まったことじゃないのか。
「でも、私…」
「聖、桃子ちゃんには早くから、なついていたものね~~」
なつく?
「まあ、桃子ちゃんは素直だし、かわいいし、警戒しようがないわよね。ほら、小型犬みたいだから、こっちが守ってあげなくちゃって、そう思っちゃうじゃない?」
…。聖君のお母さんまでが、小型犬って…
ああ、でもそうなんだ。聖君、本当に女の子苦手なんだ。じゃ、今、相当神経使ってるんじゃないのかな。大丈夫なのかな。
聖君を見た。11時が過ぎ開店してすぐにお客さんが来て、
「いらっしゃいませ」
と元気よく出迎えている。
「お二人ですか?どうぞ、窓際の席に」
最上級の笑顔でそう言うと、テーブル席へと案内している。
紗枝さんがお水を運んだ。あ、メニュー忘れてる。聖君が気がつき、後ろからメニューを持っていったが、慌てて紗枝さんが取りに戻ろうとして、ぶつかっていた。
「ごめんなさい」
「いいよ、はい、メニュー」
聖君の顔は無表情だった。
ああ、お店で見せる顔じゃないな。あれ。お客がきたら、笑顔でいるって言ってたけど、もう無表情になっちゃってるよ。
その顔をちらっと見た紗枝さんは、顔を引きつらせ、慌ててメニューをお客さんに持っていった。
やっぱり、普通じゃない。聖君、どうしちゃったのかな…。そんなにも紗枝ちゃんが、苦手なのか。