公爵令嬢は、おもしれー女が好きな殿下をおもしれー女にお譲りして幸せになりたい
王太子アルフレッドは、おもしれー女がお好きである。
もちろん本人がそう公言しているわけではない。公爵令嬢エレノアがその事実に気づいたのは、アルフレッドの婚約者になって三年ほど経ったころだった。
アルフレッドは幼いころから聡明だった。王族に求められる教養を苦もなく身につけ、十三歳になるころには貴族たちを相手にしても滅多なことでは言い負かされなかった。
そのせいか、予定調和をひどく退屈がるところがあった。
ある令嬢が茶会で、緊張のあまり王子の前に角砂糖をひっくり返したことがある。
令嬢は青ざめ、周囲の大人たちも凍りついた。ところがアルフレッドだけは、令嬢が半泣きで「三秒以内なら食べられます」と言った瞬間、目を輝かせた。
それからも似たようなことが何度かあった。
皆が美しいと褒める絵を見て「この馬、足が一本多くありません?」と言った令嬢。王家の庭園で迷子になり、なぜか庭師たちに混じって昼食を食べていた娘令嬢。外国から献上された珍しい果実を「これ、焼いたほうがおいしい気がします」と暖炉に突っ込もうとした令嬢。
アルフレッドは、そういう娘と話すときだけ、かすかに楽しさを滲ませていた。
だからエレノアは、十六歳のころには婚約者の好みを完全に理解していた。
殿下はおもしれー女がお好きなのだ。
そして困ったことに、エレノア自身はまったくおもしれー女ではなかった。
公爵家の長女として必要な教育を受け、礼儀正しく、成績優秀で、社交にも問題がない。アルフレッドとは幼馴染に近い関係だったから気安く話すことはできたが、彼を驚かせたことなど一度もない。
それについてエレノアは傷ついていなかった。
なぜなら彼女もまた、アルフレッドを愛してはいなかったからである。一度たりとも表に出したことはないが、エレノアは、第二王子ユリウスへ愛を抱いていた。
☆
「また見ている」
舞踏会の壁際で声をかけられて、エレノアは慌てて正面を向いた。隣には第二王子のユリウスがいた。
「何のことでしょう」
「俺のことだ」
「自意識がお強いのですね」
「三曲前からこちらを見ていた女に言われたくない」
エレノアは扇を開いた。ユリウスのこういうところは苦手だ。何も言わずに見逃してくれればいいものを、いちいち指摘する。
「兄上が探していたぞ」
「まあ。では参りませんと」
「嬉しそうだな」
「もちろんです。婚約者ですもの」
「そうか」
ユリウスはそれ以上何も言わなかった。エレノアは彼の横を通り過ぎながら、ほんの少しだけため息をついた。
アルフレッドとの婚約は、両家の合意によって結ばれたものだった。
王家に次ぐ勢力を持つ公爵家と王太子の結婚は、国内の政治的安定に大きな意味を持つ。エレノアもそれを理解している。王太子妃になるための教育を十年以上受けてきたし、その責務を放棄するつもりもなかった。
だからユリウスへの想いは、一生胸の中にしまっておくつもりだった。
そのはずだった。
ピンク色の髪をした少女が、アルフレッドにぶつかるまでは。
☆
「きゃっ!」
見事な衝突だった。廊下の向こうから走ってきた少女がアルフレッドの胸に飛び込み、反動で尻餅をつく。アルフレッドと一緒に歩いていたエレノアは足を止めた。
少女は顔を上げた。淡い桃色の髪に、大きな青い瞳。男爵家の娘として今年から王立学院に編入してきたリリア・モーガンだった。
「いたた……もう! 急に出てこないでください!」
エレノアは息を呑んだ。
これは。
アルフレッドが好きなやつではないだろうか。
「リリア嬢」
アルフレッドが静かに言った。
「はい?」
「君は正面から走ってきた」
「えっ」
「俺は歩いていた。君もこちらを見ていた。それなのに、なぜ俺が急に出てきたことになる?」
リリアの顔が引きつった。
「そ、それは……」
「それから、廊下を走るな。危ないだろう」
「……はい」
「怪我は?」
「ありません……」
「ならいい」
アルフレッドは興味を失ったように歩き出した。エレノアは慌ててその後を追った。
「殿下」
「何だ」
「あの方、おもしろくありませんでした?」
アルフレッドが露骨に嫌そうな顔をした。
「エレノア」
「はい」
「あれは、俺の身分を知ったうえで、知らないふりをして無礼に振る舞っていた。あれをやれば俺が喜ぶと思っているんだろう」
エレノアは振り返った。廊下の向こうでリリアが立ち上がり、悔しそうにこちらを見ている。
「わかるのですか?」
「わかる」
「なぜ?」
「天然物を馬鹿にするな」
何の話をしているのだろう。
しかしアルフレッドの鑑定眼は確かなものらしかった。それからリリアは、何度か彼に接触した。
食堂でアルフレッドの好物を横から奪い、「身分が高いからって何でも思い通りになると思わないでください!」と言った。
「それは俺が金を払った昼食だ」
と叱られた。
図書館では脚立から落ちて、偶然その下を通りかかったアルフレッドに抱き留められた。
「俺が来るまで脚立の上で待っていたのか?」
と聞かれて絶句した。
ある日は庭園で転び、偶然アルフレッドに水をかけた。
「さっきから俺を見ながらじょうろを持っていたな」
と言われた。
あまりにも下手だった。
しかしエレノアは諦めなかった。
リリアには素質がある。
根拠はなかった。けれど、ここで諦めれば自分はアルフレッドと結婚することになる。エレノアには根拠よりも切実な事情があった。
☆
「あなた、殿下のことがお好きなのでしょう」
放課後の空き教室に呼び出すと、リリアは青ざめた。
「ち、違います!」
「そうなのですか?」
「いや、その」
「では、もう近づかないでいただけます?」
「……えっと、好きです!」
素直である。エレノアは頷いた。
「でしたら、お手伝いいたします」
「……はい?」
「あなたと殿下の仲を取り持ちます」
リリアの口が開いた。閉じた。また開いた。
「どうして?」
「わたくしにも事情がありますので」
「罠ですか?」
「違います」
「毒を飲ませたり?」
「しません」
「階段から突き落としたり?」
「なぜそんな発想になるのです」
リリアはますます混乱した顔をした。エレノアは机の上に三冊の本を置いた。王国史、礼法概論、隣国語の文法書である。
「まずはこちらを」
「……何ですか、これ」
「あなたに足りないものです」
「私に足りないのって、王子さまをドキッとさせるイベントとかでは」
「そのようなものは知りません。殿下は無知な方がお好きなのではありませんよ」
リリアが黙った。
「殿下は、自分とは違う考えを持つ方との会話がお好きなのです。ですが、自分の考えを持つためには、まず考える材料が必要でしょう」
「……勉強しろってことですか?」
「はい」
「王子さまを落とすために?」
「その言い方は気になりますが、概ねそうです」
リリアは三冊の本を見た。エレノアを見た。もう一度、本を見た。
「これ全部?」
「今週分です」
「今週?!」
こうして奇妙な教育が始まった。
☆
リリアは意外にも勤勉だった。最初こそ文句を言っていたが、一度理解すると吸収が早い。ただし、質問が多かった。
「どうして王様が死んだら長男が王様になるんですか?」
「継承争いを防ぐためです」
「長男がものすごい馬鹿だったら?」
「その場合に備えて、廃嫡という制度があります」
「じゃあ最初から試験で決めたらよくないですか?」
「王位を?」
「はい」
「……その発想はありませんでしたわね」
別の日には、百年前の戦争について尋ねられた。
「つまり、隣国の王様は妹を侮辱されたと思って怒ったんですよね?」
「それだけが原因ではありませんが」
「こっちの王様は侮辱したつもりがなかった」
「ええ」
「これ、最初に二人で話したら戦争しなくて済んだのでは?」
「そのころには既に国境問題がありましたから」
「でも、きっかけはそれですよね?」
「そうですね」
「王様って謝れないんですか?」
「リリア」
「はい」
「それを殿下の前で言ってはいけませんよ」
「どうしてです?」
「殿下も将来、王様になりますから」
「あっ」
エレノアは頭を抱えた。
しかし、その数日後だった。学院の昼食会で、百年前の戦争が話題に上った。
アルフレッドが何気なく意見を求めたところ、リリアはしばらく考えてから言った。
「第三代国王って、謝るのが苦手だったんじゃないですか?」
エレノアは持っていたカップを置いた。
「ほう」
アルフレッドの声が変わった。
「なぜそう思う?」
「だって、王妹殿下の結婚のときもそうです。向こうの公爵家に贈ったものが失礼だって怒られたのに、説明ばかりして謝ってないでしょう?」
「よく読んでいるな」
「それで十年後にも同じことをしてるから、たぶん自分が悪いと思ってないんですよ」
「国王の外交政策を性格で説明するのか?」
「だめですか?」
「いや。続けろ」
リリアは嬉しそうに話し始めた。
エレノアはアルフレッドを見た。
口元が笑っている。
来た。
これは来た。
昼食会の後、去っていくアルフレッドの背中を、エレノアは満足とともに見送った。
「何をしているんだ、君は」
背後から声がした。振り向くとユリウスがいた。
「何も」
「最近、モーガン男爵令嬢を教育しているそうだな」
「耳がお早いことで」
「兄上の好みまで教えているとか」
「誤解ですわ」
「では何をしている?」
エレノアは微笑んだ。
「後進の育成です」
「何の後任だ」
答えなかった。
☆
半年が過ぎた。
そのころには、リリアはアルフレッドを見つけてもぶつからなくなっていた。代わりに普通に話しかけるようになった。
「殿下、この前のお話なんですけど」
「何だ」
「税金って、集めるのにもお金がかかりますよね?」
「当然だ」
「だったら、この税はなくしたほうがお得じゃないですか?」
「……どういう意味だ」
アルフレッドは足を止める。リリアは鞄から紙を出す。
「昨日計算したんです。これ」
「なぜこんなものを計算している?」
「気になったからです」
アルフレッドが笑う。
別の日には、舞踏会の最中に二人で壁の装飾について議論していた。
「これ、葡萄ですよね」
「ああ」
「王家の紋章と何か関係が?」
「豊穣の象徴だ」
「でも、この地方って葡萄育たないですよね」
「……確かに」
「誰が決めたんでしょう」
「調べてみるか」
「はい!」
もはやエレノアが介入する必要はなかった。
ある日、リリアがぽつりと言った。
「最近、殿下といるの楽しいです」
「それは何よりです」
「でも、変なんですよね」
「何がです?」
「前は、こう言えば殿下が喜ぶかなって考えてたんです。でも今は、話したいことがありすぎて忘れちゃうんです」
エレノアは微笑んだ。
「それでよろしいのですよ」
「そうなんですか?」
リリアはしばらく黙っていた。
「エレノア様」
「はい」
「私、最初、あなたに勝ちたかったんです」
「そうでしょうね」
「知ってたんですか?」
「わかりやすかったので」
「……怒らないんですか?」
「わたくしもあなたを利用していますから、お互い様でしょう」
リリアは俯いた。
「本当に殿下のこと、好きじゃないんですか?」
エレノアは少し考えた。
「大切ですよ」
「じゃあ」
「幼いころから一緒に育ちました。幸福でいてほしいと思っていますし、王として成功してほしいとも思います。でも、大切に思うことと、その方の妻になりたいと思うことは、同じではないでしょう?」
リリアはエレノアをじっと見た。それから視線を動かした。ちょうど窓の外をユリウスが歩いていた。リリアがもう一度エレノアを見る。
「……あ」
「リリア」
「はい」
「お黙りなさい」
「はい」
その日から、リリアは妙に協力的になった。
☆
問題は、恋が実ったからといって婚約が消えるわけではないことだった。
アルフレッドとエレノアの婚約には、王家と公爵家だけではなく複数の有力貴族の利害が絡んでいる。エレノアが王太子妃にならないのであれば、公爵家が王家から離反するのではないか。モーガン男爵令嬢では家格が低すぎる。彼女を支持する後ろ盾はどこなのか。
それらを一つずつ解決する必要があった。
「まさか本当にここまでやるとは思わなかった」
書類の山を前に、ユリウスが呆れたように言った。
「何のことでしょう」
「兄上の婚約者を半年かけて育てた」
「まだ決まっておりません」
「兄上はもう彼女しか見ていない」
「それだけでは足りませんわ」
エレノアは書類を一枚差し出した。
「モーガン男爵領と我が家の領地で共同事業を行います。これで彼女と公爵家の関係を示せます」
「君は兄上の次の妻の後ろ盾にまでなるつもりか」
「途中で放り出すほうが無責任でしょう」
ユリウスは書類を受け取った。
「それで、公爵家は何を得る?」
「第二王子殿下が来年継承される北方公爵領との通商権を」
「待て」
「はい?」
「今、俺を交渉材料に使ったか?」
「嫌でしたか?」
「そこではない」
ユリウスは眉間を押さえた。
「君は昔からこうだな」
「何がです?」
「肝心なところだけ言わない」
エレノアは黙った。ユリウスもそれ以上は言わなかった。ただ、書類には署名した。
☆
最終的な決定が下ったのは、それからさらに四か月後だった。アルフレッドとエレノアの婚約は双方合意のもとで解消される。公爵家は引き続き王太子を支持し、リリアの後見を務める。リリアは一年間の王太子妃教育を受け、その後、正式にアルフレッドと婚約する。そしてエレノアとユリウスについては、本人たちの意思を確認したうえで改めて話を進める。
「本人たちの意思を確認、だそうだ」
決定書を読みながらユリウスが言った。
「そう書いてありますね」
「エレノア」
「はい」
「俺は君が好きだ」
エレノアは固まった。
「これで一人分は確認できた」
「……そういうことは」
「うん?」
「もう少し雰囲気を考えておっしゃってくださいませ!」
ユリウスが笑った。
「では、君の返事は今度聞こう」
「今お答えします!」
その声が思いのほか大きく響いて、隣室にいたアルフレッドたちにまで聞こえたらしい。
扉が開いた。
「何だ?」
「何でもございません!」
「エレノア様、顔真っ赤ですよ」
「リリア!」
久しぶりに四人で笑った。
長かった。本当に長かった。エレノアはこの十か月で、自分が一生分の政治工作をしたような気がしていた。アルフレッドも疲れていた。国王と議会を説得し、リリアを自分の妃に望む理由を何度も説明した。最後には、「彼女がおもしろいからではない。彼女の考えを聞きたいし、これから先も隣で聞き続けたい」とまで言った。
それを聞いたとき、エレノアはようやく安心した。自分の役目は終わったのだ。
☆
それから数日後、四人は王宮の庭でお茶を飲んでいた。長い話し合いが終わり、ようやく穏やかな時間が戻ってきたころだった。
リリアが菓子を取ろうとして、フォークで指先を切った。
「痛っ」
「大丈夫か?」
アルフレッドが手を伸ばす。
「あ、大丈夫です。これくらいなら」
リリアは自分の指をもう片方の手で包んだ。淡い光が漏れた。
傷が消えた。
三人が黙った。
リリアだけが菓子を取った。
「……リリア」
「はい?」
アルフレッドの声が低い。
「今のは何だ?」
「聖魔法です」
沈黙した。
「聖魔法?」
「はい」
「君、聖魔法が使えるのか?」
「使えますよ」
「いつから?」
「小さいころからです」
エレノアはゆっくりカップを置いた。
「リリア」
「はい」
「あなた、それをどなたかにお話しになりました?」
「いいえ」
「なぜ?」
「聞かれなかったので」
ユリウスが天を仰いだ。
エレノアは、この十か月を思い出した。
公爵家の親族を一軒ずつ説得した。モーガン男爵家の家格を補うために共同事業を立ち上げた。リリアの後見について議会で承認を取りつけた。王家と公爵家の関係が変わらないことを示すため、ユリウスの北方公爵領まで巻き込んだ。
「……聖魔法の使い手は」
エレノアは震える声で言った。
「王国法では、身分を問わず伯爵位相当の待遇を受けます」
「そうなんですか?」
「王家が後見します」
「へえ」
「王族との婚姻についても、家格を問われません」
「へえ!」
「へえ、ではありません!」
エレノアは立ち上がった。
「あなたがそれを先に言っていれば、ほとんどの問題が最初から解決していたのですよ!」
「えっ」
「十か月ですわ!」
「ご、ごめんなさい!」
「俺は議会で三回演説したぞ」
アルフレッドが言った。
「俺は北方の貴族を十二家回った」
ユリウスも言った。
「だって、聖魔法ってちょっと便利なくらいだと思ってて……」
「死人以外はだいたい治せる奇跡を、ちょっと便利と言わないでくださいませ!」
「すみません!」
リリアが小さくなった。
アルフレッドが彼女を見ていた。
やがて肩が震えた。
「殿下?」
「……くく」
「笑ってます?」
「はははは!」
とうとうアルフレッドは腹を抱えて笑い始めた。
「十か月だぞ! 十か月かけて国中を説得して、ようやくお前と結婚できることになったのに!」
「だからごめんなさいって」
「それを最初に言え!」
「聞かれなかったんです!」
「普通は言うんだよ!」
アルフレッドはしばらく笑っていた。
そして目尻の涙を拭うと、リリアの手を取った。
「やっぱりお前は、おもしれー女だな」
「それ、褒めてます?」
「ああ」
リリアは納得していない顔をしていた。エレノアはその顔を見て、ため息をついた。
最初に廊下でぶつかってきた少女は、王子に好かれるために「変わった女」を演じていた。あれから一年も経っていない。今ではもう、演じる必要などどこにもなかった。
「ところで」
リリアが言った。
「聖魔法が使えるって、他にも誰かに言ったほうがいいですか?」
「今すぐ国王陛下に報告しなさい!」
エレノアとアルフレッドの声が重なった。
ユリウスだけが笑っていた。
自分で読みたいと思った内容をとりいそぎ短編にしてみました!
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