なまえをおしえて、なまえをよんで
「北斗ー!」
元気よくこちらに駆けてきた少女が、満面の笑みで飛びついて来る。名前を呼ばれた少年――北斗は、体勢を崩しながら少女を受け止めた。勢いあまって、二人して地面に倒れ込む。
「……そら、危ない」
「へへっ」
苦言を呈すも、どこ吹く風。少女は嬉しそうに笑み崩れている。ぶんぶんと揺れる尻尾の幻影すら見えてきそうだ。苦笑した北斗は身体を起こし、少女の薄茶のおかっぱ頭を撫でてやる。
「ゆきは?」
「今日は『おねつ』だから、そらだけだって。他のみんなは?」
「みんなは……手伝いの仕事。今日は俺だけ」
「そっか! いっしょだね!」
はしゃぐ少女は、その見た目よりも少し幼い印象だ。今年十二歳の北斗との身長差から、恐らく十歳前後だと想定しているが、言動からはもう少し下であってもおかしくないと思う。
そらは、北斗の長袖シャツの袖を引きながら、楽しげに尋ねてきた。
「ね、今日は、なんのご本?」
「今日は植物図鑑持ってきた。花の名前がたくさん載ってるやつ」
擦り切れたカラー図鑑を取り出すと、そらの顔が一層輝く。期待に満ち溢れたその笑顔にくすぐったい思いを覚えながら、北斗は日当たりの良い柱の陰に座り込んだ。
図鑑を覗き込む少女の瞳は、好奇心でキラキラと揺らめいていた。
世界中を覆った大恐慌、そこから始まった各地の内戦と、大国をも巻き込んだ戦争。
それらを何とか生き延びた国々は、他国とのやり取りを最低限にし、自国の建て直しに奔走している。
北斗たちが暮らすこの国も同様で、国民は暮らす場所、食べる物、就く職業、交流する相手を厳重に管理され、定められた生を全うすることを強いられていた。
そんな息苦しい生活から抜け出そうと、中には集団で廃墟に逃げ込む者たちもいる。当初は国もそれらの人物を処分しようと躍起になったが、人数は一向に減らず、「人口を減らすよりは」と諦めた。今は最低限の食事支援のみに打ち切って、『管理された楽園』を棄てる者を放置している。
北斗が所属するのは、それらの集団の一つ。青少年を中心としたグループ、「孤児」だ。
オーファンが根城にしている幾つかの廃アパートからやや離れたところに、その研究所はあった。
北斗が同じグループの仲間や、敵対グループではあるものの個人的に付き合いのある友人たちと、探検と称してあちこちを歩き回っていた際、偶然見つけた建物だ。
彼らが暮らすアパートの二十棟分以上はあるだろうか、芝生に囲まれた広い敷地に立つその建物は、外から見る限り幾つかの区画に分かれている。そのうちの一つに暮らしているのが、この「そら」という少女だ。もう一人、「ゆき」という少年もいるが、そらの言葉を借りれば、今日は体調不良で出て来ていない。
好奇心からその建物に忍び込んだ北斗たちを、彼らが認知出来るより遙か遠方に居たはずのこの少女はすぐに気付いた。彼女に見付かって度肝を抜かれたあの日、彼らは「そら」と「ゆき」と名乗る少女と少年に、妙に懐かれてしまった。
それ以来、北斗たちは頻繁に、秘密裏にこの研究所を訪ねている。
そらも、ゆきも、身体能力はずば抜けており、時に北斗たちがまったく理解出来ない話題で会話をしていることもある。ただし、日常生活に関する知識はまるでなく、そのアンバランスさがどこか危うい。
北斗にとって、研究所を訪れる度に二人に図鑑の読み聞かせをすることが、気が付けば日常になっていた。
「これはなに?」
「これは……薔薇」
「これは?」
「これは、向日葵」
「じゃあ、これは?」
「チューリップ。……へぇ、チューリップって『鬱金香』って書くのか」
独りごちる北斗に、そらはぱちぱちと目を瞬かせている。
「これと、これは、同じ文字なの?」
カタカナ表記と漢字表記を交互に指さし、そらは不思議そうに首を傾げた。北斗は宙に視線を彷徨わせ、どう説明すべきか考え込んだ。そらはじっと北斗を見つめ、彼の解説を待っている。
しばらく頭を整理していた北斗は、おもむろに口を開いた。
「同じ、ではないかな。こっちはカタカナ、こっちは漢字。あと、ひらがなって文字もある。――これな」
「ふうん?」
「同じものを説明してはいるんだ。ひらがなやカタカナは、そのものの『読み方』を表していることが多い。漢字は、その存在の『意味』とか、『由来』を説明している。……分かる?」
「んー、んー」
ピンと来ない様子で首を傾げている少女に、北斗は苦笑し、芝生が途切れ土が剥き出しになった地面に指で文字を書く。
『そら』
『ソラ』
『空』
「たとえば、この文字。全部『そら』って読むんだ。上から順に、ひらがな、カタカナ、漢字。ひらがなとカタカナの違いは……ごめん、古典は苦手で、割愛。でもどっちも、『文字の読み方』を示す。
漢字は、その名前の成り立ちや、意味を示す。あと、人や物の名前を漢字で表すと、その名前に込められた『願い』や『理由』も伝わりやすい」
「……ねがい、や、りゆう?」
まるでとっておきの秘密を聞いたように、そらは目を見開いて口元を押さえている。少女の驚きのポイントがどこにあるか分からず、北斗は黙って彼女の言葉の続きを待った。
「そらの名前にも、意味や、理由があるの?」
「多分な」
彼らの名を付けたのが誰なのか、彼ら自身も知らないらしい。物心ついた頃からここにいて、ゆきと二人、育ってきたそうだ。
だがもし、彼女の名前が「空」なのだとしたら、恐らくこうかなと思う由来はあった。
「そらの目の色、晴れた日と夜空けの空の色だろう? 澄んだ青と、赤みがかった紫っぽい色。だからきっと、『空』」
「『空』……」
真っ白な頬を紅潮させた少女は、文字を見つめながら噛み締めるようにそう呟く。次の瞬間にはパッと顔を上げ、勢い込んで北斗に尋ねた。
「じゃあ、じゃあ『ゆき』は?」
「ゆきは……多分、『雪』。白金の髪が、一面に降り積もった雪っぽいから」
「『雪』! 私、雪大好き!」
大好きな「ゆき」の名が、大好きな自然現象と同じかもしれないと知った少女は、声を上げてはしゃいでいる。微笑ましいその姿を、北斗は釣られて笑みを浮かべながら見つめていた。
ひとしきり興奮し、ふと我に返ったそら――空は、再び北斗に向かって首を傾げて見せた。
「じゃあ、北斗は?」
「え?」
「北斗の名前の、理由は?」
他意のないその無邪気な問いかけは、北斗の記憶を容赦なく貫いた。
『なんであんたは「北斗」じゃないの?』
『「北斗」なら、これぐらい出来て当たり前でしょう……!?』
耳をつんざく女性の声がよみがえり、北斗は苦い重いを懸命に押し殺す。
答えを待ち、無垢な瞳を北斗に向けている少女に、北斗は穏やかに微笑んだ。
「北斗は……北斗七星、かな。分かる?」
空はふるふると首を振る。
しばし考え込んだのち、北斗はゆっくりと上空を見上げた。昼下がりの空は澄み渡る青色で、望む存在は見付けられない。
「……空は、夜に星や月は見る?」
「お星様! キラキラしてるやつだね?」
「そう。その中に、『北極星』という星がある。星や月は、季節とか時間っていう様々な原因で場所を変えるけど、北の空にあるその星は動かない。ずーっと昔から、旅人の進む方角を示す導きの星なんだ。
北斗七星は、その北極星を見つける目印になるんだって」
希望を、行き先を示す、目印。
この名を彼に付けた親たちは、どんな願いをその字に込めたのだろう。
「北斗……?」
不意に襲いかかる感傷に、北斗はそっと目を伏せた。
北斗の名前は、もともと兄に付けられたものだった。
兄は幼い頃から、「神童」と持て囃されていたそうだ。文字を覚えるのも早く、母語だけではなく外国語にも興味を示した。両親が持ってくる遊び混じりの教材は一瞬で終えてしまい、実年齢よりも遥かに上の世代が対象となる内容も簡単に理解した。
やんちゃではあるが、面倒見が良く、近所に住む子どもたちの良い兄貴分だった。
両親にとって、そんな彼は自慢の息子だった。
兄が不慮の事故でこの世を去ったのは、北斗が産まれる一月前のことだったという。悲報に半狂乱になった母は意識を失い、病院に緊急搬送された。その結果、北斗は月足らずでこの世に産まれた。
一週間生死の境を彷徨った母は、夫の腕に抱かれた新生児を見た瞬間、はらはらと涙を零した。
「北斗が……北斗が帰ってきたのね…!」
妻を喪う恐怖から、夫は、妻が亡き子の名前をその赤ん坊に付けようとすることを、止められなかったそうだ。
亡き子の名を付けた母だが、北斗が「北斗」ではないということは受け入れているようだった。
けれど、二人目の北斗は、母の期待に応えられず、幼い時分からいつも失望されてきた。
決して北斗が愚鈍であった訳ではない。発語も歩き出しも早く、同年代の子の中では頭も運動神経も優秀だと言われていた。
それでも、「神童」と称された「北斗」ほどの才能はなかった。母はいつも北斗と「北斗」を比較しては、イライラと怒鳴りつけてきた。父は悲しげに、黙ってそれを眺めるだけ。
このままでは、母か自分、どちらかが取り返しのつかない過ちを犯してしまう。
危惧を抱いた北斗は、周到に準備をして家を出た。「子どもたちが国の支配を抜け出て、とある廃アパートで共同生活を送っている」という噂を聞きつけたからだ。彼らも自分たちの存在を秘匿していた訳ではなかったので、今もなお生きているSNSは比較的簡単に見付かった。幸運なことにその共同体は、細々と生きている公共交通機関を繋いでいけば、辿り着ける距離にあった。
半年前、自分名義のわずかばかりの金銭と食料だけを手に、北斗は両親を捨てその地を目指した。
そして運良くそのグループ――「オーファン」を見付け、彼は今、ここに居る。
(今更あの人たちにどうこう言うつもりはないけど――思い出すのは、やっぱり嫌なものだな)
苦笑する北斗を、空は不思議そうに眺めている。
彼女は不意に立ち上がると、とてとてと北斗の前にまわり、ちんまりとその場に屈み込んだ。目を瞬かせる北斗に、空はあどけない仕草で首を傾げる。
「北斗は、『北斗』の名前が好きじゃない?」
「――!」
息を飲んだ北斗は、咄嗟に表情を取り繕う。感情を隠すくことには慣れている、まさかこんな幼い少女に見破られるとは思っていなかったのに。
「……どうして、そう思うの?」
微笑を浮かべながら殊更にゆっくりそう問うと、空は傾げた首の角度を深めた。
「なんか、『北斗』って呼ばれる度に、『どこかが痛い』っていう顔してるから。今まではよく分かんなかったけど……。名前には、意味とか理由があるって、教えてもらった」
だから、その理由が、いやだったのかなって。
真っ直ぐにこちらを見つめる少女に、北斗は何も言えなくなる。
(……そうだ。俺はずっと、悲しかった)
顔も知らない兄と比べられ、否定されることが悲しかった。名を呼ばれる度に、自分ではない「兄」の存在を感じ、心が痛んで悲鳴を上げていた。
自分は兄ではない。
今ここにいる、自分を見て――と。
呆然として無言を貫く北斗を、空はじっと見つめている。彼女は不意に瞬くと、足元の文字に視線を落とした。
「ねえ、『北斗』の文字は、さっきのしか意味がない?」
「……一つ一つに分解したら、意味は分かれると思う。この文字だけを取り出したら、『北』――方角を示す言葉になるよ」
「『キタ』……」
しばらく何かを考え込んでいた少女は、おもむろに顔を上げて軽やかに笑った。
「――じゃあ、これからは私、『キタ』って呼ぶ!」
妙案を思い付いたとばかりに得意満面なその笑顔に、北斗は言葉を失った。
「ちゃんと、旅人を導くお星さまの意味も残るでしょ? でも、新しい呼び方で『キタ』。――どう?」
あまりにも無邪気に、年下のその少女は、北斗を長年縛ってきた鎖から解き放つ。憎み、嫌い、それでもなお決別出来ずにいたその名前に、新しい音を吹き込んでくれた。
人々を導く不動の星。その重みから彼を逃がし、けれど微かな繋がりを残してくれた。
胸に沸き立つこの思いを、いまだ十二歳の少年である北斗には、うまく言い表すことは出来ない。ただ、心の中にぽかぽかと、あたたかな何かがそっと生まれた気がした。
北斗は何度か言葉を発そうと口を開いては閉じ、最後には湧き出る笑みを隠しきれずに破顔した。
「……もうちょっと、格好いいあだ名はなかったの?」
「えーっ」
ぷくりと不服そうに頬を膨らませる空に、北斗は声を上げて笑ってしまう。ふにふにと柔らかなその頬をつつきながら、北斗はそっと自身の目尻に浮かんだ雫を拭い取った。
その後、思いもよらぬ出来事が、幼い少年少女と北斗たちに襲いかかった。
北斗たちが当たり前に触れてきた現実、積み上げてきた思いと記憶、運命さえ、全てがひっくり返される。
再び北斗の前に姿を現した時、空は、自分に関する全てを忘れていた。自分が誰で、どうやって過ごし、誰を慈しみ、誰と新たな世界を見に行ったのか、その全てを。
それは雪も同様だった。
もう二度と、空と雪が相見えることのないように。出会い、万が一にも互いを傷つけることのないように。
北斗たちは、空を「オーファン」に、雪をもう一つのグループに引き取ることを決め、自分たちも一切の交流を絶った。
それは二人の為だけでなく、両グループの関係性の悪化も原因の一つだった。国の食料配給は戸籍登録に基づくもので、無法地帯に住まう者同士を親として生まれた子どもたちには、戸籍登録をしていないことが多い。自然、人の数と反比例する形で手に入る食料は減り、足らないのであれば「持っているであろう」相手から奪おうと、互いに武器を向ける者が増え始めたのだ。
見ず、干渉せず、争わず。
新たに両グループのリーダーに任命された北斗と友人たちの、それが互いを守るための不文律となった。
全てを忘れた空は、けれどあの頃と変わらずに、よく笑い、グループの人気者になっていた。その類稀な運動神経から、気が付けば北斗たちの下、グループ三番手の位置につけていた。
苦い顔をする北斗に、彼女は変わらず「キタ」と呼び掛ける。
もっとも、その理由は、「有事の際に叫ぶ名前は、少しでも文字数が少ない方が良い」という、素っ気ないものだったけれども。
どうか、このまま、何事もなく、平穏な日々を。彼女と共に。
北斗は願いを込め、夜空に浮かぶ星をそっと見上げる。




