恐怖の毒蛸 -角界の喧嘩屋- 新海 幸蔵
新海は礼儀を重んずる国技の世界の中でも飛び切りのアウトローだった。こんなに無作法な男でも、協会が豪華な引退興行まで行ってくれたのは、悪役としての人気あってのことだろう。土俵は善玉だけでは盛り上がらない。極めつけの悪役もまた土俵を盛り上げるためには必要だったのだ。
商売柄、力士には気性が激しい者が多い。ただしその中には、相撲を取っているときこそ闘志剥き出しであっても、一たび土俵を下りると紳士的であったり面倒見の良い兄貴的存在であったりする者も少なくない。
粗暴で問題行動が多いことから相撲協会から引導を渡された前田山と朝青龍の両横綱がいくら荒っぽいといっても、大達のように師匠をぶん殴るほど無分別な力士ではなかったし、しょっちゅう市井のヤクザ者たちと乱闘騒ぎを起こしていた玉錦あたりと比べるとむしろ大人しい部類といえる。
ましてや後輩力士に対する暴行事件で引退を余儀なくされた日馬富士に至っては、現役でありながら大学に通い、絵画を趣味とするインテリで、普段は礼儀正しい好青年だった。
ちなみに「喧嘩玉」の異名を取った玉錦も、人の好き嫌いはあるにせよ、小部屋所属の巴潟や後輩横綱の双葉山を弟のように可愛がっていた。特に双葉山に対しては、千秋楽の直接対決に破れて玉錦自身が優勝を逃したにもかかわらず、弟分の初優勝をわが事のように喜び、祝賀会に駆けつけるほどの度量を見せている。
その玉錦の全盛時代、玉錦を筆頭に喧嘩五人衆と呼ばれるめっぽう荒っぽい力士がいたが、その中で最も危険な男が新海だった。番付はずっと玉錦の方が上で本場所の対戦でも全く歯が立たなかった(玉錦の八戦全勝)にもかかわらず、縦社会のしきたりなどどこ吹く風の新海は、一たびキレると、支度部屋で角界のボス玉錦に殴りかかるほど見境がなかった。
ヤクザに命を狙われてドスで指を切り落とされた寶川や、露天商と喧嘩したのが原因で番付から外された腹いせに交番に殴りこみをかけた真鶴も暴力沙汰には事欠かなかったが、新海は土俵の外での武勇伝だけでなく、土俵の上でも喧嘩腰で荒っぽいことから対戦相手から敬遠された。
秋田県秋田市新屋町出身の新海こと中野幸蔵が入間川部屋に入門したのは、大正九年、十七歳の時である。翌大正十年五月場所の番付には「新海」の四股名で載っているが、その由来は出身地の「新」と日本海の「海」からだそうだ。
毎年恒例の明治神宮競技(全日本力士選士権)で大正十四年、十五年と二年連続十両優勝すると、その余勢をかって臨んだ本場所(昭和二年一月場所)も十両優勝を果たすなど、一七四センチ九十八キロの軽量であっても足腰が抜群に強いことから、まだ力士として発展途上の者が多い十両以下では抜きん出た強さを発揮した。
新入幕は昭和二年夏場所のことだが、本場所を控えた四月巡業中、まだ番付上は十両の新海は、角界一の巨人である小結出羽ヶ嶽との対戦で、この先輩力士を事実上の再起不能に追いやってしまう。
身長差三十センチ、体重で倍も違う相手にまともに向かってゆくのはあまりにも芸がない。そこで新海は相手の動きがスローモーなのに付け込んで、ぶちかましからいきなり首に腕を回しながら足を絡め、そのまま後方に仰け反るように勢いよく倒れこんだ。
これが大男殺しの奇手、河津掛けである。
近年の土俵では滅多に見られないが、プロレスのテレビ中継華やかなりし頃、ジャイアント馬場が、プロレス界一の巨人アンドレ・ザ・ジャイアントにバックを取られた時によくこの技で切り返していたことを覚えている方もおられるのではないだろうか。
元々下半身が弱い出羽ヶ嶽である。いかに新海が軽量とはいえ、全体重を片方の膝にかけられてはたまらない。新海と折り重なるように倒れた出羽ヶ嶽の左足膝関節は捻じ曲がり、亀裂骨折していた。出羽ヶ嶽は三場所連続休場するほどの重傷で、復帰後は再び三役に戻ることはなく、最後は三段目まで転落した。
すでに連続八場所三役を務めていた出羽ヶ嶽は角界の看板力士の一人で、出羽海部屋にとっては大事な米櫃であった。本割の相撲ならまだしも、巡業中の同門対決でここまで荒技を使うというのは常識では考えられない。そもそも河津掛けは学生相撲では禁じられているほど危険な技である。親方からすれば、勝つためには手段を選ばず、よりによって部屋のホープをむざむざと潰してしまった新海に対しては、「強い」というより「憎い」という感情の方が先に立ったに違いない。
新海の負けず嫌いは力士としては重要な資質の一つだったかもしれないが、どんな手段を使ってでも勝とうというのは相撲の本質からは外れている。正攻法では勝てないからといって、本割りでは対戦することのない同部屋の兄弟子の力士生命を奪うような荒技を仕掛けるなど正気の沙汰ではない。
こういう空気を読めない利己主義的なところが、関取仲間から嫌われ孤立する要因となった。十両時代にも、朝嵐に外掛けをかけた際に、絡めた左足に全体重をかけてのしかかったため、倒れた朝嵐は自力では起き上がれず、他の力士が肩を貸してようやく花道を引き揚げたということがあった。
通常外掛けは、相手の足首を刈って軸足のバランスを崩して倒す攻撃技と、吊り、寄りを防ぐために軸足の膝上あたりに足を絡めて身体を密着させる防御技の二種類の用途がある。つまり、攻撃目的であれば足首を狙うのが常道というわけだが、新海の場合は膝関節に足を絡ませておいてから倒しにゆくところに特徴があった。
新海のような軽量の力士が大型力士に足を絡めても、腰が伸びたままそのまま吊り上げられてしまうのがおちである。ところが新海の足は蛸の足が絡みついたかのように相手の膝関節を極めてしまうため、力任せに吊ろうにも軸足に力が入らない。しかもそこに全体重をかけてこられると、次第に腰砕けのような状態になるため、打棄りにくく、受身も取りづらいのである。
この事故があったせいか、新入幕の新海は足技を封印し、身体を密着させてもたれこむ相撲に終始した。結果、七勝(四敗)中六番の決まり手が浴びせ倒しだった。浴びせる時に足が内か外に掛かっていれば、内掛けか外掛けになるところだが、あえて足を絡ませなかったのは相手に怪我をさせる危険を考慮してのことだったのかもしれない。
とはいえ、番付が上がり上位との対戦が多くなってくると、さすがに危険度の高い荒技を自重している余裕はない。
昭和四年三月場所、宮城山を切り返しで破って初金星を挙げると、翌年十月場所には伝家の宝刀外掛けで横綱をひっくり返し、足の妙技が復活した。宮城山は新海を苦手とし、都合三個の金星を献上している。
昭和七年、春秋園事件で脱退組に入った新海は、合流した関西相撲のトーナメント大会でいきなり優勝するが、行く末を案じたのか早々と見切りをつけ、翌八年一月場所からは幕内別格扱いで東京相撲に帰参している。
昭和八年一月場所は、新海の足技が国技館を大いに賑わせた場所だった。何と二日目の清水川、三日目の古賀ノ浦と二日連続外掛けで仕留めると、三日目には曲者の旭川まで内掛けで下しているのだ。三日も連続して足技で勝てば、さすがに対戦力士も警戒するのは当たり前だが、新海はその警戒網をかいくぐって八日目にも岩城山を外掛けに切って落とし、名人芸を存分に披露した。
新海の決まり手の中で最も多いのがこの外掛けで実に十九回に及ぶ。その他、内掛けが九回、掛け靠れが三回、外掛けの亜流である切り返しが七回あるため、通算勝利の三割近くを足技が占めていることになる。外掛けの名人として相撲史にその名を刻んでいるのも当然と言えるだろう。
昭和初期の名大関として知られる清水川も新海が大の苦手で、三度も掛け技でやられたのを含め三勝七敗と散々な目に遭っている。しかも両者の対戦は全て清水川が番付上位だったにもかかわらずである。
「新海関は真の好敵手である」と言ってはばからない「(二代目)相撲の神様」こと幡瀬川とは九勝九敗と全くの五分。さすがに幡瀬川には得意の足技が通じず、一度も足技で勝ったことがない代わりに、幡瀬川の必殺技、小股掬いは一度も喰っていない。
共に好調の両者が激突した昭和十年一月場所三日目の取組みはなかなかの見物だった。
「足掛けがくる前にこちらから仕掛けてやろうと思った」という幡瀬川は右差しからいきなり小股掬いの奇襲に出た。虚を突かれた新海がぐらついたのに乗じて左を巻き換えて双差しになると、かつて二場所連続でライバルを仕留めたことのある内掛けで勝負に出たが、前褌を引きつけてねばる新海の二枚腰はこの窮地をしのぎきった。一呼吸の後、もう一度幡瀬川が内掛けにくると、これを読んでいた新海は、相手の出足に合わせるように両上手を引きつけて強引に吊り上げ、そのまま土俵の外まで一気に運び出した。敗れた幡瀬川が「実に大相撲だったと思う」と自画自賛するほどの熱戦だった。
昭和九年五月場所、七勝四敗の成績を残した新海は小結を飛び越えて関脇に昇進する。この時同時に新小結に昇進したのが双葉山で、東西の前頭筆頭同士で対戦した本割りでは、内掛けからの寄り倒しで新海に軍配が上がっている。
新海はスピードのある軽量の業師を苦にしない柔軟性を有する一方、切れ味鋭い足技があるがゆえに体格で勝る相手と四つになっても互角以上に戦えたが、玉錦や男女ノ川、高登のように強烈な突っ張りで圧力をかけながらぐいぐいと前に出てくるタイプにはもろかった。
三役を二場所しか務められなかったのは、上位に苦手力士が揃っていたからである。
関脇二場所目の昭和十年五月場所は、関脇以上に全敗して二勝九敗と散々だったが、相撲は負けても相手に深刻ダメージを与えるところが新海の足技の恐いところで、この場所も含めて新海には一度も負けなかった高登(生涯対戦成績は六勝〇敗)にとって、六日目の新海戦の白星は大関の座と引き換えにしたといっても過言ではないほど高くついた。
土俵際で右足を絡めて左足一本で打棄ろうとする新海を強引な上手捻りで下した高登は、折り重なるように土俵下に落下した際に、新海の右足でロックされた状態の左膝を強打し、翌日からの休場を余儀なくされた。この時左膝関節を捻挫していた高登は、三役の座を維持するために千秋楽も強行出場して白星を挙げ、五勝四敗二休で辛くも小結に留まったものの、患部を悪化させたため、その後は全く振るわなかった。
筋肉質の長身でスケールの大きな相撲を取ることから「信州雷電」の異名を取り、大関候補だった高登もまた、新海の足技によって土俵人生を閉ざされたのである。
関脇から平幕に陥落した十一年一月場所、初日に対戦した双葉山を、彼の代名詞であった打棄りで破っているが、自身の得意技でやられて意固地になったのか、このあと双葉山は打棄りで四番勝ち、九勝二敗で準優勝という好成績を残している。双葉山の前人未到の六十九連勝はこの場所から始まったのだ。
二枚腰では双葉山にも引けを取らない新海は、この場所三番打棄りで勝っているように、蛸足が決まらなければ打棄りを見せることも多かった。ちなみに打棄りによる勝利は、若き日には「打棄り双葉」の異名を取った双葉山の十九番に対し新海十八番と全く見劣りしていない。
しかし、新海をしても双葉山には足技が通用せず、自身よりも番付が低かった若き日の双葉山にはほとんど歯が立たなかった。これは初顔(八年一月場所)で新海が土俵際で外掛けを繰り出した刹那、それを見計らったかのように双葉山が片足立ちになった新海を右に打棄ったことに起因していると思われる。
体幹の発達した双葉山は新海が足を絡めてくるタイミングで左右に振り、足を空振りさせることで外掛けを封じてしまうばかりか、足を上げた瞬間に二枚蹴りを見舞ってくるので、さすがの蛸足も双葉山には打つ手がなかったのだ。
昭和十二年五月場所、前頭七枚目の新海は五勝八敗と冴えなかったが、この場所も含めて毎場所のように外掛けで白星を挙げており、力は衰えたといえ足技はまだまだ健在だった。ところが生来の喧嘩早さと酒癖の悪さが思わぬ勇み足となり、余力を残したままこの年限りで土俵を追われることになった。
事件は年末の九州巡業中に起きた。宴席で幕内最年長の綾川と口論になった新海は、こともあろうにビール瓶で綾川を殴打したのだ。当時の相撲部屋では、酔っぱらった力士同士の喧嘩はそれほど珍しいものでもなく、力士の常人離れしたタフネスからすれば、お互いが正気に戻ったところで手打ちをすれば丸く収まるのが普通だった。しかしいかなる理由があっても、凶器を持って殴りかかっては喧嘩の域を超えて立派な傷害罪である。事態を重くみた大日本相撲協会は新海に引退を勧告した。
また綾川の方も、新海が事情聴取の中で喧嘩の原因が綾川の方にあるかのように陳述したことで協会の心象を悪くし、心ならずも現役引退の道を余儀なくされている。
実際綾川も、晩年の腰の低い好々爺ぶりからは想像がつかないほど力士時代は女性にモテまくったうえ、酒乱の気もあっただけに、変人扱いされていた新海をからかって逆鱗に触れた可能性は十分にある。仮にそうであったとしても、加害者と被害者が同時に現役引退というのは、現在では考えられない。
あえて深読みするとすれば、協会が問題児の新海を体よく葬るために、現役も残り少ない綾川と抱き合わせて、内々には喧嘩両成敗という形で新海を諭したのかもしれない。というのも、二人とも引退後は年寄を襲名しているからで、暴力沙汰で引退勧告された力士が協会に残るというのは通常はありえない。
昭和七年一月、事実上の除名処分を受けた真鶴が交番に殴りこみをかけるという協会を震撼させる事件が起こっているだけに、真鶴以上に危なっかしい新海の取り扱いには、師匠でもある出羽海理事長(元両国)も相当苦慮したと思われる。
普段から酒癖の悪い男だったが、機嫌の良い時は宴席で自慢の剣舞を披露した。木剣を持って踊る「高山彦九郎」はなかなか堂に入ったものだったという。
渋々髷を切ることになった新海のために十二年年十二月二十五日に挙行された引退相撲は、仲の悪かった玉錦の他、武蔵山、男女ノ川、双葉山の四横綱が揃って出場する豪華版だった(当時平幕だった前田山、羽黒山まで含めると新旧六横綱という空前のオールスターキャストである)。
角界の嫌われ者だったたかだか三役力士のためにここまで豪華な引退相撲というのはちょっと異例だけに、出羽海親方が陰で相当根回しをしたのは間違いないだろう。ところが分不相応ともいえる引退相撲の花道を用意してくれた師匠への恩義もどこへやら。新海は祝儀の分配を巡って師匠と揉めたあげくに、ぶん殴ったと言われており、協会内では独裁者的存在だった出羽海理事長に楯突くほど常軌を逸した存在だった。そんな乱暴者が年寄荒磯を襲名して検査役まで務めていたのだから理解に苦しむ。
昭和二十六年に廃業した後は、不動産業をはじめとする様々な事業を興すも全て失敗し、晩年は生活保護を受けていた。
最期も哀れだった。自身の寝煙草が原因で住んでいたアパートが全焼し、焼死した。
新海の外掛けは体格的に恵まれない力士にとっては心強い武器である。こういう危険な必殺技をぶら下げて上位陣を脅かすような力士が現れないものだろうか。