第8話 : 晴人とそら ― 引越しの日
――晴人とそらの視点――
部屋は段ボールだらけだった。
敷かれていない布団、開封されていないキッチン用品の袋、壁に立てかけられた鏡。
混沌の中、雪村そらは本の詰まった段ボールの前で座り込み、一方の晴人は洗濯機と格闘していた。
「これ、あそこのコンセントに刺すんじゃないの?」
「手伝いに来たの?邪魔しに来たの?」そらは顔も上げず返した。
散らかった部屋にも関わらず、なぜか居心地の良い空気が流れていた。言葉を超えた二人の繋がりがそこにはあった。
ふと、そらの手が止まる。
段ボールの中から、古いアルバムを見つけたのだ。
開く必要はなかった。記憶は自然によみがえる。
***
夏祭りの夜。
浴衣に下駄姿のそらは、人混みで両親とはぐれ、泣きそうになっていた。
その時、声がかかった。
「そら」
アニメTシャツの少年が、片手に綿菓子、もう片方の手を差し伸べていた。
「さあ、花火始まる前に」
そらはその手を取った。
二人は川辺まで駆け、打ち上げ花火が夜空を染めた瞬間、時間が止まった気がした。
***
今でもあの日のことは鮮明に覚えている。
「どうした?急に止まって」
晴人の声で現実に引き戻される。
そらは無言でクッションを投げつけた。
「いてっ!なんでよ!」
「黙って!大事な回想シーンだったんだから!」
「何思い出してたんだ?」
「…夏祭り、覚えてる?」
晴人は一瞬考え、ふっと笑った。
「ああ!方向音痴で迷子になったやつか!ははは!」
次のクッションは直撃した。
「バカ!!」
それでもそらは少し笑った。
覚えていてくれたことが、嬉しかった。
夜になり、ようやく片付けが終わると、二人はソファに疲れきって座り、缶ジュースを手にした。
「明日は朝早く迎えに行く。文也と一緒に学校案内するから」
「…その文也って子、まだ生きてたの?」
「おい、失礼な。いいやつだぞ。お前のことも心配してた」
「…嘘」
そらは少し俯く。
「あいつには近づきたくない」
「なぜだ?」
「優しくされたら…私まで変わっちゃいそうで。それに…あの時の『優しい子』を思い出すのも不公平だ」
晴人はしばし黙り、やがて笑った。
「お前は俺が知る限り最も不誠実な人間だ。だがそれが嫌いじゃない」
「黙れ!」
そらはキッチンへ立ち去ろうとしたが、背中に晴人の声が響いた。
「明日7時だ。朝食も期待してるぞ」
「誰が作るって言った!?」
「手伝ったんだから当然だろ!」
「ちぇ…わかったよ。冷める前に来いよ」
そらの唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
ベッドの上で何度も寝返りを打ち、天井を見つめる。
心が落ち着かない。
*"…どう謝ればいい?"*
静川さんへの嘘がまだ胸に引っかかっていた。
そらが戻ってきた。
今このタイミングで、しかも同じクラスへ。
偶然なのか――それとも運命の残酷な冗談なのか。
晴人はそらのことが好きなのか?
それともそらが晴人に想いを寄せているのか?
正直、わからない。
ただ一つ確かなのは――
「今まで晴人が誰かに惚れたところを見たことがない」
それが不安だった。
どれだけ彼を理解しているつもりでも、晴人の心は謎に包まれていた。
机の上の携帯が振動する。
榎本恵からのメッセージだった:
『大丈夫?そのそらって子、どんな子?』
『本当は何が起きてるの?』
少し考えてから返信した:
『明日から俺たちのクラスに来る。最悪のタイミングだ』
即読即返:
『マジで⁉ それ…やばくない?』
ため息をつき、さらに打つ:
『でも何があっても、俺は静川さんを応援する』
『あの子は俺を信じてくれた。だから例えそらとぶつかっても、役目を果たす』
数秒後、スタンプが届く:ピースサインのウサギに「OK」の文字。
『じゃ、明日頑張れ。おやすみ~』
携帯を伏せ、再び天井を見上げる。
「…明日はきついぞ。でも、たぶん楽しいこともある。きっと」
決意を胸に、目を閉じた。