第5話: 屋上での出会いと無口な味方
「…遅刻する!」
息を切らせながら、何とか教室に滑り込んだ。いや、正確にはまだ余裕があったのに、まるで命がけのようだった。
「おい…どうしたんだ?鬼にでも追われてたみたいに走ってきたな」
「…相沢くん、道中で寝落ちしたんですか?」
晴人と美月が揃って怪訝な顔をしている。あの通りでどれだけ呆然と立ち尽くしていたか、彼らにはわからない。
「…いや、ちょっと時間の感覚を忘れてただけ」
平静を装おうとしたが、額の汗と荒い息がすべてを物語っていた。
二人は顔を見合わせ、「変だな…」と同時につぶやいた。
確かに、私がこんなに動揺するのは珍しい。だがその理由は――
(…学生証がない)
チャイムが鳴る直前、ポケットを確認して気づいた。紛失したのだ。
(あの角で落としたのか…?)
思い返せば、完全にパニックになっていた。誰かに拾われたのか、それとも風に飛ばされたのか。
そんな不安を抱えたまま、午前の授業はあっという間に過ぎていった。
***
昼休み、美月が晴人に微笑みかける。
「一緒にランチしましょう!」
「ああ、文也も――」
「悪い、今日は一人で食べる」
「え?そうなの?」
「ああ。ちょっと考え事が。二人で楽しんで」
さりげなく教室を出た。別に好意でそうしたわけじゃない…ただ一人になりたかっただけだ。
足は自然と、あの場所へ向かった。
「ああ…やっぱりここは落ち着く」
屋上。私の秘密の避難場所だ。
誰もいないと思っていた――のに。
「…あ、人がいる」
静かな声が響いた。
「…え?」
そこには――
「…榎本さん?」
肩までのストレートヘア、無表情…というより感情を表に出さない顔。
よく見れば整った顔立ちなのに、なぜか目立たない。
「…こんにちは」
「こ、こんにちは…」
榎本恵。クラスメイト。
成績は平均的、存在感は薄いが、どこか独特の雰囲気を纏う少女。
そして何より――
「気づかない」タイプの子。
クラスにいることすら、意識して探さないとわからないような。
「…何してるんですか?」
「そっちのセリフです。いつもここで昼食?」
「ああ…風が気持ちよくて」
軽く頷く彼女。沈黙が流れる――だが彼女はまったく気にしていない様子。
「…今朝の件、覚えてますか?」
「え?今朝?」
「…角で固まってたこと」
確かに、あの時私は人間オブジェ状態だった。
「あ、ああ!あれは…その!」
「これ、落としました」
ポケットから私の学生証を取り出した。
「ありがとうございます!気づかなくてすみませんでした…!」
「…大したことじゃないです。ただ拾っただけ」
何度も頭を下げる。あの時は本当に上の空だった。
「助かりました、榎本さん」
「…いいえ」
そう言うと、彼女は私の隣に座った。
手際よく弁当箱を開く。
…え?今からここで一緒に食べるの?
「…一つ聞いていいですか?」
「はい?」
「どうしてあんなにぼーっとしてたんですか?」
少し躊躇った。
(…名前は出せないな)
「友達が…ちょっと複雑な問題を抱えてて」
「ふむ…恋?」
「…どうしてわかった?」
「『顔に書いてある』と言うべきか、ただの直感です」
相変わらずの無表情、平坦な声。
「好きな人がいて、告白したいらしい。でも…多分振られると思う」
「…その『好きな人』って、晴人くんと美月さんですか?」
「……」
榎本恵は読心術でも使えるのだろうか。
言葉なく頷く。
「…恋愛の専門家じゃないです。でも」
静かだが力強い声で続けた。
「想いを伝えるには勇気が要る。結果はわからない…でも伝えること自体に価値がある」
「…そうですね」
「もしダメだったら…支えてくれる人がいれば違う。あなたはその人になりたいんでしょう?」
「…俺が、支える」
「ええ。だからこそ、あなたは彼女のことを気にかけてる」
「…その通りです」
そうだ。
これは、誰かを想う気持ちへのエールだ。
私は彼女の味方でいようと決めた。
「…ありがとう、榎本さん」
「どういたしまして。ただ…心配顔はあなたに似合わないです」
そう言いながら、彼女の口元がかすかに――おそらくは微笑みと呼ばれるもの――緩んだ。
「…話したいことがあったら、聞きます。聞くのは得意です」
淡々とした声。
だが、確かな温かみがあった。
思わず笑ってしまった。
「じゃあ…これからよろしく、俺の新しい味方」
「…ええ。こちらこそ」
一陣の風が、二人の髪をなびかせる。
その瞬間、胸の重りが少し軽くなった気がした。
――こうして、私は「無口な味方」を手に入れた。