静かな季節の、その先に
春と夏のあいだに訪れる、穏やかな季節だった。
陽の角度が少しずつ高くなり、草原には名もなき花が咲き始める。風はまだ涼しく、村の畑には朝露が残っていた。
エレナは、屋敷の裏手にある小さな畑にしゃがみ込み、土に触れていた。朝一番に種を蒔いたばかりの列に、そっと水をやっていく。腰には木製の小さなじょうろ、頭には古びた麦わら帽子。
あれから、もう三年になる。
追放された“聖女”が、辺境の村で静かに生きるようになってから、時は確実に流れていた。
ミリーは村の仕立て屋と気が合うようになり、今では屋敷に針仕事を持ち帰ることもしばしばだった。屋敷そのものも、村人たちと少しずつ手を加え、雨漏りも隙間風もほとんど感じなくなっている。
毎日は静かだった。けれど、それが退屈だと思ったことは一度もなかった。
畑の手入れ、井戸の水汲み、道具の整備、月に数度の集会――誰かが倒れれば看病に行き、子どもが生まれれば、村の女たちと一緒に小さなお祝いをした。祭りのときにはランタンを吊るし、余った布で即席の衣装を作るのも楽しかった。
エレナはこの村で、ひとりの人間として生きていた。
――そう、ただそれだけで十分だった。
その日も特別なことはなかった。畑仕事を終えたあと、家に戻って昼のスープを温める。ミリーは洗濯物を干していて、庭先には鶏が一羽、のんびりと草をついばんでいた。
午後には近所の子どもたちが遊びに来た。今日は一緒に焼き菓子を作る約束をしていたらしく、ミリーが笑いながら台所に立ち、エレナは窓辺で生地を寝かせる役を引き受けた。
村には今日も平穏が満ちていた。
――けれど、夕刻が近づく頃。
その空気は、ふとした違和感と共に、わずかに揺らぐ。
家の前の小道に、よく通る男の声が響いた。
「……屋敷に、お客様だ。外の者のようだぞ」
薪を割っていた隣家の男が、そう言いながら帽子を取って通り過ぎていく。エレナは振り返り、ミリーと目を見合わせた。
遠く、村の入口――いつもは誰も通らないその道に、ひとつの影が見えた。
風に揺れる長衣。金具のついた革の鞄。ひと目で、旅装束とわかる姿。
そして、その手には、封蝋で綴じられた一通の文書があった。
その人物はゆっくりとした足取りで、村道を進んでくる。道端の草が風に揺れ、鞄の留め金がかすかに音を立てた。
扉の前に立ったその男は、年の頃こそ若いが、長旅の疲労を隠しきれていなかった。靴には土がこびりつき、外套の裾はほつれている。
「アルディネ令嬢、いらっしゃいますか」
控えめながらも、はっきりとした声だった。
ミリーが戸口に出ようとしたとき、エレナは軽く首を振り、代わって一歩前に出る。
「私がアルディネです」
男の目がわずかに見開かれ、すぐに深く一礼した。
「王都よりの使者です。第一王宮より、公式にお預かりした書状をお届けに参りました」
エレナはわずかに目を細め、男から差し出された文書を受け取る。重みのある封蝋、精緻な紋章。紛れもなく、王家の正式なものだった。
その場では開かず、彼女は静かに一礼した。
「ありがとうございます。確かに、受け取りました」
男は再び頭を下げ、礼儀正しく退いた。やがて足音は遠ざかり、再び村にはいつもの夕暮れの静けさが戻る。
けれど、エレナの胸には小さな波紋が広がっていた。
――こんな日が来るとは、思わなかった。
王都を追われ、名も役目も失って、ようやく得た平穏な日々。その終わりを告げるように、その書状は届いた。
ミリーがそっと問いかける。
「……開けますか?」
エレナは、少しだけ考えた。そして首を横に振る。
「いいえ。今日は、やめておくわ」
目を落とした封書に、視線をしばらく留めたまま、彼女は小さく笑う。
「ただの紙切れでしょう。きっと」
そう言いながらも、その手には、わずかに力がこもっていた。
風が吹く。乾いた木の葉が足元を転がっていく。その中に、村の子どもたちの笑い声がかすかに混じる。
――そのとき、村の入口で誰かが声を上げた。
「……おい、誰か来たぞ!」
ミリーが反射的に立ち上がり、エレナも遅れて視線を向ける。
村道の先、夕暮れに染まる風景の中に、騎馬の一団が姿を見せていた。
先頭に立つのは、かつて見慣れたその横顔。
整った金の髪、王家の装束を身にまといながらも、その姿にはかつての威厳はなかった。
エレナはゆっくりと息を吐く。
そう、あのアレクシスだったのだ。