小さな縁と深まる日々
朝の光が屋敷の庭に差し込む頃、ふたりは道具の手入れを終え、裏手で水を汲んでいた。
そんな折、門の外から声がかかった。
「おはようございます。少し、相談があって……」
振り返ると、初老の男が立っていた。作業着のまま、手には簡素な図面を持っている。
「村の集会所の屋根が、先日の風で壊れましてな。元々古かったもんで、いよいよ限界なんです」
少し間を置いて、男は言葉を足す。
「手も道具もある程度はありますが、どうにも心許なくて……あんたたちに、助けてもらえないかと思いまして」
続いて、隣にいた女性が前に出た。
「力仕事をお願いしたいんじゃありません。ただ、あんたがいてくれるだけで、皆少し安心するんです」
エレナはわずかに目を伏せ、そしてゆっくりと頷いた。
「……できる範囲で、やってみます」
その言葉に、ふたりの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます。本当に助かります……!」
エレナは、使い込んだ手袋を手に取りながら小さく息をついた。
“必要とされる”という感覚が、こんなにも静かで、温かいものだったとは――追われるように村へ来たあの日には、想像すらできなかった。
◇
その日の午後、エレナとミリーは村の中央広場へと足を運んだ。
集会所は、屋根の一部が崩れかけていた。壁の板もところどころ剥がれ、雨風の跡が痛々しい。だが、広場に集まっていた村人たちの表情は明るかった。
「お、来てくれたか。助かる!」
「ほら、こっちはもう材料を運び始めてるんだ」
手には道具を持ち、口々に声をかけてくる人々。その輪の中に入ることが、もう以前のような躊躇いを生まなくなっていることに、エレナはふと気づいた。
ミリーが手早く手袋をはめ、道具の点検を始める。その隣で、エレナは屋根の構造を描いた簡素な設計図を受け取り、静かに目を通した。
「この梁は、一度外した方がよさそうですね。傾いています」
「ああ、やっぱりそうか。じゃあ、先に支えを――」
意見を交わす声が自然と重なっていく。
そう言いかけた男の手には、すでに長い木材が抱えられていた。その動きに合わせるように、他の者たちも次々と工具を手にする。
エレナは、周囲の動きに目を配りながら、足元の傾斜や陽の差し込み具合を確認していった。ほんの少し前までは、こうして誰かと共に作業すること自体が想像もつかなかった――そんな思いが、ふと胸の奥をよぎる。
「エレナさん、この板、どこに回しましょうか?」
後ろからかけられた声に、エレナは振り返る。声の主は、昨日も井戸の作業を手伝ってくれた若者だった。少し迷っている様子の彼に、エレナは穏やかに答える。
「こちらの側面にお願いします。日が落ちる前に、せめて風よけになる部分は仕上げておきたいですから」
「了解っす!」
短く返事をすると、彼はすぐに仲間の元へと走っていった。
ふと、空を見上げる。西の空は朱を帯び始めており、そろそろ一日の終わりが近いことを告げていた。遠くで子どもたちの笑い声がして、ひとりの老婆が水差しを手に「休憩だよ」と声をかけて回っていた。
エレナは道具を置き、ゆっくりと広場の端へと向かう。
その一角では、子どもたちが石を並べて遊んでいた。小さな声で言い合いをしながら、時に笑い、時に真剣な表情で地面に何かを描いている。夢中になっている様子は、何もかも忘れてしまうほどだ。
エレナは少し離れた場所から、その光景を静かに見つめた。
そこにあるのは、変わらない暮らしの一場面だった。
その穏やかな光景を見つめながら、エレナはそっと息をついた。
――こんな日が、ずっと続けばいい。
そう思った瞬間、ひとりの子どもがこちらに気づき、小さく手を振った。エレナは驚いたように目を見開き、けれどすぐに微笑んで手を振り返す。
それだけのやりとりが、不思議と胸の奥をあたためていった。
風がそよいだ。乾いた木の葉が一枚、地面に舞い落ちる。夕暮れの気配が、広場全体をやさしく包みはじめていた。