水面に映る絆
井戸の修復に取りかかって三日目の朝。
鍬と桶で少しずつ泥を取り除き、ようやく底に水がにじむようになってきた頃だった。ミリーが息をつきながら、柄杓を一度、静かに沈める。
「……やっと、ですね」
「ええ。でも、もう少し深く掘れば、もっと澄んだ水が出るかもしれないわ」
エレナは袖をまくり直し、手のひらについた泥をぬぐう。その顔に浮かぶのは疲れよりも、どこか満足げな表情だった。
そのときだった。
屋敷の門の前で、足音が止まる気配がした。
二人が顔を上げると、そこには一人の老人が立っていた。背を少し丸め、手には空の桶を提げている。視線は井戸の方を向いているが、口は結ばれたままだ。
「……ご用ですか?」
ミリーが恐る恐る声をかけると、老人は少し目を伏せた。
「……あの井戸、使えるようになったのかと、思いましてな」
エレナは、そっと柄杓を老人の方へ差し出す。
「まだ完璧じゃありませんけれど、飲めるくらいにはなりました。よければ、どうぞ」
しばらくの沈黙のあと、老人は歩を進め、ぎこちなく水を汲んだ。
そして――一口だけ飲んで、小さく頷いた。
「……ありがとうよ」
それだけ言って、ゆっくりと去っていった。
老人の背が小さくなっていくのを見送りながら、ミリーがそっとつぶやいた。
「……来てくれましたね」
エレナは小さく頷く。それだけの出来事が、胸の奥に、じんわりと染み入っていくのを感じた。
風が吹いていた。ひんやりとしているけれど、どこか優しい風だった。木々の葉がわずかに揺れ、修復途中の井戸の水面に小さな波が立つ。
井戸の底。にじむように湧き出した水が、かすかにきらめきながら、光を反射していた。
「たった一人でも、足を運んでくれた。その一歩が、きっと他の誰かの背中を押してくれるといいわね」
「……そうだと、いいですね」
ふたりは並んで、しばらく井戸の前に立ち尽くしていた。
言葉は少なくても、そこに流れていたのは確かな静けさと、小さな希望だった。
やがてミリーが、「そろそろ道具を片づけましょうか」と言い、エレナが軽く笑ってうなずく。
その日はそれ以上、誰も訪れることはなかったが――屋敷のまわりに流れる空気は、ほんのわずかに変わっていた。
◇
そして翌朝。
日がまだ斜めに差し込む時間、屋敷の庭には昨日と変わらぬ静けさがあった。けれど、その静けさは長く続かなかった。
「おーい、誰かいるかー!」
門の外から、不意に明るい声が飛び込んできた。
ミリーが慌てて顔を出すと、木の門の向こうには、見覚えのない男がひとり。
「じーさんが言ってたんだよ。“あの井戸、使えるようになったらしいぞ”ってな」
その声に続いて、二人、三人と人影が増えていく。
「ほらよ、手伝いに来てやったぞ!」「どうせ家にいても退屈だからなぁ」「あの井戸がまた使えるようになるんなら、うちのばーさんも喜ぶわ」
皆、思い思いの道具を手にしていた。桶や鍬、古びた木のバケツに、家の裏から持ってきたという井戸蓋まで。
エレナとミリーは顔を見合わせ、そして自然と笑みがこぼれた。
「ただで水を貰いに来た訳じゃないぞ。俺たちも手伝いに来たんだ」
最初に声をかけた男が、にっと笑いながら言った。
「なあに、昔はこの井戸が村の命綱だったんだ。もう一度使えるようになるんなら、やる価値はあるだろ?」
そう言った男は、鍬を肩から下ろし、そのまま井戸の方へと足を運んだ。
その後に続いて、数人の村人たちが門をくぐる。手にした道具はさまざまだった。古びた桶、使い込まれたスコップ、麻布で包まれた工具一式
エレナとミリーが戸口に立ったまま見守っていると、村人たちはごく自然に作業へ加わっていった。
誰かが井戸の縁石を調べ、別の誰かが滑車の軸に油をさす。土をさらい、石を運び、水の流れを確かめる。黙々と、それでいて慣れた手つきで。
エレナは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
村人たちが笑い合いながら手を動かす様子。擦れた声でやりとりを交わすその輪の中に、自分たちの存在が自然と溶け込んでいる――そんな感覚が、ただ嬉しかった。
追放された聖女としてではなく、ここで生きるひとりの人間として。
彼女は今、この村と確かに「つながっている」と思えた。
それは、何よりもの救いだった。