追放先の村にて
馬車の車輪がぬかるみを踏みしめ、のろのろと進む。
木々の葉はまだ冬の名残をまとい、冷たい風が山の斜面をすり抜けていく。王都を出てから十日余り。広がるのは、人の手が及ばぬような静けさに満ちた風景だった。
「……ここが、エレナ様の新しい居場所だなんて。正直、目を疑いたくなりますよ」
そう呟いたのは、エレナとともにこの地へ来た侍女、ミリーだった。
小柄で明るい性格の彼女は、元は王宮付きの侍女の一人だった。だが王都追放が決まった日、「お仕えしたい相手は“地位”じゃなく“人”です」と言って、すべてを捨てて同行した唯一の者である。
エレナは、無言で前方に視線を向けた。
山に囲まれたその村は、かつてアルディネ家が治めていた旧領地――レーヴェ村。地図にすら載らぬような辺境の小村だった。
だが今、その名は“追放先”という重たい意味で彼女の人生に刻まれる。
木造の門が風に軋み、見上げた屋敷の屋根には苔が這っていた。壁は割れ、窓はところどころ砕け、庭には枯れ枝がうず高く積もっている。村の中心とは名ばかりで、人影もまばらだ。
王都の煌びやかさとは、まるで別の世界。
「ここで……暮らすのですね」
ミリーの声には、気遣いとためらいがにじんでいた。
エレナはふと、微笑を浮かべた。
「ええ。今日から、ここが私の場所です」
馬車から降り立ったエレナは、泥の跳ねた道を一歩一歩、躊躇なく進んだ。
革靴の縁を濁った水が濡らし、裾に泥がはねる。
「エレナ様、汚れてしまいます!」
慌ててミリーが後ろから駆け寄ってくる。手には旅装の裾を持ち上げるための予備の布が握られていたが、エレナは首を横に振って立ち止まらない。
「いいのよ、ミリー。きれいな靴じゃ、この土地に馴染めないわ」
そう言って微笑む顔は、どこまでも穏やかだった。
王宮にいた頃のように、絨毯の敷かれた床を歩く必要はない。ここでは誰も彼女に跪かず、敬礼もしない。ただ、大地があるだけだ。歩けば土がつき、手を伸ばせば風が吹く。そんな当たり前の世界に、自らの足で触れることを、エレナは恐れていなかった。
「……それでも、お召し物が台無しになります。もう少し、整備してから……」
ミリーは歯切れ悪く呟いたが、エレナは振り返ってにこりと笑う。
「この服だって、もう“聖女”の衣ではないもの。汚れても構わないわ」
その言葉に、ミリーは何も言えなくなった。
静かに、風が吹く。
その風は、王都では決して感じられなかった冷たさと、そして清らかさを含んでいた。
二人が立つのは、長く人の手が入っていない、荒れ果てた屋敷の前。
外壁には苔が這い、門扉は片方が外れかけ、木々は手入れされぬまま自由に伸びている。けれど、エレナは臆する様子もなく、その姿をしっかりと見据えていた。
「……思ったよりずっと、ひどいですね」
ミリーがぽつりとこぼす。
エレナは、小さく頷いた。
「良いじゃない。たまには、こういうのも。リフォームのしがいがあるわよ」
そう続けたとき、ミリーは思わず目を丸くした。
「……本当に、変わられましたね」
ミリーの声は、呆れ半分、感嘆半分だった。
エレナは肩をすくめる。
「変わったかしら? むしろ、本来の自分に戻った気もするけれど」
それはたぶん、王宮という重苦しい場所から下りた今だからこそ言える言葉だ。
神託の言葉に縛られ、周囲の期待を背負い続けたあの頃。気高く在ることを求められ、“間違ってはならない”と日々、背筋を伸ばしていた。だがその役割を、あの場ですべて剥がされた今、彼女にはただ一人の人間としての感覚が戻ってきていた。
「始めましょう。最初は……そうね、まずは窓を開けて空気を入れ替えたいわ。屋内にあるものは、一度全部外に出して」
「ええっ、もう? 今日だけはお休みしても……」
「ミリー、今日動かなければ明日も動けなくなるわよ」
「そ、それは……ごもっともですが……」
エレナは扉の前に立ち、両手で重たく軋む木を押し開けた。中からあふれる埃に目を細めながら、一歩、踏み込む。
足元の床はきしみ、何年も眠っていた空気が揺れる。
それでも、怖くはなかった。
「行きましょう。今日からここが、私たちの“城”よ」
エレナの背中に、ミリーはしばらく言葉をなくしていたが、やがてふっと笑った。
「はい!掃除頑張りますね!」
元気に返事をしたミリーは、埃の舞う床を見て一瞬たじろいだものの、すぐに頬を叩いて気を引き締めた。旅装の袖をきゅっとまくり上げ、荷を解きながら、奮起するように鼻息をひとつつく。
「まずは窓ですね。明かりが入らないと、気持ちも沈んじゃいます」
「ええ。開けられるところは全部開けて。できれば風も通したいわ」
二人は声を掛け合いながら、それぞれの作業に取りかかった。
天井には古びた梁が通り、壁の一部は剥がれかけていたが、それでも――空間は生きていた。
エレナは手にした布で、埃の積もった棚をひと拭きした。途端に舞い上がった粉塵に咳き込みながらも、なぜか笑いがこみ上げてくる。
自分の手で、自分の居場所を作っている。そのことが、ひどく新鮮で、心地がよかったのだった。