表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

史実の海陵王

海陵王と直言

作者: 鈴木 強

 暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。

 「海陵王と耨盌温敦思忠」で『金史』から「海陵王は思忠の諫言を拒まず、思忠は言いたいことを遠慮せず全て言った。」との記事を引用しましたが、今回は「海陵王と直言」と題して関連記事を見てみましょう。

 『大金国志』は『金史』に先行すること百年以上前に成立した書で、『金史』に見られない記事も散見されます。即位するに当たり下した詔についても『大金国志』にあって『金史』には見られない記事で、次のように記されています。


 内外の臣庶にこのような詔を下した。

「朝政に誤りがあり軍民の利害に反することあれば直言せよ。採るべきものがあれば、聞き入れて実行する。その直言が不当なものでも処罰しない。公私に益があるものであれば、別に審議して褒賞する。」


 次の記事も『大金国志』のみに見られるものです。


 直言を求める詔を下すと、内外の臣僚が上書したものの多くにこうあった。

 「上京は国の片隅にあり、物資の輸送が困難で民が苦労しています。燕京は国の中心にあり遷都すべきです。」

 これは海陵王の考えにも合致したため、大いに喜び、左丞相の張浩、右丞相張通古、左丞の蔡松年を派遣し、各地から人夫と工匠を徴発して、燕京に宮殿を築いた。


 一方で、『大金国志』に無く、『金史』にある記事として次のものがあります。


天徳二年八月十日、初めて登聞院を設置した。


天徳三年十月十二日、尚書省にこのような詔を下した。

 「およそ理不尽な扱いを受けたなら、登聞院に投書することを許す。院は分類して皇帝に見せるだけとし、皇帝から御史台に審理を命じる。


 登聞院とは、宋の太宗の始めた制度で、日本で言えば目安箱に当たります。宋には以前からあった制度ですが、金では海陵王が初めて導入し、これにより平民でも皇帝に意見できるようになりました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ