海陵王と直言
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
「海陵王と耨盌温敦思忠」で『金史』から「海陵王は思忠の諫言を拒まず、思忠は言いたいことを遠慮せず全て言った。」との記事を引用しましたが、今回は「海陵王と直言」と題して関連記事を見てみましょう。
『大金国志』は『金史』に先行すること百年以上前に成立した書で、『金史』に見られない記事も散見されます。即位するに当たり下した詔についても『大金国志』にあって『金史』には見られない記事で、次のように記されています。
内外の臣庶にこのような詔を下した。
「朝政に誤りがあり軍民の利害に反することあれば直言せよ。採るべきものがあれば、聞き入れて実行する。その直言が不当なものでも処罰しない。公私に益があるものであれば、別に審議して褒賞する。」
次の記事も『大金国志』のみに見られるものです。
直言を求める詔を下すと、内外の臣僚が上書したものの多くにこうあった。
「上京は国の片隅にあり、物資の輸送が困難で民が苦労しています。燕京は国の中心にあり遷都すべきです。」
これは海陵王の考えにも合致したため、大いに喜び、左丞相の張浩、右丞相張通古、左丞の蔡松年を派遣し、各地から人夫と工匠を徴発して、燕京に宮殿を築いた。
一方で、『大金国志』に無く、『金史』にある記事として次のものがあります。
天徳二年八月十日、初めて登聞院を設置した。
天徳三年十月十二日、尚書省にこのような詔を下した。
「およそ理不尽な扱いを受けたなら、登聞院に投書することを許す。院は分類して皇帝に見せるだけとし、皇帝から御史台に審理を命じる。
登聞院とは、宋の太宗の始めた制度で、日本で言えば目安箱に当たります。宋には以前からあった制度ですが、金では海陵王が初めて導入し、これにより平民でも皇帝に意見できるようになりました。