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自閉症をともなう知的発達障害児とパパの物語

 さくら坂のほのかちゃん 序


 さくら坂小学校の校舎の入り口で、持参した携帯用スリッパに履きかえ、前を見上げると、上級生たちが   紙の花びらで作ってくれた『おめでとう!』の看板が目に入った。

 

 その横の掲示板には、新入生に寄せられたたくさんの祝電が並んでいる。

 

 新入生たちが卒園してきた、各幼稚園、保育園からの祝電の中から『徳心園』からの祝電を発見する。



『 ほのかちゃん ご入学おめでとう!


小さなランドセルに 大きな夢をいっぱいつめて 元気に学校生活をスタートしてください。

  

    2007年4月5日 徳心園 職員一同   』



「この電報、後で貰えないかな?」


ママは、うるうるの目になっている。


 パパの方は、もう、読んでる途中から、ハンカチで目を拭っている。











  ほのパパの1



「お義父さん、よろしくお願いします、いってらっしゃい!」



  同じ『さくら坂』に住むお義父さんは、飼い犬のニノと朝の散歩が日課になっている。

そのついでに、毎朝、ミノリのお見送りをお願いしている。

今朝もミノリと手をつないで、2丁目の幼稚園バス乗り場へ坂を下っていった。



「ホノカも、いくよ!」


今日はパパと一緒に登校だよ。



 今朝はスムーズに家を出られた・・・

と、思ったら、志水君ママが志水君の弟タイヨウ君の手を引っぱって、今行ったお義父さんとニノとミノリとは反対側の坂から、カツカツと駆け上がってきた。


 あーやっぱり・・・


 家の前はちょうど坂の上、ホノカは玄関先すぐに座り込んでしまい、志水君ママのキラキラの付いた     赤いサンダルのカツカツをジーッと見ている。


 これでもまだ追いかけなくなっただけ、マシになったほうなんだ。


 志水君ママは、2丁目バス停7時49分発車の、ミノリが乗るのと同じ幼稚園バスにタイヨウ君をお見送り。


「おはようございまぁーす!」

 と、2人は小走りに、カツカツ、カツカツ・・・


座り込んでジッと眺めているホノカとパパの前を通り過ぎ、バス停の方へと坂を駆け下りていった。

 坂の下、『さくら坂』外周道路に辿り着き左へ折れた志水親子の姿が見えなくなって、            やっとホノカは立ち上がる。


 小学校の集団登校の集合時間は、班長の内村君の家の前に7時49分、志水親子を見送った、        バス停がある方とは反対側の坂の下には、登校班の班長の内村君とその妹のミユちゃん、志水君兄、中西君、   ホノカと同じ新一年生の藤本君、5人揃ってこちらを見上げている。


 ほら、みんな、待ってくれてるよ・・・

登校斑の皆が待つ方へ、ホノカを促した。


「おはよう お待たせ!」


* * 


 小学校入学前、校長先生、担任の先生、支援学級の先生、教育委員会の方と色々話し合った中で、

『 登下校には、保護者の方に付き添いを願います 』

と、条件が付けられていた。  


 通学路は、『さくら坂』住宅地の端から端へほぼ縦断するコースをとり、最後に外周道路の          外側へと抜ける地下歩道を出て、100mほど進むと小学校がある。


 当初、登下校はママが付き添っていたが、学校までホノカ付だと片道10分はかかる道のりを、一日2往復、


「大変なんやから!」なので、

「遅く出勤できる日あるやん! そん時の登校だけでも、パパ、行ったら!」


 と、週2回、パパが登校の同伴を受け持つことになった。


 ママが行くときは、ほぼ毎朝、集団登校班の列に遅れないよう、ホノカを急き立てて、            何とか班について行っているらしい。

でも、パパの時はホノカに完全に侮られているらしく、車が通れば立ち止まってお見送りするし、       座り込んでは他の生徒の登校風景を見守ったり、中学生が自転車で通り過ぎれば追いかけようとし、       なかなか先へ進ませない。


 班長の内村君に

「ごめんね、先に進んでて! 追っかけるから・・・」

と、結局、校門前の整列で、やっと合流となるのが常だった。



 ♪クーモーリードラー ファクーナァーアーッ


 座り込んで歌っている。


 ホノカ、最近その歌好きだな、大塚愛だっけ、『♪くもりーぞらー』って。


「でも、今日は天気いいぞ、さあいくぞ!」


 初夏の朝は、まだ日陰を選んで歩くほど汗ばむでもなく、班に追いつくのはとうにあきらめて、座り込んで  歌ったり、自分の影で遊びながらのホノカペース。 


のんびりと、中央公園の前までやってきた。


 いつものように、2丁目民生委員の出島さんが、登校する子供達に、笑顔で声をかけている。


「おはようございます!」

出島さんは昔、幼稚園の先生だったらしい。 いつも背筋がシュッとした、品のあるご婦人だ。


 子らの安全のためということで、自治会や老人会の人が毎朝通学路に立ってくれている。

基本は自治会防犯委員の交代制なのだが、出島さんのように毎朝自主的に通学路を見守る人もいる。

こういう好意には素直に頭が下がる。


「おはようございます、いつも、ありがとうございます」

 出島さんに挨拶すると、ホノカも、出島さんの前で立ち止まった。


「ほのかちゃん、おはようございます!」

出島さんは、ホノカには、ちゃんとかがんで目線を合わせようとしてくれる。


「ホノカ! ご挨拶は?」ホノカに、挨拶を促すと、


「オハヨッ」 

あさっての方を向いているけれど、小さい声で答えた。


「 あの・・・、話しかけてもええんですよね? ほのかちゃんに・・・」

 出島さんは、少し首をかしげながら訊いた。


「こんな風に聞いてるかどうかワカラン反応ですけれど、こちらからお願いしたいぐらいなんです。

いっぱい話しかけてもらえるとありがたいです!」


 返事を聞いて、出島さんが優しい笑顔になる。


「 ああ、それならうれしいわ!

 声かけたりが、もしアカンかったらアカンと思たんで・・・ 一度訊いときたかったんです」


「そうですよね・・・ そういうことってわからないですよね・・・」

 


 そうなんだ。


 障害を持つ子の特性は様々なので、挨拶一つとってみても、誰でも『元気いっぱい大きな声で!』       とはいかない、個別の対応が必要な場合がある。

 ホノカのいた『徳心園』のクラスメートの中には、聴覚が敏感過ぎて、軽く話しかけるだけで         パニックを起こしてしまう危険がある子もいた。

 

 こうして、ひとつひとつ、ホノカを理解していってもらえるのは、ありがたい。


 ママの時は、いつも中央公園前くらいになると挨拶もそこそこに『班に追いつけモード』になっていて、    出島さんと、そんな立ち話をする機会もなかったらしい。


「ありがとうございます! これからも、よろしくお願いします!」


 ホノカ良かったな。 ちゃんと挨拶できるようになったらいいな。


* * 


 校門近くなると『おはようございます!』が飛び交っている。


「おはようございます!」

 学校に到着すると、いつものように、楠田先生が迎えに出てきてくれていた。


「ほのちゃん、おはよう!」

ホノカは、楠田先生と目を合わせないが


「オハヨッ」

相変わらず小さい声だけど、応えはする。



 楠田先生は、ほぼホノカ専属で介助に当ってくれる介助員の先生だ。

ママより少し年上の女性で、きめ細やかにホノカを見てくれている。


 今朝は、1年1組担任の酒井先生も校門まで出てきていた。

酒井先生が、かがんでホノカの前に顔を寄せる。


「ほのかさん、おはようございます!」


 ホノカは小さな声で、


「オハヨウゴザイマス」 

と、応えた。


 あれっ!


酒井先生には『ゴザイマス』がついてるじゃないか! すごい!


 ママの情報によると、ホノカは、1組の担任の酒井先生が怖いらしい。酒井先生の言うことは良く聞くそうだ。

酒井先生は、いかにも、この道何十年というベテラン女性教師だ。



 ホノカは、小学校では『ふれあい学級』という名の支援学級と、1年1組を行き来している。


 もちろん、いつも楠田先生が付き添ってくれているが、ホノカでも1年1組で受けられそうな授業は     できるだけ1組で、給食や掃除も1組の児童と一緒にと、させてくれていた。



* * 


「みんながやっていけないことは、ほのかちゃんもやってはいけないと思います。

そういう意味での特別扱いはしません、よろしいですね!」


 初めての保護者懇談の時のことだ。酒井先生に念を押された。


「もちろん、お願いします。 

理解させるのに、他の子よりずっと時間がかかるかもしれません。 

根気よく取り組んでいただけたら、ありがたいです!」


 酒井先生は、しっかりうなずいて、ホノカの方を見た。 眼差しから、意気込みが伝わってくる。


酒井先生はボールペンをずっと握り締めたまま、

「何か気をつけなければいけないこと、ありますか?」


 酒井先生の、目力がすごい・・・ 丁寧に答えなければ。


「何か判断に迷ったら、外国からやってきたばかりの日本語を話せない女の子、という風に考えて       もらったらいいんじゃないかと。 外国人でもやっていけないことは、いけない訳ですし。 

何かを理解させたりする時、派手めのジェスチャーとか絵を使って示すのがホノカにとって有効と思います・・・ 」 


 酒井先生はメモを取りながら、ひとつひとつ頭の中へ刷り込んでいくように、うなずいている。


「ほのかちゃんがクラスにいることは、きっと、ほかの児童たちにもプラスになると思っています!」

 酒井先生は、ホノカをしっかり受け入れようとしている。 前向きな姿勢が頼もしい。



 介助員にまかせっきり、出来るだけ支援学級にいて欲しそうな顔で、障害児が我がクラスに         いるのが不運、仕方がない。 そんな逃げの先生も多いらしい。


 ホノカを地域の小学校に入れるかどうか検討している時、『徳心園』の保護者の間には、           そういう情報が流れていた。


 よろしくお願いします・・・ 



ホノカ、ラッキーだ。


いい先生を引き当てたようだ。 ホノカにとっては、怖い存在かもしれないけどな。













 ガイドヘルパーのさっちゃん


(一)


「ほのちゃん、今日、凄かったんですよ!」



「ふふっ、昨日の夜ね、シンクロのテレビ、食い入るように見てたもん。 

きっと今日、潜ってばっかりやったんとちがう?」


 さすが、ほのちゃんのママだ。 すっかりお見通し。



「ぐるぐるまわったり、逆立ちしようとしてプールの水飲んで、ゴホゴホいって、それでもめげずに      水へ突進してましたよ!」


 ほのちゃんのママと話していると、とっても楽しい。 ほのちゃんのママが大好きだ。



『神様は、障害を持つ子供が幸せになれるようにその母に授ける』

って、聞いたことがあるけれど、ほのちゃんには、あのママしか考えられない。

神様の正しい選択だと思う。


『自閉症を伴う知的発達障害』 

 きっと辛いことも、いっぱいあったにちがいない。

そんなところはおくびにも出さず、障害もほのちゃんの個性として楽しんでいるようにさえ見える。


 このバイトは、障害児のいる様々な家庭と触れ合う機会がある。

『障害=不幸』という家庭も少なくない。


自分がどんな子を授かろうが、ほのちゃんのママのように受け入れられるだろうか?

早智には、まだ自信がない。


 妹のミノリちゃんが『おなかすいたぁ!』と玄関まで出てきた。


「はあい、わかりました、いま作るからね、ホノカ何してる?」

ママが、優しく応える。


「ホノカ、寝てるョ」


「ほのちゃん、泳ぎ過ぎて、疲れちゃったかな? 

話し込んでしまって、すみません。 じゃあ、失礼しますね。 

ミノリちゃんバイバイ! 」


 ほのちゃんを、おうちに送り届けて、そのまま玄関先で小一時間も話し込んでしまった。



 早智は、愛用の原付にまたがった。

『さくら坂』は山の中腹にあり、遠く眺める大阪湾は、もうオレンジ色に染まっている。


『見たいDVDがあるから一緒に見てね』

と、今日は早智の方から誘ったのに、ヒロシに約束していた時間に遅れそうだ。


でも、きっと許してくれるだろう。


ヒロシのイケてないセリフを借用すれば、

『ほのちゃんは、僕たち二人の愛のキューピット』なのだから。











(二)


 ヒロシと大阪で再会したのは、2年前の6月のことだった。


 T市方面へ向かう電車に乗り込むと、車内は比較的空いていて、ほのちゃんは早速座席に上って、      窓の外を眺めていた。


「お靴、脱いどこうね!」


 この間に、今日の行動報告を書かなければ。


 連れて行った動物園は、ほのちゃんに気に入ってもらえたようだ。

心配していた天気も、たまに晴れ間さえ覗かせてくれた位で、雨具の手間は必要無かった。


 しまった! 


 報告書を書くのに集中してしまった。


 電車の外を見ていたはずのほのちゃんが、いつのまにか、前の席の男性のところ、靴も履かずに行って、    その男性の横の席に膝立ちになって、男性の肩に手を置き、顔をジーッと覗き込んでいる。


 男性は、少し照れながら

「こんにちは」


 と、ほのちゃんは、突然、


「メガネッ!」

と言って、男性のメガネをサッと取って、こちらへ戻ってきた。

上下反対にかけて、ご機嫌にしている・・・ 


「あーっ、ほのちゃん、ダメ!」


 いけない。

『ダメ!』は、だめだ。

       *


「自閉症の子の中には『ダメ!』って言われると、自分全てが否定されるように感じる子がいるんだって」


 障害児童支援サービス『ぼんご』の三島さんから、教えられている。



「もしか、さっちゃんがさぁ、海外旅行してて初めて行く空港とかでさ、バン!バン! て音がして・・・ 」

 三島さんは、手をピストル形にして撃つマネをする。


「誰かが『ダメッ!アブナイ!』って叫んでくれてたって、不安が募るばっかりで、どうしていいかわからないじゃない。

そんな時は『伏せろ!』とか『隠れろ!』って言われる方が、気分的にも、ずっと助かるでしょ。

そんな感じなのよ・・・」


 ちょっと頭を傾げて聞いていると、早智が理解出来ていないと思ったのか、三島さんは続けた。

 


「うーん、じゃあ、例えはあんまり良くないんだけどさ・・・」


 と、前置きして、


「イヌを散歩させてる時、もしそのイヌが、誰か知らない人に吠え掛かったら、『ダメ!』って言うより、    『おすわり!』って言った方が、効果があると思わない? 

イヌにしてみたら、喜んで遊んでくれる人もいたりして、何が、『ダメ!』なのか、判らないの。 

『ダメ!』だけだと、パニックになる子もいるの。気をつけてね!」


 こっちの例えの方が、ずっと良いと思う。


「ガイヘルしてて、その子が急に車の通る道へ走りだしたりしたとしたら、『ダメ!』とか『アブナイ!』     じゃなくて、『止まれ!』とか『こっちへ来なさい!』とか。

次の行動を教えてあげる方がいいわ。

その辺にいる普通の子にだって、その方が理解しやすいと思うの」


 ほのちゃんのガイヘルは、もう10回を数える。

ほのちゃんについては、かなり掌握しているつもりだった。


自閉症児には、落ち着きなくやたらと動き回る『多動性障害』の傾向がある子がいるが、            ほのちゃんの『プロフィール』には、『多動は、あまりみられない』となっていた。

 ほのちゃんとの初めてのガイヘルの時、ずっと抱っこばかりで、腕が筋肉痛になってしまったが、      それでも、サッと何処かへいなくなってしまう『多動』の激しい子に比べれば、                ほのちゃんは扱い易い方と言えるだろう。



「さっちゃんと、一番相性がいいみたい・・・」


 三島さんは、ほのちゃんのガイヘル要請が早智のスケジュールと合うときは大抵、             早智とほのちゃんを組合わせていた。

特に自閉症の子はパニックをできるだけ避けたいので、あまりヘルパーが入れ替わらないようにと      考慮してくれている。


『慣れた頃が一番事故が起きやすい』と言われている。

報告書を書くのに集中していたら、つい油断してしまった。


 気をつけなきゃ。



*  


「メガネ、は・ず・し・ますっ!」


 ほのちゃんに声をかけた。

男性が立ち上がって、こっちへ来た。


「さかさだよ・・・」 

 男性は怒るわけでもなく、ほのちゃんに声をかけた。


「目、悪くするから、かけんほうがええよ・・・」

「すみませんでした・・・ ほのちゃん! おじさんにメガネ、ハイッ!しなさい!」


 ほのちゃんは聞き分けよく男性にメガネを渡す。


「おじさんは、ないんやない・・・」


「あぁっ!すみませんでした!」


 ほのちゃんはと言えば、もうメガネにも男性にも興味なく、また窓の外を眺めている。



「もしかして、間違えてたらごめん。 西村さん、だよね?」


「えっ?」


 そうだ、この顔、メガネ、見覚えがある。


そうだ、高3の時のクラスメート、名前なんだっけ、確か親友のミチコが選んだ               『イケてないメンズ』のうちのひとり。


「頑張っとるんだね。 僕のこと憶えとらんやろか? 田端比呂志」


タバタ・・・ そう、その名前だ。


「僕、こっちの大学におるんや。 

西村さんも大阪におるって、山口の奴が言うてた。福祉関係の大学らしいって。

どっかで会うかもしれんと思っとったけど・・・」


 山口という、高校の頃からすっかりオバサン味を出していた、ウワサ好きなクラスメートの顔を思い出した。



その時、まもなくT駅、というアナウンスが流れた。

「さあ、ほのちゃん! 降りますよ、お靴はいてね!」


「今日、ほのちゃん送り届けたら、連絡する。 電話番号聞いとく!」


 ヒロシは、ちょっと驚いた顔をしてから、ケータイの番号を告げた。


早智はシャーペンで報告書の右上に走り書きし、

「じゃあ、またね!」


ほのちゃんの手を引いて、扉の方へ向かった。



 『さくら坂』行きのバスに乗り込んで、一番後ろの座席の窓側にほのちゃんを座らせ、その横に腰を下ろす。

脇に挟んでいた報告書、さっき走り書きした数字をケータイに落としてから、シャーペンの後ろについている  消しゴムで、丁寧に消した。


 なんで、連絡するなんて言っちゃったんだろ・・・ 自分らしくない、不思議。

 そうか、『メガネの詫びをしなきゃ!』が、あったんだ。

たとえ、イケてない顔見知りでも、ちゃんと謝っとかないと。

*  


 ほのちゃんを無事送り届けて、さっき登録した『タバタヒロシ』に電話をした。


 聞けば、お互い最寄り駅は別の電車路線だが、直線距離にして原付で10分ほどの距離のところに住んでいる。

今日は、奈良の方へ行っていて、その帰りに乗り合わせたらしい。



 改めて、メガネの詫びを入れた。


【晩ご飯、もう食べられましたか?】と、やけに丁寧に聞いてきた。

 

近くのファミリーレストランで

【ご一緒に、夕飯でも食べませんか?】となった。


 まあいいか。今日は時間あるし。


 高校の時、ヒロシとは、ほとんど言葉を交わしたことがなかった。

流行を無視したメガネと、その奥の小さな目と、ボウボウの眉毛、お世辞にもモテる顔の持ち主ではなかった。

その時だって完全に恋愛対象外、同郷の友人としてのご対面だ。


 お互い、大阪に出てからの近況を話した。


 同郷の訛りを聞いたせいか、久しぶりに身構えずに話ができた。

知らぬ間に、自分でもびっくりするくらい饒舌になっている。

男性として見ていないからか。 聞き上手なのかもしれない。 話すことを心地よく感じた。


 ヒロシは、校内で有名だったはずの『水泳部の先輩』については、何も触れなかった。

たぶん付き合ってたことも、別れたことも山口さんに聞いて知っているだろう。


 初めての一人暮らし。


忙しい授業のこと、バイト先の子供服屋のやり手女性店長のこと。

昨年から始めたガイドヘルパーのバイトのこと、水泳部にいたことがそのバイトで役立っていること、     大阪の学生のギラギラしていること。


 早智は、同じゼミの子に何回か合コンの数合わせに誘われ、1度だけ無理やり連れて行かれたが、      相手男性陣の、欲情ギラギラな感じに吐き気がして、途中で帰ってしまった。

 後から『さっちゃん、ひどいよぉ!』と、早智を誘った子に怒られはしたが、『でも、いい男いたから・・・』 まんざらでもない様子だった。

 その子は、早智が、一番気の弱そうな男に

『ちょっと、体調悪いから・・・』と、伝言して先に帰ったことを、合コンが終わる間際まで           気付づいていなかった。

 

 そんな話もした。



「うちのゼミは理系やから、合コンとか、バイトとかも、まともにしとるヒマないけんなぁ・・・ 

大阪にも色んな奴おるよ」



 その日話して初めて知った事は、ヒロシが高校の時、部活で歴史研究会にいたこと。

好きなのは歴史全般というわけではなく『邪馬台国』一辺倒で、今日は短期バイトが無く丸一日空いたので、   奈良の桜井市まで足を伸ばして来たそうだ。


 申しわけないが、早智には殆ど興味のない世界だった。



*  


「今日は、僕出すね。 僕が誘ったんやし・・・」


「アカンよ!そんなん・・・」


 そんなに、裕福そうには見えない。出すとしたら迷惑をかけた、こっちの方だ。


「あと、1ヶ月くらいで僕の誕生日なんや。

また一緒に食事して、そん時、思いっきりご馳走してくれへん?」


 少し困った顔をすると、


「他の男と食事したりしたら怒る人が・・・ 西村さんなら・・・ おるよな。 

今日は誘ったりして、ごめん・・・」


 ヒロシが、神妙な顔をしている。


「違うの、最近、ちょっとサイフのピンチが続いとって・・・」


「誕生日やからって、豪華なレストランやなくても、ここでええんやけど。

ファミレスでも・・・アカンやろか?」


 ここなら、たぶん大丈夫・・・ 


早智は首を横に振って、また会う約束をした。


(三)


 早智は高校のとき、同じ中学出身で、同じ水泳部、一年先輩の優斗と付き合っていた。


 高1の春まで、『中島先輩』と呼んでいた。

その夏休みが終わる頃、学校以外では『ゆうちゃん』と呼び方が変わった。


 そんなウワサは、一気に広まった。

彼は人気者だったし、わざわざ高2の女子達が、水泳部の練習を見に来て、ウワサの彼女を確認していった。

彼は迷惑そうにしていたが、早智は恥ずかしい反面、祝福されているような気がして嬉しかった。


 彼の女性関係は硬派で、アプローチされても『俺、カノジョいるから』と、数ある誘惑には          乗らないでいるらしい。


「もったいねぇんじゃなぁ。ちぃとは、俺にまわして欲しいよ!」


 彼の友人が教えてくれた。 彼は笑っていた。

 

大晦日の夜から、二人だけで最上稲荷まで初詣。

短い3学期が終わって休みに入ると、親には水泳部の冬季合宿と偽って、二人だけでスキーに行った。


 その度に、同じ水泳部で中学校からの親友、ミチコに協力を仰いだ。

「うちにも、中島先輩の友達とかで、とびっきりカッコイイの紹介してくれなきゃだめよ!」


 二人の仲は順調に、誰もが認める二人になった。


 早智が高2で彼が高3、県大会予選も終わって水泳部を終了し、受験勉強モードに入った彼に気を使い、   早智は、2人で逢うのをガマンしていた。


 早智の誕生日には、電話をくれた。 『今日だけは特別』と、2時間も付き合ってくれた。


クリスマスの夜、部屋の窓から顔を出してくれた彼と、少しだけ言葉を交わした。

「来てくれて、ありがとう! 早智の顔が見れてうれしいよ・・・」

 それだけでも早智は満足だった。

 * 


  別れは訪れた。 早智にとって、人生の中で最悪の年が始まったのだった。


  年が明けて、神妙な声で 『会いたい・・・』と電話があった。

いつもの彼らしくない、沈んだ言葉。


「何?」


「いや、会って話す・・・」


 何か、いやな予感がまとわりつく。


  外は、雪が舞っていた。

早く、この得体の知れない、胸の中のもやもやを拭い去りたい。

早智は、傘も持たず、足早に彼の家に向かった。


 彼の家のすぐ横、大きな桜の木がある小さな公園、彼のさすビニール傘の下にいた。


「卒業したらアメリカに・・・留学することになった・・・」


 京都の大学を、目指しているはずじゃなかったの?・・・ 



 早智も、高校卒業後は、京都か大阪の、保育の大学へと進路を考えている。

小さい子が好きだったし、漠然とだけれど、保育園の先生に憧れていた。

でも、本当は彼の近くにいたい思いの方が大きかった。


 建築会社を経営する彼のお父さんは、口癖のように『若いうちに世界を知っておけ!』と。

無事大学に入ったら『一度は留学するよ』と返事を濁していた彼は、在学中の夏休み、観光がてらの       短期留学にでも行けばいい、と考えていた。

それよりも、目前に控えるセンター試験を前に、そんな言い合いすら時間が惜しい。


 しかし、彼は甘かった。


「夏までは、語学学校でひたすら英語を学び、秋からMBAを目指しなさい。

将来の目的もなく京都で下宿して、女にうつつを抜かしてブラブラ遊ぼうなんて、金は出さん!」


 この年末、ほとんど命令に近い話になったのだった。

彼のお父さんは、手際よく、留学の手配を知り合いに依頼して、急転直下、彼のアメリカ行きが         決まってしまった。


「そんな大事なこと、なんでもっと早く教えてくれんかったの・・・」


 悔しかった。 でもそのあとの方が、もっと悲しく辛かった。


「何年行っとるか分からん・・・ 待っててくれんでも、ええよ・・・」


 目を合わせてくれなかった。


「それって、どういう意味なん? 新しくカレを作れって事? 」


 声が震えているのが、自分でも分かった。


「・・・・・・」


彼の背中が、小さく丸まっている。



「『待っとけ!』とは言うてくれへんの?

『高校出たら、お前もアメリカに来い!』って、そうは言うてくれへんの?」


「・・・ ごめん」


「なんで、謝るん? うち、待ってる。ゼッタイ待ってるから!」


「・・・・・・」


「アメリカだってケータイ使えるんでしょ? 毎日メールするわ。 

電話もする。 うち、手紙書く。 住むとこわかったら教えて・・・ ぜったい!」


 涙声になっていた。


「ああ、わかった・・・ そうする・・・」



 何かを、あきらめたような返事だった。 雪は、冷たい雨に変わっていた。



「帰るね・・・」


「傘、持って行き」


 彼は、ビニール傘を早智に手渡すと、振り向きもせず、小走りに家に入っていった。




 また、雪になればいい。 高く積もればいい。

何もかも、真っ白になってほしい・・・ 


 今日の出来事は、全て、無かった事にしてしまいたかった。












* 


 それから早智は、無理に明るく振舞っていた。


 もうすぐ、アメリカへ行ってしまうのに。


 電話をしても会話が弾まない。 重たい無言の時間が訪れる。 空回りしている自分が惨めだ。


 彼の心を、繋ぎとめておかなくては。

 

焦れば焦るほど、2人の溝が深まっていく。


 以前のように、いっぱいキスして欲しい。抱きしめて欲しい。

彼からは、何もしてきてくれなくなった。


 でも、口に出して不満は言えなかった。

言ってしまったら、取り返しのつかないことになりそうな気がした。


 実力を測るために、センター試験は受けていたが、大学受験が無くなったのだから、きっと時間はあるはずだ。

でも彼は『準備が忙しくて』と、できるだけ2人だけで逢うのを避けているように感じる。


 早智も本当は、2人だけになる時間が怖い。

もし、改めて、別れをきっぱりと宣告されたら、生きていけない気がした。


 卒業式の後も、送別会も、旅立つ日まで、カノジョとして横にいた。

笑顔でいる以外、どんな顔をしていればいいのか思い浮かばなかった。



 関空まで、来てくれなくてもいい・・・ と言われていた。


 彼のお母さん、友達たちと一緒に、岡山駅まで見送りに行った。


 気を利かして、二人きりにしようとしてくれるミチコにも、

「ええの、うち、大丈夫」


 彼は、あっけなく旅立ってしまった。

 新幹線が出ていった。 涙も出ない空っぽの女が残された。


 彼のお母さんが別れ際に、

「色々、ごめんね・・・」  

すまなそうに一言声をかけてくれた。


 『もう、ゆうちゃんとは逢えなくなるかもしれない』


重たすぎる予感、押し潰されそうになった。

空っぽの早智の中、いったい何処にあったんだろう、熱い涙が溢れてきた。


 崩れ落ちてしまいそうだ。


 ミチコが支えてくれなかったら、そこから少しも動けなかっただろう。


*  


 大丈夫だと、信じていたかった。


 ケータイは、使えるはず。 

でもメールが、送信できない。アドレスを、変えたんだろうか・・・


 夜中まで起きて、ケータイへ何度電話してみても、繋がらないことを教えてくれる、            事務的な女性の声のメッセージが流れる。


返事の来ないエアメール、本当にゆうちゃんまで届いているんだろうか?


 自分の拙い英語に緊張しながら、聞いていたホームステイ先の電話番号へ国際電話をかけてみた。

しかし、ゆうちゃんまで繋がらない。

 でも、確かにそこに、ゆうちゃんが住んでいることだけわかった。

それだけ、それだけわかっただけでも、涙が出た。



一ヶ月ほどして、アメリカからエアメールが届いた。


『やっと落ち着きました・・・

… 僕には、日本に君を彼女としてキープしておいて、というような器用なことはできません。

いつ日本に帰れるかわからない僕に、君を付き合わすわけにはいきません。

ごめんなさい、これではきれいごとすぎる。 僕は卑怯者です。

正直に言うと今の僕は、新しい生活でいっぱいで君の事を考えている余裕がありません。 ごめんなさい。

こっちに来る前に、もう一度ちゃんと話しておくべきでした。

でも僕にはできなかった。

日本にいる間は君と別れるのが怖かった。

 僕のわがままです。 

君に迷惑をかけたこと謝ります・・・』



『君』って、誰に出してるつもりなの・・・ 他人行儀な文面が痛かった。



 ゆうちゃんは、もう、早智なんか、いらん・・・?


彼は、早智なんかと関係のない、新しい道を歩き出している。



『早智は、ゆうちゃんの重荷になっているのがつらいです。 早智のことは忘れてください。 さようなら 』


 これだけ書くのに、ずいぶんかかった。 涙が止まらなかった。

 郵便局でエアメールをお願いするときだけ、涙が溢れるのをガマンした。


郵便局を出たらまた、涙が止まらなかった。



 ミチコに、手紙の話をした。 一緒に泣いてくれた。

 少しだけ、すっきりした。


 それから一年、色あせた冷たい校舎に通った。


 夏休みに、アメリカに遊びに行った彼の友人がいたらしく、向こうに、もう別のカノジョが          出来ているとウワサが流れた。


 水泳部だけは、最後までやり遂げとげたい。 県大会予選も、一生懸命泳いだ。


予選通過まで惜しかった昨年の自己ベスト。今年のタイムは、それに到底及ばなかった。

親身になって、早智の泳ぐフォームをチェックしてくれていた彼が、もういないからかもしれない。


 でも、水泳をやっていてよかったと思う。

ひたすら泳いだことで、自分の気持ちに区切りがつけられたような気がする。



 保育関係の大学への進学は、彼がいなくたって目指していたはずだ。

大阪の大学を受けることにした。 両親は反対したけれど、早智の意思は固かった。


       *


 大阪に来て、初めての夏休み、岡山には帰らなかった。


 備え付けのエアコンが、連夜がんばっている。

そんな早智の部屋に、ミチコが泊まりにやってきた。


 天王寺の子供服屋のバイトが終わる時刻に待ち合わせ、近くのコンビニで弁当とお茶だけ買って、      まっすぐ早智の部屋に来た。

ミチコはたった2泊だけのはずなのに、大きなバッグを抱えている。


「ええなあ、一人暮らし。憧れるわぁ!」


 早智の部屋を見回しながら、ミチコは嬉しそうだ。


「都会だし、出会いもいっぱい? ええことあった?」


「毎日、忙しくて・・・ 何も」


「もしかして、男避けてる? まだ、先輩に未練あったりするん? 

あれっ、変なこと言うてしもた? ごめん・・・ 」


「そんなんやない。

ほんま、日々の暮らしに追われてるって感じかな」



 明日のスケジュールは、ミチコに予約されてしまっていた。


【次の日、一日空けとってね。どっか連れてってくれる? 

大阪の名所。 ええ男がいるところ、探しとってね!】


 友達が遊びに来るのでと、明日のバイトは休みを貰っていたけれど、何処へ連れて行っていいのか、     いい男がいるところなんて早智には思い浮かばなかった。



「そんなこったろうと思った。

さっちゃん、大阪へは水着持ってきてるん?」


 競泳用のやつだけど・・・ 

水着を使う授業を取るかもしれないと思って持ってきていた。


「ジャラジャラするんじゃなくて、本格的にバシッと泳ぎに行こうよ。

うち、持ってきたんだ!」


 ちゃんと調べてきたんだ・・・ 


大きなカバンから、パソコンからプリントアウトしたらしいA4の紙と、大阪のガイドブックを取り出した。


「『大阪プール』って競泳用のプールがあるらしいん。

その後、ここのたこ焼き屋へ行くの。たこ焼きでビールといきたいところね・・・ 」



 見せてくれたガイドブックには印がついてあった。


「お酒飲むん? まだ、未成年なのに・・・」


「本当はもうお酒だって、練習しとかなきゃアカンのやろね。

これから大阪で、女一人で暮らさなあかんのやから!」


「大阪って怖いとこよぉ。 ナメたら痛い目にあうわ・・・」 

ミチコは訳知り顔でうなずく。


「どっちが、大阪に住んでんか、わからんね・・・」



 二人、顔を見合わせて笑った。



* 


 早智は、大阪へ出てきてすぐ、天王寺の子供服と輸入玩具を扱っているお店で、アルバイトをはじめた。


『普段は、授業が忙しくてなかなか入れないけれど、日曜とか、ゴールデンウィークとか、夏休みも       お盆にもフルに入れます!』というと難なく採用された。


 『仕送りなんかいらん、バイトしながら頑張るから!』と言って、大阪に来た。


 それでも、両親は毎月仕送りしてきてくれた。

仕送りで、学費と部屋代をまかなっている。でもそれを除けば、僅かしか残らない。

今更、親に足りないと甘えるわけにも行かず、せっせとバイトする。


 秋に、ガイドヘルパーの資格を取ってからは、ヘルパーのバイトを優先するようにした。

『辞めさせてください』というと、やり手の女性店長は残念がっていたが、


「忙しい時だけ、短期でもお願い。 声かけるから!」手を合わせて拝まれた。


結局、年末や初売り、バーゲンと、店長にしっかりスケジュールを確保されてしまった。


 大阪に出てきて、瞬く間に1年が過ぎた。


毎日が忙しい。クタクタだ。

こんなんで、ミチコが羨むようなカレシなんか、出来るわけがない。











(四)

 


「二十歳。成人おめでとう、やね!」


 ヒロシとは、約1ヶ月ぶりに顔を合わせた。


 ファミレスで一応小さなケーキを頼んだ。


 早智は、プレゼントを用意していた。 ブードゥー人形という、糸をぐるぐる巻いたタイのお守り。


 ほのちゃんのママが、ケータイにつけていた。

「パパにもらったの。これ売れてるんやって」


 言われて、注意して見てみれば、色々な店に並んでいた。

ヒロシには、アラジンのような格好をした『幸運』と書かれたやつを選んだ。



「女性からプレゼント貰うやなんて、初めてや」


 さっそく、ケータイにぶら下げている。 サンタさんに頼んでいたおもちゃを、クリスマスの朝に      発見した子供のようだ。

ヒロシの屈託の無い笑顔に、心が和まされる。


 長い間忘れてしまっていた、無邪気な感慨に浸ることができた。

重たかった鎧が消え、体が軽くなったような気がする。


 岡山を離れての一人暮らし、大阪でミチコほど心許せる友だちは未だ無く、孤軍奮闘している自分を省みる。

改めて、今まで装着していた鎧の重さに驚かされた。

 今日も身構えることなく、自分の話ができたし、誠実に話を聞いてくれるヒロシといる時間は、とても気持ちがリラックスする。


 この日から、マメに連絡を取り合うようになった。

ヒロシは、『さっちゃん』と呼ぶようになった。早智は、『ヒロシクン』だ。


 ヒロシは、夏休みでも大学の研究室が忙しいし、早智も実務研修や、バイトが忙しく

会う機会は少なかった。

早智は、ヒロシと会える僅かな時間を待ち遠しく思うようになっていった。

会えない時は用事が無くても、早智の方から頻繁にメールを送るようになった。


* 


 その年、街が、そろそろクリスマスの電飾で、きらきら輝きだした頃。



「ごめん、遅うなってしもて」


 それでも、大学を抜け出して来てくれた。


 2人で、遅い夕食をとった。

初めて食事したいつものファミレス、特別にグラスワインをふたつ頼んだ。


 早智は、今日から20歳だ。


 「おめでとう!カンパーイ!」


 ヒロシは、ケータイと、早智がプレゼントしたブードゥー人形を首からぶら下げていた。


「それ、ええね。丈夫そうやし」

ヒロシのネックストラップを指差した。


「そう、ハイこれ。 誕生日おめでとう・・・」

と、ポケットから小さなリボンシールの付いた包みを取り出した。


「開けてもいい?」


ヒロシは、うなずいた。


 包みを開けると、ヒロシが付けているのと色違い、ハンプのネックストラップだった。


「これと、お揃いなんや」


 ヒロシは、首からかけたストラップを持って、細かく振った。


「バイトの時に、

『IDカードとかケータイはいつも、首からかけてんねん。その方が、両手、空くし』って、           前に言うとったから・・・」



憶えていてくれたん・・・ 


ありがと。




* 


 電車の中で、再会した時の話になった。


「あの日、僕は電車乗った時に、すぐ気付いとったよ。

ほのちゃん、かわいかったなぁ。

ほのちゃんの無邪気な目で見つめられると、何も隠し事できんような気がした」


 早智は、かわいいほのちゃんの事、そして、大好きなほのちゃんのママの事を、熱心に話した。


「ほのちゃんとは、『同志』みたいな感じなん。

 ほのちゃんも、当然ママのことが大好きだから、『ほのちゃんのママ』を大好きなもん同志、分かり合えてるっていうか、通じるものがあるん!」


「じゃあ僕も、ほのちゃんと『同志』なのかもしれん・・・」

ヒロシはもじもじして、顔を赤らめている。


えっ? なんで・・・ 言っている意味が、飲み込めなかった。


「さっちゃんを大好きなもん同志。

さっちゃんは、高校の頃から憧れの存在じゃったから・・・

 ほのちゃん、それに気ぃついて、僕のメガネ取って、さっちゃんと話できるように・・・

お膳立てしてくれたんや! きっと・・・」

 ヒロシの顔がますます真っ赤になっている。ワインのせいだけではない。


「お膳立てって・・・ あんまり使わんよね」

 照れくさくて、どうでもいい指摘をしてしまった。


「電話番号聞いてくれた時、飛び上がりそやった。

僕にとっては、一世一代の大勝負で食事に誘ったんや! 平静を装うのに苦労した。

興奮して声が上ずっとったら、嫌われるかもしれんと思て、頑張ったんやヮ・・・」


 ヒロシが、いつになく、熱い直球をガンガン投げてくる。

早智は、しっかり受け止めたいと思った。

      * 


「部屋に行ってもいい?」


 店を出て、思い切ってヒロシに言った。


「ワイン初めて? 一杯だけだったけど、酔った?

原付じゃもんね、醒めるまで、ちょっと、休んでくとええよ。何にもないけど・・・」


 ちょっと、肩すかしの返事。

赤かった顔も、すっかり元に戻って、いつものヒロシになっていた。


「ほんま、何もない部屋。 きれいに片付いてるんやね」

 大学の難しそうな本と、『邪馬台国』『卑弥呼』等がタイトルに含まれた本が並んだ本棚がある。 

簡素な机と、ノートパソコン。

14インチのテレビと再生専用のDVDデッキ、小さな冷蔵庫と電子レンジ。

小ちゃな掃除機、折りたたみ式のベッド。どれも、安価な感じだ。

 部屋は、とてもきれいに整頓されていた。



 男の人の部屋って・・・


男の部屋といっても、ゆうちゃんの部屋と、弟の一樹の部屋くらいしか知らないが、            どちらも、マンガだとか、CDだとか、ガンダムとかが散らばっていた。



 話は、ガンダム好きの、今度高校生になった一樹の話になった。


「結構、プレイボーイみたいなん」

 噂を聞いたミチコが、教えてくれたことがあった。





* 


「今夜、泊まっていってもいい?」



「酔いさめん? コーヒーでも入れようか?」


 鈍感というか、ちょっと奥手すぎるよ。


「ヒロシと、一緒にいたいん!」


 言ってしまった。

恥ずかしさを紛らわすために、少し怒った声になってしまった。


 ヒロシは、驚いた顔をしていた。 


 早智は、目を閉じた・・・  やっと、ヒロシは唇を重ねてきた。 

*  


 その晩、早智はヒロシの部屋に泊まった。


 ヒロシは、ぎこちなかった。

マイペースで手際の良かったゆうちゃんとは、全く違う。

別の行為と言ってよかった。


 でも、とても丁寧だった。神聖な儀式のように愛してくれた。


 2人並んで横になっているシングルベッドの上、ヒロシがつぶやいた。


「こんなに恵まれてて、ええんじゃろか?・・・ 」


 2人の仲が、こんなに急に進展するなんて、とても想像できなかったらしい。


「なに、言うてるん?」

 早智は、そんな不思議そうな顔に、しっかりキスをしてやった。

そのキスに反応して、ヒロシのがまた、元気になった。


*  


「いつも夜遅うて、急に大学に泊り込む時もあるし、バイトとかで無理させとうないから」

 ヒロシの提案だった。一緒に住んだりはしなかった。


早智が、たまにヒロシの部屋に泊まるようになっただけで、2人が会うペースはさほど変わらない。


 ただ、早智は『ヒロシ』と呼ぶようになった。 







(五)


 大阪に出てから、早智は、ずっと実家に帰っていない。

さすがに成人式の時は、晴れ着や美容院の予約までしてくれた両親が、


「まさか、帰ってこねぇつもりじゃ、ねぇじゃろな!」

 脅され、懇願された。


「交通費も出すから!」 喜んで帰省した。


*  


 地元の短大に入り、父親のコネで早々に地元の金融機関に就職を決めていたミチコと、久しぶりに      会う約束をしていた。


 ミチコとは相変わらず頻繁に、メールや電話のやり取りをしている。

でも、ヒロシとの事は、『大阪で会った』としか伝えていなかった。


「あんなんと、おぅたん? オハライしとかなきゃ!」


 先に、そう言われてしまって『イケてないメンズ』との交際を言いそびれてしまっていた。

初めてヒロシとの事を報告した。


ミチコの顔が、ビックリマークになった。


「なんか、もったいないなぁ・・・」


 あいつなんかに・・・ と言いながらも喜んでくれた。



「今、私ここんとこ、ずっとカレおらんから・・・ 

うちの分も、その、ほのちゃんにお願いしてみてくれる?」



*  


 ヒロシは、成人式には帰らなかった。


「もう、住民票こっちだから・・・」

 結局、大阪でも式には出なかった。


 ヒロシの実家は、小さな薬局だった。

ヒロシが中学のときに亡くなったヒロシのお父さんに代わって、ヒロシとは年がひとまわり以上離れた    お兄さんが跡を継いで、お母さんと奥さんとで切り回していた。


 甥っ子は、もう来年小学生だ。


 将来戻る家もないので、大学進学をいい機会に大阪に出た。 薬剤師は目指さなかった。


両親が歳を取ってからの子で、歳の離れた兄にも、かわいがられて育った。


 ヒロシが放つイケてない感じも、醸し出す不器用なぬくもりも、家庭環境によるところが大きいんじゃないかと早智は考える。



 ヒロシのお兄さんは、毎月仕送りを律儀に送ってきてくれている。

お兄さんはお兄さんで、ヒロシを追い出してしまったと、引け目を感じているのかもしれない。












(六)



「去年もここで、お祝いしてくれたね」



 いつものファミレスだ。 ヒロシの誕生日。 今年もケーキを頼んだ。



「なんか能がない感じだけど、カッコつけんでも、ええよね。

まあ、うちらにとっては、ファミレスも贅沢な方やもんね」


「僕は、いつも同じファミレスでも嬉しいけど。 『継続は力なり』って言うし」


「それ、なんか違う感じ・・・」



「ねえ、夏休み、旅行に行かへん?」


「1泊ぐらいだったら何とかなるかな。あんまり遠いとことか、高いとこダメじゃけど。

どっか行きたいとこあるん?」


「一緒に、一度岡山へ帰らん?」


「えっ?」


「実家のお兄さんに紹介してよ。

カノジョ出来たって、自慢しに帰ろうよ。

岡山に随分帰ってないでしょ」


「なんや、旅行って、岡山に帰るだけか・・・」


「そう、泊まりは別々、でも宿泊費はタダ、うちも、たまには親孝行しなきゃ!」


* 


 帰省には、バスでなく新幹線を使った。

 仕送りの入金がいつもより多かったので、電話して聞いてみた。


【切符代だよ】

 甘えることにした。お母さん、ありがとう。



【1晩だけしか駄目なん? 父さんが『なんでワシが仕事でおらん日にするんじゃ!』って怒ってたんよ】


「夏休みは、実習とか、ガイヘルの仕事で一杯なん」


【あんたが頼りにされてんなら、せぇも、しゃぁないねぇ・・・】 それでも母さんは、声が弾んでいた。


母さんの声を聞いたら無性に家が恋しくなった。


* 


 最初に、駅前の商店街、ヒロシのお兄さんの店に顔を出した。


「早智さん。よく、こいつを連れて帰って来てくれたね。お袋も喜ぶと思うよ!」


 奥さんも優しそうな人だ。温かい笑顔で迎えてくれた。


「お袋、家で首を長ごうして待っとるよ。 はよぉ、行ってやんな!」


 ヒロシの実家には、ヒロシのお母さんと甥っ子が待ち構えていた。

玄関チャイムを鳴らすやいなや、甥っ子の、タケシ君が飛び出してきた。


「父ちゃんが、店にも顔出ぇて欲しいって。ヒロシおじちゃんじゃのうて、恋人のさっちゃん!」

 タケシ君に、ませた口で言われて、ヒロシは赤面している。


「お店は、さっきのぞいて来たわ。 ありがと!」


「3年ぶり・・・やっと帰ってきおったわ。女の子まで連れてるし。

ヒロシが、女の子を家に連れて来るやなんて、初めて・・・」

ヒロシのお母さんは、涙を流さんばかりだ。


「スイカが好きじゃて、聞いとったけん!」

 大きな1玉を、丸々冷やしてくれていた。


「悪りぃ事しおったら、ちゃぁんと、叱ってやってね!」


 んなこと、するわけないじゃろ・・・ 

ヒロシは、むきになってお母さんに言い返していた。


『よかったら晩御飯も・・・』と言われたが、今日は家に戻りますんで・・・ と辞退する。


 ちょっと、残念そうな顔をして、

「そちらのお母さんじゃって、首を長ごうして待っとるよね。 引き止めたらダメじゃね」


 また、遊びに来てつかぁさい・・・ 

ヒロシのお母さんは、深々と頭を下げた。


「ごちそうさまでした。 ありがとうございました」


「明日朝、迎えに行くけん」

ヒロシが耳打ちした・・・ うん。



「ヒロシと仲良うしたってね、ずっと・・・」

 帰る背中に、ヒロシのお母さんの祈るような温かい声。


早智は振り返って微笑んだ。 


 ヒロシを連れて帰ってきて良かった。 本当に良かった。


* 


 駅に戻って電車で2駅、早智は実家へ向かった。


駅からの帰る道筋、『中島』の表札の前を通った。

高3の通学の時は、その道を避けていた。 成人式で帰省した時もまだ、通る勇気が無かった。


 近くの公園、大きな桜の木から降りかかる、セミの声のシャワーに包まれた。


 大丈夫だった。 全然、大丈夫だった。


もし今『中島先輩』が家から出てきても、きっと笑顔で『久しぶり!』くらい言えそうだ。 



 今頃、どうしてるんだろう・・・ でも、どうでもいいと思った。

ただ彼らしく、何処かで頑張っていてくれれば、それでよかった。


      *


「一樹、ずいぶん女の子泣かしてるみたいなんよ。早智からも、ちょっと説教してやってね!」

母さんが、一樹の浮気性を心配している。


家に連れて来るカノジョが、コロコロ変わるらしい。


「まあ、モテナイより、ええんやない?」



「あんたも、大阪で変なのに引っかからんでよ」


「大丈夫。一樹みたいなんは相手にせんから。明日、ちゃんとカレシが迎えに来るけんね」


「岡山まで来るんかい? まさか突然、『お嬢さんをください!』って言うんじゃねぇじゃろね!」


「違うの。高校の時のクラスメート。 カレも今、岡山に帰ってきてるん」


 なんだ、手ごろなところで間に合わせてるんだ・・・ 一樹がチャチャを入れる。


「チャラチャラした、あんたなんかと違うん!」

一樹をひと睨み、


「一樹、あんまり女の子の気持ち弄んでたら、今にシッペ返し喰らうんよ。

殺されんように気ぃつけや!」



 夜、ミチコが来た。


パジャマと着替えと洗面道具も持参だ。 キーンと冷えた缶ビールも数缶持ってきていた。


「今夜は、寝かさへんよ!」



*  


「それじゃあ、ヒロシさんによろしくね」


 翌朝、ミチコは何事もなかったように西村家から出勤した。



 しばらくして、ヒロシが迎えに来た。


玄関先で母さんに紹介した。


一樹も玄関に出てきた。 変に緊張して挨拶していた。

「こんな姉貴ですけど、よろしゅうお願いします」


 ヒロシは家には上がらずに、早智もそのまま、大阪へと出発した。



*  


「あの辺も、ずいぶん変わるらしい・・・」


 電車の窓から見渡せる田んぼの中、その見慣れた田舎の景色に、いささか不釣合いな建物群が出現していた。

山の稜線さえ見下している入道雲に、果敢に勝負を挑んでいる。

 

昔、国道沿いにポツンとあったスーパーが、以前の10倍位の大きさに建替えられ、              そのスーパーと駐車場を共有する、そのスーパーのさらに3倍位ある巨大なホームセンターが聳えていた。


その並びに、ハンバーガー屋や、DVDレンタル屋の建物もオープンを待ち構えている。

その近くにまだ、電気屋、牛丼屋、紳士服屋、本屋、そしてドラッグストア等の出店計画が目白押しらしい。


 へー、そうなん・・・ 


ヒロシの説明を、軽く受け流して聞いてしまった。



「おかげで、駅前の商店街が、対策に苦慮しとるらしい」


ヒロシの実家の店は、その商店街だ。




「大学院まで進むんは、無理かもしれんな」


 視線を、オープン間近のDVDレンタル屋の車内広告に移して、ヒロシは、深くため息をついた。








(七)


 早智も、ヒロシも、もうすぐ4回生になる。


 早智は在学中に、ガイドヘルパーのほかに保育士の資格も取っている。 

だが、今の不況で、大阪で正社員としてのまともな就職は競争率が高く難しい。

実家に話せば、当てにできそうなコネもありそうだが、今、岡山には戻りたくはなかった。


「卒業しても契約社員の形でよければ、ヘルパー、このまま続けて欲しいな」

 『ぼんご』の三島さんは言ってくれている。


 契約社員で給与は安いけれど、一応保険は利くらしいし、やりがいがある仕事だから           『ぼんご』で続けていても良いのだが、早智には働きたい場所があった。

『徳心園』という、発達障害児のための保育施設が、来年度新卒を募集していた。

秋に採用試験がある。

 

『ぼんご』を利用する子のうちにも、『徳心園』の子がたくさんいた。

ほのちゃんも、そのうちの1人なのだが、ほのちゃんのママが絶賛している保育施設だ。

他の『徳心園』に通っていた子の保護者の方からも、みんな、感謝の言葉は良く口にするけれど、        悪口を聞いたことがない。


ただ、通っている大学での評判は、

『とにかく仕事がきついので、同じ給料なら普通の保育園の方がずーっといい』と、人気は低かった。


 でもきっと、やりがいはあるはず。


『ぼんご』の三島さんは、早智の希望を聞いて、

「さっちゃんなら、きっと受かっちゃうだろうな・・・」

 残念がっていたけれど、

「でも、『ぼんご』での事が、きっと役に立つはず!」

とも、付け足してくれた。


「万一、落ちたら、いや、辞める事になったら、また、戻ってきてね!」


*  


 3月の初め、ヒロシは、世間では名の通った会社の就職内定を、あっさり決めてきた。


「僕に、営業なんてできるんかな・・・車の免許も取らんと」


 営業マンにもかなりの専門知識が必要な職場らしく、配属予定の部署は、理系出身者ばかりらしい。


 ヒロシの内定が決まった時、


「すごいやん! お祝いしなくちゃね!」

 早智は、単純に喜んだ。


「ヒロシ、誠実な感じやから、営業の受けもええんやない!」


 うん、まあね・・・ 

ヒロシは、他人事のようにブルーな感じだ。

* 


 春休みから、ヒロシは自動車教習所に通いだした。内定先から指示があったらしい。

3ヶ月かかって、ようやく仮免にこぎつけた。


「運転、僕には向いてねぇな。これから、ずっと仕事で車乗るのかと思うと・・・

仕事より、運転だけで疲れてしまいそうや」

 あまり運転センスは無い様で、路上教習もまだまだ時間がかかりそうだ。


「運転なんて慣れなんやない? じきに慣れてナンてことなくなるよ、きっと!」


 また、憂鬱そうな顔だ。

そんな顔されると、早智にまで、どよぉ~んとした気分が感染してくる。



「そうだ、今度のヒロシの誕生日は学校もバイトも休みにするから、ユニバーサルでも行こうか?」



 2人とも大阪に来て、まだUSJに行ったことがなかった。

お金も時間もない2人だから、2年も付き合っていたのに、丸1日どこかで、のデートは           数回しかない。


ヒロシの趣味に合わせると『邪馬台国』がらみで、まあ、お金は掛からないけれど、             早智にとってはツマラナイ。


「気晴しに、パーッと遊びに行こっ! 一度くらい行ってみようよ! U・S・J」









* 


 大阪で、劇的にカッコいいカレシと、結ばれるかも知れない。


大阪へ来たばかりの頃、ミチコにそう言われてから、早智は一応御守のように、いつもコンドームを      持ち歩いていた。

だが、初めてヒロシの部屋に泊まった夜、それは必要なかった。

ヒロシは、一度も女性とは付き合ったことが無かったはずなのに、部屋にコンドームをちゃんと備えていた。

今も、冷蔵庫の一番奥にしまっている。



「大阪に出るとき、『備えあれば憂いなし』って、兄さんが店のやつ持たしてくれたんだ。

卒業するくらいまでやったら、消費期限は大丈夫」


 そんなのに、そんなんあるの・・・知らなかった。


 ヒロシはずっと、その度に、ちゃんと避妊してくれていた。

ところがこの前、コンドームをつけない夜があった。


「ああっ、忘れとった、ゴメン、ちゃんとせなな・・・」


 避妊を忘れるなんて、ヒロシらしくない。 おかしい。


 就職の内定が決まってから、変に陽気だったり、ぼんやりしていることが多くなった。

早智の話を、いつも、しっかり受け止めてくれていたヒロシなのに、最近『えっ、何じゃったっけ?』と、     聞き返すことが増えている。


 気が進まないんなら、内定断わって大学院に進んだら?・・・ だめなん?



「もう兄ちゃんには、迷惑かけれんからな・・・」


 今も奨学金を受けてはいるが、バイトは、たまの休みに出来る短期を探すだけ、生活費は、ほとんど      お兄さんの仕送りからまかなっていた。


 実家の近く、国道沿いにドラッグストアが、ついにオープンした。


『うちは、処方箋中心じゃけん大丈夫、気にするな』

 お兄さんはそう言ってくれているが、ヒロシが小さい頃から通っていた店近くのよく処方箋を出す医院、   先生はもうすっかりおじいちゃんで、後継ぐ人がいないそうだ。

化粧品や生活用品も、厳しくなるだろう。


 今までの仕送りでさえ精一杯なのは、ヒロシには痛いほどわかっている。









(八) 


【明日の夜、合コン、いってもええかな?】


 授業終わりのベルを待っていたかのように、早智のケータイが鳴った。

ヒロシからの電話だ。

ヒロシと同じ会社に内定が決まった人から『親交の意味も込めて!』 と、お誘いがあったらしい。


『マメそうなやつだった・・・』まだ学生なのに、自分の名刺を配っていたと。


「別に。行ったら、ええやない」

 ちょっと嬉しそうなのが、気に入らないけど。


「次の日、USJだからね。 あんまり飲みすぎんでね」


【女房妬くほど、亭主モテもせずってね】

 そっちの方は、これっぽっちも心配してへんよ。バカみたい。


 ヒロシとの通話を終えたら、またすぐ、ケータイが鳴った。

今度は『ぼんご』の三島さんからだ。


【さっちゃん、突然だけど、アサッテ入れない?】


明後日って・・・ ヒロシの誕生日の日だ。


「授業は入ってませんけど、でも・・・」


【昨日、ほのちゃんのママが『めまい』で倒れたらしいの。

救急車で運ばれたんだって。

今日も、まだチョイチョイあるらしくて。

明後日、大学病院でCTとかの予約がとれたから徹底的に検査したいって、ほのパパが 】


三島さんの、いつもの早口だ。



【で、学校へ迎えに行って欲しいの。

学校へは『ガイヘルさんが迎えに行きます』って連絡しておいてくれるって。

ほのちゃんのランドセルの脇に、家のカギぶら下げとくんで、

で、家の玄関に着替え置いてあるから着替えさせて、行き先はお任せ。18時くらいまで】


三島さんは、一気にそこまでしゃべると、息をついた。


「ちょっと、メモします、時間とか。もう一回お願いします」


 三島さんとの電話は、いつもこんな感じ。 寄り切られて、早智の負け。



 合コンとか言って、案外楽しそうな声やったし・・・ ヒロシごめんね。


ほのちゃんママの一大事やから、許してね。


*  


 その日の夜だった。


 せっかく、休みとれたのに・・・ 

ヒロシは、USJ行きが流れてさすがに膨れっ面だ。


「僕って、ほのちゃんには、かなわんのかな・・・?」


 そんな、ほのちゃんと比べてどうするん・・・ 次元が違うやない。



「初の合コンデビュー、明日、しっかり遊んでくれば!」


「そうやって、カノジョに励まされるってのも、情けんよなぁ・・・」

 そう言いながら、いつになく乱暴に覆いかぶさってきた。


・・・・・・・・・・・・・・・ 

・・・・・・ 確信犯だった。 避妊してない!


 許せん。 子供できたらどうすんの?

ちゃんとしてって 前にもお願いしたわ。


「・・・・・・ ああ、ごめん」


なんで!・・・ 

『ちゃんとせなな』って、言うとったのに。


「・・・・・・」 


 なに、ポケーっとしとるん! 無性に腹が立ってきた。


「うち、ずるずると、できちゃった結婚なんてやよ! ゼッタイ、いやっ!」



 ヒロシは、黙っている・・・何も言えへんの。卑怯者!


「もう、終わりにする!」


早智は、さっさと服を着た。


「就職が決まってから、ずーっと! ひがみっぽくて、ウジウジして・・・

大学院に残りたいんやったら、借金してでも残ったらええやない! 

実家に悪いとか、子供ができて仕方ないとか、そんな理由つけて、ごまかしたいだけやわ! 

そんなんに利用されとうねぇわっ!」


 ヒロシは、パンツで前を押さえて、ボーッと突っ立っている。


「そのまますっぽんぽんで、合コン行ってきたらええねん!

その方が新しいカノジョできるんとちゃう! さよならっ!」



 ドアをバタンと閉めて、部屋を出た。


 原付を飛ばした。涙が耳の方へ流れていく。



 見損なったわ。 別れたっていい、あんなやつ。



一生、大学院に残れなかった言い訳にされたら、生まれてくる子がかわいそう。

 そんなん絶対許さない。


 もし、今日のんで赤ちゃんができたとしても、早智一人で育ててやる。





(九)


 コンビニで買ったパンで簡単な昼食を済ませ、原付を『さくら坂』のほのちゃんの家の駐車場に置き、     学校へ向かった。


 ほのちゃんは、先生と一緒に校門の前で待っていた。

原則としては保護者じゃない人間が、学校へ迎えに行くのは駄目らしいけれど、今回は特別、先生からも

『よろしくお願いします!』 と頼まれてしまった。


 ランドセルの脇にぶら下がっていた鍵で玄関を入ると、籠に入ったほのちゃんの着替えと荷物、メモがあった。


『西村さんへ 制服を着替えさせたら、一度、トイレ行かせてください。

今日、少し風邪気味で鼻ズルズルしています。よろしくお願いします。

帰り、17時30分位にT駅かK駅か、その周辺あたりなら迎えにいきますので、

一緒に乗って帰ってきてください。その頃にうかがっている携帯へ電話します。

何かありましたら今日は父親の方の携帯へ連絡ください。090-XXXX-XXXX 』


*  


「ほのちゃん、またちょっと、おハナ出てる。 拭こうか・・・」


 携帯のティッシュがもう無くなってしまった。


「ほのちゃんのハンカチ、今日はおハナ専用にしとこね。

手、洗った時とかは、早智のハンカチ、貸したげるね」


 今日は、ジャスコで過ごそうか。 


 休憩ベンチで水筒のお茶飲んだら、外出用のおこずかい使って、ラムネ菓子のクレーンゲームしようね。

ほのちゃん大好きで、いつもジーっと覗きこんでるやつ。



 雨、降らんかったらいいけど・・・


 雨の中、『さくら坂』から原付で帰るとなると、憂鬱だった。

空全体を覆う、どんよりとした雲が、だんだん重さを増したように感じる。

今にも泣き出しそうだ。


 あれから、ヒロシから連絡はなかった。早智も連絡しなかった。


 このまま、終わってしまうんかな・・・


 ほのちゃんの無垢な視線を感じた。

すると、ほのちゃんが歌を口ずさみだした。


「♪クーモーリードラー ファクーナァーアーッ」


 ほのちゃん、それ大塚愛? 音程しっかり合ってるね。 

何の曲か、早智、わかったよ。


『♪泣くなーっ』て言ってくれてるの?  ほのちゃん。


 今までヒロシと、まともな喧嘩はなかった。


 早智が、頭が痛かった時だ。

「『バッファリン』か何か無い?」


「あれは『バッファリン』やなくて、『バファリン』て言うんだ。『イブ』ならあるよ」


「人が、頭痛いのにどっちでもええやない!」


・・・そんなのを喧嘩と呼ぶなら、その程度だった。


 きつい事を言ってしもたし、それだけでも謝っとこうか。

誕生日メールだけでも、送っといたほうがいいかな。


 迷って・・・『誕生日おめでとう』 と、形だけメールした。



 あっ! ほのちゃんがおらへん!


 しまった、また油断してしまった。 どこやろ。 



 あっ、おった!・・・ 


 靴屋さんの前だ。

大人用のサンダルを履いて、ご機嫌に走っている。


 カツカツ・・・


「危ないでぇ・・・ こけちゃうで・・・」


と、胸に『おおの』とプレートをつけた優しそうな男性店員さんが、まったり注意している。


ほのちゃんは、お構い無しで、まだ、カツカツ駆けている。


「ほのちゃぁーん! 歩きますっ! 止まりますっ! ・・・きをつけッ!」


 ほのちゃんは立ち止まって、『キオツケ!』 と、小さく声を出して、キオツケをした。



 脱ぎ捨ててあったほのちゃんの靴を、先ほどの店員さんが拾って、手渡してくれた。


「すみません、ありがとうございます!」


 ほのちゃん、サンダル脱いで。こっち、靴、履いてちょうだい・・・ 


 ほのちゃんが脱いだサンダルを、店員さんに返した。

真っ赤な、キラキラのビロビロが付いたサンダルだった。


 ほのちゃんって、趣味悪いんやね。


 ほのちゃんを促して、休憩用ベンチにまた座った。


 おハナ、少し出てるよ、拭いとこうね・・・ ごめんね、早智、ちゃんと仕事するね。

 

ほのちゃんが、無垢な瞳で見つめ返してきた。


「♪アイタイッ ハラ アイニィークゥー」


 今日は、大塚愛メドレーやね。大塚愛好きなの?


 逢いたいから、会いに行く・・・


 今夜、ヒロシに会いに行こう。もう一回ちゃんと話してくる。 

そうするね、ほのちゃん。



 着信のメールが来ていた。 ヒロシからだ。

さっきの誕生日メールの返信。ほのちゃんを追い掛け回していた時、来ていたんだ。


気付かなかった。


『メールありがとう。嬉しかった。

 この前は、ごめんなさい。

 さっちゃんと、このまま終わってしまったら生きていけない。

 合コンなんか行く気になれなかった。

 ずるい自分が情けない。 さっちゃんの言う通りだ。

 子供ができてしまったほうがすっきりするなんて考えていた。

 許して欲しい。

 大学院にどうしても残りたいというわけじゃなくて、働きに出るのに自信が無かっただけだ。

 さっちゃんに言われて気がついた。 ウジウジ甘えていた、許して欲しい。

 卒業して、ちゃんと働いて、落ち着いたら結婚して欲しい。

 ぼくは、さっちゃんを一生守る。 約束する。

 ちゃんと結婚したら、今度こそ2人で子供を儲けよう。 』

『儲けよう』って・・・ なにそれ。


『そんな大事なこと、ちゃんと顔見て言って!』

と、早智はメールを返した。


 すぐケータイが鳴った。ヒロシだった。

【今、どこにいるの?】


「K駅の近所のジャスコ」


【何時ごろまでいる?】


「5時すぎ」


【すぐ行くから! 待っとって! ちゃんと顔見て言うから! 

ほのちゃんもおるんじゃろ。ちょうどいい。立会人になってもらおう。 今すぐ行くけん!】

 ヒロシは、それだけ言うと通話を切った。


 

 早智は、通話が切れた後も、しばらくケータイを耳に当てていた。

ほのちゃんが、早智を見上げている。


 立会人にされちゃうよ、ほのちゃん・・・ 

イケてないねぇ。


 ジャスコでプロポーズだって・・・ 

イケてないよねぇ。ねえ、ほのちゃん。



 雨、降らんかったらいいけど・・・


 オンボロの自転車を、一生懸命こいでいるヒロシの姿が浮かんだ。




 早智の目から涙がこぼれた。 温かい涙だった。



ほのちゃんの、つぶらな瞳が、ツーっと近づいてきて、早智の涙をハンカチで拭きだした。


 あぁ、ありがとう・・・ 


ほのちゃんやさしいのね。



「あぁっ、でもそのハンカチ、さっき、おハナ拭いたやつ・・・」























 ほのパパの2



 この春、お隣のT市にある幼稚園で、少子化での園児確保対策だろう、年少さんのまだひとつ下の      『ひよこ組』ができた。

送迎はもちろん、長時間の課外保育体制があるのも魅力で、ミノリをそこへ通わす事になった。


 6月に3歳になったばかりのミノリは、ホノカとは逆にかなり口が達者だ。

体のサイズは平均的な3歳児だが、ミノリ単独でいると『幼稚園へ通っている』のと、その喋り具合から、    大概の人に『年中さん?』くらいに思われてしまう。

門前の小僧なんとかで、ホノカに言葉を教える横で耳に入るのかもしれない。

幼稚園に行きだしてからは、ますますそのおしゃべりに拍車がかかる。


 ママの情報によると

「『徳心園』のお友達でも自閉症児の下が女の子って時、大概そうなるみたい」


 ママが、100円均一の店で『めまい』で倒れ、救急車で運ばれた時、駆けつけて来てくれて、         あちこちに電話していたお義母さんの

【ヒロコが、たおれてん!】

というセリフが気に入ったのか、ミノリは、会う人会う人に、そのセリフを言いまわっている。


それが原因かは知らないが、


「ほのちゃんのママ、大丈夫?」

 同じ班の藤本君やミユちゃんはもとより、今週の登下校は、パパが名前を知らない子まで声をかけてくれる。



「ちょっと買ってくるから・・・」


 日曜日のことだ。

ミノリとホノカとパパは、エアコンの効いた車内で、大塚愛のベストを聞きながらお留守番。


 ママがなかなか戻ってこないと思ったら、店員さんが駆けてきて、車の窓をコンコン。


「奥さんが倒れてはります・・・」


 不幸中の幸い、倒れたとき什器で腰と肩を軽く打っただけで済んだ。

意識はしっかりしていた。

救急病院で点滴をしてもらって落ち着いて、なんとかその日には家に辿り着いた。


 

その週は会社に事情を説明して、休みを取った。

月曜日からは、ママと二人、耳鼻科、婦人科、脳神経外科を巡った。


 水曜日には、ホノカをガイヘルさんに無理やりお願いして、ミノリも課外保育に入れて、          丸一日大学病院で本格的な検査をしてもらった。



が、翌日、ママと検査結果を聞きに行くと、


「特に、異常は見られませんでした。 メニエルではありません。 『めまい』の4割は、原因不明なんですよ。

 薬飲んでもらって、もし『めまい』がきたら、治まるまでじっと我慢してください・・・」


 4日間を費やした病院巡り、まことに頼りない結果に終わった。



* * 



 金曜日、小学校へのホノカのお迎えは、歩いて行った。

日差しがきつい。 学校に着いた頃には、額に汗が流れていた。 校門には、もうホノカがいた。


 今日は、いつもの楠田先生はおらず、『ふれあい学級』の澤田先生と学級担任の酒井先生に挟まれて立っている。

澤田先生は、40代半ばの大柄な女性だ。


 澤田先生が、口を開いた。

「お父さん!ご苦労様です。 お母さんの具合はいかがですか?」


「ちょっとまだ、調子悪いみたいなんで・・・」


「そうなんですかぁ!」

と、澤田先生は、少し大げさに眉間にしわを寄せる。


「わたしも、ほのちゃんのお母さんと同じ厄年の時、『めまい』で苦しんだ頃がありました・・・」


 澤田先生が『めまい』で苦しんだというのは意外だった。『めまい』で悩む人、世の中に結構いるんだ・・・


「でもね、厄が過ぎたら、ケロッと治っちゃいましたよ。お母さんも、もう少しの辛抱ですよ。ハハハ・・・」

 澤田先生は、やたらと明るい快活な人だ。


澤田先生が言うように、本当に厄が開けてママの『めまい』が無くなったら良いけど。


 病院での『結局、原因はわからず』という経過を説明すると、澤田先生は、あっ!という顔をして、       ポンとこぶしを手のひらでたたいた。

「そうそう、私も最初は、なんでか、原因わからへん、て言われたんですよ。

そんな時、友達から、『なんばに、めまい科ってあるよ』って教えられたんです。

そこ、お母さんも、連れてってあげてみてください。かなりちゃぁんと、してくれますよ。

・・・でも、あの、おじいちゃん、まだ、生きてはるかしら?」


 「はあ・・・ ありがとうございます」

 頼りない情報だけど、一度、ネットで調べてみよう。



 横で、澤田先生とのやりとりを呆れ顔で見ていた酒井先生に、やっと本題を。


「来週から、おじいちゃんが迎えに来る日が多くなるかもしれません。

よろしくお願いいたします・・・」


 さすがにもう、会社を休んでばかりもいられない。

お迎えをお願いできるのは、お義父さん位しかいなかった。ちゃんと、頼んでおかなくては。



 酒井先生がしゃがんで、ホノカと顔を向き合わせた。


「じゃあ、ほのかちゃん、さようなら!」



「サヨウナラ」

 小さい声でホノカが呟く。


酒井先生は、それでは満足せずに、

『さぁ!かぁっ!』と、首の動きも加えてホノカを促す。


「サカイセンセ、サヨウナラ」


「そう!さようなら・・・」

酒井先生はホノカの頭をなでた。


 ほおーっ。と見ていると、澤田先生が解説する。

「酒井先生は、挨拶の前に、先生の名前も言わすようにしているんですよ」


 そういって、自分もホノカの前にかがんで

「ほのちゃん、さようなら!」


 といって、『さぁ!わあ!』と促すと


「サワダセンセ、サヨウナラ」

 小さい声だけれど、しっかり言えた。


「それはすごい、酒井先生ありがとうございます」

 酒井先生は、満足そうにうなずいた。


「では、失礼いたします」


 ホノカの手を引いて、校門を後にする。

澤田先生が、大きな声で背後から声をかけてくれた。

「ほのちゃん、また明日ねぇ!」


 酒井先生が、横目で睨んで

「明日は、休みですよ!」と、鋭く突っ込む。


 澤田先生は、ああそうか、という顔をして

「じゃあ、また来週!」


 昔のTVバラエティ番組の終わりのように、大きく手を振ってくれた。



 しっかり厳しい酒井先生、ちょっとうっかりだけど、明るくて精力的な澤田先生、キメ細やかな       介助員の楠田先生。なかなかバランスが取れている。




* * 


 ママは、倒れた日の翌日も、その次の日も、何回か『めまい』がきていて、今も『めまいがきそう』は      度々あるらしい。


「『さくら坂』の中だけ、車でなら、ミノリ、ホノカのお迎え、なんとか頑張ってみる。

『めまいがきそう』って感じがだんだん分かってきたから、そうなったら、すぐ車止めて、じっとしてるわ。 

パパも、そろそろ仕事行かなくちゃ駄目だろうし」


「早い出勤の日は、ホノカを車で登校させて、そのまま会社に行くね。

電車乗り換える時、ダッシュしたらギリギリ間に合うし。

もし、お迎え、どうしても行けなかったら、お義父さんにお願いする手だね。夏休みまであと少しだし」


 夏休み、ホノカは、週3日だけ学童クラブへ介助付きで受け入れてもらえており、ミノリは、夏休み      課外保育をフルに申し込んできていた。


『めまい』をだましだまし、何とかいけるか、ママ。


 義父母と義兄夫婦は、それぞれ仕事があり、『さくら坂』から一番近い職場は、定年後、            物流倉庫会社のパートをしているお義父さんの所だった。

一番時間の無理が言えるのもお義父さんだ。

ホノカを任せっきりとはいかないけれど、同じ『さくら坂』に居るというのは、いざという時心強い。



* *



 4年前、お義父さんの定年が近づき、定年後は、それまでの4LDKの社宅を出なければならず、       新しく住む家を探していた。

当時、大手メーカーの独身寮に入っていたお義兄さんも、近々結婚して一緒に住むので、          2世帯住宅にする必要があった。


 我が家が『さくら坂』住宅販売センターへやって来たのは、たまたま実家の物件探しのお供としてだ。


 土地価格と、2世帯住宅を建築する価格もほぼ予算内で、お義父さんお義母さんは、車で通勤でき、      お義兄さん夫婦も、駅までの通勤手段として原付を買わせば、


「なんとか行きよるやろ」

お義父さんのその一言で決まり。


おかげで義兄さん夫婦やお義母さんは、仕事がある日は早朝に家を出、夜遅く帰宅する毎日だ。



 お義父さんは、『さくら坂』という地名も気に入っている。


「あの歌の出来る前からあるんやから、便乗してるわけやないやろ。ホンマもんや!」


 『さくら坂』の住宅地自体は、歌がヒットする前から存在するらしい。

ヒットした歌のタイトルは漢字なので、『ホンマもん』とはまた違うはずなんだけれど。



 ホノカが産まれた時、ママはつわりがひどく、産後は産後で体調悪く、出産前後の約一年ママは、         大阪南部O市の実家で暮らしているようなものだった。

大阪で一番京都寄りの、H市に住んでいたマンションとの往復にも疲れ、パパもホノカが産まれる頃には、      マスオさん状態。



「『さくら坂』いいなぁ・・・」 ママがつぶやく。


 以前のママの実家では、結婚後もまだ、ママの部屋を残してくれていた。

今度の実家は、お義兄夫婦との2世帯住宅だ。

以前のように、頻繁に泊まりこんだりもできないだろう。 

 

 ホノカだっている。


 次の子を考えるのに、ここに住めないだろうか?

今の、独身時代に購入したマンションが、いくらで売れるかによるけれど、それでも建売の一番安い物件なら  何とかローンが組めそうだった。


「田舎暮らしは、大変だぞ!」


 ママが、少し驚いた顔になる。 

すぐに嬉しい顔に変わった。


「大丈夫よ。ここ、いいとこだもん。ここに着いた時、そんな感じがしたんだ!」


 ママの『直感』には、素直に従っておいたほうがいい。



 販売センターの窓の外、遠くに大阪の中心地が霞んで見えた。

通勤は遠くなるけれど、ココから大阪市内へ通っている人だっているはずだ。


 まあ、見えている位だから、何とかなるだろう。



* * 


「夏休みのラジオ体操と、障害児童向けの夏休み親子プール教室は木曜日だから、パパお願いね」


「早起きは得意さ。

木曜の休みも土曜日に何日か出勤すれば夏休み中くらいなら、なんとかできると思うよ。

パパも競泳用の水着と水泳帽買わなくちゃ!」


 泳ぐのなんて、久しぶりだ。


「パパ、たぶん気持ちよく泳いでるヒマなんて無いと思うよ」



* * 


「ホノカはプール大好きだもんな、でも、今日は男用のロッカー室だよ」


 ここ、大阪府の障害者用施設ファインプラザは、ガイヘルさんともよく来ているらしく、          早速女性用のロッカー室へ向かうホノカを、引き止めて男性用へ。


でも、さほど気分を害さずに済み、さっさと着替えてプールへ。


 教室が始まるまで自由に泳いでいていいらしいので、ホノカさっそく本領発揮、ホノカ風犬掻きで      ひたすら泳ぐ。


ガイヘルさんが、ビート板でバタ足とか教えても、なかなか言うことを聞かないらしい。


 確かに、ビート板を渡すとその上に立とうとしはじめた。 ビート板が、水中から勢いよく飛び跳ねて出た。


「そんなビート板で、サーフィンは無理だよ!」



 教室が、始まった。

整列? 点呼? 準備体操? ホノカはひたすらプールへ入ろうとする。


そんなホノカを引き止めて、

「た・い・そ・う するの!」


「プール! チョーダイ!」

 今のところ、要求はすべて『チョーダイ!』だ。


 父娘で、プールサイドでバトルをしていると、ようやくみんなプールへ。やっとホノカも入水だ。


「このリングをプールに沈めますので、拾ってきてくださいね」


 ホノカは、小学校低学年チーム。


顔を水につける練習だ。

コーチが、直径15cmくらいの1ヶ所だけ錘の付いた発泡スチロール製のリングを、           バラバラとプールに放り込んだ。


「足使ったらアカン?」 

浮き輪持参の子が、尋ねる。


「ちゃんと手で取ってね。 ずるしちゃダメよ。 水の中に顔をつけて下さいね」


 ホノカは、既に、深く潜っていった。


「ファーッ!」 

 豪快に水面に出てきたホノカの口には、しっかりリングが咥えられていた。


「ほのかちゃんすごい!」

 他のお母さんから、お褒めの言葉と拍手。


 ホノカ、おまえどっかでイルカのショーでも見てきたのか? と、感心していると、


「確かに、足は使ってへんけど・・・」

ボソッと、コーチがつぶやいた。

 内村君のお母さん



(一)


 後ろの山は、もうN県との県境、T駅からバスで田舎道を約20分、最後に綴れ折になった         『さくら坂』を登ると、楕円形の外周道路に囲まれた『さくら坂』住宅地が現われる。


 住宅地の横にはゴルフ場、温泉と遊戯施設を備えた観光牧場が、歩いて行けるほどの距離の所に広がっている。


 バブル全盛期に造成され始めた、全約800戸分の住宅地は、4丁目、3丁目、1丁目と           約4分の3を販売した頃バブルがはじけ、2丁目は造成地のまま不良債権として長く残っていた。


 5年ほど前、バブル全盛期の半分ぐらいの価格で別の不動産業者での販売が始まり、            内村家が『さくら坂』に移り住んだのは、まだ2丁目がほとんど造成地のままの頃だ。 


 お父さんの会社は、転勤が多く、各地を賃貸で転々としていたが、ようやく希望していた、2人の実家のある大阪への転勤が決まった。


 お父さんが言うには、

「会社も今、景気が悪いから、持家のある人間を単身赴任させると経費がかかる。なるべく動かすのは賃貸の奴、という傾向にある・・・」



 結婚して8年、少しは蓄えもできたし、最近は住宅ローンを組んでも税の優遇があり、実際、賃貸の       家賃より安かったりするし、娘の美優はペットを飼いたがっているし、今のマンションは、下に住んでいる   オバサンが子供の出す音にいちいちうるさいと怒鳴り込んできてたから、マンションはもうこりごり。

 お兄ちゃんはちょうどこの春から小学校だし、お父さんの会社は車での通勤も認められていたし。


 正月に自分の実家で、結構広い庭があって手ごろな価格の『さくら坂』の住宅広告を見付けたとき、


「これしかない!」

 真っ先に、お父さんにその広告を見せたのだ。


「PLの花火は見下ろせるし、きれいな桜並木もあるって! 」


『さくら坂』に移り住んで約1年経ち、2丁目が70戸~80戸まで販売が進んだ頃、不動産業者の       音頭取りで、2丁目自治会が発足した。


 幸い、入居してくる家庭の多くが30代前後と同世代なのと、土地の広さから2世帯の家族も多く、     リタイアした方で自治会をほぼ専業でやってくれる人もいた。


 先にさくら坂に居住している他丁の人から見れば、昔、自分達が購入した価格より、はるかに安く購入して  入ってくる新入の2丁目を同等に扱うのが気に入らない!との場面もあったらしく、4丁合同の夏祭りや    集会所の使用で色々軋轢があったと聞いている。


 ほかにも、不動産業者に街灯やミラーを付けさせたり、町に交渉して消防ホースを設置させたり、      お父さんも含めて自治会の役員になった人は、それぞれ役割を分担しながら2丁目を整えていった。


 自治会を作るというのが、ここまで大変だとは思わなかった。


「でも、わが町って感じがするよな・・・」


お父さんは、しみじみ言った。














(二)


 この春、お父さんに東京へ転勤辞令が出た。単身赴任だ。


「そのプロジェクトが旨くいけば、2年で大阪に帰す、とは約束してくれたよ」


 『さくら坂』に来るときに、お父さんが言っていた読みは見事に外れた。


 大丈夫なんかな・・・?

12年近くも朝夕を共にしてきた。

出張が多く、夜はいつも遅くて、寝に帰ってきているだけだったけど、それでも               『何かあった時』頼りにできるお父さんがいないのは不安に思う。


「まあ、月に1回は、帰って来れることになってるからな」


「こっちから行かなくちゃ、いけないんやないの?  掃除とか、洗濯とか・・・」


「たぶん、自炊はせーへんやろし。寝るだけやから大丈夫だよ」


 お父さんが独身の時の部屋は、几帳面な性格を反映してか、いつもきれいに整っていた。

一人暮らしの長かったお父さんの方は、あまり心配することはないかも。



 一番、悲しむのではないか?と思っていた美優は、


「じゃあ、夏休みにお父さんとこ、泊まりに行ったげる!」


『やさしいことを言ってくれる・・・』

と、お父さんはホッとした顔。


 お父さんよかったね。 ディズニーランドに感謝せなアカンね。




(三)



 2丁目自治会は、早い時期に発足したものの、2丁目の子供会は、ようやく、この春から活動が始まった。


 発足までに3年もかかったのは、『両親とも働いていて、役員が廻ってきても出来ない』と、断わる家庭も   多かったし、各家庭の子供がまだ小さく、人数が揃わなかったからだ。

 

 自治会の取りまとめで、この春、やっと20人を超える入会希望が集まった。


 うちのお兄ちゃんが新5年生。

それでも2丁目では数少ない上級生、あれよあれよという間に初年度の子供会の役員、それも         会長に選ばれてしまった。


 よりによって、こんな時に・・・ 



お父さんは東京へ行って、おらんようになる。


 不安が募るばかりだ。



 子供会役員4人で初めての会合をした。他の丁がやっているのを参考に、一年のスケジュールを決めていく。

①新1年生歓迎イチゴ狩り

②夏休みラジオ体操

③夏祭り出店

④クリスマス餅つき大会

⑤6年生お別れボーリング大会(今年6年生はいないけれど)

他に、春と秋のK町クリーンキャンペーン。


 1人月300円の予算では、これでもギリギリだ。

夏祭りとクリーンキャンペーンは、自治会長さんに相談するとして、4丁合同のラジオ体操は、       他丁の子供会と打ち合わせをしなくてはいけない。


* 


 1丁目から4丁目、子供会会長揃っての打ち合わせを、4丁目子供会の会長さんが、段取りしてくれた。

2丁目からは、役員4人とも出席した。


 ラジオ体操は、夏休み中前後合わせて10日だけ。少し楽な気になった。


「思ったより、みんな出て来はりませんよ。声、かけといた方がええと思いますよ」


 4丁目の会長さんだ。


 そんなもんなのか・・・

私が子供の頃は、近所のほとんどの子が『皆勤賞』でエンピツとか貰って喜んでたのに。



「2丁目さんは、まだまだ数が少ないから、ラジオ体操に来る子より役員の方が多いなんてことにならなければ、いいですわね」

 お兄ちゃんと同じクラスの佐藤君のお母さん、1丁目子供会の会長だ。

学級懇談とかで、いつも積極的に発言をする。

 埼玉に3年ほど住んでいたことがあるので、関東の方の言葉に偏見はないつもりだった。

が、佐藤さんの場合はなぜか、標準語というより耳に不快な東京弁が、より近寄り難い存在になっていた。



 以前は、夏休み通期でラジオ体操をしていた。


ところが、役員の負担が大きいからと各丁で話し合って、7年くらい前から、夏休みの初めと終わりの     平日5日間、計10日間という取り決めがあった。


他にも、カードにスタンプは押すけれど、『皆勤賞』はなし。


各回参加児童に、凍らせてないビニールチューブ入りジュース1本

『凍らすと、その場で食べる子がいるんです!』を配ることになっていた。


 各丁、差が出るといけない。


「2丁目は出来たばかりでお金無いんでしょうけれど、せめてチューチューぐらい買ってあげてくださいね。

2丁目だけ何も無しでは、子供達が、かわいそうでしょ!」


 チューチューくらい、別に異存はなかった。

ただ、佐藤さんの、いちいち嫌味のある言い回しが気に入らない。



 帰り道、同じ2丁目役員の中西さんがボソッと漏らしていた。


「きっと、味方につけたら頼もしい人なんでしょうけどね・・・」







(四)


 2丁目子供会最初の催し、T市郊外にある農園でのイチゴ狩りは、全員が参加してくれた。  

お天気にも恵まれた。今年最高の気温だそうだ。


もう、半袖でもよかったかもしれない。


一緒に参加してくれた親御さんたちも、楽しそうにしていた。


 ああでもない、こうでもないと、やっと開催できた子供会の催しだ。

来てくれた人たちの笑顔に報われる。


「初めてにしては、上出来だったんじゃない!」

と、自賛。


「無事に、終わりましたね!」

 中西さんが、眩しそうにうなずいた。

 役員4人集まって、会計の計算をした。これも、ピッタリ一致した。


「次は、クリーンキャンペーンやね・・・」


 それはK町全体の催しだから、自治会長さんが段取りを手伝ってくれるだろう。

子供会として参加すると、町から助成金が幾らかある。発足したての預金のない子供会にとって、貴重な収入だ。


 役員みんなと、次の打ち合わせ日を決めてから、解散した。



 行きと同様、同じ家並び、中西さんの運転する車に、我が家3人を便乗させてもらった。


中西さんは、

『旦那は朝早くから、サッサとゴルフに行ってしもたわ! イチゴ、食べさせたらへんねん!』


と、ぼやきながらハンドルを握っていた。


 ケータイが鳴った。お父さんからだ。


【お袋が、今朝ひっくり返って、足の骨にヒビが入ったとかで入院したらしい。

行けそうやったら、姉貴に聞いて、一度様子見て来てくれへんか。今日は、バタバタしとるやろうけど・・・】


 はい、わかりました・・・ 


なんて、憂鬱な電話。



「何、旦那さん? 来週、帰ってくるの?」

 中西さんが、ミラー越しに尋ねた。



「旦那のお義母さんが、転んで入院したんだって。 旦那は、来週帰ってくる予定だったんだけど・・・」



 ゴールデンウィークは、お父さん、あっちに取られちゃうんやろな・・・ 

深いため息がでた。


 美優が、心配そうに見上げていた。



      *



 お義母さんは、苦手だった。


 お義父さんの実家は、滋賀県北部の城下町、旧中仙道沿いにある旧家だ。お義父さんは、そこの三男。

法事で何回か訪れたことがあるが、家に上がると、昭和初期にタイムスリップしたような気分になる造りの家だ。

 

お義母さんは、その地元のバルブ会社社長の娘で5人兄弟姉妹の4番目の次女、二人は見合い結婚で結ばれた。

お義父さんは大阪にある精密機械のメーカーに定年まで勤め、今は大阪北部の自宅で年金暮らしをしている。



 結婚することが決まった頃、知世は、興信所に身元調査をされた。


実家の近所の人が、見知らぬ男性から色々聴かれたと教えてくれたので、結婚した後、お義母さんに      それとなく聞いてみた。


「内村の家に、変な血が混じったらいけませんもの!」


 当然のような顔をして、そう言った。

興信所を頼んだのは、お義母さんだった。


 お義母さんは事ある度に

「内村の家の嫁として、恥ずかしくないようにしてくださいませね!」


 自慢できるような家柄でもないが、実家を恥ずかしいと思ったことはない。

知世自身の至らなさを責められるのは仕方ないが、声高に内村家の親兄弟親戚の勤めている会社、       学歴などを自慢されて、知世の親、親戚のそれを蔑まれても、なす術がない。


 長男の嫁だし、将来は、この人と一緒に住まなきゃならない、と覚悟はしていた。


けれど、お義父母と同居しているお義姉さんは、もう50の大台で独身のキャリアウーマン。

我が家は、お父さんの仕事で大阪を離れて転々としていたので、今のところ、盆と正月だけは義理堅く顔を出す。

その程度で済んでいた。


 それでも『さくら坂』に移ってからの盆と正月は、必ず『さくら坂』に家を買った時の話題になる。


「ここを、2世帯に立て替えるって方法もあったのに、知世さんたら、私らに何の相談も無しに、パッパと    話を決めてしまうんやもの!」


 と、いつものように、犯人扱い。


「私が、行かず後家で、居座ってるからね・・・」

 そう言って、お義姉さんが毎度、取り繕ってくれたのだった。



 今年の正月は、特にひどかった。


このやり取りが、1回で終わらず、しつこく交わされる。

子供達の前でも、お構い無しなのには閉口した。



「お袋、ひざが悪うなってから、うつ病気味なんや」


 去年の秋あたりから、少しヒステリック気味に、ひざの痛みを訴えていたらしい。

お父さんはそう言って、ガマンするように慰めてくれた。


 見舞いに行った病院で、子どもたちの前、また罵られたりするかもしれない、               気持ちが重たくなるばかりだ。




* 


 中西さんに送ってもらった礼を言って、家に入った。


 重たい受話器を上げて、お義姉さんのケータイにかける。留守電だった。

『後で電話します』 と伝言して、受話器を置く。


 10分ほどして、電話がかかってきた。

【克典から、聞いてくれたんやね。心配してくれて、ありがとう】


「今日、これからでも、伺いましょうか?」


【来てもらっても、手伝ってもらうことあらへんから。こっちは大丈夫よ】


 少し、肩の荷が降りた。

【夜、落ち着いたら電話するわね】 と、早々に切られてしまった。


* 


 夜になって、お義姉さんから電話が入った。


【克典から聞いてるかも知れへんけど、母さんね・・・ ここへきて認知症が、だいぶ進んでるみたいなん】


 知らなかった。お義姉さんの声が、胸に重たく響いた。

 お父さんは、『ひざが悪うなってから、うつ病気味なんや』と、言っていただけだ。


【克典は、認知症って認めたくないかも知れへんね。東京にいるから、最近の母さん知らんやろし。

この春からかしら、急に物忘れが激しくて、それともう、めっきりだらしなくなってしもたん。

ここ、大きい病院で、ちょうどええ機会やから、入院している間に、そっちの方も               診てもらうようにしようと思てんねん。

知世さんもやけど、美優ちゃんたちが今の母さんと会ったら、それでもし自分らのこと           忘れられとったりしたら、かなりショックやと思うわ。 それに、父さんがね・・・ 

そんな母さんを、孫たちに絶対見せたくない!って聞かんの。 だから、来ん方がええと思う・・・ 】


 今朝、駐車場の車止めに躓いて、ひっくり返ったらしい。

右足の大腿部が折れているというから、大きな怪我だ。


 お義父さんは、『俺が目を離したからや!』と、かなり責任を感じているらしい。


【元々、ひざも悪かったし、退院してももう、ずっと車椅子になるでしょう。

今の状態だと、リハビリしても、また歩けるようになるとは到底考えられへんし・・・】


 認知症についての知識はなかった。

でも、大変そうなのは次の一言で想像できた。


【最近、私のことさえ、思い出せへんでいるみたいやの・・・】






* 


 連休に、お父さんが大阪に帰ってきた。

お父さんには、お義姉さんに言われた事を、そのまま伝えていた。


【一度くらい、お前だけでも見に行ってくれたらええやないか!】


 東京からの電話では怒っていたが、今日、病院に寄ってから帰ってきた時のお父さんは、仕方ないという   表情だった。


「俺のこと、オヤジと間違うとった・・・」

 しんみりと、教えてくれた。


 目に涙を浮かべているお父さんを見て、胸が苦しくなった。

そんなお父さんを見たのは、初めてだった。辛そうだ。それ以上詳しくは聞けなかった。



 お義母さんの入院している病院は、12歳未満の子供の病室への入室を禁止しており、          『お義母さんがまだベッドから動けず、病室から出られない』との口実で、お見舞いには行けないと、      子供らに説明していた。


 お父さんは、お義母さんの話題をできるだけ避け、子供たちが聞いても『まあ、そんなところや・・・』

と、機嫌悪げに口を濁していた。


 連休は、子供らと何処かへ遊びに行く事もなく、『さくら坂』から毎日、仕事のようにお義母さんの      入院している病院へ通って、東京へ戻っていった。



* 


 近畿地方に梅雨入りが宣言されて、まもなくお義母さんは退院した。

当然、認知症では入院させておいてはくれない。

骨折した大腿部は、年齢もあって、これ以上は改善しないだろうと自宅での経過観察となった。

思いのほか退院が早まったのは、お義父さんが一日も早くと退院させたがったからのようだ。

お父さんは、退院に合わせて3日間の休みを取って大阪へ帰って来ていた。


 お義父さんがお義母さんを、どこかの介護施設へ移すなんてことを承知するわけがない。

お父さんは、実家を車椅子が受け入れられるよう整理したり、退院の段取りをしたり、今後のリハビリの    手続きをしたりで、梅雨空の下、大阪北部のS市にある実家から、役場、病院等へと行き来していた。


 大阪に来ているのに、『さくら坂』には一度も顔を出さなかった。 

事務的なメールが、数回送られてきただけだ。


大変なのはわかるけれど、せめて、電話で声くらい聴かせて欲しかった。


『さくら坂』に移った年に、お父さんの植えた小さなアジサイは、年々スクスクと育ち、今が満開だ。

ただ今年は、一番愛でてくれる鑑賞者の姿はなく、心なしか寂しげに雨の中で佇んでいた。





(五)


「お兄ちゃん! 起きなさい!」


 夏休み最初の平日の朝。もう外は明るい。

初日くらいは、いっぱい子供たちがいないとカッコがつかない。


 スッピンというわけにもいかず、今朝は、5時30分に目覚しをかけた。

出る用意をして、美優とお兄ちゃんを起した。 少し早めに家を出た。


 ラジカセを抱えて、美優と、まだ眠そうなお兄ちゃんを連れて、中央公園へ向かった。

中西さんとご主人、中西君、まだ幼稚園のゆりちゃんも来ていた。


「おはようございます。ご主人まで、お手伝いいただいてありがとうございます!」


 中西さんは、チューチュー当番だ。


 長方形をした中央公園の、四隅それぞれに、各丁の子供会が陣取っていた。


 ラジカセの音量を確かめる。 電池は、新しいのを昨夜入れた。 NHKにダイヤルを合わせた。


 ほのかちゃんが、寝グセで頭の後ろがピョンと跳ねたパパに、抱えられてやってきた。

「おはよーございます!ご苦労様です!」


 2丁目子供会は、ほとんどの児童が来ていた。民生委員の出島さん、自治会長も来てくれていた。


4丁の中で、2丁目が一番人数が多い。 役員みんなで胸を撫で下ろす。


 佐藤さんの姿があった。


 1丁目に、佐藤さん以外の役員らしき人はいない。 ひとり、気だるそうに準備をしていた。

集まっている子供たちは1丁目が一番少ない。




♪ あたーらしい朝が来た ♪ きぼーぅのーあーさーだ… 

ラジオ体操の歌が流れた。


 ラジオ体操が始まる。 久しぶりだ。


 第一は体が覚えていたが、第二となると、所々があやふやになる。


 ほのかちゃんが、座り込んでいる。


 寝グセ頭のほのパパさんは、最初は、ほのかちゃんの手を取って試みていたが、早々にあきらめて、      気持ち良さそうに自分だけラジオ体操を始めていた。


 体操が終わると、子供たちを並ばせて、一人ずつスタンプを押し、チューチューを配っていった。

とりあえず、初日は事なきを得た。



*  


「後から追っかけるから、先行っといて!」


 ラジオ体操3日目、お兄ちゃんは布団の中からそう叫んで、結局中央公園には現われず、家に戻ったら、    布団の中でスヤスヤと寝息を立てていた。


「今日も、パス!」

 前半5日間の最終日、今朝もお兄ちゃんには声をかけたが、掛け布団を引き上げて顔を隠してしまった。


「もーっ!」 と、腹を立てていると、

美優が、『わたしは、ちゃんと一緒に行くよ!』と慰めてくれた。


 雨の予報だったが、空は何とか持ちこたえている。 いつもどおり、中央公園へ向かった。


 5日間、それほど参加人数は減らなかった。 2丁目は優秀だ。


1丁目の佐藤さんは、最初の2日間だけ来てその後姿を見せなかった。

ウチのお兄ちゃんとおんなじだ。


 ほのかちゃんは、いつもパパと来ている。

ほのかちゃんのママは、夏休み前に『めまい』で倒れたばかりだから、ラジオ体操は              パパさんの担当になっているらしい。 中西さんが教えてくれた。


 この5日間、結局、ほのかちゃんは、座り込んでみんなの体操を見ていた。


 ほのかちゃんのパパは、相変わらず自分ひとりで、気持ち良さそうに体操をしている。

Tシャツと短パン姿なので腹回りがポテッとしていて、見苦しい。 しっかり体操した方が、いい。


「あれやったら、パパさんだけ、体操しに来たらええのにね・・・」

 美優の意見に同感だったけれど、


「参加することに意義があるの。 早起きできるだけ、お兄ちゃんより偉いでしょ!」

ちゃんと、大人の意見も言っておかなければ。


 明日からしばらくは、早起きから開放される。


でも次は、夏祭りが控えている。

出店の打ち合わせや準備、これから毎週のように行なわれる、盆踊りの練習会にも立ち会わなくてはいけない。


「お疲れ様でした」 片づけを済ませて、みんなに挨拶した。


「ほのちゃん、いいなぁ・・・」


 美優が、ポソっとつぶやいた。

美優の視線の先に、パパに手を引かれて家へと向かう、ほのかちゃんがいた。


 そうだった。


 いつもしっかりと振舞っているけれど、美優だって当たり前の小学2年生だ。

すぐ手の届く所にパパがいるほのかちゃんを、羨ましく思うのは仕方がない・・・


 美優のお父さんは、今、東京にいる。


 美優の肩に手を置いて、そっと引き寄せた。 美優は見上げて、ちょっと寂しそうに笑った。














(六)


「美優がね、『ほのちゃん、いいなぁ・・・』って・・・」


 お父さんの電話は、急遽海外出張の予定が入り、予定していた7月に大阪に帰って来れなくなった内容だった。


 今のお父さんに、『さくら坂』の方を振り向いて欲しい。

きっと、気に掛けていてくれているのだろうけれど、せめて子供たちに、もっと、父親の愛情を         味あわせて欲しかった。

 あざといような気もしたが、ラジオ体操の帰りに見せた、美優の寂しそうな様子は伝えないと        いけない。


【姉貴の勤めている所、介護休暇の制度がちゃんとあるらしくて、何ヶ月か休むことにしてくれたらしい。

これで実家の方も、少しは安心できる。

お盆は3日ほどしか休めへんけど、一晩は必ず帰るようにする。子供達や家の事、任せっきりやったな。

 ごめんな・・・】



 涙があふれてきた。


お父さんに、そばにいて欲しいのは、美優より私の方かもしれない。



*  


 お盆に、お父さんが大阪に帰ってきた。 『さくら坂』にも、1晩だけ帰ってきてくれた。


「美優、夏休み最後の週、東京行っていい? ジュンちゃんがおいでって!」

 ジュンちゃんとは、東京に住んでいる2番目の義姉さんの子、この春高校へ入った、美優とは従姉妹同士だ。


 ディズニーランドが大好きで、難しいといわれてた高校に、もし受かったらと年間パスポートの約束で、   猛勉強を始めて、合格してしまった。


ディズニーの威力は、素晴らしい。

そのジュンちゃんが、美優をディズニーランドに連れて行ってくれると。


「父さんのとこやったら、ゴロ寝やぞ・・・」


「東京のオバサンとこ、泊めてもらうから大丈夫!」

 美優は、笑って答えた。


「そこまで、話ができてんのか。しゃーないな・・・」

 お父さんは、ちょっと考えてから、


「その週末、帰ってくるわ。 日曜日に一緒に東京へ行こ。

帰りは東京駅までオバサンに頼んどくから、新大阪までお母さんに迎えに来てもらえ。

一人で新幹線乗ってられるか?」


 うん、大丈夫!・・・ 美優は、目を輝かせた。


 お父さんは、美優には甘い。


「僕も、ついてったるよ!」

お兄ちゃんが、話に入ってきた。


「オバサンとこ、上のマサタカは、今年大学受験やぞ、二人も行ったら迷惑やないか?」


「僕は、父さんとこで、ゴロ寝でええよ!」



 ディズニーランドは、男の子もしっかり誘惑するらしい。








(七)


 夏祭りの日は、晴天だった。今日も、暑くなるにちがいない。


 今夏の異常とも言える暑さの中、今日は一日中、外にいなくてはいけない。

早めの昼ごはんを済ませて、しっかりと日焼け止めクリームを塗りこんだ。


「お昼ご飯置いとくからね。 夜は、祭りでなんか食べてくるか、おなかすいたら冷蔵庫のご飯チンして、     レトルトのカレーで食べといてね。 じゃあ、行ってくるわ・・・」

 エアコンの効いたリビング、ソファーでテレビを見ているお兄ちゃんと美優に声をかけた。



 2丁目子供会の出店は、普段は集会場の駐車場になっているスペース、1丁目子供会と3丁目子供会の    テントに挟まれた場所。 テントは、既に自治会の人達で、組み上げられていた。


 子供会の出し物は、1丁目がスーパーボールすくい、2丁目は輪投げ、3丁目はヨーヨーつり        4丁目はクジ引きだ。

 1丁目のテントの中にいる佐藤さんと、目が合ってしまった。


「ラジオ体操心配していただいてましたけど、2丁目は、ほとんどの子が来てくれました。

佐藤さんは、会長さんなのにラジオ体操されないんですか? 最初の頃しか お顔見ませんでしたけど・・・?」


 精一杯の皮肉のつもりだった。


「1丁目の役員はちゃんと、役割分担しているんです。

5人で2日ずつ10日間、嫌な仕事でもちゃんと平等にして、できるだけ役員の負担が少なくなるよう     考えてやってるんですのよ」

 佐藤さんは、さも当然というように、シャーシャーと言ってのけた。


 ラジオ体操が嫌な仕事か・・・ 言葉を交わしたのを、後悔した。



 こんなことしてるヒマないわ、さあ、準備にかからなくちゃ。


 中西さんが、ささやいてきた。


「前に、味方につけたら頼もしそうとか、言っちゃいましたけど撤回します。

あんな人と一緒だったら余計大変ですよね・・・」

そう言って、1丁目の方をチラッとみた。



* 


 特設ステージや、カキ氷、焼きそばは、昼過ぎから賑やかに始まっているが、子供会の出店は、        3時からのスタートになっていた。

これは、『スタート時間は、きっちり守って欲しい』と、夏祭りの実行委員会からのお達しだ。


 各子供会には、遊戯関係の出店が、割当てられている。

特に、4丁目子供会の『おもちゃクジ』が子供達に人気で、みんないい景品があるうちにと、          毎年殺到する。


 まだ20分前なのに、4丁目子供会のテント前には、もう並んでいる子がいる。

その列の中に、お兄ちゃんの姿もあった。


 3時近くなると、2丁目子供会の前にも、並んでいる子がいた。


「うちも、結構いい景品だから、きっと、繁盛するわよ!」

 中西さんが自慢げに言った。景品手配は中西さんの担当だ。


中西家とほのかちゃんの家は向かい合わせ、普段から仲のいい、ほのかちゃんのママに相談したらしい。

ほのかちゃんのパパは、雑貨卸の会社に勤めているらしく、子供の好きそうな流行り物の雑貨、        玩具、文具などを安く手配してくれた。


 3時になった。ちゃんと、子供たちを並ばせる。


「1回100円ね。3つ輪の合計の数字の棚の景品がもらえますよ!」

 正方形の板に九つの棒、それぞれ1から9までの数字がついている。

子供たちがその板をめがけて輪を投げる。テーブルには、点数ごとに景品を並べてある。


 お目当ての景品を逃した女の子が、また10人ぐらい並んだ列の後ろへ廻り、


「だれも取りませんように・・・」

と、いま貰った参加賞のマスコットと百円玉を握り締めている。


 30分ほどは、めまぐるしく忙しかった。


 4丁目子供会が景品がなくなったとかで、もう閉店しはじめた。 また、忙しくなった。

参加賞の景品は、まだまだ山盛りあるが、人気の景品が1つ消え、2つ消えしているうちに、         ようやく、息つく暇ができた。


「ご苦労様です。まだまだ暑いですよね・・・」

 客足が一段落したころ、ほのパパさんが顔を出した。ミノリちゃんの手を引いている。

ほのかちゃんも連れてきていた。

「景品、良いのを用意していただいたんで、大繁盛です! ありがとうございます!」



「そうですか。それは良かったです。 ホノカもミノリも、輪投げやってみるか?」

 パパさんが振り返った時、ほのかちゃんがいなかった。


 その時、となりのテントから大きな声が聞こえた。

大きな声の主は、佐藤さんだ。


「あーっ! 勝手に、手を突っ込んじゃだめよ! お金払ってから!」


 ほのかちゃんは、スーパーボールの浮いた子供用プールに、手を突っ込んでバシャバシャしている。

既に、ボールも3つほど握りしめていた。


「あぁっ! すみません。こらっ! ホノカ! ボール、おねえさんに、ハイッってしますっ!

ごめんなさいはっ!」


「ゴメンナサイ」

 ほのかちゃんは、小さな声でそう言うと、素直に握りしめていたボールを、佐藤さんに渡す。


「『おねえさん』って、佐藤さんのこと? それは言い過ぎよねえ・・・」

 横で、中西さんがヒソヒソと耳うちした。



「暑いからな、ホノカ、スーパーボールをさせてもらうか?」


「ミノリ、どっちもがいい!」

 ミノリちゃんが主張する。


「ああ、わかった。わかった。次に輪投げもするからな」

 と、ミノリちゃんをなだめつつ、


「スーパーボール、2人分、お願いします」

 ほのパパさんは、佐藤さんに200円を手渡した。


* 


「ありがとうございました。頑張ってくださいね」


 バイバイ! 

輪投げの景品を握りしめた ミノリちゃんが手を振った。


『あーっ!』

と叫んだかと思うと、ほのパパさんは、ほのかちゃんを追いかけていった。


 ほのかちゃんが目指して走っていったのはカキ氷か? ミノリちゃんが二人の後を『まってー』と追いかける。


 その光景を見ながら、佐藤さんが、となりのテントから声をかけてきた。


「大変ねえ・・・2丁目さんは。

お金は無いし、人数は集まらないし。おまけにあんな子まで抱え込んじゃって・・・」


 さすがに、カチンときた。

『ちょっと!』と言いかけた時、中西さんが突っかからんばかりの勢いで、佐藤さんの前に出ていった。


「2丁目は、障害があろうが、なかろうが、普通にやってます! 

ちゃんと当たり前に! 一緒にやっていけてます! どうぞご心配なく!」

 

 強い口調だった。

普段、冷静な中西さんの意外な一面を見た。


「おおこわっ!」


 さすがに圧倒された佐藤さんは、バツが悪そうに

『ちょっと休憩に行ってきまぁ~す』と、そそくさとテントから逃げていった。



「子供達も大勢いるのに。何であんなこと言わなアカンのよ・・・」

中西さんは、悔し涙を浮かべている。

ほのちゃんのママとも親しいし、自分のことのように腹が立つのだろう。


 この光景を見ていた子供達の中に、お兄ちゃんの姿もあった。


 先に言われちゃった・・・

中西さんの悔しい気持ちが、伝わってくる。


中西さんが佐藤さんへ放った『当たり前に一緒にやっていけてます!』は

自分の胸にも、しっかりと刻み込んでおかないと。



「ごめんなさいね・・・ お恥ずかしい限りです・・・」

 1丁目のテントの中から、一人の奥さんが声をかけてきた。


「1丁目にだって、『ふれあい学級』の5年生の子がいるんです。

軽いらしくて、ほとんど通常学級の方におるし、みんなといても全然大丈夫な子なんやけど・・・」


 その子とお兄ちゃんは、以前に一緒のクラスになったことがあった。

どの子がその子なのか分からないので、さほど気にも留めていなかった。



「今年になって会長があの人になってから、何にも参加してこなくなったんです。

何か、肩身の狭くなる思いをさせてしもたんやと思います。

今でも会費はちゃんと払ってくれてはるのに・・・

あの人のせいばかりやないです。2丁目さんを見習わなアカンって思います・・・」


 その奥さんは、そう言いながら、佐藤さんが出て行ったほうを見やって、中西さんの方へ          あらためて頭を下げた。








(八)


 一昨日、お父さんが帰ってきていた。 お父さんは今回、実家へは行かなかった。


 みんなで買い物に行った。 久しぶりの家族の休日だった。

以前なら当たり前の休日だったのに、とても貴重な一日のように思えた。


 昨日のお昼にはもう、お父さんは美優とお兄ちゃんを連れて、東京へと戻って行った。

子供たちにとっても、かけがえのないお父さんだ

久しぶりに、しっかり甘えてくればいい。


 子供会が無かったら、私も行けたかもな・・・


 誰にだって、いくつになったって、ディズニーランドは魅力溢れる場所だ。

来年は必ず行ってやろう。家族みんなで。


     *


今日からラジオ体操、後半の5日間が始まる。


 昨夜は、家に一人だった。眠い。

久しぶりの独身の夜に、妙にワクワクして、調子に乗って深夜までテレビを見てしまった。

それでも、スッピンというわけにはいかない。朝5時45分に鳴った、目覚ましを止めた。


 ラジカセを抱えて中央公園へ行くと、中西さんが既に来ていた。

「おはようございます…」

 もう、ラジオ体操の歌が、他の丁のラジカセから聞こえてきた。

急いでラジカセのスイッチを入れる。


 今日は、子供たちが少なかった。10人もいない。


「気を抜いたらダメですね。もう一回、声かけとかないと。今日からって、忘れてる子もいるでしょうね・・・」

 中西さんが首をかしげながら、渋い顔をした。


 相づちを打ちながら、つい、出そうになったアクビをかみ殺す・・・ 

自分の子も来てないのに、なんで朝早くから、こんなことしてなくちゃいけないんだろ。


 出島さんと目が合った。 ニコッと笑ってくれた。

出島さんは、毎朝来てくれている・・・ 子供会とは関係ない出島さんでも、ちゃんと来てる。


頑張らなきゃ、あと残り4日。



 ほのパパさんが、ほのかちゃんの手を引いて駆けて来た。ほのパパさんは、今日は特別すさまじい寝グセ。

生え際の元来の白髪が、染まった黒髪を押し上げているのが丸見えだ。


「あの人は、若く見えるけど俺より年上なんやで」

 以前、お父さんが言っていたのを思い出した。



 ラジオ体操が、始まった。


 今日は、ほのかちゃんは座り込まずに、立ったままみんなの体操を見ていた。

出島さんが、ほのかちゃんに、小さくおいでおいでをした。


 ほのかちゃんは、出島さんの横に動いて座りこんでしまった。

出島さんは、体操をしながら、根気よくほのちゃんに声をかけ始めた。


ほのパパさんは、いつものように一人で体操している。



 もうすぐ曲が終わりになる頃、ほのかちゃんが立ち上がった。

深呼吸の時少しだけ、ほんの少しだけ、ほのかちゃんは腕をまわした。


「やー、ちょっとだけしたね! 明日も、おばちゃんと体操しようね!」

 出島さんは嬉しそうに、ほのかちゃんに笑いかけた。


* 


「ラジオ体操今日で最後なんだから、今日ぐらい起きなさい!」

 お兄ちゃんを無理やり起こして、今日は、連れてきた。


やっと、夏休みが終わる。



「あれっ? 1丁目、佐藤さん来てますね・・・」

 中西さんが眉をひそめる。


 お兄ちゃんも1丁目の人たちの方を指差して、

「あっ!横山、来てるやん!」


『ふれあい学級』の5年生の男の子が来ているらしい。


 夏祭りの時にいた、1丁目の奥さんと目が合った。お互いペコリと頭をさげた。

 中西さんが目を細めた。


 そういえば、後半になって一丁目の来る人数が増えてきて、今朝は、4丁の内でも1丁目が         一番多いような気がする。 1丁目で何か変化があったのかもしれない。


「まあ、ヨソの丁は、放っときましょ」


 そう言って、ラジカセの電源を入れた。 ラジオ体操の歌が流れだす。


「おはようございます!」

 出島さんだ。 出島さんは皆勤賞だ。


 ほのかちゃんとパパもやってきた。 2人も皆勤賞だ。


「うちのダンナなんて、最初の日にチューチュー運んでくれただけよ」

中西さんが、不満を口にする。


 考えてみれば、2丁目の大人の男の人で皆勤賞は、ほのパパさんだけだ。

仕事もあるだろうし、そういう風に見せてないだけで、結構大変なのかもしれない。


 ほのパパさんは、また寝グセ頭。 きっと、あんまり気にしない人なんだろう。

昨日の夜でも染めたのか、今日は白い部分は見えない。


 ほのかちゃんのママが、染めてあげてるのかしら・・・ どうでもいいわ、そんなこと。


 ほのパパさんの毛染めのチェックをしていた自分が馬鹿らしくて、思わず苦笑いをする。



 今日も、ほのかちゃんは最初から出島さんの横にいる。


後半の2日目からは、そこが定位置になった。

ほのかちゃんは、すぐ座り込んでしまうけれど、出島さんに促される度、日々、体を動かすように        なっていた。


 始めの、首を回すだけのメロディーが流れた。 出島さんが、早速ほのかちゃんを促している。

ほのかちゃんも出島さんの真似をして、首を回す。


 ラジオ体操第一の曲が始まった。


 出島さんに声をかけてもらいながら、ほのかちゃんも体操している。



 おっと、今日は続いている。



 ほのかちゃんのパパは、それを横目で見ながら気持ち良さそうに体操している。


 第ニが始まった。


 ほのかちゃんが途中で止めてしまいそうになったら、その度に、出島さんが声をかける。

ほのかちゃんは体操を続けている。 この調子なら最後まで続きそう・・・


「やったー、ほのちゃん! 全部できたぁー!」


 ラジオ体操の曲が終わったと同時に、子供達から大きな歓声が上がった。



2丁目の子供たち、みんなが嬉しそうだ。美優も、自分の事のように喜んでいる。

みんな、ほのかちゃんの体操が、気になっていたらしい。


 お兄ちゃんと志水君が、『イェーイ!』と叫びながら、ハイタッチをしていた。


 出島さんは、満面の笑顔だ。 うっすら、涙も浮かべている。



「ありがとうございました・・・」

 ほのかちゃんのパパが、出島さんに丁寧に頭を下げた。


 

 当のほのかちゃんは、自分のことでみんなが喜んでいるとは、わかってないらしい。

キョトンとした顔をして、ご褒美のチューチューの列に並んでいた。



「なんか、終わり良ければ全てよし、って感じですよね。 お疲れ様!」

中西さんが、穏やかに言った。


 お兄ちゃんが志水君と、まだ何やらふざけあっている。



「さあ、帰りますよ・・・」

 美優と手をつないで、家に向かう。


 子供会、やってて良かったかな・・・ 


いつになく、優しい気持ちになれた朝だった。

 ほのパパの3


「中西さんの奥さんが、ラジオ体操がんばってましたねって」


「ホノカは最後の日になって、やっと最後まで通してしたんだ。出島さんのおかげだけどね・・・」


「違うの、パパのほう、皆勤賞で偉いですねって」


「そうか! 世の中には、ちゃーんと見てくれている人がいるもんだ。そうか そうか!」


「『朝、体を動かすのは、気持ち良いもんだ』なんて気楽そうに言ってたやない。 中西さんに、言っといたわ。 そしたら、

『そういえば、ほのちゃんを出島さんにまかせっきりで、いつも1人で気持ち良さそうに体操してましたね・・・』

って・・・」


 うーん。 確かに、見ている人は、ちゃんと見ている。

* *


 澤田先生が言っていた、なんばにある『めまい科』の医院をWEBで調べると、今も              営業していることがわかった。

『めまい』専門の医院だった。 『めまい科』という名称ではなかったけれど。


 早速予約を入れて、ママを連れて行った。


 診察に現われた先生は、つい、『おじいちゃん』と呼んでしまいそうな、小柄で優しそうな老紳士。

澤田先生が『まだ、生きてはるかしら?』と、心配していた先生は、無事生きていた。


 ママの書いた診察前アンケートを見ただけで、

『あんたのは、たぶん、頸からきてるんやと思う』と、さすが『めまい』の専門家だ。


 徹底的な検査が始まった。もちろん大学病院と同じような検査もあった。

歯の噛み合わせの可能性もあるとかで、歯医者にもレントゲンを撮りに行った。


  結局、初診の時以上のことは分からなかったのだが、大学病院と決定的に違うのは、            ママの『めまい』の症状に対して、予防する手立てを色々教えてくれることだ。

頸のマッサージ、通常の薬に、鍼灸、漢方など、いつ来るかわからない『めまい』を              ただ恐れていた頃より、予防対策があるだけかなりの不安が解消されている。



 夏休みが終わって、また登校が始まる。


  ママはまだ『めまいがきそう』は度々、『めまい』は10日に1回の割合で襲ってくるので、         徒歩での付き添いはちょっと怖い。


当分の間は登校はパパ担当、出勤の早い日は、車でホノカを送ってから会社へ向かい、           大阪市内で電車乗換えの時ひた走る、遅い日は、学校まで登校班と一緒に歩く。


お迎えはママが車で無理せずに、となった。



* * 


 朝、志水君のママを見かけなくなった。


「お母さんが走るの、ほのちゃん、じっと見るから、僕らの出発が遅れるねん!」

 お母さんにもっと早く出るよう、僕が言うたったんや・・・志水君が、自慢げに教えてくれた。


 ご協力、ありがとう。



* * 


 夏休み明けて運動会のシーズンになると、自閉症の子はパニックになりやすいという。


 団体行動、騒がしい音、予行練習で普段の授業スケジュールが変更され、自閉症の子は特に          パターンを覚え込んだスケジュールの変更が苦手だった。


運動会を心配していたが、当のホノカはといえば、さほど悪影響はなかった。


 むしろ『ヨーイドン!』と走り出すのを家でやっていたので、これは使える、登校で立ち止まった時     『ヨーイ、ドン!』と、一緒に走り出せば早く進めるようになった。

 調子に乗って、内村君たちを追い越したりもした。


「でも、ほのちゃん、最初だけやねん・・・」


 藤本君によると、ちゃんとできるのはスタートだけで、楠田先生が付いてないと、途中で座り込んだり、    戻ってきたりしてしまうらしい。

ホノカだけで、一人で走ってゴール出来るようにと、『ふれあい学級』での時間も、澤田先生と楠田先生が   付きっきりで一生懸命練習してくれている。


 もうすぐ運動会か・・・


ホノカ、ちゃんと走ってくれよ。


* * 


「ほのちゃん、なんで車の日と、歩きの日があるん?」

中西君が尋ねてきた。


「おっちゃんの、仕事の都合なんだ・・・」

 できれば毎日、みんなと一緒に歩かせたかった。 それをホノカに慣れさせたかった。


班と一緒、歩いての登校は、パパが心斎橋にあるお得意さんに直行して営業する、月、木の          週2日しか都合できなかった。

 

『今日は、車で行く日』・『今日は、歩いて行く日』

2通りの予定をスケジュールとして示すだけで、今のホノカに、パパの都合まで理解させるのは無理だ。


「いつも、ほのちゃんと一緒に行けたらいいのに!」

 ミユちゃんが、残念そうに言ってくれる。


ちゃんとホノカをメンバーとして考えてくれる、班の子達の気持ちが嬉しい。


 ホノカは、キョトンとした顔をしていた。

 卒業するまでには、ホノカ一人でも行けるよう、なってくれるだろうか?



* * 


「ホノカ! ボタンとめなさい!」


朝出掛け、ママに叱られて留めたはずの制服のポロシャツのボタン、パパの車に乗った時には         もう全部外していた。


 最近、ボタンを外すようになった。 小学校のお友達の、誰かのマネをしているんだろう。


「ボタンはめるまで、動かしません!」


道路の脇に、ハザードを点けて車を停めた。


「クルマッ! チョーダイッ! クダサイッ!」

最近、要求に『クダサイ』バージョンが加わった。


「だから、ボタンをとめなさい。そしたら動かすから!」


いつものように、ダッシュボードを乱暴に叩いたり、狭い天井を蹴り上げたり、暴れながら怒る。


「こら、暴れるな。車、壊れるぞ。ボォー・タァー・ンッ!」


さすがに、あきらめてボタンをはめだした。


「カシコイッ、カシコイッ」

と、自分で言いながら、イヤイヤながらも、やっとボタンを留め終わった。


「そう、かしこい、かしこい・・・」


車を動かし学校へ向かう。


「おはようございます!」

 ボタンバトルのせいで遅くなった。

内村君たちは、もう、門の中に入って行ってしまったようだ。


校門では、介助員の楠田先生が、お迎えに出ていた。


「最近、ボタンをすぐ外すんですよ。お友達で、外している子がいるんですかね?・・・ 」


ホノカは早く行けとばかり、パパの手を引いて車へ乗せようとする。

「わかった、わかった・・・」


 車に乗り込んだ窓から、

「じゃあ、いってきます・・・」 


あっ、もう外してる!


ホノカめ、ニヤッと笑いやがった。


* * 


「校長先生とも、バトルしたんやって!」

 ママが迎えに行った時、楠田先生に聞いたらしい。


 校長先生は、ダンディーな初老の紳士だ。 バトルっていう単語は似合わない。

校長先生まで『ボタン留めなさい!』って言ってくれたのか。 ありがたいことだ。


「でも、校長先生の負け・・・」


 何じゃそりゃ。 ホノカに負けてしまうのか、校長先生。




 翌日の朝もボタンバトルは続いて、その次の朝のこと。


「ホノカ! さあ、もう着替えないと遅れるよ。 今日は歩いていくからな!」



「カシコイ、カシコイ」


 あれっ? 今朝は自分からボタンを留めてるじゃないか。



「かしこいぞぉ。ホノカ!」

 やっと留める気になったか。



 学校へ向かう道すがら、藤本君が教えてくれた。

「昨日ね、酒井先生がね、『ほのかちゃんのお父さんが困っています!』って!」


 藤本君はホノカと同じクラスだ。

ボタンのことは、楠田先生が酒井先生に伝えてくれたんだろう。


『ほのかちゃんは、好きなお友達のマネっこをします。どうしたらいいですか?』

と先生が言うと、


『私たちが、ちゃんとボタンを留めて、ほのかちゃんにも教えてあげます』

となったそうだ。



 みんな、えらいな。ありがとう。 校長先生より頼りになるよ。





             (下巻へ続く)

             

小説『さくら坂のほのかちゃん』は、長女が発達障害、娘との記録を正確に残そうと             書き始めたのがきっかけです。


そういう地道な作業は性に合わなかったようで、所々抜けてたりして滞っていました。


 ある日、娘と同じ小学校の子が、私と娘がバタバタしながら一緒にいるのを見て


「ほのちゃん、いいなぁ・・・」

と、呟いていたのが耳に入り、

そんな風に見られることもあるのか! いっそのこと娘の周りの方をフィクションにして話を繋げて小説に!


思いついたとたん、色々と妄想が膨らみ、楽しんで書き上げました。


 フィクションですので、実在の人物や団体などとは、一切関係ございません。




 もし将来、私が認知症や、精神疾患をかかえる事になったら、フィクションと現実の記憶との        区別がつかなくなる可能性も高そうなので、私を支援するはめになった方々には長編で大変ですが、      ぜひ読んでおいて欲しいと思っています。

 

 この話は2007年頃を舞台にしています。

当時、放課後等デイサービスは、まだ身近にありませんでしたので、突然の預かりが必要な時には、         ガイドヘルパーさんと外出させる手段を使っていました。


 今は『ADHD』『自閉症スペクトラム』など、発達障害について細かく分類されていますが、         当時は『自閉症』ひとくくり(少なくとも当時の私の知識では)でしたので、そのまま記しています。


ご了承くださいませ。


                                   か と も


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