第二話 くねくねは深夜に徘徊する
脂がたっぷり乗った獣肉とセリの鍋は、野趣にみちた味だった。
濃厚かつ噛めば噛むほど甘みのあふれる肉。
そして香り高さとシャキシャキの食感を両立したセリが抜群の相性で、めちゃくちゃご飯が進んだ。
偏食極まりない藍奈が、おかわりをしていたのだから相当である。
「なにを言いますか。鍋が空になるまで貪っていたのはおまえのほうでしょう。居候、三杯目にはそっと出しという言葉を知らないのですか、この業突く張り？」
「なにそれ知らない。メッチャ美味しかったからオールオッケーじゃないの？」
「こやつ……」
嫌そうな声を出す藍奈だが、こっちは日頃から残飯を漁っている身分である。
食えるときに食わないのは、文字通り死活問題なのだ。
「ともかく最高に美味しかったよ、綾釣さん！」
サムズアップを向けると、おじいちゃんは笑顔になった。
「なによりですな。やはり、お若い方の食べっぷりを見ていると、こちらまでうれしくなりますからな。もはや老いさらばえた身には真似できませんゆえ。おまけに、そちらの色白さんはたいそうな別嬪と来ている。別嬪と健啖が会い合わされば、この爺など、血迷って懸想をしてしまいそうで」
南無南無と、藍奈を拝む綾釣さん。
仕方ないね、巫女の顔がいいのは本当だからね。腹の中は真っ黒だけど。
「なにか言いましたか、ドブ色眼」
「いまは片っ方虹色だろー！」
ぎゃいぎゃいとやり合うあたしと藍奈を、おじいちゃんは微笑んだまま見詰めて。
「スマホというのですかな？ あれのおかげで、最近は外界とも連絡が取れまして、調味料なども調達が出来ます。おかげで、おふたりの和気藹々としたやりとりを拝見できるのですから、まさしく功徳。ありがたや、ありがたや」
またも拝むように、綾釣さんは手を合わせる。
ほんとう、お坊さんみたいな人だ。
「ふむ。スパイスが手に入るのですか？ ならば次回以降は、もそっと辛みをつけた味付けにしてほしいですね」
「承知ですな。善処しましょう」
「佳き佳き」
そんなふたりの会話と、細かな打ち合わせを最後にして。
この日は解散と相成った。
五右衛門風呂で汗を流したあたしたちは、湯冷めする前に寝床へと入った。
「初日からのお約束、くれぐれもお願いしますな……？」
寝入りばな、念押しのように綾釣さんが口にした忠告が、頭の中でリフレインする。
「夜は外に出るな、か」
「危険な野生動物が村の中を闊歩する。実にド田舎あるあるではないですか。おとなしく聞いておきなさい」
「でもさー」
「悪しき。これは心霊バイトですよ？ 好奇心は猫よりも人を殺します」
そうまで言われれば黙るしかなく、数秒後には、あたしは夢の世界へと墜落していた。
§§
地の獄があった。
急峻な山々では裸の亡者たちが燃えさかり、苦悶からか身をよじらせ、一心不乱に念仏を唱えている。
空は焔に蝕まれ、中央に巨大な奈落を抱いていた。
あたしは、飛んでいた。
巨大な鳥のくちばしに挟まれて。
嬰児の顔を持つ、緋色の鳥に弄ばれて。
遠く彼方に、海が見えた。
「些事よ」
誰かのつぶやきとともに、あたしの身体は食いちぎられて。
鳥が、目覚めよと啼き声を上げた。
§§
「――むぅ」
唸りながら目蓋を開ければ、夜の闇が目に染みる。
悪夢の残滓が脂汗という形で全身にまとわりつき、心底気持ち悪かった。
「最悪だ」
またこの夢だった。
あの日から、何度ともなく見る悪夢。少しずつ変化する夢。
そして、この悪夢は――
「……ニッカポッカ。気がつきましたか」
眠りこけていたはずの藍奈が、パチリと目を開き、あたしを見た。
言われなくとも、気がついていた。
音が聞こえる。
家の外から、奇妙な音が。
無言で頷きを交わし、連れだって寝所から抜け出る。
そうして、綾釣さんに気がつかれないよう、慎重に家の外へ向かう。
雇用主との約束は大事だ。
好奇心が人を殺すのも事実だ。
けれど、これは心霊バイト。
無知であることが救いになるとは限らない、最底辺のなりわいだ。
家の外に広がっていたのは、暗黒だった。
都会の比ではない暗闇。
轟々と吹き抜ける北風が梢を揺らし、聞いたこともないような虫たちの不気味な鳴き声が響く。
月明かりは乏しく、照らし出されて伸びる影は、どれも背高のっぽに揺れている。
視界が順応するまで、しばしの時間が必要だった。
「ニッカポッカ」
藍奈の色白は、闇の中で輝かんばかりだった。
失われた陽光よりも、月明かりこそがこの巫女にはふさわしいのだと、改めて確信する。
「…………」
彼女は、ハンドジェスチャーで前方を示す。
そこに、何かがいた。
降りてきたのだと思った。
四方の山々から、野生動物が。
しかし違った。
〝それ〟は、骨のように細い、真っ白な身体をしていた。
夜の中にあって、藍奈よりも目立つ青白い〝それ〟は。
村の中を練り歩きながら、くねくねと、くねくねと、身をもだえさせている。
奇妙な動きだった。
関節を、肉体の限界可動域を無視したようにして、踊るように歩いているのだ。
それは、まるで。
「まるで、人形のようなギクシャク歩きですね」
……そう、人形だ。
人形劇に出てくる、マリオネットが暴れているときの動きに近い。
昼間の記憶がよみがえる。炎の中で身体をうねらせた人形の姿が。
藍奈が、小声で問うた。
「追いますか」
「追う」
「トラブルに巻き込まれるかもしれませんが」
「給料が高い理由がわかるかもしれないじゃん。そしたら脅迫して賃上げ要求できる」
「佳きですね」
「ゲスの極みだよ」
軽口で互いの心を奮い立たせ、足音を殺しながら〝それ〟を追う。
やがて青白い影は、村の外れにある小屋へと姿を消した。
「どうする藍奈？」
「ここまで来て怖じ気づきましたか、弱味噌ですね」
「ちがわい！」
「大声を出さない！」
張り上げてしまった声をかき消すように、小屋の扉が開け放たれた。
『んんんんんんんんんんんんん……！』
飛び出してきたのは、ここまで追いかけてきた青白いなにか。
〝それ〟は、藍那に向かって跳びかかる。
庇うように身を滑り込ませ、あたしは〝それ〟を蹴り飛ばす。
奇妙な手応え。
まるでゴムの塊を蹴ったような――
「形而疆界学による命名。この怪異を〝くねくね〟と仮称します」
「名前は重要じゃないで、しょっ！」
再び躍りかかってくるそれ――くねくねと揉み合いになりながら、畑の方へと向かって移動する。
深い考えがあったわけじゃない。
誰かが巻き込まれたら嫌だと感じただけだ。
『んんんんんんんんんんん……！』
くねくねが、滅茶苦茶に身体を揺さぶり、こらえきれずあたしは吹き飛ばされる。
なんなんだこいつは。
この奇っ怪な存在は、いったい――
そう、強く考えたときだった。
「――ぎぃっ！？」
激痛が、左目を襲った。
焼けた鉄の杭を突き刺されるに等しい衝撃。
同時に、それまで青白い影としか認識できていなかった〝くねくね〟が、禍々しい光を、放射状に投射していることを知る。
――違う。
駄目だ。
理解してはならない。
これは、知ってはならない禁忌の〝理〟。
こちら側ではない、あちら側の理屈。
もし仮に理解すれば、知ってしまえば、あたしは――狂う！
「がああああッ」
明滅する視界。
チカチカと瞬く不吉な光。
それは、
「……糸？」
身動きできないほどの痛みを、奥歯を折れんばかりに噛みしめ殺しながら、あたしは本能的に悟っていた。
〝くねくね〟とは、即ち糸に吊られた――
「チェストー！」
藍奈の大喝があたしの認識を間一髪で阻んだ。
同時に、くねくねの顔へ、べちゃりと、汚らしいものが着弾する。
『んん――んんんんんんんんん……！』
これまでとはまったく異なる、悲鳴のような音を発し。
やがてくねくねは、ぐったりと動かなくなった。
「大丈夫ですか、ニッカポッカ？」
「藍奈……」
何をしたのかと問えば、彼女はすました顔で鼻を摘まみ。
「肥だめの中身を、ぶちまけてやりました。古今東西、怪異は穢れを嫌うものです」
マジか。
「初めて藍奈を巫女だと信じたかも」
「心外ですね」
なんとも思っていなさそうな藍奈の手を借り、あたしは立ち上がる。
そのときだった。
胸の悪くなるような音が響き、
くねくねが、圧搾された。
「最悪だ……」
あたしは、あえぐように呻いた。
「藍奈」
「……ええ、見れば解ります。これは」
あたしは、ありのまま目に映るさまを、口にした。
「くねくねが、人形になった」
この村に来てから、毎日お焚き上げしている人形が。
先ほどまでくねくねがあったはずの場所に、落ちていた――
