第05話 そして俺たちは
教室を移動する時にA組の前を通らなければいけない時がある。
その日の6限の授業がまさにそうだった。
岳と無駄話をしながら廊下を歩いている時に、A組の中を覗くと七城さんが他の女の子と喋っているのが見えた。
「七城さん今日も可愛いよなぁ」
「そうだな」
岳に適当に返す。
とは言っても、七城さんが可愛いことには変わりないのだし。
「友達も多そうだし」
「そうだな」
七城さんが他の女の子と喋っている時の顔を、その時初めてちゃんと見た。
周りに合わせている顔、空気を読んでいる顔。
とても、息のしづらそうな顔だった。
『友達、いないんです』
昨夜、七城さんが俺に向かってそう言った時、俺は嘘をつかれているのだと思ったけど、こうして見るとあれはあながち間違いじゃないのかも知れない。
その時、ちらりと七城さんがこちらを向いた。
一瞬だけ視線が交差する。
「おっ、こっち向いたぞ」
「お前、彼女持ちなんだからもうちょっと節操持てよ」
「馬鹿だなぁ。アイドルに可愛いって言うようなもんだろ。お前、アイドルと付き合いたくてアイドルに可愛いっていうか? 言わないだろ」
「それこそ人によるだろ」
「俺は違うの。そもそも彼女に対する可愛いとアイドルに対する可愛いは別なんだって」
「へぇー」
岳のどうでも良いご高説を聞き流す。
「いや、これは彼女作んなきゃ分かんねぇよ。蓮、お前も彼女作れ」
「お前、なんか最近めっちゃ彼女推してくるけどなんかあったの?」
「ダブルデートしてみたいじゃん?」
「してみたいじゃん? って、ナチュラルに聞かれても困るんだけど」
「なぁ、頼むよ……。マンネリが怖いんだよ……」
「お前、そっちが本音だな?」
俺たちはそのままA組を後にした。
七城さんから、視線を向けられたままなことにも気が付かずに。
授業というのは平凡で、退屈だ。けれど、授業をこなしテストをちゃんとこなせば、大学に近づける。大学を出れば、それなりの仕事につける。少なくとも、俺はそう思っている。だから、バイトをしながら高校に通っているのだ。
教師がひたすら黒板に書いていく文字を板書しながら、俺は授業が終わるのを待った。勉強はしなければいけない。だが、そう思っているだけで授業が楽しくなるわけじゃないのだ。
「宿題は問題集の……」
そろそろ授業が終わりそうなので、教師が問題集から幾つか抜粋して問題をだす。俺はそれをメモしながら、息を吐いた。教師が授業の終わりを告げると同時にチャイムがなった。
「よし、終わり終わり。今日の授業も終わりー」
「元気だな、岳」
「おう。今日は練習が休みだからな。久しぶりに葵と帰るんだ」
「ああ、そいや今日は柔道部の練習休みか」
「そういうこと」
いつにも増してテンションが高い岳。
元気なやつだなぁ、と思いながら俺たちは教科書を持って自分たちの教室に戻る。
「お前も一緒に帰るか?」
「帰るわけねーだろ」
岳の誘いを断る。
向こうが良くてもこっちが気まずい。
「葵は良いって言うぜ」
「俺が嫌なんだよ」
「照れんなって」
「お前時々うざいよな」
「はははっ」
岳と笑いながら教室に戻る。
A組の前を通った時、まだA組では授業をしていた。
教室の後方でしっかり姿勢を伸ばして授業を受けるその様は何かの絵のように思えた。もし彼女のことを写真に撮って何かの賞に出せば、被写体の良さで何かの賞が取れそうだ。
って、昨日もこんなこと考えたな。
「おい、蓮」
「悪い。話聞いて無かった」
「いや、良いんだけどよ。そんなに七城さん見てどうすんだ?」
「そんなに見てたか?」
「食い入るように見てたぜ」
「嘘つけ。そんなに見てねーだろ」
「言っておくけど、昨日のあれは冗談だからな」
「昨日のあれ?」
と、言われて思い返してみると、そういえば七城さんに告白がどうのこうのみたいな話をしていた。
「本当だと思ってるわけねーだろ」
俺は呆れながら、そう返した。
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お金というものはあればあるだけ安心に繋がる、と俺は思う。
今はまだ塾に通っていないが、これから塾に行こうと思うとそのお金も自分で出さないといけないだろう。塾の学費と、生活費。そして大学の入学金のことを考えると胃が痛くなってくるのだ。まあ、今から痛くなっていても仕方ないのだけれど。
「しかし、そう考えるとコンビニ弁当は高いかな……」
夜風を切って自転車を漕ぎながら、ぼんやりと呟いた。
1つ大体500円。
朝は食パンだけで済ませるとしても、昼と夜の2つを合わせて1日の食費は1000円。そう考えると1か月の食費は3万円。
「自炊するか……?」
しかし授業とバイトで疲れた体に夕食を作るだけの元気はない。
だから、毎回コンビニ弁当なのだ。
「はぁ。誰かが作ってくれないかなぁ……」
家に帰ればある暖かい食事。
それがどれだけ希少なものなのか。
「……彼女か」
思わず岳の言っていたことが頭の中で思い出されて……ふと、七城さんの顔が頭に思い浮かんだ。
「アホらし」
頭を振る。
たった1度、困っているところを助けただけだ。
そのお礼に、朝ごはんを作ってもらっただけだ。
それだけで、七城さんのことを頭に思い浮かべるのはあまりに短絡的すぎるというか、七城さんに失礼だ。
そう思って、欲望に染まっていく頭を横に振るう。
いつものように、公園に自転車を停める。
夕食は家ではなく、公園のベンチで食べるのが日課だからだ。
昨日は先客がいたが、今日はいないだろう。
そう思ってベンチに向かって歩くと、
「……え」
彼女がいた。
街灯に照らされて、ぽつりと下を見たまま俯いている少女が。
「七城さん……? 何やってるの?」
「あ、秋月君」
七城さんは俺が近寄ると、ぱっと顔を輝かせて立ち上がった。
「鍵を返そうと思ってお家にお伺いしたのですが、いらっしゃらなかったのでここなら会えるかと……」
「そ、それでこんな時間まで?」
時間としては22時を過ぎてる。
街中ならともかく、住宅街でこの時間はあまりに暗すぎる。
「はい。ご迷惑でしたか……?」
「いや、迷惑じゃないけど危ないよ」
「……良いんです」
七城さんがぽつりと吐き出す。
それは、少しだけ自暴自棄になっているようで。
「いえ、あの。今日はこれだけです。昨日はありがとうございました」
「七城さんの家ってここから近いっけ?」
「……え?」
「送っていくよ。危ないから」
「い、いえ。秋月君に迷惑はかけられません!」
「良いよ。行こう」
「本当に良いんですか?」
七城さんが何度も聞いてくるのが不思議で、尋ね返す。
「何でそんなに遠慮がちなの?」
「だ、だって。その……秋月君が優しいから」
「優しい? 俺が?」
「はい」
これは優しさなのだろうか?
少しだけ自問自答する。
答えはすぐに出た。
こんなものは優しさではない。
これは、強迫観念だ。
俺と同じように困っている人を放っておけないというエゴだ。
だから、こんなものは優しさじゃない。
「……優しくないよ。俺は」
そう吐き捨てると、七城さんを家まで送っていくことにした。
帰り道は、お互いに喋ることは無かった。
ただ、ひどく七城さんの足取りが重い事だけが気がかりだった。
「あの、ここです」
「……大きい家だね」
住宅街から少しだけ離れた場所にある一等地。
そこに立派な門構えの大きな家があった。
和風の家で、相当に歴史を感じるが古臭い感じはしない。かなり手入れしてあるのだろう。と、建築に全く詳しくない俺はそう思った。
「じゃあ、俺はここで」
「あ、あの……。秋月君」
絞り出すような、小さな声。
もしかすると、聞き逃していたかも知れないような小さな声で七城さんが俺を呼んだ。
「うん?」
「もうちょっとだけ……。……付き合ってもらえますか?」
「……? 良いけど」
どうしたのだろうか?
そう思って七城さんを見ると、ひどく身体が震えている。
そして、ゆっくりと七城さんがチャイムを鳴らした。
「陽菜です。ただいま帰りました」
『……いま何時だと思っているんだ』
インターフォンから聞こえて来たのは、ひどく低い声。
「…………すみません」
重たく七城さんが返す。
『今日は帰ってこなくてもよい』
それだけ告げるとガチャリ、とインターフォンは切れた。
「……は?」
意味が分からず、俺は言葉を漏らす。
七城さんはショックを受けているというよりも、どこか安心しているように見えて。
それでも、彼女は迷子の子犬のような顔で俺を見た。
「……あの、七城さん」
「はい……」
「ウチに、来る?」
「良いんですか?」
俺は頷くことしか、出来なかった。