17 布マスク2枚
古い生活様式を守る会の「会長」がゲスト出演するアマビエ・チャンネルの配信が開始するわずか5分前、コビット三兄弟は三人揃って帰宅する。
帰宅といっても、1階の事務所から2階の自宅へと移動するだけである。
それは在宅ワークというのではないかと思う向きもあろうが、そうではなかった。
コビット三兄弟にとって事務所はあくまでも仕事専用のスペースであり、プライベートな空間とは区別される。
いまや大企業から中小企業まで、オフィスを持たないかあっても必要最低限の機能しか有していないのが一般的だ。
探偵という職業も例外ではなく、むしろオフィスを持っている方が珍しかった。
そんな中にあって自分たちの事務所を持っていることはコビット三兄弟の誇りだった。
いつか小さくても事務所を構えるんだ。
何があってもその事務所を守り抜くんだ。
若い頃3人で誓い合ったその夢をコビット三兄弟は忘れない。
「8時から待ってるのにまだはじまらねえ」
「今日はもう切り上げようぜ」
「いや、でも5時間も待ったんだ。もし5分後にはじまるとしたらどうする?」
「せっかく待ったのが水の泡だ!」
「でも本当にあと5分ではじまるのか?」
「そんなの誰にもわからねえよ」
「さっきから何回、あと5分って言ってるんだ?」
「8回目だ」
「今日はもうねえよ。まともな人間なら寝る時間だろ」
「あのアマビエ様とかいうのが、まともな人間に見えるかい?」
「見えないね」
「俺たちはどうだ? まともな人間か」
「まともさ。間違いねえ」
「それならもう帰って寝ようぜ」
「でも俺たちが寝た瞬間に奴の配信がはじまる可能性だってあるぞ」
「よし、わかった! ここは民主的に多数決で決めよう。いますぐ仕事を終えて寝るか。このまま眠らずに朝まで待つか。寝たい奴は?」
三人が一斉に手を挙げた。
しかし、この日、コビット三兄弟は結局朝まで眠れなかった。
帰宅するなり、コビット19号が郵便ポストにあるものが届いているのを見つけてしまったからだ。
「おい、たいへんだ! 届いたぞ」
19号は17号と18号をリビングに呼び寄せる。
19号は、届いたそれを右手と左手に1枚ずつ持って掲げる。
布マスク2枚である。
全世帯に2枚の布マスクが初めて配布されたのは2020年のことだった。
マスクの供給不足を受けての政府渾身の政策だった。
布マスク2枚の配布は、その後も1年に1度、恒例行事として毎年この時期になされた。
すでにマスク不足は解消されているのになんのために?
多額の税金を投入したこの無意味な政策の継続に、多くの批判が集まったが、政府から納得のいく説明がなされることはなかった。
布マスク2枚の配布には、いまだウイルスとの戦いが終わっていない事実を国民に意識させるという象徴的な意味があるのだ、と誰かが言った。
3人の家に2枚のマスク。
コビット三兄弟にとって、それはいつも口論の火種だった。
3人のうちどの2人がマスクを手にするのかを巡っての、熾烈な争いが繰り広げられる。
むろん誰一人このマスクを必要としていなかった。
このマスクを獲得すること、それ自体に象徴的な意味があるのだ。
「今年は俺がもらう番だよな」
「なんでだよ」
「去年もらえなかったんだから、当然だろ」
「一昨年は俺がもらってない」
「じゃあ、今年は俺と18号ってことでいいだろ?」
「待て待て。去年がどうだったかなんて関係ない。むしろこれまでの累計で考えるべきじゃないのか」
「よし、ちょっと待ってろ」
18号は毎年記録をつけている布マスク帳を持ってくる。
過去14年分、その年のマスクが誰の手に渡ったかが記録されていた。
記録によれば、14年分合計28枚のマスクのうちそれぞれが得た枚数は以下だった。
17号 10枚
18号 7枚
19号 11枚
「ほら見ろ。19号がいちばん多い。今年は俺と18号で決まりだな」
「いや違うだろ。俺だけすごく少ないんだから、俺が2枚もらうのが道理ってもんだ」
「なに!? 2枚ともひとり占めするなんて許されないだろ!」
「よく見ろよ。俺なんて3年連続でもらえなかったこともあるんだぞ」
「はははっ。俺はここで5年連続もらってるぞ」
「だからお前には今年はやらねえ!」
「俺が2枚もらったってまだいちばん少ないんだからな」
「いやいや、17号、18号、お前らは二人とも間違ってる。よく考えてみろよ。なぜ18号だけこんなに少ないのか。それは俺たちにはじめから平等に分け合おうなんていう発想がなかったってことじゃねえか?」
「だから少しでも平等に近づけるために……」
「そうじゃねえよ。これまでの累計で18号は7枚。俺は11枚。その差は歴然だ。お前が2枚もらったところで、俺にはかなわねえ。だとしたら、これまでの累計だとか、去年がどうだったかとか、そんなのは一回忘れようや。いまここにある2枚のマスクを3人のうち誰が手にするのか、そのことだけをまっさらな状態で一から考える。それこそが本当の意味での平等ってもんじゃねえか?」
「……じゃあ今年のマスクは誰がもらうんだよ」
「俺だ!」
「俺だ!」
「俺だ!」
このようにしてコビット三兄弟の夜は更けていった。
アマビエ様の配信がはじまったことに気づく者はいなかった。