第十六話
これを渡してしまったら本来の目的を達成できない。しかし、ロゼを見捨てる事はサクラには出来なかった。まだ短い付き合いだが、目の前の命を救えるのに見捨てるのは、何か違うような気がしたのだ。
「サクラ……」
ロゼが申し訳なさそうにサクラを見る。
「大丈夫。なんとかなるよ、きっと」
気休めだ。ただの気休めだとロゼは痛感した。完全に足を引っ張ってしまった。後悔してもしきれないだろう。何がサクラを護るだ。笑わせる。ロゼは自分の顔を右手で覆った。
「ねぇ、なんでその薬が必要なの?」
素朴な疑問だ。なんとなく、気になってしまった。その問いにネルはサクラを一瞥する。睨んでいる、と言い換えてもいい。
「あっ、待って。いい。答えなくていいから」
自分で質問をしたのに、両手を前に突き出し左右に振りながら答えるのをやめてくれと言う。これに答えさせてはダメだ。その理由はその先にある。
「答えなくいい。だから、この結界を解いて」
これが本命。
薬を渡したのだから、こちらの言う事も聞くべきだ、という顔をしている。ネルはこれに応える必要はどこにもない。これは物々交換ではないのだ。得られるのは勝者で、敗者には何もない。
「この薬がなくては意味がないのだろう」
行くだけ無駄だ。この薬があってこそ、あの二人を救える唯一の物だったのに、それがなくなれば、行く意味をなさない。
しかし、サクラは――。
「大丈夫」
一言だけネルを見つめてそう言った。
二人の視線は数秒外れることなく、お互いの真意を探っていた。先に視線をそらしたのはネルの方だった。
くだらない、何も出来るはずがない。自分がそれを今しがた奪ったのだから。これさえあれば他はどうでもいい。この黒死病が止まらなくてもかまわない。忘れ形見の言う事など聞く必要はどこにもないのだ。
「……次の満月の夜だ」
ネルはそれだけを言って、すべては終わりだとばかりにその場から離れようとする。
罪悪感。
そんな感情が自分に残っている訳がない。しかし、なんとなく、なんとなく可能性があるなら勝手にやればよい。そう思った。リリーにはそれなりに世話になったし、これぐらいなら礼になるだろう。それに問題はもう一つ残っている。
教会側が張ったもう一つの結界。
あれをどうにかしなくては問題は解決しない。だが――。あの司教がいるならなんとかなるだろうとネルはふんだ。なら自分はかかわる必要などどこにもない。結界が解かれればあれは放たれるだろう。その時に近くにいれば巻き添えを喰らうかもしれない。自分には優先事項がある。長い派無用だった。
「わかった、ありがとう」
サクラは短く礼を言い、話はこれで終わりだ。これ以上は長く留まらない方がいいだろう。余計な思考が産まれる前にお互い離れた方が身のためだ。
ネルは後ろ髪を引かれる事なくその場を後にする。しかし、それを止める声が上がる。
「師匠!」
ロゼがネルの背中に言葉をぶつけた。しかし、ネルの歩みは止まらなかった。振り返る事もせずに歩き進める。
「わ、私はッ! 貴女が何をしようとも、命の恩人である事に変わりはないッ! 必ず、黒死病が止まったと、貴女の耳に届けます!」
ネルは歩みを止めない。
「だから――」
ネルは振り返りもしない。
「どうか、お元気で」
ネルの表情は誰にも見えなかった。しかし、ネルのかすかな声をワーウルフと化したサクラだけが聞き逃さなかった。
「お前もな」