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魔女物語  作者: 夜行
終章「魔女狩り」
20/90

第六幕


 あの時、復讐を誓った。

 血まみれで動かない両親。それを見下ろす真っ黒な魔女。この魔女が自分の両親を殺した。自分の日常を奪った。世界を、変えたのだ。

 変わらなくて、よかった。

 平凡な毎日でよかった。刺激など、求めなくてよかった。ただ、両親と楽しく静かに暮らせれば、それ以上は望まない。

 この、魔女が変えたのだ。

 あの時の気持ちをアルビノは今でも忘れていない。しかし、確実に記憶は風化する。気持ちも風化する。

 風化して、美化してしまう。

 今一度、あの時の記憶を呼び覚まし、自分を奮い立たせる必要があった。

 なのに――、なのに、その言葉たちは、アルビノを否定した。

「私はあなたを殺さなければならない」

「え?」

 一瞬アルビノは自分に向かって言われたのかと思った。しかし、そうではなく、その言葉はオルガに投げられたものだった。

「はたしてうまく殺せますかねぇ」

「今現在、あなたが生きているのは私が手を抜いているからよ。なぜ手を抜いているのかわかる? それはね、この手で、同じ殺し方をしてあげようと思っているからよ」

「お~、それは怖いですね。しかし、そんな十数年も前の事をまだ言いますか。根に持つタイプですねぇ」

 この二人の会話が見えない。一つだけわかることは、この二人が因縁の相手で、お互いを知っているということだ。今が初対面ではない。

「……知り合い、だったのか?」

 アルビノが恐る恐る訊く。

「そんなわけないでしょう気持ち悪い」

「ひどい言われようですね」

 ペストがここまで怒りを露骨に出しているところを、アルビノは初めて見た。視線は一瞬も外さずにオルガを見据えている。

「あなたの怒りは二つですね」

 オルガは右手の指を二本立てて前に突き出した。

「まず一つ。友達を殺されたこと」

 中指を曲げたり伸ばしたりする。

「これは仕方がない事ですよ。魔女と接点を持つのは重罪ですし」

 友達を殺された。アルビノはペストにそんな存在がいたことに驚いた。

「本当に気のいい人たちだったのよ。私を魔女と知っても普通に接してくれたし。よく呑んだしね」

 それはつまり人間だったということ。

「あなたが怒っていること二つ目。取り残された子供がつらいめにあった事。あたなはむしろ友達を殺されたことよりも、そっちの方に怒っているんじゃありませんか?」

「そうね。そうかもしれないわね。正直なところ、あの人たちが殺されてもそれほど落ち込まなかった。でも、年月が経って、その子の事を考えると……」

「その子の幸せも奪った私が憎い、と」

「そうなるわね」

 ペストがここまで人間に関心を寄せるとは珍しいとアルビノは思った。よほどその人間の友達とは仲が良かったのだろうか。

「それで……お前は恨んでいるのか。俺と、同じじゃないか……」

「同じではないわよ」

 ペストは冷たく言い放つ。

「でもよーく考えてくださいよ。そのおかげであなたは少なからず幸せを手に入れたでしょう?」

「私の幸せなんてどうでもいいのよ。その子の幸せの方がよっぽど大事」

「立派に育ったじゃありませんか、ねぇアルビノくん?」

「……その子は、その子は、今はどうしているんだ?」

 訊くべきではなかったのかもしれない。

 その質問に答えたのはペストではなく、オルガだった。

「あなたですよ」

「え?」

「その子はあなたですよ。アルビノくん」

「…………」

 言葉が出なかった。

 ペストの顔を見れば、深く眼を閉じていた。まるで真実から眼をそむけているようだ。

「黒死の魔女のお友達はあなたの両親で、あなたの両親を殺したのは黒死の魔女ではなく、私ですよアルビノくん」

 ニッコリと笑顔で言うのでとても信じられない。これは何かの嘘だ。もしかして、二人とも大の仲良しで自分を驚かせようとしているのではないかと思った。

 ペストのまぶたがゆっくりと開かれて、その真紅の瞳がアルビノを見る。

「事実よ」

 気が付けばアルビノはペストの胸ぐらを掴んでいた。

 なんという言葉を言えばいいのか。どんな気持ちで言えばいいのか。そのすべてが摩耗しているかのように言葉は出てこなかった。

「そりゃそんな気持ちになりますよねぇ。今まで仇だと思っていた相手は、実は命の恩人に等しい存在だった。きっと、ずっと愛情を送られてきたのでしょう。そして自分を恨むように仕向けさせられてきたのでしょう。それが、生きる糧となると思って。実際にどうでした? そのおかげで今まで生きてこれたんじゃないですか? さて、ここで質問ですアルビノくん。あなたに黒死の魔女を殺すことが出来るでしょうか?」

 あの時のオルガの言葉がよみがえる。

『無理ですね』

「きみは情に熱い人間だ。それはきっと両親をなくしているから、人との繋がりを求めてしまうのでしょう。それに曲がりなりにもここまで育ててくれた魔女。仇であっても殺すことは無理でしょうね」

 悪魔の囁きとも思える言葉がアルビノに浸透していく。まるで細胞を食い尽くすガン細胞のようだった。

 そしてそれを止めれるのは一人しかいない。

 ペストはそっとアルビノの顔を両手で包む。

「あなたの両親の仇は私が討つ」

 そっと顔を抱きしめる。自分で力が抜けていくのがわかった。どうしろというのだ。どうしようもないじゃないか。今まで自分が生きてきた意味はなんだったのだろうか。

 自然と涙がこぼれてくる。

 ペストはゆっくりとアルビノの顔から手を放すと前を、オルガを見据えた。

「おやおや、怖い顔ですね。美人が台無しですよ?」

「あなたは苦しませて殺す。泣きわめいても許さない」

 あぁ、今から始まる。自分の両親を殺した人間と、不器用な魔女の殺し合いが。どうすればいいのだろうか。二人が殺し合うのを終わるまで、どちらかが死ぬまで見ていればいいのだろうか。

 普通に考えてペストが勝つだろう。それは確実に言える。

 相手は自分の両親を殺した人間だ。死ねばいい。頭ではそう考えてわかっているはずなのに、身体は違うようだった。

 アルビノはペストの前に両手を広げて立ちはだかった。

「おや?」

「何を、しているのよあなたは」

 そんなもの、こっちが聞きたいぐらいである。

「……に、人間を、殺しちゃ、ダメだろ」

 くだらない理由だった。それぐらいしか思いつかなかったのだ。なぜ、自分がこんなことをしているのかわからない。まるで自分の身体ではないようだし、言葉も勝手に出てくる。

「本当の仇を自分で殺したいの?」

 そう問われてどうなのだろうかと思った。言われてみればたしかにそんな気もする。

「あなたが納得しないのはわかる。けどね、私はあいつを許せないのよ。私の友達を殺したこと。それに、そのせいであなたがこんな辛いめにあっていることが」

 それでも――。

「……それでも、ダメだ。ちょっと、みんな落ち着こう」

 震える声が鼓膜を揺らす。訊いてあげたい、叶えてあげたい。ペストはアルビノの望む事は出来る限りしてあげたいと思う。しかし――。

「これを逃せば、もう、無理なのよ。これが最後。大丈夫、すぐ終わるから」

 アルビノはそんな優しい言葉を鷲掴みにする。

「……待ってくれ。もうちょっと整理したいんだ」

「無理よ。時間がない」

 二人の押し問答が続く。

 そしてオルガはそんなものを黙って待っているはずがない。

「騎士団のみなさん、いきましょうか」

 その言葉とともに、統率されて銀の軍団が一斉に動き始めた。綺麗な波のように一定の動きとバランス。誰一人ズレることなく走り出す。

 逃げられない。

 だったら方法は一つしかなかった。

 ペストの真紅の瞳が爆発的に輝きを増す。

「ま、待て! やめろッ!!」

 アルビノが大声を出してペストを止めようとするが、人間に魔女が止められるはずはなかった。

 何もない白から、小さな小さな点が生まれた。針の先端よりも小さく細く、細胞よりも小さなそれ。そしてそれが一気に急成長を身体のいたるところで始めた。

 身体の異変に気が付いた人間たちは皮膚をこする。しかし、絵の具ではないので消えることはない。

 まず寒気が全身を貫いた。すぐに高熱が出て視界はブレ、膝をついて地面へと倒れこむ。意識は朦朧となり、そのまま眼を閉じる者もいた。体中に黒い斑点が出来てそれがどんどんと広がっていく。

 黒く、何よりも黒い死のウイルス。

「こ、これは……」

 オルガは自分の手のひらに広がっていく黒死病を見て驚愕する。そして悟るのだ。手の施しようがない。恐るべきはその進行スピード。ものの数秒で全身へと広がっていった。オルガも他の騎士団と同様に地面へと屈服した。

「もういいッ! やめろッ! やめてくれッ!!」

 アルビノはペストに懇願した。これ以上人間を殺すのはやめてくれと。

 ペストの瞳の光が急速に失われていく。黒死の力は止まった。アルビノが安堵して振り返るとそこには誰一人として立っていなかった。全員が倒れている。動かない者がほとんどで、わずかに動いていても震えているだけだった。

 そこに生は存在できていない。

「……そんな」

 やりようのない想いがアルビノを責め立てる。ペストを責めることはしなかった。いや、できなかったのだ。そんな事ができるはずがない。

 ただ、ペストを見ることしか出来なかった。ペストも眼をそらさずにアルビノを見つめる。しかし、その視線が外れた。

 その顔は驚愕の眼差しとなり、ペストはアルビノと身体を瞬時に入れ替えた。

「何を――」

 倒れそうになりながら自然と視線がそれを捉える。

 綺麗な光。まるで曇天の中から突き抜ける後光に見えた。しかし、その光は空から地面に出てはいなかった。

 真横に。

 空と地面と平行していたのだ。

 そしてそれは真っすぐに自分たち目掛けて飛んできていた。アルビノは自分に当たりそうだと思った瞬間、目の前にペストがいた。

 なぜ、自分の目の前にペストがいる? 思考はゆっくりと巡る。こんなにも時間が長く感じたことはない。なのになぜか、ひどく焦っている。

 言いようのない不安が向かってきているようだった。

 その光がペストに当たった瞬間、時間は急速に進んだ。

 目の前でペストが倒れていく。長い黒髪は嵐のようにあらぶって見える。倒れたペストの胸には一本の光の矢が刺さっていた。それを理解したら自然と叫んでいた。

「か――、母さんッ!!」

 その光の矢は破邪の矢。三種の神器の一つとして語り継がれてきた悪しきものを祓う光の矢だった。

 それが見事にペストの心臓へと刺さっていた。

 アルビノはどうしたらいいのかわからずにうろたえるばかりだ。倒れているオルガが、してやったぞと不敵な笑みを浮かべていた。最後の力を振り絞って破邪の矢を射たのだろう。

 どうすればいい、どうすればいい。

 アルビノ頭は高速で回転する。ここに立っている生物はもはや自分しかいなかった。ペストの上半身を抱きかかえて祈ることしかできない。そんなとき。

「……逃げなさい」

 ペストが口だけを動かした。きっとこのあとにも教会騎士団がやってくるだろう。そうなったら、本当に逃げ場などなくなる。この地に安住の地はもはやなくなるのだ。そうなる前に逃げる。

 こんな状況でも自分の事よりもアルビノの事を優先した。しかし、そんな言葉に従えるはずがない。考えついたわけではない。アルビノはペストを抱きかかえて走り出していた。どこに向かうのかは自分でもわからない。

 ただ言えることは一つだけ。絶対に助けてみせる。





 形勢逆転の一撃とはこのことだろう。

 視界は暗黒でまったく見えないが、手ごたえは感じられた。

 勝った。確実にとった。グーペルは勝利を確信する。そしてそれを確認すべく、まだ視界の戻らない双方をゆっくりと持ち上げた。

「な、ん――」

 次はグーペルが驚愕する番だった。これは果たして夢なのか。まだ幻覚を見ているのだろうか。眼はあてにならないかもしれないが、この波動を間違えるはずはなかった。

 グーペルの銀糸はたしかに捉えていた。しかし、それが捉えていたのはリリーではなく、その間に割って入ったワーウルフだったのだ。

 リンドウは間一髪でグーペルの銀糸を左手で掴んで止めた。普通なら銀糸に触れることなど出来ないだろう。だが、強靭なワーウルフの毛がそれを可能にしていた。それでも掌から出血している。

 リンドウは掴んだ銀糸を力まかせに自分の方へと引く。銀糸に繋がれているグーペルは当然それに引っ張られる形となる。成すすべもなく身体が空中に浮いて、月の引力に引っ張られるかのように吸い込まれていく。そこに待つのは唸り声をあげて鋭い爪と牙を持つ化け物だ。

 リンドウは右拳に力をこめる。それを察してグーペルは胴体を守るように両手でガードをするが、そんなものはリンドウには関係がなかった。その上から渾身の一撃を叩き込む。

「かはっ――」

 衝撃波が背中から突き抜ける。骨の砕ける音が直接頭の中で響いた。肺の中の空気はすべて外へと逃げて、変わりに肋骨が肺に刺さり血がその中に津波のように押し寄せる。行き場をなくした血たちは、空気が逃げていった後を追うように外へと流れ出た。

 グーペルは吹っ飛び大地を転がった。銀糸は引きちぎれ、その左手に残った銀糸をリンドウは無造作に捨てて振り返る。

 当然そこにはリリーがいた。大丈夫だ、生きている。

 安堵のため息と共に変化を解いた。眼が合った瞬間だった。今まで驚きの表情をしていたリリーの顔が一変した。小さな身体で大きく一歩前へ出てリンドウの服を鷲掴みにする。

「なぜ来たッ!」

 今までこれほどまでに怒ったリリーを見た事があっただろうか。いや、きっとこれが初めてのはずだ。なのに、怖いとは一つも思わなかった。

「答えよ! なぜ来たッ!?」

 きっとどんな答えを言ったところで納得はしないだろう。だからリンドウは嘘偽りなく答える。

「天秤にかけたんだ」

「天秤じゃと!」

「そう、天秤。ママ一人と他全部。そしたらさ、なんでかな。簡単にママの方に傾いちゃったよ」

 悲しく笑った。

「このッ……莫迦者がッ」

 リリーはリンドウの服を掴んだまま俯いた。わかっている、わかっているのだ。最初に言うのはこんな言葉ではなかったこと。感謝の一言だったこと。

 それに、たまらなく、嬉しい。

 助けに来てくれたことが、この世の全部よりも自分を選んでくれたことが、何よりも嬉しかった。

「莫迦じゃ……お前は大馬鹿者じゃ……」

 すでに服を掴む手に力は入っていなかった。リンドウはその手を優しくとって、自分の手で掴んだ。小さな手。自分よりもずっと大きかった手が、今では自分の手がふた回りほど大きかった。

 この手を掴む。間違ってはいないと言い切れる。

「ママ、一緒に逃げよう」

「……もう、人として、生きれぬかもしれんぞ?」

「僕は、人間だよ。ずっと変わらない」

「いや、わからんぞ。儂がお前を化け物に変えてしまうかもしれん」

「化け物になって、命が伸びるならいいよ。ずっと一緒にいられるしね」

「やっぱりお前は莫迦じゃの」

 二人は小さく笑い合った。

「は~、どこで育て方を間違えたのやら」

「まぁ、最初の子育てなんてそんなもんじゃない?」

「お前が言うな。いたた」

「大丈夫?」

 よく、見ればリリーは傷だらけだった。

「本当はすぐにでも出発したいんじゃが、ちと家に戻って薬をとってくるか。そこに転がって奴の所為でカバンの中がめちゃくちゃじゃわい」

「まぁ、出来るだけ急ごう。アルビノたちのとこに教会騎士団がもう来ている。こっちに流れてくる可能性が高いよ」

「いいのか?」

「ん? なにが?」

「親友がピンチかもしれんぞ?」

 悪い顔だ。さんざん人を莫迦扱いしてきたので、またここでも変な選択をすると思っているのだろう。だからリンドウはこう返す。

「僕が変な選択をするのはママが関係していることだけだよ」

「信用ならん」

「ひっどー……」

 いつまでもそんなやり取りをしていたかったが、そんな時間はない。急いで家に戻って必要なものをとって逃げる。

 正直なところ、リンドウは教会騎士団はここへはやってこないような気がした。だから素直に家に戻ることに反対はしなかったのだ。その理由は一つだ。アルビノとリンドウがいる。きっとアルビノは自分でも気が付いていない気持ちに気が付くはずだ。きっとペストを守ろうとするはずだ。そしてペストがアルビノを全力で守るはずだ。

 だったらあの二人に心配はいらない。

「素直じゃないよなぁアルビノも……」

 気持ちに気が付いたあとの二人の関係性がどうなるのか見れない事が心残りだったが、それを想像して楽しむことにしよう。

 家へと戻ってリリーは薬を探す。その間にリンドウは部屋を見てまわった。どれも思い出深いものばかりだ。想いを馳せているとリリーが呼ぶ声が聞こえた。どうやらお目当ての物があったのだろう。それはつまりこの家を出る時間だということ。

「もういいかの?」

 どうやら少し時間をくれたらしい。

「うん、大丈夫」

 いつまで見ていても飽きないだろう。もうここに戻って来ないと思うと胸が締め付けられる。しかし、いつまでも感傷に浸っている場合ではない。

「よし、行こうか」

「じゃな」

 二人が家を出ようとした時だった。二人の耳に慌ただしい足音が聞こえた。リリーとリンドウはすぐにしゃがんで息を殺す。お互いに視線だけで会話をする。

『なんにんぐらい?』

『おおくはないの』

『どうする? かくれてる?』

『にんずうによるの』

 耳を澄ませて神経を研ぎ澄ます。

「あれ? なんか――」

 リンドウが小声を出す。

『なんじゃ?』

 と、リリーが首をかしげた。

「アルビノ?」

「なんじゃと?」

 耳と鼻の感覚には自信があった。この足音は聞いた事がある気がする。そして、ただ事ではないように余裕がない足音だった。

「リンドウ! いないのか! 俺だ!」

 やっぱりアルビノだ。二人は顔を見合わせて外に出ていく。眼に飛び込んできたのは眼を閉じたリリーをかかえているアルビノだった。

「どうしたの!?」

 アルビノはペストをゆっくりと地面におろして、そのまま立ち上がらなかった。膝を折り、両手と額を地面につけて叫ぶ。

「頼む! 母さんを助けてくれ!」

 何重の意味で驚いたことだろうか。二人を眼を丸くして顔を見合わせた。

 リリーがそっとペストに近づく。

「ふむ、なるほどの」

「頼む! 助けてくれ!」

 いまだ地面に額をこすりつけて懇願している。リリーはそれを見下ろすかのようにゆっくりと立ち上がって膝についた土をはらう。

「これは破邪の矢じゃな。しかしこれは――」

「どうしたのママ?」

 リリーは手を顎にあてて唸る。

「これは……レプリカじゃな。本物じゃったらとっくに死んどるわい」

「なら、助かるのか!?」

「どうかの。即死はまぬがれた、といった感じか。それがイコール助かるになるとは限らん」

 アルビノは再び絶望の顔をする。

 助からないのか?

 助からないのか?

 リリーはリンドウの方を振り返って言う。

「リンドウ、お前が決めよ。助けるか、追いて逃げるか」

 助けるという事はその分、時間がとられるということだ。それはつまり自分たちの命の危険を意味する。

 アルビノは顔をあげない。

「助けてあげようよ、お母さんを」

 その言葉がリンドウの胸にささった。ペストを母と認めたアルビノの心の変化。こんな絶望的な状況なのにリンドウはそれが嬉しくてたまらなかった。

「そう言うと思ったわい」

 リリーもどうやら同じ気持ちだったらしい。

「よし、ペストを家の中に運べ!」

「ありがとう! 感謝する!」

「何言ってんのさ。僕ら友達でしょ?」

 言ってリンドウはアルビノに手を差し伸べた。それをグッと握り返して立ち上がる。

「ほれ、ぼさっとするでない! 湯を沸かせ!」

 二人はせっせとリリーに言われたことをこなしていく。

 そして準備はできた。なんの準備かというと、もちろん矢を抜く準備だ。

「……抜けるのか?」

「さぁのぉ」

「ママ!」

「だって儂だってわからんよ。レプリカとはいえ、破邪の矢じゃ。それに普通に考えて物質が心臓に刺さっておるのじゃぞ? 普通は死んどるわい」

 三人はペストの胸に刺さった破邪の矢を見つめる。しかし、見つめているだけでは意味がない。リリーは厚手の手袋をはめた。素手で触れば自分にも影響がでる。

 グッと破邪の矢を右手で掴む。大丈夫だ。何も拒否反応はない。左手は薬の入った小瓶を持っている。

 リリーはリンドウとアルビノを見る。二人はグッと頷いた。

「ゆくぞ」

 一気に引き抜く、と同時に左手の薬をかける。薬は蒸発するかのように煙へと変わっていく。瓶を投げ捨てて薬草を胸に押し当てた。その薬草は花の魔女であるリリーが特別に用意した物。薬草は蠢き、傷口へとすぐに這入っていき傷をふさぐ。時間が経てばそのまま血肉になるだろう。

「……だい、じょうぶなのか?」

「……どうじゃろか」

 三人は心臓を高鳴らせながらペストを見守る。するとスーっと鼻から息を吐く音が聞こえた。

「うむ。なんとかなるもんじゃな」

 その言葉を聞いたアルビノは天を仰いだ。リンドウはリリーとハイタッチをした。しかしここでリリーがある異変に気が付く。

「んん~?」

 ペストをまじまじと見つめる。何かがおかしい。何かに違和感を感じる。違う逆だ。違和感がなくなっている。

「どうしたのママ」

「……いや、しかし、まさか」

 はっきりしないリリーにアルビノは生きた心地がしなかった。

「お前らならわかるじゃろ。よく感じとってみよ」

 感じとる。何を感じとればいいのだろうか。そもそも、今まで何を感じていたのだろう。

「あ……っれ……、なんか……」

「違和感が……あるような気が……。いや、違和感を感じなくなった?」

 二人も何かを感じたらしい。しかしそれが何なのかわからなかった。リリーが答えを口にする。

「お前たちが感じていたのは魔女の波動。それを感じなくなったんじゃよ。それが違和感がなくなっていると感じておる」

「なんだか意味がよく……」

「つまるところこやつは――」

 リリーは衝撃の事実を告げた。

「――人間に戻っとる」

「…………」

 二人は絶句した。

「……そんな事ありえるの?」

「初めて聞いたの。まぁ今まで破邪の矢を心臓に受けた者も生還した者もおらんかったし、魔女が人間に戻れるとは誰も考えたこともなかったじゃろうな」

 破邪の矢は悪しきものを浄化する。魔女という力の根源を浄化した、と考えた方が普通だ。

「理屈はわからん。じゃが命は助かっておる。が、こやつはもうただの人間じゃ。今後どうなるかは……神すら知らんじゃろう」

 誰も知らない。

 誰もわからない。

「お前にこの先、ペストと共にあるという覚悟があるかの? ないなら、ほれ」

 リリーは破邪の矢をアルビノに手渡した。

「ずっと殺したいいうとったろ。今がその時ぞ」

「ちょっとママ!」

 リリーは手でリンドウを制した。アルビノは手渡された破邪の矢に視線を落とす。しかし、すぐに視線をリリーに戻した。

「俺は助けてくれと言ったんだ。これはもう必要ない」

 静かに机に破邪の矢を置いた。これは決別だ。あの時の自分との決別の証だ。

 リンドウはホッと胸を撫でおろした。

「今後、今まで通りにはいかんぞ。それはペストが目覚めてから始まる。そのときにはもう儂らはお前のそばにはおらん。全部お前がこなさなきゃならんぞ?」

「わかっている。礼をいう。助けてくれてありがとうございました」

 アルビノは身体をくの字に折り曲げた。

 それを見たリリーは「ふん」と鼻を鳴らしてその部屋を出た。

「ねぇアルビノ、どういった心境の変化があったのかは知らないけどさ、また今度ゆっくり聞かせてよ」

 次に会う約束など出来はしない。無事に生き残れるかもわからない状況だ。しかし、リンドウはまるでまだ日常の中にいるように、子供の頃の時みたいにまた明日遊ぼうという感覚で言った。

「あぁ、また時間のあるときに」

 何度これが最後と思って別れたのだろうか。もしかして赤い糸で繋がれているのかもしれないと本気で思いそうになる。しかし、赤い糸よりも強い友情の絆で結ばれていると二人とも思っているだろう。

「リンドウ、そろそろゆくぞ」

「うん」

 もう少しゆっくり話をさせたいとリリーは思ったが、これが限界だ。アルビノの話によると、教会騎士団のすべてがペストの黒死の力によって全滅したらしいが、その次がもう来ていてもおかしくはない。

 振り向いてはダメだ。リンドウは必死にそれを堪える。

「大丈夫かリンドウ」

 リリーが優しく声をかける。

「うん、大丈夫」

 玄関を出て空を見上げる。もうすぐ夕日が落ちそうだった。ゆっくりしていられない。そして一歩を踏み出そうとしたときだった。

「リンドウ! しっかりやれよ!」

 返事はしなかった。ただ少しクスリと笑ってしまった。

「なんじゃ?」

 リリーだけが意味がわからずに首をかしげている。

「いや、なんでもないよ。行こう」

 二人は手をとってその場から離れた。



 あいつならきっと大丈夫だと二人の去って行った扉を見つめる。あっちはきっと幸せな結末が待っているだろう。

 しかし、こっちは……。

 アルビノはまだ眼を覚まさない母を見つめる。眼を覚ましたときにどうなるのか。まったく見当もつかない。

 記憶がないかもしれない。

 暴走するかもしれない。

 それでも、いい。そのすべてを受け入れて自分が守ればいい。ペストがずっと自分を守ってくれたように。今度は自分の番だ。

 それが果たして自分に出来るのだろうかと心配になる。きっと不器用だから失敗もたくさんするだろう。その時はあやまって許してもらおう。

 そんなことを考えていたら少しおかしくなって笑ってしまった。こんな状況だというのに不謹慎だ、とは思わなかった。

 大丈夫、自分はまだ笑ってられる。そしてペストとも笑い合えるはずだ。そんな未来が必ず待っているはずだ。

 アルビノはシニカルに笑った。

 だから、荒々しい足音を聞いたときも何も焦ることはしなかったし逃げなかった。このまま流れに身を預けてみよう。逆らう事なく流れに身を任せれば、この荒々しい波も乗りこなせる気がした。

「君は……士官学校のアルビノか。なぜここにいる?」

 一人の教会騎士団が聞いてくる。

「それは誰だ? 死んでいるのか?」

 ごまかすことはしない。真実のみを告げて流れに身を任せると決めたのだ。そこに嘘は必要ない。逆らう必要など、どこにもないのだ。

「この人は、黒死の魔女……俺の母親です」

 アルビノは眠るペストを見ながら穏やかな顔でそう言ったのだった。




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