第五幕
何年前からこの場所に移り住んだのだろうか。
何年前からこの家に住んでいるのだろうか。
リリーはせっせと荷物をまとめていく。自分の身体よりも大きいのではないかと思うぐらいのリュックにどんどんと物をつめる。
「ま、こんなもんじゃろな」
そう言いつつも、まだ納得できていないのか部屋を見渡している。必要なものは全部この中に詰め込んだし大丈夫だ。
「よっ、と」
それを背負って立ち上がると、かなりの不格好だ。家の外にでて我が家を振り返る。
思い出されるのはリンドウと過ごした日々だった。一人で住んでいた時間の方が圧倒的に長いが、そんなものは忘れてしまった。
あの最高の出会いから十二年の月日が経っている。家にはもちろんリンドウの痕跡が残されている。あの壁の傷は身長をはかったときのものだ。あそこの地面のくぼみは果物を植えようとして穴を掘ったときのものだ。結局疲れて掘れずに諦めてしまった。外のテーブルとイスが四つ。友人もできた。いつもあそこに座ってペストと子供二人を見守ったものだ。
どれもいい思い出だ。
そんな思い出から離れなければならない。一生忘れないと言い切れるが、それでもどこか寂しい。いつかは摩耗して風化して自分の記憶から消えることが何よりも怖かった。
リリーは首を横に小さく振った。まるで想いを断ち切るように。
「……行くかの」
行き先は決まっていない。とにかくこの地域を離れる事が優先される。
足が一歩踏み出せば、振り返る。そんなことを何度繰り返したときだろうか。
「おやおやお嬢さん。そんな大きな荷物をかかえてどちらに行くんですかね?」
生暖かい声がじっとりと聞こえた。
「引っ越すのじゃよ」
「ほう。お引越し。たったお一人で?」
「そうじゃ。何か問題があるかの?」
「いえいえ。問題などございませんとも。ただ、難儀だなぁと思いましてね。わたくしが手伝って差し上げましょうか?」
にっこりと満面の笑みを浮かべる。それが逆に気持ち悪かった。
「結構じゃ。一人でできるし」
「まぁまぁそう言わずに」
めんどくさい。こんな芝居はやめだ。
「お前、教会の人間じゃろ」
その言葉が発せられた瞬間、笑顔が固まった。
「おやあ、バレてましたか」
「なぜバレぬと思ったんじゃ。くっそヘタクソな芝居をして気持ちが悪い」
「言いますねぇ魔女。わたくしは教会騎士団団長の一人グーペルと申します」
「ほー、団長か。わざわざこんな森までご苦労なことじゃの」
「えぇ、まったくなぜわたくしがこんな事を……」
どうやらこの場所にいることに納得をしていないようだった。
「いるかどうかもわからないのに先行して探せなど……まったく」
「いたんじゃから良いではないのか」
「そうですけどね。わたくしは使われるのが嫌いなんですよ」
「そんなんじゃ教会で生きていけんぞ」
グーペルは上品に笑った。
「まさか魔女にそんな事を言われるとは思ってもみませんでしたよ。ではお礼に選択肢を二つご用意してさしあげましょう」
選択肢ぃ? とリリーは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ここで死ぬのがいいか、大人しく捕まって火あぶりにされるのがいいか、選びなさい」
笑って言っているのに、その声はひどく冷たかった。
そしてそんな選択肢を選ぶなどありえない。リリーは腕を組んで考えるふりをする。答えなど考えるまでもないのに。そして精いっぱいの憎たらしい顔をして言う。
「どっちもお断りじゃな」
最後に、んべぇ、と舌を出すのを忘れない。
「あはは、なるほどなるほど」
この瞬間、二人は完全に対立をした。
グーペルはいそいそと手袋をはめだした。それを不思議そうに見つめるリリー。その手袋は手袋としての機能がなさそうだったからだ。大きく銀の鉄で造ったかのような手袋だった。
「余裕ですねぇ。黙って見てないで仕掛けてきたらどうですか?」
グーペルは手袋しながらそんな挑発をする。
「いやなに、ちょっと予測がつかんのでな。気になるし見てみたいと思っての。それに本当はもっと早く装着できるのにわざわざゆっくりとつけていそうじゃなぁと」
「やりづらいですねぇ」
ため息をついているが表情は反比例していた。
「よし、と。準備完了ですね」
「ふむ」
「さぁ神にお祈りはすみましたか?」
「神なんぞおらんよ」
「あなたに神のご加護を」
言葉と同時に地面を蹴って接近する。あの手袋でどんな攻撃を生むのか。リリーは注意深く観察することにした。
まだ距離はあるのにグーペルが右手を無造作に振った。リリーは身の毛がよだち、横にヘッドスライディングをしてそれを避けた。振り返ればリリーの後ろにあった木が輪切りにされていた。
「ふむ。銀糸か」
「よくご存じで」
グーペルの手袋の指の先端には細い鋼の糸がついている。それを鞭の要領でふるっているのだ。その切れ味は剣よりも鋭い。そして何よりも遠心力を使って斬るので、力がそんなにはいらないという事だ。
「まぁその分、これを操るのには苦労しましたけどね」
「じゃろうなぁ。それなら剣を持って振るっていた方が力がそのうちついてまだ楽じゃろ」
「何年も修行してようやくここまで操ることができましたよ。あなたにはその成果を見せてさしあげましょう」
「いらんいらん。そんなもん」
言葉はそこで終わった。糸が張り詰める。グーペルが一歩踏み出そうとした時だった。
足が動かなかった。気圧されたとかそういった事ではない。物理的に動かなかったのだ。
「これは……」
グーペルは自分の足を見るとそこには草が巻き付いていた。視線を前に戻せばリリーが不敵に笑っていた。
「あなたの仕業ですか?」
「はてなぁ」
しかし、こんなもので足止めなど出来るはずがない。所詮は草だ。力任せにブチブチと切る。そして一歩踏み出すとまた足が絡まった。
「また無駄な事を」
今度は足元など見なかった。グッと力を入れてまた切ろうとするが、今度は切れなかった。自然と視線が足元にいく。すると今度は草ではなかった。
「木の根は簡単には切れんぞ」
そこには土から木の根が自分の足に絡まっていたのだ。
「……めんどうな事を」
「その銀糸で根だけを切ってみるか? 自分の足も切れるかもしれぬぞ?」
さぁ、どうする? とリリーはニヒルに笑う。
「くだらない」
グーペルは迷うことなく銀糸を使って足元の根だけを斬ってみせた。
「ほー。やるではないか」
「これぐらい造作もない事。自由自在、というやつですよ」
「見くびっておったわ。これは困ったの」
「さぁ、お次は?」
これは明らかに分が悪い。かと言って生きることを諦める訳にもいかないし、足止めは出来ないでいる。だったら導き出される答えは一つだ。
「本気で相手をするしかないかのぉ」
「それは光栄。相性が悪いのはわかっているでしょうに。なんとも見苦しい」
「相性が悪いからと言って諦めているようじゃつまらんな。それなりのやり方というのがあるんじゃよ」
「存じておりますよ。その対処法も、ね」
にらみ合う。お互いが自分の方が上だと確信している。
リリーは目の前で指だけを下から上にあげた。すると一気に木の根がグーペルを包み込む。グーペルは冷静にそれを切り刻んだ。
「おや?」
目の前をみるとそこには誰もいなかった。
「逃げることを選ぶとは予想外」
どっちの方向だ? 耳を澄ませて自然の音ではない音を感じ取る。
「あっちですね」
グーペルは音のする方へと走って行く。しかし、そこで違和感に気が付いた。明らかに音が大きい。追いついてみれば木が走っていた。
「…………」
まるでおとぎ話にでてくるような光景に一瞬自分は寝ていて夢を見ているのではないかと思ってしまった。
言うまでもなくこれは囮だ。逃げたのではない。自分はこの場所へと誘いこまれたのだと気が付いた瞬間。
大地が沈んだ。
グーペルは銀糸を近くの木に巻き付けてその場を脱出した。力の入れ具合で木を切らなかったのだ。
「ほう。なかなかやりおるわい」
木の陰に隠れてリリーは関心すると同時にため息を吐く。まったくもってめんどくさい。さて、次はどうするかと考えていると先に動いたのはグーペルの方だった。
銀糸を振り増しているのだ。
「そうきたか」
森を丸裸にする。見通しが悪ければよくすればいいだけの事。それがどんな規模でもやってのける力が自分にはあるのだから、それを使わない手はない。
隠れ蓑を奪えば、獲物は姿を見せるしかない。
そんな事をしていると、不意にいい匂いがした。
「なんの匂いですかこれは」
甘い香りだった。それだけで腹が減るような落ち着くような眠くなるような、そんな甘ったるい匂いだ。
一瞬嗅いで、手で鼻と口を急いで覆った。まずいと思った瞬間にはもう遅い。
「嗅いだな」
リリーが出てきて手に持っている花をひらひらと振った。
「これは猛毒じゃよ。幻覚を視せる花じゃ。あんまり多く吸い込むと眠たくなってそのまま寝てしまう。現実か夢かもわからないものを視ては幸せを感じる。そんな花じゃ」
「あなたは……」
「儂か? 儂には効かぬよ。もう免疫ができておる。花の魔女を甘くみすぎじゃな」
ほれ、眠れ。と、リリーはグーペルに向かって花の花粉を息を吹きかけてふっと飛ばした。
これはまずい。本当に今、目の前にいる魔女は本当にいる魔女なのか? もしかして自分が創りあげた幻ではないのか?
確かめる術など、ない。
もはや自分の視力はあてにはならない。感覚さえも支配されているかもしれない。身体の五感はすべて意味をなさないであろう。
しかし、一つだけ。一つだけこんな時に頼りにできるものがある。
それは記憶だ。
言い換えるなら経験。今までの経験をもとに身体が勝手に反応する。この幻を視せる花は、その花粉によって対象者に影響を与える。視覚と嗅覚はダメだ。しかし聴力はまだマシかもしれない。
どこから声が聞こえた?
左前方。
距離は近くはない。しかし、声が聞こえる範囲。およそ十五メートルから二十メートルといったところだろう。
そこに意識を集中させる。気配はない。だが、勘が囁いている。静かに眼を閉じて全神経を右手の銀糸に集中させた。
百パーセント当てる必要はない。かすればそれだけで勝ちだ。相手が動く瞬間、そこを逆に狙う。
空気は張り詰め時が止まる。
「残念じゃったな。人間は呼吸をしないと生きていけん。息をとめて戦うことなど不可能じゃ。しばらくそこで大人しくしておれ」
殺されはしない?
だったら無理に動く必要はないのかもしれない。しかし、自分はなんだ? 教会騎士団の団長だ。命を懸けてそれを遂行する義務がある。
「さらばじゃ」
リリーは木の根を使ってグーペルを縛り上げようとした。決して油断はしていない。最後の最後で形勢が逆転することなど、よくある。
だが。
それは遥かに自分の予想を超えていた。
木の根がグーペルを縛り上げる瞬間。グーペルは木の根を斬らずにその場を脱出。今、この手の銀糸は木の根を斬るために存在するのではない。
自分の目的地へと一瞬で間合いを詰める。
「な――ッ」
二文字目は言わせない。
この距離だ。この距離からなら銀糸は届く。相手は油断しているはずで、そこに木の根を使ったりして防御はできない。
「そ、こだァァアアッ!」
グーペルは右手を振るった。
編成隊とペストの家の距離は近かった。およそ五百メートルほどだ。普通に歩けば十分もかからないだろう。
「クッソ!」
アルビノは焦る。時間がないし、その短時間でペストを殺せるとは思えなかった。
「しかたがない」
作戦変更だ。ひとまずペストを連れて逃げた方がよさそうだ。そのあとに殺すしかない。問題は一つ。そしてその問題こそが大きな難関だ。
ペストがそれに応じるかどうかだった。考えている暇はない。きっとこれからは予想外のことしか起こらないだろう。それがどうか良い方へと転がることを祈るしかない。
選抜隊よりも早く家についてみればさっそく予想外の事が起こっていた。
ペストが家の前の拓けた場所で椅子に座っていたのだ。まるで決戦を見守るような雰囲気だった。アルビノが上空から茫然と見ていると影でそれに気が付いたペストは軽く手を振った。アルビノはペストの前に降り立つ。
「……なに、やってんだよ」
呆れとイラ立ちが半々ぐらいの声だった。
「あなたを待っていたのよアルビノ」
ペストは反対に澄んだ声をしていた。何かを決意したようなそんな目だった。椅子からおもむろに立ち上がる。
「さぁ、始めましょう」
「……何をだ?」
いきなりそんな事を言われても意味がわからなかった。主語がない。それをペストは察して言う。
「今が復讐の時よ。さぁ、始めましょう」
ペストは同じ言葉を二度言った。しかし、それに反論する。
「今はそれどころじゃない! お前を狙って教会騎士団がすぐそこまで来ているんだ! 早く逃げないと」
「逃げる? なぜ私が逃げるのよ。それに来ているのは知っているわよ。だから早く始めましょうと言っているの」
「時間がなさすぎる! 今は無理だ。せめてもっと時間に余裕があるときに――」
「今しかないの。教会騎士団が来れば状況は変わる。もう二度と私に復讐することなんて出来ないかもしれないのよ? 今しかないの」
「だからなんで今なんだよッ!」
なぜペストが今にこだわるのかが、アルビノには理解できなかった。どうしても今ではいけない理由はなんだ? 教会騎士団が来たら何がどう変わる? それを機にもう復讐できないかもしれない? そこから導き出される答えはなんだ?
「……お前まさか」
アルビノの脳裏に答えがよぎる。
「……捕まる、気なのか?」
そう考えるのが妥当だった。しかし、ペストは首を横に振る。それを見てアルビノは少しホッとしていた事に自分で気が付かない。
「そんなわけないでしょ。単純に……死ぬかもしれないって事よ。私はあいつを――」
あいつ? と、誰の事だろうかと考えた直後だった。森の中に聞きなれない金属音が響き渡る。
アルビノが振り返れば、そこには大勢の鎧を纏った教会騎士団の姿が見えた。
「あなたは逃げなさいアルビノ。ここにいるのがバレたら困るでしょ」
何をこんな時に心配なんてしているんだとアルビノは腹が立った。ペストは自分の言う事を絶対に聞かないだろう。口で言ったところで絶対にそれには従わない。
だったらどうする?
力ずくで動かすしかない。アルビノはペストの腕を掴んで無理矢理この場から離れようとする。だが、ペストがそう簡単に動くはずがない。まるで土に埋まっている大木のようだった。
ペストはアルビノを見ていなかった。その視線は目の前の森に注がれていた。もう意識はアルビノには向いていない。
アルビノが声を荒げようとした時だった。森にふさわしくない金属音がした。それは終わりの音だったのかもしれない。
「おや? なぜあなたがここにいるんですか?」
アルビノくん、と深淵から声をかけられた気がした。そこにいたのは紛れもなく異端審問官のオルガ。顔は笑っているが、その瞳の奥では獲物を見つけた眼をしていた。
「あなたが魔女の関係者だとはわかっていましたが、まさか黒死の魔女の関係者だとはね。いやはや、これは驚きましたよ」
「ま、待ってください! これは違うんです!」
「何が違うのですか? あなたはそちら側の人間だった。それ以上なんの事実がいりますか?」
何も言い返せない。ペストと一緒にいるところを見られてしまった。言い訳の仕様がないが、それでも何か理由を見つけないといけない。
「…………くそッ」
そうは思っていても何も言葉が見つからない。
そんなとき、今まで黙っていたペストがアルビノの前に出た。
小声でささやく。
「あなたは早く逃げなさい」
お前に守られる理由はない。そう思っても声がでなかった。何か、何か誤解を解く言葉を――。
「こ、この魔女は俺の親の仇なんです!」
「……ほう」
オルガは一言声を漏らした。次の言葉がなかったのは、続きを聞いてやるという事なのだろう。
「この魔女は、この黒死の魔女は俺の親の仇です。俺が殺します。それをずっと待っていたんです。誰にも譲りません」
「無理ですね」
「……はっ?」
オルガは一言でそう返した。それは力が及ばないということなのだろうか。
「俺は力をつけるために士官学校に入ったんです。俺の生きる意味はこの魔女を殺すこと。そのために今まで努力を――」
「だから無理ですよ」
オルガは言葉をかぶせた。
「力の問題ではありませんよ。あなたは確かに強い。だけど、あなたにはその魔女は殺せない」
「なぜですかッ!」
「それはすぐにわかりますよ。ねぇ、黒死の魔女殿」
二人の視線はペストへと注がれた。答えはペストが持っている。
アルビノはこのあと、真実という言葉を否定することになるとは思ってもみなかった。




