0.プロローグ
まだ弓に触れません。
しばらくお付き合いください。
(改定.2020/12/17)
子供のころは誰でも“特別な何か”になりたいと思ったことがあるだろう。
そして...なれると思っていた。しかし...大人になるにつれて、思いは褪せる。
薄い灰色をした自分が、その主人であるのか実態であるのか、それとも少しはマシな何かを持つだろうか?
という思考が大半を占めるのだ。
---不意に、自問は訪れる。
サラリーマン。年は32歳、彼女なし。持ち家無しのいわゆる独身貴族だ。
職業はどこにでもいるエンジニアであり、日々のノルマと納期、さらには上司の圧力をやりくりすることが給与を生むことを知っている。
数席すでに空いているデスク側に向かって
「お先に失礼します」と声をかけると、
「おう、お疲れー」と上司が振り返らず、手を挙げて返す。
世間ではホワイト企業なのだろう。生活残業を少しばかりして家路についた。
家に着くと素早く道具を積み込み、車で行きつけの弓道場へと車を回す。
静かさが大半という人がまばらな練習場に、弦音と的を射抜くときの少し高い音が断続的に響く。
---その空間で時間を噛みしめ、ひたすらに弓を引く。
この生活に満足していたし、親からは「孫の顔が…」と言われるが、
「残念ながら一人では不可能だな」とそんな軽口を返す。そんなありがちな生活がしばらくは続くと思っていたが、人の想像力など高が知れていた。
※
一週間ほど前に検査を受けていた。
弓を引くときの肘の使いづらさを感じるようになると、しばらく接骨院に通い、それでも一向に良くならなかったため、少し前に病院で精密検査をし、今日はその結果を受けた面談となっていた。
病院の診察室のドアを開けると、検査の結果を告げるのであろう医師が、机に向かって走り書きをしていたが、入室に気づいて振り返った表情は薄く硬い。
「おかけください。あなたに今起こっている病名を告げます。…あなたは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)です。十万人に一人の病気で、完治の方法のない…難病です。」
病気は急速に進行し、2年後の熱い夏、旅立った彼の手記にはこう記されていた。
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「“満腹である人に空腹が想像できないように、いまだ死の淵に立たされたことのない人に死への恐怖心はわからない”」と、ある大学教授の手記にあったが、
それは個人の“当たり前”という人間本来の本性とも言うべき惰性が“自身の勝手な思い込み”を加速させていたように思える。
少し前の自分には、それが分からなかった。
もし今、前の、今までの自分にふさわしい色というものをつけるとするならば、何色だろうか?
そして今、自身に問わなければならない。
「私は何色か?」
難病になることで、家族のかけがえのない暖かさを知った。
それだけでなく、家族以外からにもきっと私は愛されていて、そして私は彼等を愛している。
---この感謝と愛情を永遠に忘れない。
そして、もし、やり直せるのなら、精一杯生きたい。
、いま、やり直せなくても、精一杯生きる。
だから、 、それしかできない。
そう生きようと決めた。
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---夏の緑?
最初に気づいたのは匂いだった。夏特有のそれ、輝きある香りだ。
目を開けると、木陰で寝ていたようで、漏れた日が顔に当たる。
上半身を起こしてまわりを見ると、そこは草原で、広い草原の中にポツンと生えた巨木のそばに横たえられていた。
その木以外には輝く青々とする、くるぶしより少し背の高い草が、一面に生い茂り、立ち上がった彼の頬を、風が撫で、目の前には草原は見渡す限りに広がり、草原をどこまでも行く、わだちのあぜ道が一本だけある。
ああ、こうゆうのが大草原なんだ。空は雲の一つなく、太陽が力強く大地を照らし、空気は濃い。
これが天国ってやつか?と思っていたが、息は止まっておらず、足もしっかりとあり、衣服も中世くらいの質素なものではあるが、いつの間にかそれを着ており、皮のブーツを履いていた。
最後は不自由だったはずの体はいたって健康で、どこを触ってみても、動かしても何の問題ない。
そして気づいたのは、左手の小指には、幅の狭いシルバーに赤色をした小さな石がはめ込まれた指輪をしていた。「なんだろう?」と思いながら観察していると、
視界の隅に「情報補助機能を有効化しますか?」と表示されたので宙に浮かぶアイコンをスライドさせONにしてみたところ、
『!”#$%&-リング (固有) :ミカヅキ トウヤ』と表示が現れた。
文字は明らかに日本語からは異なっているにもかかわらず、すらすらと読むこともできそうな上、書くこともできそうだ。名称の最初の文字と同様に、説明も文字化けしていて読むことができなかった。
“固有”に関しては意識を向けると説明が出てきて、
『 固有:(使用者)』
使用者が登録状態にあるアイテムに表示されます。
登録者しかアイテムの能力や機能を発揮することができません。
とあった。どうやら指輪は「俺の所有物と認定されたもの?」のようであるし、外すとなんだかさみしいので、もとの左手の小指に戻しておいた。
しばらく草原を眺めた後、近くの石に座り自分がどうなってしまったかを考え始めた。
記憶には問題がないように思えた。難病を患っていたことも覚えている。
そして、最後に覚えていることは---長い光の回廊を通った気がしたが、それは夢のように、すぐに思い出せなくなった。
それから、たくさんの疑問が生まれたが
(なぜ、こんな服を着ているのだろうか?)/(最後の記憶のときからどれくらいたったのか?)…
----答えは “わからない”だ。
だが、
心と体の両方から、「生命という感覚」を受け取れることが一つ嬉しい。
何かヒントがないものかと周囲を探してみると、巨木の根元には小さな祠に何かの像が祭られているようである。近づいて意識を向けると地神像(小)と表示された。
『地神像』
---地の神の像。行路の安全を願い設置される場合もある。
と端的だ。
情報が不足する現状で簡易的な説明を引き出す方法を習得できたのはありがたいのだが、空間に文字を表すことができ、かつ投影機などのいらない技術が発明されたことは記憶にはなかった。
まあ、悩んでいるだけでは仕方ないので、唯一手掛かりと言っても過言ではないあぜ道に沿って人のいるところを目指そうとしたところ、
年季の入った看板を見つけた。
そこには、矢印とともに次のようなことが書いてあった。
「世界を渡りし者に告ぐ。街道沿い10キロに街がある。守衛に“転生者”であると告げることを勧める。領主より」とあった。
転生者というのは俺のことだろうか?しかし、看板はありがたいが、
こんなだだっ広い草原と木しかないようなところに、なぜ看板があるのか。
それと「“異世界を渡りし者”、“転生者”という単語が気になるな。」
と謎が一つ追加されたが、やはり最初の予定通り、看板に従って町を目指すことにした。
しばらく歩くと、川辺があったのでそこで顔を洗うことにする。
「!」
水面に映るのは、髪は黒ではなく赤色、瞳も薄茶色で、気力が満ちあふれた若々しい青年の顔がそこにあった。
“驚き桃の木、山椒の木”とよぎった。
「そして俺は何歳だよ!」と突っ込みを心の中で入れながら
「俺ってどうなっちゃったのか?」と一瞬だけ不安がもたげるが、
「---そうだ。不安に駆られる前に“この健康な体になったことがすでに幸運なことだ!!”
そして、疑問や不安は、調べたり、解消したりすればいいだけのこと。
それに、本当に好きだった弓をもう一度やれるんだ!!」
と思い直した。
それから軽い気持ちになって歩き始めた。
たまに休みながらも、歩き続けると街が見えてきて、
それから水田と麦畑を含んだ見事な田園地帯を抜けた。
歩き始めて2時間半後、ようやく街に着き、審査を待つ。
ほかの審査を待つ人の中には、耳や尻尾の生えた人(獣人?) やドワーフのような人もいた。
自分の番になると守衛に事の次第を伝えた。すると会議室のようなところに案内され、
事情の分かる方に話を聴いてもらうことになった。
「ようこそカールトンの街へ。私は守衛長のミッドです。」
ドアのないこの部屋に入ってきた男性は、鎧が似合う立派な体格をしているにもかかわらず、それに似合わず人の良さそうな顔をしていた。
「あなたの名前を教えていただけますか?」
と朗らかな表情で問いかけてくれた。
「三ヶ月 塔矢です。」
「トウヤさんとおっしゃるのですね。失礼ですが、検査のためにスキルを見させていただきますね」
というと何かの板を10センチくらいの位置まで近づけしばらく待つ。
「うむ、スキルに問題はないようですね」とミッドさんが言う。
「では続けて手続きをお願いします」
ミッドさんに促されて書類を書き進めていく。書類を書き進めながらいろいろな説明をしてくれた。
なんでも20年に一人ぐらい現れる転生者は、違った文化を持ち込むことで街などを発展させてきた経緯があり、
街の中で見られる貢献としては、
レンガ作りの家が立ち並んでいてヨーロッパの古風な街並みのようだが、
なんでも、レンガで家を作る文化は転生者が持ち込んだそうだ。
また、車輪を用いた移動手段なども伝授したといわれ、
さらに進んで、城壁は鉄筋コンクリートで作られており、
その上に漆喰が塗ってあるそうだのだが、それを指導したのも転生者らしい。
そのようなことから、大切に扱われるそうだ。
そのため、役立つ転生者との共生のために、守衛等の人には
“この世界のことをある程度の説明をするように”ということが通達されているらしい。
もちろん犯罪などを起こせば、現地の法律で対処されると釘を刺された。
ある程度の説明を受けると、
魔法や魔道具というものが存在し、また物語にしか現れない獣人やドワーフといった種族がいることを実際に自分の目で確認したことで、この世界へと転生してきたと納得できた。
ミッドさんの説明は続いた。
この世界で意識を取り戻すと完全に前の世界の姿なわけではなく、
雰囲気は残しつつも、顔立ち、髪の色などはこの世界に合わせた色となるようだ。
なので、物語にあるようなテンプレートな転生や転移ではないのだが、
自身のそのままの姿でないことからから、“転生”と呼んでいるそうだ。
「トウヤさんは、ご自身のスキルはご存知ですか?」とミッドさんに尋ねられたのでスキルの話も聞くことができた。
先ほどの検査に用いたのはスキル盤という特殊な加工の施されたもので、
10センチぐらいまで近づけると個人の技能や職業などを表示させることができるという。転生者のスキルは転生前の世界の経験を加味して初期のスキルが習得されるようだ。
「わかりましたではこちらの紙に転記しますね。」
「ドローイング!」
というと隣の紙に一瞬でスキルを書き写してくれた。
「今のが魔法ですか?」
渡された紙を見ながらいう。
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[ミカヅキ トウヤ]
職業:弓使い
スキル:鑑定、自動翻訳、集中、弓術、算術、演算、理術、念話、護身術
魔法:なし
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と書いてあった。
「ええ、そうですよ。私の得意魔法でしてね。いまでは訓練より書類仕事が多いものですから。」と笑いながら答えてくれた。
「それに、転生者の方は、ステータス魔法を取得できるようですので、そちらを覚えることができれば、もっと詳細にスキル等を確認できますよ。」
と教えてくれた。
そして、一通り書類が完成した後、タグを渡された。
タグがあれば入場審査が早くなるそうで半年間は場内への出入りが簡略化されるそうだ。
入場に際して税金が必要なそうだが、転生者ということで免除された。
しかし良い点ばかりではなく、領主と会う必要があり、
どのような経験を持っているのかを聞かれるらしい。
それは今までの転生者の貢献を鑑みて恒例となっているそうだ。
お城に行くに際しては、ミッドさんがそのまま連れて行ってくれた。玄関には門番がおり、跳ね橋が降ろされていた。
ミッドさんが事情を説明する。
「ありがとうございました。」
「またどこかで!」
と返してもらうと城門前で別れた。そのまま案内の兵士の方がやってくると城内を通ってそのまま応接室に通された。
応接室にはメイドさんがおり、メイド服はクラシカルで実用的なデザインだ。
「エリーです。御用のあるときはご遠慮なくお申し付けください。」
とメイドさんが対応してくれた。赤い眼鏡に肩ほどの長さの青い髪で、大きく澄んだ目が特徴的なかわいらしい女性だ。
色々と話しているうちに領主のことになり、
「領主さんってどんな人なのですか?」
「領主さんは一言でいうと“すごい人”です。古くなった孤児院を改修していますし、
農民の生活を豊かにするために、王都から農業の学者さんを呼んでいるのです。
それだけではなくて、街の人の生活が豊かになったり、過ごしやすくなったりして、
みんな感謝しているんです。」
「それに私は、孤児院の出身なのですが、こうやってお城で働いていられるのは、孤児や恵まれない子供への職業訓練や支援をする奨学金制度をつくって運用しているからなんですよ。」
「それは凄いですね。」
「はい。だからお城の仕事を紹介されたときは、恩返しをしようと思って今もここに努めています。」
「領主さんの話をするときイキイキとしてますね。」
「えへへ。でも領主さんにも困ったことがあってですね、領主さんの趣味はお忍びで街に行くことなんですけど、毎回最後はすごい騒ぎになっちゃうんですよ。」
「兵士の方は“見つけやすくていい”なんて笑っていましたけど。」
と話してくれた。
どうやら領主は優秀な人物のようだ。積極的に新しいものを取り入れたり、改善をしたりすることができる人物で、街の人からも好意的に受け止められているみたいだ。
それに部屋の調度品からは、領主の品の良さや華美を好まない性格が伺えた。
しばらくエリーさんと待っていると、夕食を食べながら話を聞いてくださることになったそうで、 先にお風呂へと通された。
さすがにお城のお風呂ともなると大きく、風呂の壁には火山の雄大な絵が描かれていた。どうも富士山とは違った様子のものだが、とても素晴らしいものだった。
獅子の口からお湯が吐き出されているし、さらにシャワーのようなものもついており、石鹸やシャンプーもあった。
鏡に映る赤い髪に違和感を覚えつつも、歩いて汚れた体を洗い流す。
そして、お風呂を満喫した後、部屋をでると応接室で火照った体が収まったころに、夕食の会場へと向かった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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