エピローグ 夏めく鎌倉、今、進む時3
その日は、普段よりも鎌倉の町が騒ついているように感じた。観光客も多く、浴衣姿の人が多い。もしかしたら、何かイベントがあるのかもしれない。ここ最近は、あの男を警戒して町に出ないようにしていたから、情報に疎くなってしまっている。楽しそうな催し物なら、仕事終わりに行く計画が立てられたのに、本当に迷惑な話だ。ちょっぴり残念に思っていると、嬉しい知らせが舞い込んできた。
「あ、詩織ちゃん。今日の十四時以降は店休にするわ。そのつもりでいて頂戴」
「本当ですか!」
「そのかわり、毎年この時期のランチは混み合うわよ〜。頼んだわね」
「はい! 頑張ります!」
青藍さんの言う通り、その日のランチは多くの観光客がやってきて大わらわだった。そういえば、嬉しさのあまり、どうして店休にするのか聞いていなかった。理由を尋ねようかとも思ったけれど、けれども次から次へとやってくるお客さんへの対応に追われて、どうにも機会が得られなかった。
「ありがとうございました〜!」
最後のお客さんを見送って、臨時休業の札をかける。この後は自由だ、もしかしたらイベントに参加できるかもと、若干ウキウキしながら門に行って、暖簾を外した。すると――死角から誰かの手が伸びてきて、私の腕を掴んだ。
「やあ」
「……っ!」
それは律夫だった。彼は、幼く見える顔に歪みきった大人の表情を浮かべて、私に言った。
「へえ、ここが詩織の新しい職場か。いい雰囲気じゃん」
「……どうして、ここにいるの」
「どうしたもこうしたも。言っただろ、諦めないって。仕事、終わったんだろ。飯にでも行こう。俺たち、ゆっくり話し合うべきだと思うんだ」
律夫は、言葉の穏やかさとは裏腹に、私を離すまいとギリギリと腕を締め付けてくる。痛みのあまり、暖簾を掛けていた棒を落としてしまった。カラン、と乾いた音を立てて転がるそれを横目で見ながら、律夫を刺激しないように言葉を慎重に選ぶ。
「なんなの? あの若い子と結婚するって言って、私を追い出したんでしょ。なんで今更、私に執着するの」
すると、律夫は心底嫌そうに顔を顰めて言った。
「あいつとはとっくに別れてる。フリーだって、友だちも言ってたろ? あの女、金遣いは荒いし、料理は出来るけど掃除はしないし、ゴミは溜め込むし……。仕舞いには、他の男と浮気しやがったから、こっちから捨ててやったんだ。あの女、なんて言ったと思う? 欲しいブランドものを買ってくれない俺は、甲斐性なしなんだと!」
そして、反対側の手の親指の爪を噛むと、苛立たしげに言った。
「何が甲斐性なしだ。若いからって、調子こきやがって」
怒りを迸らせ、ぶつぶつと恨み言を零していた律夫は、少し黙り込むと、ゆっくりと私に視線を向けた。
――ぞくり。
その目を見た瞬間、悪寒が走った。それはごくごく普通の黒い瞳だ。けれども、その目の奥にはドロッと濁った何かが渦巻いているようにも見えて、いびつな笑顔と相まってなんだか薄気味悪い。
「やっぱりさ、俺には詩織しかいないんだよ。もしかして、料理ができないのを気に病んでるのか? それくらい、これから勉強すればいいじゃないか。俺は気にしない。だから、頼むよ……」
そして、私の首筋に顔を寄せると、すう、と思い切り匂いを嗅いだ。
「愛してる」
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
まるでアニメのキャラクターのように、末端から鳥肌が駆け上ってくるのがわかる。強烈な嫌悪感に耐えきれず、私は必死に体を捩ると、律夫から逃げようともがいた。しかし、腕を掴む力は意外なほど強く、どうにも外れそうにない。このままじゃ、何をされるかわかったものじゃない。ひとり焦っていると――律夫の腕を誰かが掴んだ。
「……うちの『詩織』に何か用かな?」
それは朔之介さんだった。整った顔に、にっこりと爽やかな笑みを浮かべた朔之介さんは、やや乱暴な仕草で律夫の手を私の腕から外した。そして、私を自分の傍に引き寄せると、じっと彼を見つめて言った。
「店先で何をしているんだい? 迷惑だから、帰ってくれないか」
「は? はあああ?」
律夫は、私と朔之介さんの顔を交互に見比べると、途端に顔を真っ赤に染めた。パクパクと口を開閉して目をギョロギョロ動かす様は、まるで空気を求めて水上に昇ってくる金魚のようだ。
朔之介さんが来てくれた。そのことに心底ホッとしつつ、ふと顔を上げると、ずいぶんと野次馬が集まってきてしまっているのに気がついた。彼らはヒソヒソと何やら囁き合いながら、私たちの様子を遠巻きに見ている。これ以上騒ぎになる前に終わらせなければ、と思っていると、律夫がとんでもないことを言い出した。
「――お前、裏切ったな!」
「はあ?」
そして、律夫はカバンから何かを取り出すと、それを思い切り地面に叩きつけた。カツン! と臙脂色の箱が地面に当たり、中に入っていたものが溢れ落ちる。コロコロと地面を転がったのは――どう見ても指輪だった。
「せっかく、指輪まで用意してやったのに……!」
「いやいやいや!? そんなこと、頼んでないけど!?」
「ふざけるなよ! これから、お前との幸せな生活が待っていると思っていたのに、俺、どうしたらいいんだよ……!」
律夫は涙ながらに叫んでいる。指輪なんて頼んではいない、貰うつもりもないと言ってもどうにも言葉が通じない。はらはらと涙を零して、まるで世界中の不幸を背負ったかのように悲嘆にくれている。それはまるで、悲劇のヒロインのようだった。この状況だけ見ると、まるで律夫が被害者のようだ。
「わあ。あの女、浮気したの?」
「最低……」
事情を知らない野次馬たちは、律夫に同情の視線を送り、私をまるで汚いものを見るかのように睨みつけて、ヒソヒソと囁きあっている。
これはまずい。どうしてこうなった。困り果てて、朔之介さんと顔を見合わせていると――なんとも喧しい声が耳に飛び込んできた。
「おやおやおや! 賑やかなことだ! どうしたのかな?」
それは豆腐小僧だった。彼はトレードマークの銀縁眼鏡をキラリと光らせると、軽やかな足取りで野次馬の輪に飛び込んできた。そして、私と律夫を見比べると、なんとも嬉しそうに顔を綻ばせた。
――ああ、嫌な予感しかしない!
「なるほどなるほど、これが修羅場というやつだね。いやあ、興味深い」
そして、足もとに転がっていた指輪を手にすると、日の光に当ててまじまじと眺め始めた。事態がややこしくなりそうな予感に、いいから帰って欲しいと内心思っていると――急に、豆腐小僧の表情が曇ったのがわかった。
「ふむ。詩織くん、ひとつ聞きたいことがあるのだが」
「な、なんですか……?」
「君の苗字は『橘』だったと記憶しているが、間違いないかな」
「そうですが」
「つい最近、両親の離婚等で苗字が変わったり、裁判所で改名申請したことは?」
「ええ? そんなことはありません!」
非常事態なのにもかかわらず、あまりにも意味不明でマイペースな質問に思わず叫ぶと、豆腐小僧はふむと大きく頷いた。そして、ぐるりと首を巡らせて律夫の方を見ると――瞳を三日月型に歪めて、にんまりと笑った。
「君はずいぶんとそそっかしいようだね?」
「な、なんのことだ」
「指輪を贈るくらい親密な相手のイニシャルを違えるとは……いや、まさかそんなことはあるまい。指輪を用意して刻印するというものは、それなりに手間がかかるものだ」
豆腐小僧は指先で指輪を摘み、目の高さまで掲げると、リング越しに律夫を覗き込みながら――非常に芝居かかった口調で言った。
「まさか、君――他の女にやるはずだった指輪を流用したのではないだろうね?」
「うぅっ……!? そ、そんなこと――」
「ない、と言いたいのかい? ならば、そこの女性と指輪のイニシャルが違う理由を教えてくれないか。僕らが納得できるように! しかし、時間は有限だ。簡潔に頼むよ!」
さあ話せ、と言わんばかりにおしゃべりだった豆腐小僧が口を閉ざすと、一気に注目が律夫に集まった。律夫は顔を赤くしたり、青くしたりしていて、どうにも説明できないでいるようだ。この男、どうやら本当に指輪を流用するつもりだったらしい。
すると、一斉に野次馬たちの目の色が変わった。律夫には軽蔑を含んだ視線が送られ、同情めいた視線が私に集まってくる。
(とことん、馬鹿な人)
脂汗をだらだら流しているかつての婚約者を哀れに思いつつ、深く嘆息する。酷い男とはいえ、一度は恋仲になった相手だ。なんだか居た堪れない。
「……っ! くそ、もういい! 俺は帰るからな! お前となんか、ヨリを戻してやるものか!」
すると、律夫は捨て台詞を残し、野次馬をかき分けるようにして去っていった。ホッと胸をなでおろす。もう二度と会わないで済めばいい、そう思って彼の去った方向に視線を遣ると――そこに広がっていた光景に、思わずギョッと目を剥いた。
未だ騒ついている野次馬の向こう。律夫が去って行った方向に向かって、小さな山ほどある巨大な髑髏――がしゃ髑髏が、骸骨たちを引き連れてカラカラと骨を鳴らしながら歩いて行くのが見える。その後ろには、全身に矢を受けた落ち武者たちが骸骨の馬に跨がり続き、それを追うように、思い思いの恰好をした狸たちが群れ、ぽぽんと楽しげに腹づつみを打っている。それはまるで百鬼夜行。おどろおどろしいあやかしたちの視線は、律夫の後ろ姿に固定されている。どうやら、彼らは目的があって律夫の後を追っているようだ。当の律夫は、鎌倉の人間ではないから、あやかしたちにまったく気がついていないようだけれど。
「あれ、与一さんに、源五郎さんに、田中さん?」
よくよく見てみると、行列に常連さんたちが混じっているのに気がついた。一体、何をするつもりなのかと訝しんでいると、私と同じ方向を見ていた豆腐小僧が言った。
「ま、後のことは僕たちに任せておくれよ。君を傷つけた愚かな人間に、お仕置きしておくからさ」
「え、あの。いや」
「ああ、大丈夫。今後二度と、鎌倉の地を踏みたくないと思う程度に留めて置くつもりさ。命だけはとらないでおくから――君は気にしなくてもいい。なぁに、愉快なことになるだけさ。そう、あやかし的に愉快なことにね!」
そう言うと、パチリと片目を瞑った豆腐小僧は、「失礼するよ」と周りに愛想を振りまきながら去っていった。
……律夫、どうなってしまうのだろう。まあ、命は取らないというのだから、死にはしないのだろうけれど。
(……心配、ではないなあ)
なんとも薄情な自分に、苦笑する。
しかし――しかしだ。律夫に浮気をされて捨てられた結果、私は会社を辞めることになった。そう、私はあの男に人生計画を大きく崩されたのだ。今回くらいは、痛い目にあってくれてもいいのかもしれない。これが因果応報でなくて、なんというのだ。
去っていく豆腐小僧の背中を見つめながら、そんなことをぼんやり考えていると、誰かが私の肩を叩いた。
「さ、後のことはみんなに任せておきましょう。アタシたちは、準備をしなくちゃ」
「準備?」
なんのことやらわからず首を傾げていると、青藍さんは私の背中をぐいぐい押してきた。
「いいからいいから。さ、店じまいしましょ!」
「ええ? えええー……?」
困惑するあまり、傍に立っていた朔之介さんを見ると、彼はにっこりと微笑んで言った。
「絶対に後悔させないから、僕たちの言う通りに。ね?」
彼の優しげな微笑みに、私は疑問に思いながらも大人しく従うことにしたのだった。