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心に沁みる珈琲4

「ありがとうございましたー」


 鎌倉の町が茜色に染まる頃。お茶を飲むには夕食時に近すぎ、けれども夕食を食べるには少々早い時間帯。そんな時、ぱったりと客足が途絶える瞬間がある。普段ならば、夜の営業に向けて一息入れるところだ。けれども、今日ばかりは事情が違った。


観光客が店を出ていったのを見送ると、私と青藍さんは視線を交わしあった。手早く臨時休業の札をかけて、門から暖簾を下げる。そんな私たちを、朔之介さんは驚いたように見つめている。


「あれ? どうしたんだい? まだ閉店の時間じゃ――」


 困惑している朔之介さんに、青藍さんは「まあまあ」と調子よく声をかけると、カウンターに押し戻した。


「今日は、特別なお客様がいらっしゃるから、店を閉めるのよ。VIPって奴ね。もうすぐ到着するわ。お客様は美味しい珈琲をご所望なの。淹れてくれる?」

「そんな、僕の珈琲なんか……」


 青藍さんの言葉を聞いた途端、朔之介さんは表情を曇らせた。どうも、あの観光客の言葉が尾を引いているらしい。青藍さんはやれやれと肩を竦めると、ぽんと彼の肩を叩いた。


「『なんか』なんて言ったら、朔の珈琲の味に惚れ込んで、長年店に通ってくれている常連客たちに失礼よ。自信持って」

「……うん」


 朔之介さんは僅かに瞳を揺らすと、青藍さんに「ありがとう」とお礼を言って、珈琲を淹れる準備を始めた。そのタイミングを見計らって、私は隠していた「あるもの」を手に、そろりそろりと店内の隅へと移動し始めた。そして、手頃なテーブルの上に、「あるもの」を置いた。すると、なんとも間の悪いことに、準備を進めていた朔之介さんがくるりとこちらに振り返った。――ああ! 秘密のミッションは失敗だ。


「――橘さん?」

「は、はいっ!?」

「それは、なに?」


 私は「ははははー」と乾いた笑いを零すと、椅子の上に置いたそれに、ちらりと視線を向けた。私が持ってきたのは、古びた木箱だった。元々は、何か保存食でも入れてあったのだろう、かすかに赤いラベルが残っている。けれども、中身は全く違うものだ。


「これが、今日のVIPです」

「――は?」


 驚いている朔之介さんを他所に、木箱を指先でコツンと叩く。眠っている人を優しく揺り起こすように、コツン。また、コツン。すると、ゆらりと木箱の中から黒い「影」が漏れ出してきたので、私はその場から数歩下がった。


「古い蔵の中にずっとお住まいだったそうで、ずいぶん久しぶりに外に出たんだそうですよ」


その影は、なんとも不思議な動きをしていた。陽の当たる当たらないにかかわらず、まるで雲霞のごとく、ゆらりゆらゆらと宙に揺蕩っている。じっと影を見つめていると、時折、形が定まる瞬間がある。それはつい最近、私が恐怖と共に目にしたものと同じものだ。


「……あ……う……」


 箱の中から現れたのは、あの土蔵の中にいた女性だった。乱れたままの長い黒髪、ぽっかりと空いた眼窩の奥には瞳は見えず、黒々と闇が詰まっている。乾燥しきった肌は土気色をして、纏っている着物の柄は色あせてしまい、今になっては何が染められているのかわからない。


「さあさ、こちらへ」


手が震えるのを必死に押さえ込みながら、私は彼女の腰に手を添えると、ちょうど朔之介さんの真正面にあるカウンターの席に誘導した。


「……。…………」


相変わらず、女性は蚊の鳴くような声で何かをぶつぶつと呟いている。酷くゆっくりとした挙動の女性を席に座らせて、ちらりと朔之介さんの様子を伺う。珈琲を淹れる手を止めて、私たちの様子を食い入るような目で見ていた彼は、視線がかち合うとハッとして慌てて動き出した。動揺しているように見える彼に、声をかけたほうがいいかとも思ったけれど、やめておいた。今日のこれは、他人が口に出すべきではない。私は、いつも通りに接客することに決めた。


「今、お冷やとおしぼりを持ってきますね」

「……う、あああ」

「冷房、寒かったら言ってくださいね。どうぞ、ごゆっくり」


そう言って、彼女の傍から離れる。女性は、ゆらゆらと頭を揺らすばかりで、私の言葉が伝わったのかどうかはわからない。戸惑いの表情を浮かべている朔之介さんは、私が離れるといつものように動き出した。どうやら、私のように普通の客と同じ様に対応することに決めたらしい。

私は、青藍さんの隣に移動すると、ふたりを見守ることにした。


少々、変わった客相手ではあるが、朔之介さんの珈琲を淹れる手つきに乱れはなかった。やがて、豆にお湯が注がれると、辺りに珈琲のいい香りが立ち込め始める。慎重にお湯を注ぐ朔之介さんの表情はどこまでも真剣で、珈琲の香りと共に彼の世界が店内に広がっていく。その姿を、女性は何かを呟くのをやめてじっと見つめていた。


――ぽたん。

旨味と香りが凝縮された一滴が落ちる。やがて、ぽたぽたとリズミカルに滴り始めたそれは、小さな波紋を作りながら徐々に深度を増していく。


「――久しぶりに召し上がるのだと聞きました」


すると、朔之介さんが女性に静かな口調で語りかけた。すると、女性は途端にピクリと体を震わせて、少し怯えたような仕草を見せる。朔之介さんは笑みを浮かべると、とあるカップを手にした。


「今日のあなたの一杯が特別なものになるように、カップもとっておきのものを使いましょう。オールドノリタケ、というものをご存知ですか。日本陶器合名会社が、明治期から戦前までに欧米に向けて輸出したものを指します。これは――この店のオーナーが、オープンの時に、わざわざ買ってきてくれたものです。当時はこの他に何客かあったのですが、今はもうこれしか残っていません」


朔之介さんが手にしたカップは、なんとも華やかなものだった。金で縁取りされ、アール・デコ風の絵付けがされている。何重にも花びらが重なった桃色の薔薇、それに彩りを添えるように寄り添う、色とりどりの小花。繊細でいて、けれども大胆に配色された淡い色は、白地の陶器を鮮やかに彩っている。それはなんともレトロな雰囲気を持つカップ。揃いの絵付けがされたソーサーと合わさると、途端に朔之介さんの手元が華やかになった。


「明治期は、陶器の輸出が盛んでした。逆に言えば、外に出すばかりで、その陶器が日本で流通することはあまりありませんでした。そう考えると、これはとても貴重なものだと思います。そんなものをわざわざ買ってきてくれたのは、このカップが僕の生まれ年に作られたものだから、だそうです」


思わず、ちらりと隣に立つ青藍さんを見る。「奮発しましたね?」と小声で言うと、彼は恥ずかしそうに頰を染めて、「特別なものをあげたかったのよ。あの子の門出を祝うために」と顔を逸らしてしまった。私が声を殺して笑っている間にも、朔之介さんの動きは止まらない。用意した特別なカップに、丁寧に淹れた珈琲を注ぐ。花に彩られた華やかなそれに、ゆらり、夜色の液体が満たされた。


「このカップは、僕と同じだけの時を刻んできた。そして僕は、この店で数えきれないほどの珈琲を淹れてきました。今日淹れた一杯が、その歴史に見合う味であればよいのですが」


――女性の前に置かれたカップからは、ふわりと柔らかな湯気が立ち上っている。


「どうぞ。――ごゆっくり」


朔之介さんはそういうと、不安そうに眉を下げた。味が落ちたと言われている自分の珈琲の味に、自信を持てないのだろう。正直、私もそれが気がかりではあった。緊張のあまり、手にじっとりと汗をかいている。それは青藍さんもそうで、おしゃべりな彼は固唾を飲んでじっと見つめている。


「……あ」


私たちが見守る中、女性はおもむろにカップに手を伸ばした。爪先が取手に触れて、カツンと小さな音を立てる。その人は、一瞬、手の動きを止めると、意を決したようにカップを握り込んだ。そして、香りを楽しむように鼻先に持っていくと、ゆっくりと――口をつけた。


――こくり。

女性の喉元が動くのが見える。彼女は一口飲むと、カップを下ろした。何か反応があるかと期待したけれど、そのまま微動だにしない。朔之介さんは、女性が珈琲を飲んだのを確認すると、いつも通りに後片付けを始めた。


(駄目、だったのかな)


期待していた(・・・・・・)ような反応が起きず、青藍さんと顔を見合わせる。ふたりでこっそり落胆していると――事態は急転した。


「――る、の?」

「えっ?」


突然、女性が朔之介さんに何やら語りかけたのだ。


「――てる、の?」


彼女が声を発するたびに、まるで磁石に翻弄される砂鉄のように、自身を形作る影が蠢く。広がったり、薄くなったりと、意味のない形を取りつつも、最終的には女性の形に戻ったりを何度も繰り返している。


「お客様?」


朔之介さんは、困惑気味にじっと女性の影を見つめている。女性は、上手く言葉が出てこないのか、何度も何度も口の中で言葉を反芻して――ようやく、意味のある言葉を発した。


「元気に、しているの」

「は、い? ええと、至って健康ですが……」


すると、言葉が通じたことが嬉しかったのか、女性の影は途端に大きく膨らんで、今度は矢継ぎ早に質問を投げ始めた。


「寂しくない? 友だちは出来た? 好き嫌いはしていない――?」

「待って、待ってください。どうして、僕にそんなことを?」


すると、朔之介さんは私たちに向かって助けを求めるような視線を寄越した。けれども、私はドキドキしすぎてどうにも言葉が出ない。思わず青藍さんに視線を遣ると、既に涙を滲ませている彼は、朔之介さんに向かって言った。


「朔、お客様の質問に答えてやんなさい」

「え? でも」

「いいから、お願い」


あまりにも真剣な表情で青藍さんが頼むものだから、朔之介さんは納得していないものの、答えることにしたようだ。次々と出される質問に、丁寧に答えていった。


「毎日、眠れている?」

「はい、普通に眠れています」

「辛いことはないかしら」

「そういうこともありますが、概ね大丈夫です」


二人の応酬はしばらく続いた。女性の質問は途切れることはなく、朔之介さんは嫌な顔ひとつせずに答えている。彼女は、回答をひとつもらえるたびに、嬉しそうに体を震わせ、形を変える。なんだかそれが、体全体で喜びを表しているようでとても可愛らしく思えた。


けれども、その応酬もある質問が出た時に止まってしまった。

その質問を聞いた途端に、朔之介さんが固まってしまったのだ。


「今日もたくさんご本を読んでいるのかしら」

「――……え」


朔之介さんは、パチパチと目を瞬くと、勢いよくこちらを見た。何も言わずに彼の視線を受け止める。すると、朔之介さんは顔をくしゃりと歪めると、泣きそうな顔になって言った。


「ああ、そうか。そういうことか。最近、やけに出かけていると思ったら」


そして、彼らしくない乱暴な仕草で自身の前髪をかきあげると、苦い笑みを浮かべて言った。


「実のところ、鬼になってからはとんと本を読んでなかったんだ。鬼になってしまった自分を嘆くのに精一杯で、自分を置いていった両親が恨めしくて、自分の中の黒い感情を抑え込むことでいっぱいいっぱいで。僕が、本をたくさん読んでいたことを知っている人は――そう、多くない」


朔之介さんはカウンターから出てくると、女性の傍に立った。そして、その場で跪き、彼女の手を取って言った。


「これからは、またあの頃のように本を読もうと思っているよ」


すると、女性はふるりと身を震わせ、また質問を重ねた。


「もう、病気はよくなった?」

「よくなったよ。ほら、見てよ。顔色もいいだろ? 咳も出てないし、すっかり丈夫になった」

「楽しく過ごせているかしら」

「楽しいよ。今は、辛いことの方が少ないんだ」


朔之介さんは、女性の手をゆっくりと撫でてやっている。優しく、優しく、女性の乾ききった土気色の手を、愛おしそうに何度も何度も――。


すると突然、女性の質問が途切れた。しん、と静まり返った店内に、遠くで鳴いている鴉の声だけがかすかに聞こえてくる。朔之介さんは、じっとその場から動かずに女性の次の言葉を待っている。その目は、窓から差し込む夕日を写し取り、キラキラと輝いていた。

――それはまるで。

大好きな母親の言葉を待っている、小さな子どものようで。


女性は、そんな朔之介さんをじっと見ていたかと思うと、おもむろに口を開いた。


「…………今、幸せ?」


すると、彼は、少し経ってから、女性が放った問いにとてもとても嬉しそうに答えた。


「こんなにも僕のことを心配してくれて、僕のために自分の時間を使ってくれて、僕のために奔走してくれる仲間がいるから――すごく、すごく幸せだよ」


そして、朔之介さんは座っている女性のお腹に抱きつくと、掠れた声で言った。


「だから、安心してよ。大丈夫だよ、もう心配しないで。――おかあさん」


すると、女性の様子が一変した。伽藍堂になってしまった、闇ばかりが詰まった瞳を大きく見開き、一瞬、天を仰ぐ。そして、自分に抱きついている朔之介さんの頭に手を伸ばそうとして――そのまま、弾けた(・・・)


「えっ……?」


人形が失われ、ただの無数の闇の粒になった女性は、まるで時間が巻き戻ったように、木の箱へと戻っていく。


「おかあさん!」


朔之介さんが、影を追うように木の箱に駆け寄った、その時だ。

――ぱあん、と炸裂音がして、木の箱の蓋が弾けた。そして、中に入っていたものが辺りに撒き散らされたのだ。


中から現れたのは、千代紙で折られた花だった。極彩色で彩られ、様々な文様が刻まれたそれは、かなりの数が入っていて、まるで花火のように辺り一面に飛び散った。はらはら、ゆらゆらと宙を舞う紙の花。よくよく見ると、それは薔薇を模しているようだった。


なんとなく、ひとつ拾ってみる。長いこと蔵にあったからか、ところどころ茶色く変色してしまっている。けれど、ひとつひとつがとても丁寧に折られていて、ズレも見つけられない。それは、この花が丹念に、そして心を込めて折られたことの証明だった。


「朔、見て」


すると、魂が抜けてしまったかのように呆然としている朔之介さんの下に、青藍さんが寄って行った。そして、手に持った千代紙の花を見せると、いきなりそれを解いた。


「えっ、青藍さん!? 何を――」


慌てて、彼の下へと駆け寄る。折り紙を解くだなんて、なんてことをするのだと抗議しようとして――止めた。なぜならば、折られた花の中にあるものを見てしまったからだ。


「優しい、お母様だったのね」


青藍さんがそう言うと、朔之介さんはこくりと頷いた。何度も、何度も。次から次へと溢れ出てくる涙を拭いながら、その事実を噛みしめるように頷いた。


『朔之介が健やかでありますように』

『朔之介に友だちができますように』

『朔之介に会えますように』

『朔之介が幸せでありますように』


それは、心からの願い。祈り。伝えたかった想い。


 朔之介さんは折り紙を胸に抱くと、天を仰いで――。


「おかあさんっ……!!」


 絞り出すように、叫んだのだった。


折り紙に込められた母の「愛」――それは、生前の彼には届かなかったけれど、今ようやく、花開いたのだ。


『ごちそうさま。こんなに美味しい珈琲、私はじめてよ……』


朔之介さんの嗚咽が響く店内。彼に代わって折り紙を拾っていると、ふと、そんな優しい声が聞こえたような気がした。


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